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番外編 緑林と次代様のお話

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 季節は春が終わり、初夏を迎えた。 
 そして私は未だに実家で生活をしていた。 
 妹は和くんと籍を入れて、晴れて人妻になった。 
 人妻。エロい響きだ。 
 二人は家を継ぐのを条件に実家で暮らしている。 
 最初は文句あり気なお父さんも、結局は将来有望で信頼もしている和くんに絆されていた。 
 住み込みまでさせて面倒を見ていた弟子だし。 
 こうして私の家に新たな家族が増えた訳だけど、もう一人、実は増えた。 

「あぁ、これは美味しいですね。お義父さん」 

「え、えぇ」 

 晩酌をしているステテコ姿のお父さんの前には、着物姿の彼が当たり前のように座ってビールを煽っている。 
 彼は日中仕事の為にお屋敷へ行き、夕方には何食わぬ顔でこの家に帰って来る。 
 そしてお父さんや私の家族と夕食を済ませ、私の部屋で寝る。 
 もちろん私はベッドで彼は下に敷いたお布団でだ。 
 何がどうしてこうなってしまったのか、私は頭を抱える日々が続いていた。

 お風呂から出た私は重い足取りで階段を登り、部屋のドアを開けると彼がベッドに寝そべって私の小さな頃のアルバムを見ては一人微笑んでいた。 

「あの……」 

「あぁ、おかえり。今日は長風呂ではなかったんだね」 

「そうですか……?」 

「うん。良かった。今宵は大事な話があったから」 

「はぁ……?」 

 奇妙な居候もどきになってしまった彼は、ベッドに神妙に正座して私を見つめたので、バスタオルを肩に掛けたまま少し離れて腰掛けた。 

「それで大事なお話って」 

 と、聞いてはみたものの私と彼の間にはある話は一つしかない。 
 私は未だに実家で彼に隠れて花嫁修業中だったし、彼は彼であの日の返事を急かすことなく今に至る。 
 急かす以前にその事を口にすらしていない。 

「今宵でちょうど百日通いました。晴れの日も雨の日も雪の日も」 

「夏だから雪の日は無いでしょう」 

「とりあえずどんな時でも通いました。役目で疲れていようが絶対に」 

 こちらが頼んだ訳ではないけれど、というのをグッと喉元に堪える。

「いい加減返事をいただけないかと思います。こちらは既に他村の花嫁候補を帰してしまった手前、君に断られると都合が悪い」 

「わかりました」 

 私はそう言って立ち上がり、早々に髪を乾かす為にドレッサーに腰掛けドライヤーを手に取る。 

「あの、返事を」 

「だから、わかりました」 

「あの……」 

 口籠る彼を鏡越しに見て、言葉を省略し過ぎたことに気が付く。 

「わかりました。お話をお受けします」 

「えっ? いいの?」 

「はい」 

「あ、ありがとう……」 

 ぶぉぉぉ~……というドライヤーの風の音が二人の沈黙を埋めて、私が再び鏡越しに彼を見れば、 顔を背けて指先で目元を拭っていた。 
 大の大人がこれくらいのことで涙ぐむと思っていなかった私は、振り返った。 
 きっと酷く驚いた顔をしていたのだろう。 
 彼は照れくさそうに笑って鼻を啜る。 

「初めて、なんだ。こんなにも欲しいものが手に入るのに時間が掛かったこと。それに駄目かもしれないと思ったことも。だから、何というか。安心した」 

 彼がそんな風に考えていたと思ってもいなかった。 
 だってあの日から毎日家にやって来ては寝て帰るのだ。 
 それを追い出さずに一緒にいたということは、言わなくても私の考えは伝わっていると思っていた。 
 今まで敢えて返事を催促しなかったのも、焦ってはいないからなのだろうと。

 彼は徐に立ち上がり、窓を開けると袖の中で腕組みをして夜空を見上げた。 

「空に浮かぶ月は皆のものだが君は……ふふふ」 

 不気味な含み笑いが耳に入り、私はやはり前言撤回をしようかと思った。 
 百日間彼と寝起きを共にして人間だと確信したけど、やっぱりちょっと得体が知れない。 
 そんな私の気持ちをよそに彼は私の座る椅子の下で胡坐を掻くと子供の様に見上げる。 

「実はね、君の為の部屋を屋敷に用意したんだ。奥の間って言って奥さん専用の部屋なんだけどね。 この部屋は狭いし殺風景だからそれはもう可愛らしく女の子らしい部屋をね」 

 さらりと貶され、自分の部屋をぐるりと見渡す。 
 至って普通の女子の部屋だけど、彼が想像、いや妄想する女子の部屋とはどんなものなのか嫌な予感しかしない。 

「君は着の身着のまま屋敷に来ればいい。必要なものは全て僕が揃える。いや、揃えたい。だって君は僕のお嫁さんだからね」 

「……嫁というのは自分の息子の連れ合いのことです」 

「へっ?」 

「だから私を貴方が嫁と呼ぶのは間違いです」 

「うわぁ~……細かい。でもそんなのはどうでもいい。君が僕のものであることに変わりはない。明日から 楽しみだなぁ~」 

「私は何だか憂鬱になってきました……」 

 手にしていたドライヤーを置いて、私は椅子から彼と同じ目線になり正座する。 
 彼は小首を傾げて私に右手を差し出した。 

「死が二人を別つまで、僕は君を愛し護り続けるよ」 

「……よろしくお願いします」 

 私は涙声になって彼の手に自分の震える手を重ねた。 

 嬉しさと、悲しさと。 

 始まりと、終わりと。 

 正武家様に嫁いだ者は跡継ぎが誕生すると、極一部の例外を除きお屋敷から立ち去る定めにある。 
 花嫁候補が一番最初に教えられることだった。 
 幸せな日々は長くは続かないことを私は知っていた。 
 そして彼も知らないはずはなかった。 
 だから死が訪れる前に私たちは別れる。 
 愛され護られるのもそれまで。 
 それでも私は彼と、幸せになりたいと思った。 
 全てを持つ孤独な彼に寄り添っていきたいと思った。 

 止めどなく流れ落ちる涙を掬ったのは彼の温かい唇だった。

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