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第3章「冬」

8.凍雲リグレット(3)

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 そこにいたのは、パーカーにジーンズというラフな格好をした羽合先生だった。

「せ、先生……!?」

 私は息を呑んだ。
 ーー間違いない。お姉ちゃんが高校3年生の時の、大学1年生だった羽合先生だ。

「澪、教えてあげる」

 姉が不敵に微笑む。

「え……?」

 戸惑う私に、お姉ちゃんは続ける。

「知りたいでしょ? 私と昴くんの約束」

 ぽかんと口を開けたまま呆然とする私を置き去りに、お姉ちゃんはしおらしい顔でドームに入り、「昴くん」と先生の服の裾を引っ張る。その呼び方に、嫉妬の炎が胸を焦がした。

 まるで私の存在など眼中にない、2人だけの世界。見たくもない映画を見せられているみたい。逃げ出したくても、足が動かない。

「ねえ、もしもの話なんだけど——」

 お姉ちゃんがこちらを意味ありげに見る。まるで2人の仲を見せつけるように。
 嫌な予感がした。

「お姉ちゃん、やめて!」

 精一杯の声も、2人には届かない。
 夢なら覚めて。そう思って、今度こそ自分の頬を何度も摘まんだけれど、目を閉じることすらできない。ただ眺めることしかできないのだ。

「どうしたの?」

 若き日の羽合先生が、お姉ちゃんに優しく声をかける。初めて見る、お姉ちゃんの恥ずかしそうな顔。悔しさがこみ上げ、胸が締め付けられる。

「もしも、気球で——」
「ねえお姉ちゃん、もうやめて! 先生は——」

 私の悲痛な叫びが、ドームにこだました。それでも2人には、まるで届いていない。

「宇宙の渚まで行けたら——」
「お姉ちゃん、無視しないで!」
「私のこと——」
「ねぇ、ってば! お願い! やだよ! やめてよ! ねえぇえええええっ」

 プツン——。

 まるで糸が切れたかのような音とともに、映像のような2人はそこで幻のように消えた。

「ねえ、もう分かったでしょ?」

 お姉ちゃんがふたたび目の前に現れ、私の喉元に指をつきつける。

「澪、この身体をちょうだい。この先に行きたくないなら、私に譲って」
「何言ってるの……?」

 私の言葉を遮るように、ドームからぶわわっと白い風船が次々と飛び出してくる。まるでお姉ちゃんが羽合先生に送った手紙の数を表しているみたいな、無数の気球。どれも思いの丈だけ膨らみ、あっという間に空を覆い尽くした。

「行く?」
「え……」

 躊躇している間に、お姉ちゃんが気球の紐を私に握らせた。

「行かないの?」

 やっぱり、お姉ちゃんには敵わない。顔も頭も、想いの強さも。ぜんぶ——。
 同じ人を好きになって、悔しい。姉ほど気球が上手くいかなくて、悔しい。
 悔しい、悔しい、悔しい——。
 何より悔しいのは、死してなお、羽合先生の心をぐっと掴んで離さないでいること。まるで気球を天文ドームに繋ぎとめるように。

「ねぇ、お姉ちゃん、羽合先生を自由にしてあげて」
「ふふ、私はちゃんと伝えたんだけどな……。澪から、改めて言っておいてよ。私には、もうどうすることもできないから」

 お姉ちゃんに渡された紐から手を離せないまま、私は一気に青空へと引き上げられた。
 あっという間に、足下には銀色の天文ドームが見えるようになった。屋上には大勢の見送る人影。手を振る余裕もなく、どんどん小さくなっていく。今更ながら、ひらひら舞う制服のスカートが気になり始めた。

 横をみると、隣の気球にぶら下がるお姉ちゃんが笑っていた。風を受けて、長い髪がなびいている。気球はみるみる高度を上げ、あっというまに眼下の景色はジオラマのようになってしまった。怖いと思う間もなく、綿のような雲の中に入り――突き破った。

