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1巻
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先程ララが歩いている時、勢い余って転んで頭から血が出てしまったため(多分大丈夫だが、頭を切ってしまって血が止まらない様子だった)マリアとララは救護室に行っていて現在一人である。
ちょくちょく思っていたことだが、仮にも貴族のご令嬢が一人きりになっていいのだろうか。
過保護なのかそうじゃないのか分からない人たちだ。
(はぁ、暇だなぁ。今日は雨が降っているし、マリア達が帰ってきてもお散歩は無理だろうなぁ。ベビーベッドだと立つ練習も出来ないし、早く二人帰ってきてくれ~)
私は一人、指をしゃぶりながら例のごとくうごうごと両手足を動かしていた。そんな風に奇妙な運動をしていると、ドアの方から誰か近づいてくる気配を感じる。
(ん? マリアだけ帰ってきたのかな)
目を向けようとしたちょうどその時、上から何か黒い物体が降ってきた。
そして、あっという間にドアの方から近づいてきた気配(フードを被った男のようだ)を押し倒し、両手を後ろ手にして掴む。
(……え⁉ な、何⁉ え、誰⁉ ていうかこの部屋に誰かいたの⁉)
軽くパニクっていると、その黒い物体が声を発する。
「貴様、屋敷の者ではないな。何の目的でこの部屋に来た。なぜこの子に手を伸ばした。答えろ」
どうやら黒い物体の正体は男の人だったようだ。心地よい高音気味のテノールが聞こえた。
状況から察するに、知らんおっさんが不法侵入して私に触ろうとしたらしい。
怖っ‼ 笑えないよ、危機一髪やないか‼
そして、黒い物体――おっさんを倒してくれたお兄さんは私の護衛なのだろう。
もしかして今までずっと見守ってくれていたのだろうか。貴族のご令嬢のセキュリティは万全でした、すいません。
「ぐぅっ、なぜこんなところにまで……。クソッ離せ‼ 影のくせに生意気な! 俺に触れるんじゃねえ!」
と侵入者が吠えると、ボコォッ‼ っという音が聞こえた。
「しゃべる元気があるならとっとと答えるんだな。あと、この子の前でそんな汚ねぇ言葉吐くんじゃねえ。殺すぞ」
なんだかお兄さんの殺意が知らぬ間にMAXである。
えっ? なんで? そりゃ不法侵入は犯罪(この世界では知らんが)ですけども。
そこまで殺意MAXになりますかね?
あれかな? “影”って言葉が差別用語だったのかな?
大丈夫だよ、忍者みたいなもんだよね? カッコイイよ!
突然の展開に自分でもだいぶパニックになっているみたいだ。全然頭が回らない。
お兄さんは私の方を向いて、無事かどうか確認するように見つめてきた。
まさに忍者のようなマスクで顔の大半が隠れており、顔立ちは分からないものの、心配するような眼差しをしたダークグレーの瞳からは、本当にこちらを気遣っている様子が分かる。
無意識のうちに私は緊張していたのだろう、身体の強張りが溶けていくのを感じた。それから、この優しいお兄さんに、少しでも安心してほしくて体いっぱい使って笑顔を向けた。
「あぅぁ~‼ あぃあとー‼(大丈夫だよー! ありがとー!)」
相変わらずマスクで分かりにくいが、ホッとしたように見えた。
その一瞬のゆるみを逃がさなかった侵入者が、拘束された状態を抜けドアの方へ逃げていく。
「馬鹿が、逃がすと思ってんのか」
お兄さんも即座に動き、部屋から少し出た付近で再び取り押さえる。
するとベビーベッドが置かれている隣の窓から、何故か雨が入ってきた。
(おかしいな、マリアが窓を全部閉めていたはずなんだけど……)
気づいた時には遅かった。
「お嬢‼」
私は窓から入ってきたもう一人の侵入者に抱き上げられていた。
(はぇ、誰⁉ 侵入者は一人じゃなかったの⁉ ていうかこの侵入者……もしかして……)
