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第2章「秋」

5.すじ雲サスペンス(6)

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 私はひとりで理科室に篭って、文化祭の準備に没頭した。陽菜に「当日じゃ間に合わないよ」って言われたしね。まずは見学会の大まかな流れを決めて、来場者用の天文ポストカードも作った。

 余ったフォト用紙を使って、動画のワンシーンをプリントアウトした。気球を見上げるお姉ちゃんと月城さんの姿。真ん中でこっちを指差して笑うお姉ちゃん。月城さんが「その隣で同じ方向を見てるのが私なの」って教えてくれたっけ。
 そのプリントをフォトフレームに入れて、天文ドームのテーブルに飾ろうと思う。気球の成功を願うお守りみたいなもの。

「おっ、まだここにいたんだな。ピザ取るけど、おまえも食うかぁ?」

 準備室から顔を出した大地に、私はノートから目を上げずに「いいよー」と手を振った。

「遠慮しとくよー。先生にバレても知らないからね」

 たぶん、大地が校門でピザ受け取ってるとこを、先生に見つかって現行犯で捕まるパターンだと思う。

「ちぇっ、じゃあ腹減ってもわけてやらんぞ」

 そんな捨て台詞を残して大地は出て行った。

「さてと」

 私は改めてノートに向き合った。
 隣の第1理科室からは、みんなの賑やかな声が聞こえる。楽しそうだな。でも今は羨んでる場合じゃない。気球を飛ばすには、もう脇目も振らずに準備に集中するしかないんだ。

 ノートには、風船やワイヤーの型番、ヘリウムガスの必要量、釣り糸の結び方まで事細かに書かれている。このノートがあるから、本当に心強い。羽合先生が買ってきてくれた釣り糸の長さは十分。これなら気球を地上に繋いでおくのにも使えそうだ。

 「係留用の糸が切れて気球が飛んでいってしまった」という失敗談も書いてあった。それを踏まえて、釣り糸を二重にすることにした。こうすれば、万が一片方が切れても、カプセルごと気球を失うリスクは減らせるはず。

 ノートを参考に、発泡スチロールのカプセルに穴を開けて、小型アクションカメラを取り付けた。カメラの位置や角度は、ノートに書かれた通りに調整。これで気球からベストな映像が撮れるはず。

 ネットで当日の天気予報と風向きもチェック。これでひと通りの準備は終わったかな。ふと顔を上げると、先生が月城さんを見送って戻ってきたところだった。優しい目で私を見つめている。

「あ、先生、お帰りなさい」

 私は顔を上げて先生と目を合わせた。

「準備の方は順調?」
「うん、このノートのおかげでかなり助かりました」
「そう。良かったね」
「なんか、私、今まで全部自分一人でやろうとしてたのかもしれません。でも、友達や先生に頼るみたいに、お姉ちゃんの助けを借りるのも全然アリなんだって気づきました」

 そう言うと先生はうなずいた。私は照れくさくて鼻をすすった。

「私が遥か遠くを見渡せたとしたら、それは巨人の肩の上に乗っていたからだ――これは科学者アイザック・ニュートンの言葉」

 私はわざと低い声で言って、ニヤニヤ笑った。

「ーーっていうお姉ちゃんの言葉」
「ハハハ」

 先生も授業中によく引用していた言葉だ。
 どんなチャレンジにも、失敗はつきものなんだ。最初に挑戦する人が味わう葛藤と苦労。でも、二人目以降はその経験を生かして、もっと早く、もっと遠くへ到達できる。これって科学の世界ではよくあること なんだーー先生はそんな風に熱く語っていたのを覚えている。

