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絶対零度の癇癪

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 薄暗い部屋で微睡むと、いまが一体何時なのか判らなくなる。
 手を伸ばして枕元に置いていたスマホを取ろうとすると、それを咎めるように手が重ねられて引き込まれる。

「……もう。さすがに起きないと」

「……構わぬ。急用でなければ声を掛けるなと言い置いた」

 気怠そうな玉彦は仰向けになると、私を抱え上げて抱きしめる。
 重いはずなんだけど、そんなのお構いなしのようだ。
 直に触れる肌の温かさが眠気を誘う。
 
「たまひこ。私、もうさすがに無理……」

「ん? その様なことはあるまい? ……まだ欲しているようだが」

「どこを触ってんのよ……」

「言われたいのか」

「……遠慮しておきます」

「比和子……あともう一度だけ」

 強請る玉彦の頭を胸に抱えて這う舌を受け入れる。
 そうすれば浅はかな私はすぐに波に飲み込まれてしまうのだ。
 私は力を抜いてそのまま身を任せる。
 体力というのは精力にも影響するのだろうか。
 それとも溜まりに溜まったものを出し尽くさないと終わらないのだろうか。
 普通の男女の営みって、一回一回がこんなにも長いのだろうか……。
 小町は前に大体一晩に一回だと教えてくれたけど、玉彦には当てはまらないような気がするんだけど……。
 やっぱり溜め込んでたのか悪いのだろうか……。
 これからは気分が乗らないからって断るとこういうツケが回ってくるから気を付けよう……。


 恥ずかしながら。

 真夜中に玉彦に抱えられてお風呂に入って、結局戯れ三昧だった一日に溜息が出た。
 部屋に戻るとふかふかのお布団に替えられていて、私は倒れ込んだ。
 お日様の良い匂いがする。
 先に戻っていた玉彦は、何事も無かったかのように座卓に座って筆を走らせていた。
 正座して姿勢正しくスラスラと何かを書いていて、書き終えると唇に指を当て宣呪言を呟いてそれを紙に指先で流している。
 一体何をしているのかと思って這い寄ると、座卓の脇に数十枚の白紙の御札があった。
 そして書き終えた御札が畳にズラリと並べて乾くのを待っている。
 手書きなのに嘘みたいに文字が同じで、これだったらコピーだと言われても判らない。
 むしろコピーして宣呪言を流せば良いんじゃないかとさえ思う。

「何してるの?」

「札を書いている」

 それは一目瞭然だけど、何に使うのかと私は聞きたい。
 玉彦の御札は、大変ご利益があって九児から身を守ったり、悪いものが入って来られないように、又は出られないように封をすることが出来る。
 私も何度かお世話になっていて、その効果は折り紙付きだ。
 一枚でも有り難いのに、こんなに何十枚も何に使うと言うのだろう。

「どこに貼るの?」

「先日破壊された黒塀の中に埋め込む」

「へぇー」

「塀なだけにへーなのか。くだらん」

 そういうつもりで言ったわけじゃないのに。
 私が滑ったようになって、なんかムカつく。
 私は嫌がる玉彦の膝に頭を乗せて見上げる。

 うーん。
 真下から見上げても、凛々しい。

「集中出来ぬ……」

 そう言って私の額にポトリと墨を一滴落とす。
 でも居心地が良いので移動するつもりはない。
 近くのティッシュに手を伸ばして額を拭けば、ほんの少しだったようで直ぐに綺麗になる。

「何枚書くの?」

「百八枚」

「煩悩の数と一緒だね~」

「偶然だろう。比和子、これ以上邪魔だてするならば縄で縛って折檻するぞ」

「あんた、とんでもない変態ね……」

「……縄で縛って木に吊るす」

 私の体重を枝で支えられるのは、銀杏の大木だけだ。
 想像して笑ってしまって、そのまま転がってお布団に戻る。

「明日までに仕上げねばならぬ……」

 溜息をついても手は動かしている。
 その調子なら朝までには終わるんじゃないかな。

「たまひこー」

「役目の最中である。話しかけるな」

 言われて私は黙り込む。
 てゆうか、一日遊んでないでそのお役目の時間に充てていればこうも焦らずに出来たんじゃないの。
 でもお役目第一の玉彦が私との時間を優先してくれたことが嬉しかったりする。
 ……でも、待てよ。
 お役目の為のお力を安定させるために私を抱いたのだとすれば、話は逆になる。

「どっち!? どっちなの、玉彦!」

「……あっ。くそっ。書き損じた! 後で覚えておけ、比和子!」

 本気でこちらを睨んだ玉彦を鼻で笑って、私は背を向けた。

「さて寝ましょうかねー。おやすみなさい。旦那様」

「夫よりも早寝する妻など聞いたことがない」

 玉彦のぼやきをを聞きつつ、目を閉じる。
 けれども僅かに目に違和感を覚えて飛び起きた。
 ジリジリと乾いている様に痛みがある。
 擦って涙を確かめても透明で安心したけど、どうして痛みがあるんだろう。

「玉彦……」

 呼びかけてもまたくだらないことを言うのかと無視をされてしまう。

「玉彦。目が痛い」

 それでようやく玉彦は筆を置いて、私の横に片膝を立てて目を覗きこんだ。
 息を飲んで眉を顰める。
 私には自分の目がどうなっているのか判らないけど、玉彦の表情を見るとあんまり良くないんだなと思う。
 でも鏡を見る勇気が出ない。

「目が充血しているだけだ。明日目薬を差せば治る」

「本当に?」

「今日は随分と無理をさせてしまったようだ。すまぬ」

「そんな理由?」

「……一時だけ比和子の中の許容量が越えてしまい、無意識に眼から流れ出たのだろう。これからは気を付ける」

「うん……」

 良く解かんないけど、避雷針の私が上手く働かなかったんだろうな。
 それから玉彦は私の手を眠るまで握っていてくれた。
 そして翌朝目覚めると、眠る前と同じように手を握ったまま玉彦が寝息を立てていた。
 このシチュエーション、身に覚えがある……。

 けれども一応彼も成長はしているようで、座卓の上には完成された百八枚の御札が赤い紐で括われていた。

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