ある違和感を覚える中、お兄さんに捕まっている侵入者が何かをこちらに投げてきた。
ボンっ‼ という大きい音と同時に、緑の煙幕が広がる。
それから私は、降りしきる雨の中、侵入者に誘拐されてしまった。
◆◆◆
俺はバジル家に仕えている影、名はハヤト。
歳は十六だがこれでも幼い頃から訓練を受けてきた、その道のプロだと自負している。
ガンディール様に仕えている先輩方には「まだまだだ」と言われるが、あの人たちは俺が慢心しないように鼓舞してくれているのだろう。
そんな必要ないのに。ちょっとは俺のことを褒めてくれてもいいと思う。
そんな優秀だが身の丈を知っている俺は、なぜか当主であるガンディール様でなく、ましてやご長男のエディール様でもない、まだ赤子のリリーナ様の影に任命されてしまった。
それを聞いた時は、大変不躾ではあるがこの屋敷の影長に抗議した。
この国で“影”という存在は、表に出て正々堂々と戦うことをしない卑怯者と侮蔑されている。歴史の中で、我々影は重要な任務や役割を担ってきたというのに。
その任務は秘密裏に行われることが多く、大衆の目に映らなかったが。まったく、目に見える華々しいものを美徳とし、表面しか見ないこの国の人々には呆れる。
だが、ガンディール様は違った。他では忌避され先の大戦以降行き場をなくした我々を引き入れ、他の兵士と同じように、いや、それ以上に重宝してくださる。
「使えるものは何でも使う。能力があるものをなぜ使わない? 俺には理解できんな」
俺は能力を評価し、我々の歴史を認めてくれたガンディール様のお言葉に救われた。幼いながらに俺はこの人の為に働き、死のうと思った。
にもかかわらず! ガンディール様でなく、ましてやいずれ家を継がれるエディール様でもない、リリーナ様のお付きになってしまった。
その事実が、どうしても受け入れられなかった。
そもそも、貴族の子息に影という見えない護衛を付けるのは一般的だが、家を継ぐ予定のない女児に影を付けるなど前代未聞である。必要性を感じない。
あの合理的で常識にとらわれないガンディール様が、こんな無駄なことをするだろうか? 理解できないのは、俺の修行が足りないせいだろうか……
結局抗議は受け入れられず、俺は生後数か月のリリーナ様のお付きになった。
決まってしまったのであればしょうがない。俺は全身全霊で任を全うするまでだ。真面目に仕事をして、評価されてゆくゆくはガンディール様付きになることを目標に頑張ることにしよう。
リリーお嬢様は病弱とのことだったので、万一にそなえベビーベッドでの状況も把握できるよう、屋根裏から見守る。
……初めて見た時にも思ったが、お嬢様は将来がめちゃくちゃ楽しみな容姿をされている。さすがエマ様とガンディール様の娘様。色素の薄い天使のような姿は、見ていて全然飽きない。
赤子のお付きなんて暇でしょうがないだろうと思っていたが、あの可愛らしい姿を見ていたら気づけば時間が過ぎている。この間なんて、朝日を浴びた天使を見て“今日も頑張るぞ”と思ったら交代の者が来てビビッてしまった。
(あ、また奇妙な踊りをしてる)
リリーお嬢様は最近とても活発だ。あのように指しゃぶりをしながら両足をうごうごと動かしたり、前よりもよく喋るようになった。この間なんてエディール様のお名前を呼ばれており、エディール様は小一時間ほど興奮が収まらなかった。
「リリー! 今度は“エディ兄さま大好き”って言って‼」
とずっとリリーお嬢様に引っ付いており、乳母のマリア様を困らせていた。
──自分のこともいつかあの可愛らしいお声で呼んで下さるだろうか。
“ハヤト”は中々言いやすい名前だと思っているので、ひそかに期待している。
……いやいやいや、自分は陰ながらの護衛だ。ましてや将来的にはリリーお嬢様のお付きを離れる身だ。そんな贅沢な願いなど……
