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背中にささやく「すき」

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 目覚めた時、おでこに西本のしなやかな手が触れていた。
 ほなみと目が合うと、彼は気まずそうに顔をそらす。
 手を離し立ち上がり、無言でドアに向かって歩き出した。

「……待って」

 ほなみは慌ててベッドから降りようとして、ふらついて倒れそうになるが、素早く西本が身体を支える。
 一瞬強く抱き締められ、ほなみは反射的に彼の背に腕をまわしかけるが、その前に彼はほなみから離れた。

「……ありがとう」

 行き場のなくなった両の手でパジャマの布を掴み、彼の澄んだ瞳を見上げる。
 彼は何か言いたげに口を開くが、またつぐんでしまった。

「……帰る……の?」
「……帰ってほしくない?なら……ヒモみたいに居着いちゃおうかな?」

 彼の口調は明るく冗談めかしているが、表情は悲しげで、ほなみは思わず俯く。

「なんて、嘘だよ」

 西本は笑って、ほなみの髪をくしゃりとしたが、すぐに手を引っ込めた。

「私……」
「……うん?」
「……ずっとクレッシェンドの……西君の応援をしてる……頑張って……ね……」

(言いたいのはこんな言葉じゃない。好きですと言えたらいいのに――)

 ほなみは、無理矢理笑顔を作った。
 西本は、大きく目を見開くと右の拳を固めて、力任せに壁を殴った。
 鈍い音がして、右手の甲に赤く血が滲む。

「大丈夫っ!?」

 ほなみが右手に触れようとすると、振り払われた。

「――触るな!」

 鋭い声が、ほなみの身体を強張らせる。
 西本は流れる血を拭おうともせず、ドアにもたれたまま低く笑った。

「……昨夜、俺とあんな事をしたのに……よくもそんな平静な顔で……別れの挨拶が出来るもんだな……女ってのは、すげえな……」
「西く……」

 ほなみは首を振り、彼に何かを言おうとした。
 だが、何を言えば良いというのだろうか。
 もう、私は彼と居られないのだ。
 昨夜の事は忘れて、彼は彼の世界へ、音楽の世界へと帰らなくてはならないのだから――




 西本は澄みきった瞳でほなみを見つめながら、後ろ手でドアノブを回した。



「……さよなら」




  西本は、苦い笑顔をほなみに向けたが、諦めた様な溜め息をつき、背を向けドアを開けて出て行った。
 彼の靴音と、間際の言葉が、ほなみの頭の中でこだまする。


『さよなら』




 ほなみは、閉じられたドアの前で立ち尽くしていたが、やがて足に力が入らなくなり、崩れ落ち、いつまでも涙を流し続けた。




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