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4.朔
第23夜 笑顔と涙(下)
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「え、ウッソ!? ショーコさん!?」
「やっほ。青春してるね!」
彼女こそが、本当のサプライズゲストだったのだ。
「え!? キョウカ、知り合い?」
「ああ。ほら! 月神社の近くのガラス工房。秋に行ったの」
事情通のカサネも知らなかったらしく、悔しそうにした。
「なぁんだ。キョウカちゃん知ってたか」
アヤも少し残念そうに呟いた。
「いやあ、驚いたよ! だってまさか理科部のOGだと思わなかったからさ」
「そう? ……フフフ。それならよかった」
「硝子と書いてショーコです。ヨロシク」
お決まりの自己紹介をした彼女の本業は、大学の分析センターの技師だそうだ。
「タイミング悪かった? ハハハ。まあいいか。とにかく、キミたちの青春、協力するよ!」
カーキのジャケットにリネンのパンツ。ボーイッシュな短髪の彼女はOBの中でも一目置かれる存在のようだ。
「OB会も全面協力ってことで、いいですよね?」
ショーコさんが明るい声でさらりと言ってのけると、反対する者は一人も出なかった。
「自明!」と言うときのユキくんを千倍くらい怖くしたような鋭い目つきの先輩も「こういうときは班分けよ」などと建設的だし、七福神を足して7で割ったようなやさ顔の先輩も「うちの研究室の機材、使う?」とやっぱり親切だ。みんな、それぞれの想いで協力してくれる。
アヤはおもむろに教壇に立ち、黒板に大小2つの丸をきれいに描いた。
「これを、ここまで、壊さずに持って帰ります」
シューっと音を立て黄色いチョークが線で結ぶ。大きい丸が地球、小さな丸が月だ。
「38万キロ。地球上のどこよりも遠い場所……」
先輩は小学生みたいに目を輝かせた。卒業してしまうというのに、参加する気まんまんだ。
こうして、理科室は作戦司令室になった。
「ようし。じゃあ、俺、受信班ね」
先輩が先陣を切った。
「屋上の望遠鏡で月面基地を正確に追尾して、レーザーを受信することにしよう。アーちゃん、それでいいよね?」
「えっ、えっ? 作戦実行は4月ですよ? 大学、どうするんですか?」
「まぁまぁ、固いこと言わない。ほら、望遠鏡の使い方、伝授するからさ」
月から発射されるパルスレーザーは高出力だから、望遠鏡の角度さえ合わせれば受信自体は難しくない。しかし、その肝心の角度は地球の公転で微妙に動く。そのため、望遠鏡が常に月面基地の方向を向くよう微調整し続ける必要がある。許容される誤差はほんのわずかだということだった。
「羽合君。角度の計算、間違ったら命取りですよ」
部屋の後方で「なるほど、なるほど」と唸っていた得居先生が名乗りを上げた。
「追跡班も作りましょう。見た目の角度から望遠鏡の角度への座標変換。私が検算しますから」
「得居先生。ありがとうございます。じゃあ数学が得意そうな1年生を何人かつけますね」
アヤは黒板にメンバーリストを書いていった。
「量子データへのアクセスと、通信データへの変換は量子コンピューターじゃなきゃダメですよね? 竹戸瀬さん?」
今日のユキくんは饒舌だった。実験テーブルを挟んで向かいに座るレネさんの前で、彼女のビーカーに紅茶を注いだ。
「ええ、そうよ」
「てことで部長。量子コンピューター関係は、俺やりますよ」
「助かる。お願いします」とアヤ。
「少し混み入ったプログラム書かなきゃいけないんで2、3人手伝って欲しいですけど」
「わかった。水城くんは計算機班っと」
アヤは持ち前のデザインセンスで次々と班分けし、黒板に書き足していった。私は〈ローバー班〉を任された。ローバーは月面で唯一、物理的に動き回る存在として重要だ。当日は何が起こるか分からない。もしもの場合に備え、ローバーは地下のサーバー前で待機となった。私は、望遠鏡からのデータが入ってこないように光ファイバーを引きちぎるという、乱暴な脳内シミュレーションも始めた。
「旅行は計画している時が一番楽しいんだよねー」
カサネは情報収集役を買って出た。どうやら父に話を聞きに行くつもりらしい。