悶々と考えていると、お昼の時間になったのか、料理長のザインが離乳食を持って部屋に入ってきた。後ろでメイドが睨んでいるのが見える。
(あのオヤジ料理長は、また勝手に持ってきたのか)
初めはお嬢様に近づこうともしなかったくせに、拒否されないからと調子に乗って……。従者内で毎食、誰がお嬢様に食べさせられるか血を見るほどの争いをしているというのに、あのオヤジは自分が作ったものをシレッと持っていくようになったのだ。
本来サーブするのも、世話をするのも料理長の仕事じゃないのに。きっかけを作ってしまったメイドのレイナですら後悔しているほど、頻繁にお嬢様へ餌付けしている。
そう、お世話ではなく餌付けだ。ヤツは知らないだろうが、お嬢様が食後お眠りになられた時に呟いた言葉を、俺はしっかりと聞いた。
「この調子でお嬢の舌を育てて“ザインの料理しか食べたくない”って言われるように頑張っちゃうぜ~♪」
ふんふ~んっとスキップしながら出ていくのを見送る。煩悩の塊のような男だ。
彼の料理は確かに美味い。バジル家に仕えてよかったと思うランキングトップテンにいつも入ってくるほど、影の者にも人気が高い。
彼の料理には感謝しているが、お嬢様の教育上少しでも悪いと感じたら容赦はしない。とりあえずブラックリストに載せておき、ガンディール様へ報告できるようにしている。
「お嬢~、今日も新作作ってきたよ~」
いつもの悪人面はどうしたというほど、しまりのないデレデレとした顔でお嬢様に話しかけている。イライラしながら見守っていると、ドア付近が騒がしくなってくる。
バンッ! と開いたドアから、エディール様が現れた。
「リリー! 兄さまが来たよ‼」
「ぼ、坊ちゃん、お勉強はどうしたんですか?」
「先生の体調が悪いみたいで今日は終わったよ! あっ! リリー、今からご飯なの? 兄さまが食べさせてあげるね!」
そう言いながらエディール様はザインが持っていた匙と離乳食を奪った。
「坊ちゃん! 自分が食べさせますんで、坊ちゃんもおやつにしましょ⁉ ね⁉」
「いいよ、さっきご飯食べたばっかだもん。リリーの世話は兄さまがするの!」
エディール様はお嬢様が“エディ”と話せるようになってから、“今度は兄さまと呼んでもらう!” と張り切っておられる。お嬢様と接するときは、一人称を「兄さま」と言うようになった。
(エディール様も成長なされた)
お嬢様が生まれる前は、やんちゃ坊主であったのに。
目を離したらすぐにいなくなってたり、毎日どこで何をしているのかと思うほど洋服を泥まみれにしていた。年齢が近いからと、よく捜索やお相手に駆り出されていたなぁ。
しみじみとエディール様の成長を感じながら、ザインに向けてざまぁみろと笑う。
よく見ると、先程まで恨めしそうにザインを見ていた従者たちも同じように笑っていた。
ふとお嬢様を見ると、きょとんと大きなお目目をパッチリ開け、エディール様とザインのやりとりを見ていた。やっと食べられると分かったのか、エディール様に向かってキャッキャと笑っている。
そんな様子を見て落ち込んでいたザインが復活し、従者たちが棘のない笑みを浮かべていた。
その様子を見て、俺は案外この任も悪くないな、と感じていた。
──自分もマスクの下で柔らかい笑みを浮かべていると気付かずに。
そんな柔らかな記憶を頭の片隅で思い出しては、まるでその記憶を燃料にするかのように頭も体も熱くする。俺は今まで感じたことのない激情をコントロール出来ずにいた。
濡れた状態のまま、まるで八つ当たりのように……馬乗りになって男を殴り続ける。
「……ハヤト、そこまでにしとけって。それ以上は口が割れなくなるだろ~」
先輩であるダイスが、俺が振り上げた腕を止めて男に声をかける。
「おい、アンタもいい加減吐いてよ。見たところ影でも暗殺者でもないでしょ? 誰の依頼なの?」
