月夜の理科部

４．朔

第25夜 手と手（上）

　運命の４月25日がやって来た。
「勝負の日だよ」なんて１ヶ月も前から私が母に伝えてあったせいか、夕食に手のひらサイズの大きなカツが出た。とびきり美味しそうだけど、なぜかうまく喉を通らない。

（満月のせい？　これから始まる大作戦のせい？）

　いや。彼が家に居るからだ。というか、父と談笑しながら和やかに夕飯を食べている。
　ユキくんを招いての夕食は、レネさんの手伝いの成功祝いにと、父が提案したものだった。秋の始め頃には話が出ていたのだが、いろいろあって、今日まで延期されていたのだった。

（よりによって、今日やらなくても……）

　相変わらずうちの食卓に死角はなかった。大きなトンカツに千切りキャベツの大盛り。たけのこと春野菜の煮物。ゆでソラマメと、野菜多めの具沢山みそ汁。
　打ち上げ前日に験担ぎでカツカレーを食べる宇宙飛行士の話を思い出してニマニマしている私に、母がウインクする。その嬉しそうな表情を見て、『勝負の日』の意味が違って伝わってることに、ようやく気がついた。このままでは一歩間違えば「お嬢さんをください！」と結婚の許しを請うような流れになりそうな雰囲気だ。

「お父さん。今夜、皆既月食だよ。レネさんのデータ……」
「ああ、そうだね」

　彼は目を細めながら静かに箸をおいた。

「京ちゃんのやりたいようにやってみるといいよ」

　公園で好きな遊具に走っていく子供を送り出すみたいに微笑んだ。お茶を飲み終わるのを見計らって、ユキくんが切り出した。

「３年前の皆既月食のときのこと、聞いてもいいですか？」
「――そうだね。２人には、ちゃんと話しておこう」

　お父さんは遠くを見るようにして、語り始めた。
　３年前の元旦。深夜２時を回ろうかという頃に、皆既月食が始まった。レネさんの話のとおり、この日も月面基地からデータを取り戻すべくレーザー通信を試みていた。

「あの日も今日と同じようにね、真夜中の皆既月食で、条件は良かったんだ」
「竹戸瀬さん、失敗したって言ってました」

　お父さんはふぅと息を吐き、いつになく神妙な面持ちで私たちの顔を見た。

「あれはね、わざとだったんだ」
「「えっ!?　どういうこと？」」

　私とユキくんは、同時に驚きの声をあげた。
　月面基地のサーバーには、父の手によって厳重なプロテクトがかけられていた。とくに、人間かどうかを判断するチューリングテストが組み込まれ、ＡＩによる不正アクセスを徹底的に遮断するようになっていた。
　そのせいで、支援ＡＩを常用するレネさんが接続に失敗したのだという。カギを中に閉じ込めてしまった金庫も同然だ。いくら厳重でも、中身の持ち主が開けられないのでは意味がない。

「それに、あの時はまだ量子コンピューターが稼働していなかったから、量子データは月からダイレクトに送るしかなかったんだ。そんな危険を犯すべきか、悩んでね……」

　プロテクトを解くか散々迷ったという。

「でも、今夜の月は３年前のとは違う。京ちゃんはあの日の僕じゃないし、たくさんの仲間もいる。だから、大丈夫。信じてる。やりたいようにやってみるといいよ」

「お父さん……。ありがとう」

　◯

　おうちデート。世間では、そんなふうに呼ばれているなんて知らなかった私は、「今夜のこと、確認しよう？」と、深く考えもせず自室に彼を案内してしまった。
　紅茶を淹れて部屋に戻ると、ユキくんはたんぽぽ色の丸いラグマットの真ん中にちょこんと正座して待っていた。着陸したてのアポロ宇宙飛行士みたいに、恐る恐る周囲の様子を窺ったりなんかして。

「ユキくん。あ、あのさ……。こないだは、ありがとう」
「え？」
「ほら、リハーサル。どのブレードを抜けばいいか、私が迷ってたとき、助けてくれたでしょ？」
「ああ！　俺は何も。キョウカさんが、頑張ったんだよ」
「すごく、嬉しかった！」
「フフフ。それはよかった」

　ライトグレーのちゃぶ台に差し出された紅茶を一口飲み、ユキくんは優しく微笑んだ。
　さっきまで面と向かって座っていた私はモジモジと隣までやってきて「でも、やっぱり怖いよ……」と、さりげなく彼の肩にもたれかかった。

「また今夜も、あれが起こるんじゃないかって思うと、すごく怖い……」

　今夜はシミュレータではない。現実の月面基地のローバーが、実際のサーバーに触れる。ブレードを傷つけでもすればレネさんのデータは戻らない。全ては私の手にかかっている。

「ねぇ、ユキくん」

　彼の指と指の間に、そうっと指を入れた。
　手のひらがぴったりとくっつく頃に、彼は少しだけびっくりして、でも、そのまま優しく握り返してくれた。彼の目を見つめ、「ロボットアームの訓練……」なんてとぼけてみせた。

「今夜は、頑張ろうね。……エヘヘ」

　２人の乗るラグと同じたんぽぽ色の満月が、雲ひとつ無い空で微笑んでいた。