「――あ、ひとつ言い忘れてたけど」
レネさんは何か思いついた表情で紅茶の入ったビーカーを置いた。
「えっ?」
嫌な予感がして、すぐに彼女を振り返る。
「量子データはダイレクトに送信しちゃダメよ」
にっと笑顔で言うレネさん。例にもれず、またしても重要なことを後から言った。アヤも眉を下げて、あからさまに困った顔をした。
「〈かささぎ〉を使うの」
レネさんはスッと席を立ち黒板まで出てくると、地球と月の間に小さな丸を1つ加えた。
「この通信衛星からね、2つのレーザーが発射されるの」
レネさんは黒板を指差し、静かに話を進めた。
量子通信衛星〈かささぎ〉はラグランジュ点と呼ばれる、地球と月の引力がちょうど釣り合う安定点に置かれていた。そこからレーザー光線が地球と月の2方向に発射され、それぞれ望遠鏡で受信することで通信が確立できるのだという。
なんだか、ずいぶんと凝った糸電話みたいだ。私はレネさんを見つめた。
「水城くん。いい? ここからは、あなたが頼りよ。よく聞いて」
「はい」
「まず、望遠鏡の観測データ――これはつまり衛星から送られてきたデータね。それと私のデータの2つを量子コンピューターにそろえるの」
彼女の発言を一言たりとも漏らすまいと、ユキくんは真剣な表情でメモをとった。レネさんは長い髪を耳にかけながら彼が書き終わるのを待ち、話を続けた。
「次に、両方のデータを〈ベル測定プログラム〉にかける。そうしたら、レシピが出力されるから、それを地球に送る。OK?」
「――はい。あ、いや。えっと、最後のは通常通信ですか?」
「そう。レシピは通常のデータよ」
これはとても不思議な方法だった。でもこれなら壊れやすい量子データを月と地球の間に揺蕩(たゆた)う宇宙空間に放り出さずにすむ。私もアヤも狐につままれたような表情で、黒板に広がる宇宙をぽかんと眺めた。
レネさんが通信衛星から2本のアーチ矢印を引くと、月と地球は大きな吊橋で結ばれた。彼女は、その真ん中あたりに〈量子テレポーテーション〉とかわいい丸文字で書き加えた。アヤが描いたカラフルな量子コンピューターや月面望遠鏡も、橋のたもとで居心地良さそうにしている。
「うん。なんか、上手くいきそう」
理科室全体が心地良い熱気につつまれた頃その時、ショーコさんが割れたガラスの縁のような鋭い質問を投げかけた。
「――で、地球側はどう受信するの? 衛星から送られてくるのは、量子データなんでしょ?」
その場の空気は一瞬にして凍りついた。
地球には、通信衛星からと月面基地からの2つのレーザーが届く。このうち衛星から送られてくる「材料」を、月から送られてくる「レシピ」通り調理すると、量子データが再生される算段になっていた。問題なのは、このうち衛星から届く「材料」のほうだ。これは、彼女の指摘どおり量子データだった。屋上の望遠鏡で単純に受信してはダメだ。
ショーコさんから先輩に送られた視線は、やがて理科室の中で無言のパス回しになった。埒があかないと悟った私はレネさんを見るも、彼女も眉をハの字にして困った表情。
「ふふん。じゃあ、ウチの分析センターの器材、貸してあげるよ」
ショーコさんはにぃっと笑みをこぼしながら立ち上がった。
「大丈夫よ。ほら、とんぼ玉は割れるけど、同じ模様の作り方は手が覚えてるでしょ?」
どうやら「材料」を上手に分析すると、その作り方が分かるということのようだ。元のデータが壊れてしまっても、下ごしらえまで含めたレシピがあれば作り直せる。レシピは通常のデータ形式だから、もう量子データのように保管に苦労することはなくなる。
「あ、そんなに難しい顔しないで! 専用の検出器をカメラみたいに望遠鏡に取り付けるだけだし、プログラムはワンクリックで動くから」
これは本当に、渡りに船だ。完璧な解決方法を知りながら、敢えて疑問提起で入ってくるところがなんとも職人ぽい――。私は頭の中で、探していた最後のパズルのピースが、カチャッと音を立てて収まった気がした。
「ショーコ先輩……」
レネさんは笑顔で涙を流していた。ガラスビーズのように透き通った雫。声を上げず、ひたすら涙をぽたぽたと実験テーブルに滴らせた。
「レネさん」
私の呼びかけに、彼女は、美しいとしか言いようのない笑顔を向けた。
