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第1章

第5夜 朝焼告白駅(3)

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 廃校の前に出た。俺たち二人の間を冷たい風が吹き抜ける。
 かつて子供たちの声で賑わったはずの校舎は今、雪のようにこんもりとした白い厚膜に覆われ、まるで眠りについた巨大な生き物のようだった。その光景に、俺は不思議な郷愁を感じた。ひょっとしたら——いや、きっとそう。間違いない。ここは、俺が昔通っていた小学校だ。
 2年後には自分たちの高校もこうなるという現実が重くのしかかる。

「これを逃したら行けなくなりますよ」

 俺は少し震える声で言った。
 ふいに、先生に何度も説明してもらった移民の手順が思い出された。
 移眠準備は印刷キューの都合で例年、高3の1月に始まる。共通一次と呼ばれるゲノムデータ抽出と二次試験の超偏極NMR脳計測。そして卒業式の翌日にすべてのデータが送信され、身体は冷凍保存されることになる。不眠症の子供はここで機器との相性問題がおこるらしい。

「別に痛くはないですよ——たぶん」

 俺は、自分に言い聞かせるように言った。

「そういうんじゃないよ」
「ならどうして?」

 先輩の声が震えていたような気がして立ち止まり、少し後ろを歩く彼女を振り返った。その瞬間、俺は先輩の表情に何か重大なものを感じ取った。

「いやなの」

 先輩の言葉が、冷たい空気を切り裂いた。

「恋心はあの星に送れないでしょう」
「それはまぁ、そうですけど。でもほら、第2ボタン、あるじゃないですか」

 俺は必死に明るく振る舞おうとした。
 その手の情報を暗号化されたままあの星に送るアプリが先輩たちの学年で流行ってるという話を聞いたことがあった。〈第2ボタン〉っていうハードウェアトークンを使うらしい。

「そうじゃなくて」
「意味わかんないすよ。どうせ、一緒に卒業するんでしょう、その人と。だったら別にいいじゃないすか」

 俺は強がりを言った。自分の言葉が空虚に響くのを感じながら、心の中では不安が渦巻いていた。

「よくないよ」
「は?」

 俺が肩を竦めると、先輩は言葉を探すように一瞬目を閉じた。
 長いまつげが揺れ、ふたたび先輩が口を開く。

「——だってさ、好きな人……わ、私……」

 彼女の黒い瞳が潤み、その中に宇宙の深遠さが映し出されているかのようだった。
 先輩は何かを振り払うように頭をブルブルと振り、今度ははっきりと、揺るぎない声で言った。

「ゴメン。やっぱ悪いよ」
「?」
「と、とにかく、行きたくない」

 先輩の決意に満ちた言葉に、俺は何か大きなものが動き出すのを感じた。
 さっきまでの煮え切らない様子はもうどこかへ消え去ってしまっていた。その変化に、俺は戸惑いと同時に、何か希望のようなものを感じた。先輩の目には強い意志の光が宿っていた。

 それから先輩は満足そうに微笑み、優しく俺の頬に触れた。その指先から伝わる温もりが、俺の心を震わせる。全身に電流が走ったような感覚だった。

「分かって。お願い」

 先輩の声には、これまで聞いたことのないような切実さがあった。

「ふぇっ?」

 先輩の予想外の行動に、俺は思わず間の抜けた声を出してしまった。心臓が激しく鼓動を打ち始める。俺の頭の中で、様々な思いが渦を巻いた。混乱と期待が入り混じり、何を考えればいいのか分からなくなる。

 先輩は眠れるようになりたくて、あの星に移住したいんだと思っていた。だから、どうせ卒業したらあの星に行ってしまう、どうせ俺の想いは4光年の距離なんて越えられないって、諦めもついた。なのになぜ、行きたくないなんて、そんなこと言うんだろう——。

「ダメです」

 俺は自分でも驚くほど強い口調で言った。

「えっ」

 先輩の驚きの声が、凍てついた空気を震わせた。

「眠れない俺を残していくのは、心配ですか? なにか他に心残りなことがあるんですか? それでも、なんでも、ダメです」

 俺は息を切らしながら、必死に言葉を紡いだ。

「だって、先輩はいつもお願いばっかりで、俺のお願いを聞いてくれないじゃないですか」

 言いながら、俺は自分の気持ちの強さに驚いた。

「あ」

 先輩の小さな声が、まるで宇宙の始まりを告げるビッグバンのように響いた。その瞬間、俺は何かが大きく変わろうとしているのを感じた。

「それに、先輩があの星に行きたくないって思うのも、そもそも眠れないから行けないってのも、あまりにも俺得すぎます。でも、俺が望んでるのは、そんなことじゃない」

 先輩はしばし小首をかしげて考えこんでいた。なんで分かってくれないかな。理数科目では天才的な彼女が、こういう時だけ驚くほどポンコツになる。眉間にシワを寄せて必死に考える先輩のかわいい顔に、決心が何度も揺らぐ。それでも、最初に思った感覚が鈍らないうちに、言葉に出す。

「先輩。ちゃんと眠れるようになって、それで、ちゃんとあの星に移住してください……。それが、俺からのお願いです。2年遅れだけど、俺も必ず行きますから」

 正直、自信はなかった。不眠症を治すその糸口さえまだ何も見つけてないのだから。

「蛍くん……」
「大丈夫。俺、先輩がよく眠れるように、頑張りますから」
「ありがとう」

 先輩の顔が見る見るうちに赤く染まっていく。先輩は、その日一番の、いや、おそらく俺の人生で最高のはにかみ笑顔を見せてくれた。その頬は朝焼けよりも赤く、まるで新しい星の誕生を告げているみたいに輝いていた。
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