 視界いっぱいに広がる雲海。さらに上の、もやのような雲も突き抜けていく。遠くに霞む水平線は大きなカーブを描き、空の色は海よりもずっと濃い青へと変わっていった。

「ねぇ、お姉ちゃん。どこに行くのぉ?」

 風に舞う髪を押さえながら叫ぶ。

「ふふ、決まってるでしょ」

 そう言ってお姉ちゃんは不敵に微笑み、大空を仰ぎ見た。
 次々と破裂し、落ちていく気球を、私たちは黙って見つめていた。
 本当は、お姉ちゃんと直接会えたら、羽合先生をめぐって壮絶な姉妹げんかを繰り広げるのもいいかな、なんて思ってもいた。でも、もうそれは永遠に叶わない。頭ではわかっていた。そもそも、私に勝ち目などないことも。

 でも、晴れ渡った青空のようなお姉ちゃんの笑顔を見ていたら、そんなことはどうでもよくなってしまった。姉の力は、この不思議な心の中の世界だけ。きっと外の世界には、もう届かない。そう思うと、なんだか切ない。

 そうやって私は少しずつ冷静さを取り戻し、やがて不思議なほど穏やかな気持ちの自分がいることに気がついた。今はけんかはお預け。一時休戦だ。どうせ、お姉ちゃん譲りのこの諦めの悪さにも、嫌気が差してきた頃だったし。

「お姉ちゃん!」

 どうしても、伝えたいことがあった。
 私とお姉ちゃんの間には、打ち寄せる波のように、現れては消える曖昧な境界線がある。その境界を揺るがすような大声で叫んだ次の瞬間——バァンッという鈍い破裂音とともに、お姉ちゃんの頭上の気球が弾けた。

「私、お姉ちゃんに謝らなきゃいけないことがあった」

 差し伸べた手を、お姉ちゃんは取ろうとしない。

「——と思う」

 自信がなくて、そのままうつむくしかない私に、お姉ちゃんは優しく微笑んで手を振った。
 そのまま糸のように裂けた気球の残骸を引き連れ、お姉ちゃんは重力に引かれるまま、青い地球に向かって落ちていく。

「ああああ、お姉ちゃあん!」

 ずっと胸の奥に引っかかっていて、思い出せないことがあった。「待ってよぉお!」
 忘れちゃいけないこと、すごく大事なことのはずだったのに、いつの間にか、忘れたことさえ忘れていた。けれど今伝えなければ――。私は必死だった。

「ごめんね、お姉ちゃん。まだ思い出せないの…………。でも、でもね——」

 遠くで、お姉ちゃんが微笑んでいるように見えた。頭上の白い気球は、天文ドームよりも大きく膨らみ、今にもはち切れそうだ。
 いつの間にか、雲一つない空は藍色から、ほとんど黒に近い色に変わっていた。昼なのに、空は青くない。黒に近い空に、銀色の太陽がまぶしく輝く。眼下に広がる地球は今まで見たどんな海の写真よりも青く、私のいるこの場所が宇宙であることを雄弁に物語っていた。
 息をのむような絶景。

「宇宙の渚」

 ——そう呼ばれる場所に、私たちの気球は辿り着いたのだ。

 屋上の空はなめらかに宇宙と繋がっていて、地球と宇宙の間に境界線はなかった。青い海と白い砂浜。生者と死者。自分と他者。
 せめぎ合って互いに入り混じらないふたつを隔てているのは、くっきり引かれた線じゃなく、もっとずっと淡い何かなんじゃないか――。そろそろ地面が恋しくなってきた頃、私の頭上の気球も割れた。

 バァン!

 破裂音とともに風船が粉々に散り、欠片が強い日差しに照らされてきらめく。重力に身を預け、一気に落下していく。空の色が藍から青へと変わり、薄い雲を通り抜け、雲海を突き抜ける。気づけば、地上はすぐ目の前だ。

「きゃあああ! パ、パラシュートは!?」

 風に流され、海沿いの町が見えてくる。バサバサと揺れる髪をおさえながら、必死に足元を見やる。目に飛び込んできたのは、神社の屋根だった。

(ぶつかる——!)
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