泣いたのが先か笑ったのが先か。時間の流れも、物理法則でさえもそれを知らなかった。
「やっほ。青春してるね!」
彼女こそが、本当のサプライズゲストだったのだ。
「え!? キョウカ、知り合い?」
「ああ。ほら! 月神社の近くのガラス工房。秋に行ったの」
事情通のカサネも知らなかったらしく、悔しそうにした。
「なぁんだ。キョウカちゃん知ってたか」
アヤも少し残念そうに呟いた。
「いやあ、驚いたよ! だってまさか理科部のOGだと思わなかったからさ」
「そう? ……フフフ。それならよかった」
「硝子と書いてショーコです。ヨロシク」
お決まりの自己紹介をした彼女の本業は、大学の分析センターの技師だそうだ。
「タイミング悪かった? ハハハ。まあいいか。とにかく、キミたちの青春、協力するよ!」
カーキのジャケットにリネンのパンツ。ボーイッシュな短髪の彼女はOBの中でも一目置かれる存在のようだ。
「OB会も全面協力ってことで、いいですよね?」
ショーコさんが明るい声でさらりと言ってのけると、反対する者は一人も出なかった。
「自明!」と言うときのユキくんを千倍くらい怖くしたような鋭い目つきの先輩も「こういうときは班分けよ」などと建設的だし、七福神を足して7で割ったようなやさ顔の先輩も「うちの研究室の機材、使う?」とやっぱり親切だ。みんな、それぞれの想いで協力してくれる。
アヤはおもむろに教壇に立ち、黒板に大小2つの丸をきれいに描いた。
「これを、ここまで、壊さずに持って帰ります」
シューっと音を立て黄色いチョークが線で結ぶ。大きい丸が地球、小さな丸が月だ。
「38万キロ。地球上のどこよりも遠い場所……」
先輩は小学生みたいに目を輝かせた。卒業してしまうというのに、参加する気まんまんだ。
こうして、理科室は作戦司令室になった。
「ようし。じゃあ、俺、受信班ね」
先輩が先陣を切った。
「屋上の望遠鏡で月面基地を正確に追尾して、レーザーを受信することにしよう。アーちゃん、それでいいよね?」
「えっ、えっ? 作戦実行は4月ですよ? 大学、どうするんですか?」
「まぁまぁ、固いこと言わない。ほら、望遠鏡の使い方、伝授するからさ」
月から発射されるパルスレーザーは高出力だから、望遠鏡の角度さえ合わせれば受信自体は難しくない。しかし、その肝心の角度は地球の公転で微妙に動く。そのため、望遠鏡が常に月面基地の方向を向くよう微調整し続ける必要がある。許容される誤差はほんのわずかだということだった。
「羽合君。角度の計算、間違ったら命取りですよ」
部屋の後方で「なるほど、なるほど」と唸っていた得居先生が名乗りを上げた。
「追跡班も作りましょう。見た目の角度から望遠鏡の角度への座標変換。私が検算しますから」
「得居先生。ありがとうございます。じゃあ数学が得意そうな1年生を何人かつけますね」
アヤは黒板にメンバーリストを書いていった。
「量子データへのアクセスと、通信データへの変換は量子コンピューターじゃなきゃダメですよね? 竹戸瀬さん?」
今日のユキくんは饒舌だった。実験テーブルを挟んで向かいに座るレネさんの前で、彼女のビーカーに紅茶を注いだ。
「ええ、そうよ」
「てことで部長。量子コンピューター関係は、俺やりますよ」
「助かる。お願いします」とアヤ。
「少し混み入ったプログラム書かなきゃいけないんで2、3人手伝って欲しいですけど」
「わかった。水城くんは計算機班っと」
アヤは持ち前のデザインセンスで次々と班分けし、黒板に書き足していった。私は〈ローバー班〉を任された。ローバーは月面で唯一、物理的に動き回る存在として重要だ。当日は何が起こるか分からない。もしもの場合に備え、ローバーは地下のサーバー前で待機となった。私は、望遠鏡からのデータが入ってこないように光ファイバーを引きちぎるという、乱暴な脳内シミュレーションも始めた。
「旅行は計画している時が一番楽しいんだよねー」
カサネは情報収集役を買って出た。どうやら父に話を聞きに行くつもりらしい。
「――あ、ひとつ言い忘れてたけど」
レネさんは何か思いついた表情で紅茶の入ったビーカーを置いた。
「えっ?」
嫌な予感がして、すぐに彼女を振り返る。
「量子データはダイレクトに送信しちゃダメよ」