それまで一方的に殴られていた男は、口内に溜まった血を吐き泣きながら答えた。
「はぁ、はぁ、ゴホッ。お前ら、卑怯な手でしか戦えねえ影物が! この俺にこんな仕打ち。許さねぇ……」
ボコォッという音とともに、それまで喚き散らしていた男が壁に吹っ飛ばされる。
「……人に注意しといて、何殴ってんですか。口割らせるんじゃなかったんすか」
「あぁ悪い。久々に反吐が出る言葉聞いたから、つい。いやぁ、おかしいな~。前はこんくらい屁でもなかったのになぁ」
先輩が首をかしげるのを呆れた表情で見つめた。
男からうめき声とすすり泣きが聞こえてくる。どうやら気を失ってはいないようだ。
「先輩、どいてください。コイツ、どうせ殺されないと思ってますし、もっと危機感がないと答えませんよ」
チャキッと腰に装備していた短刀ナイフを取り男に向ける。
「それもそうだな、あの子の為に早く居場所突き止めたいし~。指ならいいかな~」
先輩も自分の短刀を出しながら男の上に乗り、手を押さえつけた。俺たちの本気に気づいたのだろう。震えながら男が叫ぶ。
「ま、待て、たかが使用人の子どもだろっ⁉ あの商人に金でも積まれたのかっ。お、俺がその倍金をやる。だから助けてくれ‼ いくらだ、いくら出せばいい?」
その言葉を聞いて、やはりな……と確信した。状況が正しく理解できていないこの男に、“お優しい”先輩が真実を伝えてやるようだ。
「汚ねぇ金なんて少しも価値なんてないよ~、“ゴズリン商会の息子のドス・ゴズリン” さん。アンタ等の狙いが分からなかったから敢えて誤魔化してたけど、説明してあげるよ」
男の頭を持ち上げながら、瞳に憤怒を篭らせ続ける。
「アンタ等が攫った“あの子”は、このバジル辺境伯のご息女なの。アンタ等が攫おうとした“モレッツ商会副会長の子ども”じゃないんだよね~」
お嬢様が攫われた場所は従者室の近くのララの世話部屋だった。
そのため、狙われたのがお嬢様なのか、ララなのかハッキリとしなかったのだ。
だから俺達はお嬢様の存在を敢えてボカすよう言葉に気を付けていた。とはいえ俺は咄嗟に「お嬢」と呼んでしまったが(お嬢“様”と言わなかっただけ自分を褒めたい)。
先輩の話を聞いた男は、みるみる顔が青ざめる。
「う、嘘だ……! 使用人の部屋なんかに貴族の子どもがいる訳がないっ‼ でたらめを言うな。 そんな脅し通用しないぞ。それに貴様ら、俺のことを知っていてなぜこのような蛮行をしている‼ 俺はあのゴズリン商会の息子だぞ、離せっ離せえぇぇぇ‼」
暴れだした男を踏みつけている足に力を入れて黙らせる。
「うん、知ってるよ~。でもね、貴族でもないたかだた商人が、無断で辺境伯爵の屋敷に侵入した挙句、そのご息女を誘拐したんだよ~? 立派な極悪人。極刑も免れない犯罪者が、普通の罪人のように扱われると思ったら大間違いだよ~」
男は「嘘だ嘘だ嘘だっ……‼」と言うばかりでまるで話にならない。
こんな奴に出し抜かれ、挙句お嬢様を攫われてしまった現実に耐えきれず、俺は気づけば血が出るまで唇を噛んでいた。
リリーお嬢様に血を見せることに躊躇してしまった自分が恨めしい。
全ては力を過信していた自分のせいであると後悔していた。
(何が優秀な俺だ、何が女児のお守りで納得できないだ……‼ 満足に任を遂行できない……何て弱く、傲慢で愚かな役立たずなんだ、俺はっ……‼)
お嬢様が攫われた後応援に来た影の者に男を託し、十分な説明もしないまますぐに誘拐犯の後を追った。だが雨と特殊な煙の臭いと刺激のせいで、鼻も目も使えずおめおめと逃がしてしまった。
先程の男の話から推測するにお嬢様はすぐに殺されはしないだろう。
だが、こうしている間にも小さなお嬢様が怖がったり苦しんでいると思うと……胸が張り裂けそうだ。
俺は耐えきれなくなり、持っていた短刀ナイフを男に向かって振り切った。スパッ! っという音とともに喚いていた男が大人しくなる。それなりの長さがあった髪が見事に切れて落ちていった。
