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第3章

第10夜 異星入植録(3)

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 春の夜気が肌を刺す4月下旬のある夜、俺たち三人は重い足取りで先輩の家に向かっていた。花冷えの中、息が白く霞む。手に握りしめたノートが、まるで鉛のように重い。「先輩の忘れ物を届けに行く」はずなのに、胸の奥で何かが軋むような違和感が消えない。

「ねえ、蛍」

 未来が俺の横顔を覗き込むように言った。その大きな瞳に不安が浮かんでいる。

「ねえ、ひかり先輩の家ってどんなだろう? 想像つかないよね」

 その問いかけに、俺は答えられなかった。喉まで出かかった言葉を飲み込む。先輩のことを何も知らなかったという事実が、今さらながら胸に突き刺さる。

「……わからない」

 やっと絞り出した言葉に、自分でも驚いた。その一言で、俺たちがいかに先輩のことを知らなかったかが露呈してしまって、急に恥ずかしくなる。
 哲が眼鏡を直しながら、いつもの冷静な口調で言った。

「ひかり先輩らしく、きっと整然としていて、天体観測の資料がびっしり並んでるんじゃないかな」
「やめろよ」

 俺は思わず声を荒げた。自分でも驚くほどの感情の高ぶりだった。

「そんな風に先輩のこと語られても……俺たち、本当に何も知らないんだって」

 未来と哲が驚いた顔で俺を見つめる。俺は自分の感情の爆発に戸惑った。こんな風に感情的になる自分が、何だか他人事みたいだ。

「あ……ごめん……」

 俺は小さく謝った。自分の声が遠くから聞こえてくるみたいだ。

「ただ、俺たち、本当に先輩のこと何も知らなかったんだって……今さらながら思い知らされて……」

 言葉を失い、俺は歩みを止めた。春の風が頬を撫でるのに、どこか寒気を感じる。
 未来が優しく俺の肩に手を置いた。その温もりが心に染みる。

「わかるよ、蛍。わたしも同じ気持ち。でも、だからこそ今日は大切なんだ。ひかり先輩のことをもっと知るチャンス。そう信じたい」
「ああ、そうかもな」

 その言葉に、少し心が軽くなった。でも同時に、もっと早くこの気持ちに気づけていれば、という後悔が込み上げてくる。
 三人で黙々と歩を進めると、古びたアパートが目に入った。「星雲館」という看板が、俺たちを宇宙へ誘うみたいに立っている。その文字を見て、現実感が一気に押し寄せてきた。
 玄関のインターホンを押す瞬間、俺の手が震えていた。心臓の鼓動が耳に響く。しばらくして年配の男性が出てきた。

「はい、どちら様でしょうか?」
「あの、ここは、ひかり先輩……天野ひかりさんのお宅じゃないですか?」

 俺が答えると、男性の表情が曇った。その瞬間、俺の心臓が凍りついた。何か決定的なことが起きたんだと、直感的に悟った。

「ああ。天野さんですか……」

 男性は少し躊躇したあと、重い口調で続けた。

「申し訳ありませんが、天野さんはもうここにはいません」

 声には、どこか同情の色が混じっている。

「私はこのアパートの管理人です。今、片付け中で散らかってますが、少し中でお話ししませんか?」

 俺たちは顔を見合わせ、無言で頷いた。管理人さんに案内され、中へ入る。そこには何もない空間が広がっていた。壁の画鋲の跡とカーテンレールだけが、誰かが暮らしていた証だった。

 部屋に入った瞬間、俺の意識が遠のいた。管理人さんの声が水中みたいにぼんやり聞こえる。先輩の痕跡が全て消えてしまったことに、言いようのない喪失感を覚えた。

「ひかり先輩は……本当に行っちゃったんだね」

 未来が小さく呟いた。その声に、現実が重く圧し掛かる。

「ご存知かとは思いますが……」

 管理人さんは静かに、しかし重々しく話し始めた。

「天野さんは先月、移住の手続きを全て済ませて出て行きました」
「移住……あの星に、ですよね?」

 俺の声が震えた。

「ええ。一人暮らしの彼女は、全ての手続きを自分でこなしていました。驚いたことに、荷物のスキャンサービスまで使っていましたよ」
「スキャンサービス?」

 哲が眼鏡を直しながら身を乗り出して尋ねた。

「それって、どういうものなんですか?」

 管理人は少し考え込むように説明を続けた。

「移住者の大切な荷物をデータ化して、系外惑星に送るサービスです。物理的に持っていけない思い出の品を、デジタルデータとして持っていけるんです」
 その言葉の一つ一つが、俺の心を深く抉る。ひかり先輩が一人で全てを抱え込んでいたことを思うと、胸が締め付けられる。

「俺たち……何もできなかったんだ」

 俺は呟いた。

「先輩が一人で全部抱え込んでたのに……俺たち、何も気づかなかった」

 未来が俺の手を握った。その手が少し震えている。

「蛍……大丈夫?」

 その温もりが、逆に俺の無力感を際立たせる。何も言い返せない。
 哲も珍しく声を震わせながら言った。

「僕たちが気づくべきだったんだ。でも……」
「でも何だよ!」

 俺は突然立ち上がった。

「俺たちは何も分かってなかったんだ! 先輩の孤独も、苦しみも、何一つ!」

 管理人さんは驚いた表情で俺たちを見つめていた。俺は自分の感情の爆発に我に返り、慌てて頭を下げた。

「ごめん……哲」

 俺は震える声で言った。自分の声が遠くに聞こえる。

「いいよ。それに、まだ僕らにできることはあると思うけど」

 そう言うと哲は俺のトートバッグを顎でさした。その瞬間、ノートの存在を思い出した。天文ドームで見つけた、先輩の忘れ物。俺はゆっくりとそれを取り出した。
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