にっと笑顔で言うレネさん。例にもれず、またしても重要なことを後から言った。アヤも眉を下げて、あからさまに困った顔をした。
「〈かささぎ〉を使うの」
レネさんはスッと席を立ち黒板まで出てくると、地球と月の間に小さな丸を1つ加えた。
「この通信衛星からね、2つのレーザーが発射されるの」
レネさんは黒板を指差し、静かに話を進めた。
量子通信衛星〈かささぎ〉はラグランジュ点と呼ばれる、地球と月の引力がちょうど釣り合う安定点に置かれていた。そこからレーザー光線が地球と月の2方向に発射され、それぞれ望遠鏡で受信することで通信が確立できるのだという。
なんだか、ずいぶんと凝った糸電話みたいだ。私はレネさんを見つめた。
「水城くん。いい? ここからは、あなたが頼りよ。よく聞いて」
「はい」
「まず、望遠鏡の観測データ――これはつまり衛星から送られてきたデータね。それと私のデータの2つを量子コンピューターにそろえるの」
彼女の発言を一言たりとも漏らすまいと、ユキくんは真剣な表情でメモをとった。レネさんは長い髪を耳にかけながら彼が書き終わるのを待ち、話を続けた。
「次に、両方のデータを〈ベル測定プログラム〉にかける。そうしたら、レシピが出力されるから、それを地球に送る。OK?」
「――はい。あ、いや。えっと、最後のは通常通信ですか?」
「そう。レシピは通常のデータよ」
これはとても不思議な方法だった。でもこれなら壊れやすい量子データを月と地球の間に揺蕩(たゆた)う宇宙空間に放り出さずにすむ。私もアヤも狐につままれたような表情で、黒板に広がる宇宙をぽかんと眺めた。
レネさんが通信衛星から2本のアーチ矢印を引くと、月と地球は大きな吊橋で結ばれた。彼女は、その真ん中あたりに〈量子テレポーテーション〉とかわいい丸文字で書き加えた。アヤが描いたカラフルな量子コンピューターや月面望遠鏡も、橋のたもとで居心地良さそうにしている。
「うん。なんか、上手くいきそう」
理科室全体が心地良い熱気につつまれた頃その時、ショーコさんが割れたガラスの縁のような鋭い質問を投げかけた。
「――で、地球側はどう受信するの? 衛星から送られてくるのは、量子データなんでしょ?」
その場の空気は一瞬にして凍りついた。
地球には、通信衛星からと月面基地からの2つのレーザーが届く。このうち衛星から送られてくる「材料」を、月から送られてくる「レシピ」通り調理すると、量子データが再生される算段になっていた。問題なのは、このうち衛星から届く「材料」のほうだ。これは、彼女の指摘どおり量子データだった。屋上の望遠鏡で単純に受信してはダメだ。
ショーコさんから先輩に送られた視線は、やがて理科室の中で無言のパス回しになった。埒があかないと悟った私はレネさんを見るも、彼女も眉をハの字にして困った表情。
「ふふん。じゃあ、ウチの分析センターの器材、貸してあげるよ」
ショーコさんはにぃっと笑みをこぼしながら立ち上がった。
「大丈夫よ。ほら、とんぼ玉は割れるけど、同じ模様の作り方は手が覚えてるでしょ?」
どうやら「材料」を上手に分析すると、その作り方が分かるということのようだ。元のデータが壊れてしまっても、下ごしらえまで含めたレシピがあれば作り直せる。レシピは通常のデータ形式だから、もう量子データのように保管に苦労することはなくなる。
「あ、そんなに難しい顔しないで! 専用の検出器をカメラみたいに望遠鏡に取り付けるだけだし、プログラムはワンクリックで動くから」
これは本当に、渡りに船だ。完璧な解決方法を知りながら、敢えて疑問提起で入ってくるところがなんとも職人ぽい――。私は頭の中で、探していた最後のパズルのピースが、カチャッと音を立てて収まった気がした。
「ショーコ先輩……」
レネさんは笑顔で涙を流していた。ガラスビーズのように透き通った雫。声を上げず、ひたすら涙をぽたぽたと実験テーブルに滴らせた。
「レネさん」
私の呼びかけに、彼女は、美しいとしか言いようのない笑顔を向けた。
泣いたのが先か笑ったのが先か。時間の流れも、物理法則でさえもそれを知らなかった。
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