「もうお前の喚きは飽き飽きだ。生易しい尋問は終わりだ。お前が嫌いな“影の者”お得意の、自分から喋りたくなるような“拷問”を、お前に体験させてやるよ」
◆◆◆
あまり整備されていない薄暗い路地裏。
誘拐犯に抱えられながら雨の中を移動する私はピンチである。
(うわぁぁああ! 揺れるっ揺れるぅぅう~! お昼の直後だったら吐いてるぞこれ~‼)
侵入者に誘拐された私は、小さな体に無遠慮に伝わる振動に気分を悪くしていた。誘拐されたというのに、満足に抵抗出来なかったのには訳があった。
しばらくすると体に当たっていた雨が止んだ。恐らく屋根があるところに移動したのだろう。
「ふぅ、何とか……まけたな」
今まで私を抱いて疾走していた誘拐犯は、そのフードをとり一息ついた。
露わになったその出で立ちは、前世で馴染みのある黒髪黒目で随分と痩せている。まだ大人と呼ぶには程遠い、小さな体をしていた。
(やっぱり、この子まだまだ子どもじゃないか)
抱き上げられつつも、その身長や体の感触から推測するに、十歳にも満たないくらいの子どもではないかと思っていたのだ。誘拐犯が私の護衛から逃げきれたのも、この小さな体でしか通れないような場所をひたすら通って逃げたからだろう。
それにしても、この子は私が貴族の娘だということを知っているのだろうか? 攫われたのが私の部屋であれば確実だが、ララの部屋だったしなぁ……と考える。
それに、この子はちゃんと食べているのだろうか。あまりにも痩せすぎだ。
前世二人の弟の世話をしていた私は、そんなことがどうも気になってしまう。
「あぅあ~。ちゃちゃ、ちゃちゃや~!」
さすがに疲れたのだろう。座り込んで休み始めた少年に、大丈夫か~? と声をかけてみる。
「ん? ……あぁ、悪いな、こんな事に巻き込んで。でもこうしないと俺も生きていけないんだ。恨むなら、敵を作ったお前の親を恨むんだな」
少年は私を冷たい目で見ながら、吐き捨てるように言った。
……なんて目をしているんだろう。私が見た世界は屋敷の中だけだったから、この世界がどんなものなのか未だに分かっていないが、こんな年端もいかぬ少年が、荒んだ目をしないと生きていけないような世界なのだろうか。
私はとっても悲しくなって、泣いてしまった。
頭では冷静に考えられるが、やはり体が勝手に反応してしまうようだ。
「ぁあああぁぁ~っうっあぁあ~ん‼ ひっく、んぁぁあああ~‼」
(そんな目をしないで、何がそんなに苦しいの? 寂しいの?)
少年の熱を感じたくて、両手を伸ばして頬を触る。
あぁ、こんなに痩せて。悲しいね、苦しいね、痛いね、寂しいね。
この荒んだ目を、少しでも変えたくて……
泣いてもいい、怒ってもいい。だからそんな風に諦めた顔をしないでと、祈りながらすがった。
少年は、私が泣き始めた時はギョッとして慣れない手つきであやそうとしてくれたが、中々泣き止まない様子を見て、途方に暮れた顔をした。
「な、泣くなよ……。大丈夫だよ、お前は殺されないさ。脅しの為に攫っただけだ。お前の親父が契約を終えたら、すぐ返してもらえるって……」
抱き上げ揺すりながらあやしてくれるが、泣き止めない。
少年が、恐らく自分もいっぱいいっぱいなのに必死に慰めてくれることが、嬉しくて安心して……。今は別の意味で泣いているのだ。
あまりにも泣き止まない私を見て、これまでの疲労や不安がせり上がってきたのだろう。少年が怒り出しだ。
「……なんだよっ‼ お前には立派な親もいて、あんな良い部屋で暮らして、食うものにも困らないで‼ 何が不満なんだよ‼ ……泣きたいのは俺の方だ……うぅっうぐっ。……なぁ、泣くなよ。……泣き止んでくれよ」
少年も小さく泣き始め、強く抱きつき縋るように願い続けた。
少年と私の心を表したように、その後も雨は降り続け止むことはなかった。