「月城さん、すごく素敵な方でしたね」

 両親にご挨拶ってのも、結ちゃんと私の早とちりだったみたい。実は月城さんが私の両親を文化祭に招待したらどうかって先生に提案してくれただけだったんだって。

「嫉妬、した?」
「別に、してませんよ」
「本当は?」

 うぅ、先生の視線から目を逸らしてしまう。

「ーーしちゃいました」
 そのとき、カーテンがふわりと揺れて、秋風が入ってきた。頬を赤らめた私の顔を、そよ風が優しく冷ましてくれる。
「似てるよ、そういう、かわいいふくれ面。フフッ」
「え、ええっ!?」

 突然の言葉に頭が追いつかず、口をぽかんと開けたまま固まってしまう。先生は涼しい顔で、さっさと窓を閉めに行ってしまった。

「あの、先生、ひとつ聞いてもいいですか?」
「ああ。どうしたの?」
「あのですね……」
「ああ、中間テストの問題は教えられないからね」

 違う違う。私は窓際で振り返る先生を見つめた。その澄んだ瞳に、覚悟を決めて言葉を紡ぐ。

「先生のこと、好きになってもいいですか?」

 その問いに、先生は大きくため息をついた。チラリと私を見やり、きっぱりと首を横に振る。

「やめとけ」

 そう言い放つ先生の言葉は強く、私の言葉を奪っていった。

「どうして……? お姉ちゃんの妹だから、ダメなの?」

 やっとの思いで絞り出した私の声は、か細く揺れていた。

「君は生徒だから」
「そんな……生徒と先生が付き合っちゃいけないの?」
「霜連。俺はダメだって言ってるだろ」
「じゃあ法律で禁止されてるんですか?」
「同い年の彼氏でも作りなさい」
「ただ好きでいるのも、ダメですか?」

 お姉ちゃん譲りのあきらめの悪さを、ここぞとばかりに披露して食い下がる。
 重苦しい沈黙が私たちを包み込む。先生は目を閉じ、口に手を当てて思案するように見えた。私はもう引くに引けない。先生の言葉を待つしかなかった。

「俺は君が思うほど立派な人間じゃないーー今だって君を見るたび、綾を重ねてしまってる」

 先生の告白に、胸が痛んだ。ごめんなさい、先生の気持ちも知らずに……。

「ーーそれでも……いいです」
「ダメだよ、霜連。俺なんか好きになって、時間を無駄にすることはないよ」
「やだもん。私、気持ちに……」

 言いかけると、先生が遮ってきた。

「同い年なら当たり前のことでも、俺には君にしてあげられないことだらけなんだ。なあ、分かってくれ、お願いだから。そんな悲しい顔、しないで……」

 先生のその言葉を前に、私は何も言い返せなくなってしまった。

「さぁ、もう帰ろう。6時だし」
「ーーーーはい」

 その言葉に、私はしぼんだ風船みたいに項垂れるしかなかった。目の縁が熱くなる。泣いてるつもりはないのに、いつの間にか涙が溢れていた。

 好きになっちゃ、いけないんだ――そう自分に言い聞かせて、モヤモヤした気持ちを抱えたまま家路についた。先生は信頼だとか尊敬だとか、そういう気持ちならすべて受け止めてくれる。でも、「好き」だけはダメなんだ。理由は単純明快。私が生徒だから。でも考えようによっては、生徒と先生という関係である限り、私のすべてを受け入れてくれているとも言える。

 このまま、ずっと先生の生徒であり続ければいい――そう思うのが、私なりの精一杯の答えだった。誰も傷つけることなく、これ以上自分が傷つくこともない、安全な方法。

 それ以来、私は先生の夢をよく見るようになった。皮肉なことに、夢の中の羽合先生はたいてい学生なのだ。そこでは私たちの間に障害は何もない。等身大の高校生として、無邪気に笑い合う日々。なのに、いや、だからこそ目覚めるたび、私は涙に暮れていた。
 翌日も、また次の日も、学校で会う先生は変わらずいつもの優しい顔で接してくれる。むしろ、それが私にはちょうどいい。でも、いつまでそれで満足できるのか、自分でもわからなくなってきた。
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