◆◆◆
バジル家の屋敷は、まるで光が消えたように暗く沈んでいる。
そんな屋敷の女主人である私は、この世の終わりのような表情で涙を流している乳母のマリアを慰めていた。
「エマ様……本当に申し訳ございません。リリー様を任せていただいていたのに……代わりに死んででも守らなければならなかったのに、こんな……申し訳ありません! 申し訳ありませんっ‼」
わぁあっ‼ っとさらに泣き始めたマリアを強く抱きしめ、私は落ち着いた声になるように意識しながら答える。
「マリア、貴女だけのせいじゃないわ。影を付けさせているからある程度自由に育てましょうと提案した私の、貴族の生活に馴染めていなかった私の責任でもあるのよ……。そんなに自分を責めないでちょうだい。それに、マリアが死んだらララが泣いちゃうわ。もちろん、私たちも泣くわよ。だから、そんな悲しいこと言わないでちょうだいな」
自責の念に、こらえていた涙が頬を伝っていく。
常に数人の使用人が監視するように子育てをしている、貴族の風習に対して“何と息苦しい子育てか”と反発してしまったのは他でもない自分自身である。
長男のエディもどこで何をしているのか分からない時があるが伸び伸びと育っており、リリーにも同じように自由に育ってほしいと願ってしまった。
夫が笑って許してくれて、調子に乗ってしまった自分の落ち度だ。いまさら後悔しても遅い。
そんな頼りになる夫には、影が鳥便を至急で出してくれたようだが……早くても屋敷に戻るのは一日かかる。
──そんな長時間、何もしないなんてできない。
涙を拭き顔をあげたちょうどその時、侵入者を尋問した(あの様子だと、尋問で済まなかっただろう)ハヤトとダイスが部屋に入ってきた。
「エマ様~、出せるだけの情報出してきましたよ~。どうします? 部屋変えます~?」
他の従者達を気遣うように、ダイスが言った。
ここにはマリアを筆頭にリリーとの接触が多い信用できる従者しかいない。
ちなみにエディには何も伝えず、可哀そうだが気絶させて厳重体制で警備している(起きていると絶対にリリーのところへ行こうとするだろう。事件に気づかせないためにはと許可したのだ)。
とはいえ、恐らく当事者であるマリアに聞かせるには酷だと思い、部屋を移動しようと提案する為立ち上がると、泣きじゃくっていたマリアに手を取られる。
「エマ様、お願いです。私にもお嬢様のことを教えてくださいませ! 私のせいで怖い目に遭っているのに、何も知らずのうのうとお嬢様のご帰還を待つなんて、私には出来ませんっ‼」
あまりにも真摯で熱い眼差しに早々に負けを認めた私は、話を続けるようダイスに目配せをした。
「……マリア様、リリーお嬢様の誘拐はマリア様のせいじゃないですよ~。九割九分、このハヤトちゃんが自分の力を過信してたからです~。そんなに気負わないでください~」
ちょくちょく思っていたことだが、仮にも貴族のご令嬢が一人きりになっていいのだろうか。
過保護なのかそうじゃないのか分からない人たちだ。
(はぁ、暇だなぁ。今日は雨が降っているし、マリア達が帰ってきてもお散歩は無理だろうなぁ。ベビーベッドだと立つ練習も出来ないし、早く二人帰ってきてくれ~)
私は一人、指をしゃぶりながら例のごとくうごうごと両手足を動かしていた。そんな風に奇妙な運動をしていると、ドアの方から誰か近づいてくる気配を感じる。
(ん? マリアだけ帰ってきたのかな)
目を向けようとしたちょうどその時、上から何か黒い物体が降ってきた。
そして、あっという間にドアの方から近づいてきた気配(フードを被った男のようだ)を押し倒し、両手を後ろ手にして掴む。
(……え⁉ な、何⁉ え、誰⁉ ていうかこの部屋に誰かいたの⁉)
軽くパニクっていると、その黒い物体が声を発する。
「貴様、屋敷の者ではないな。何の目的でこの部屋に来た。なぜこの子に手を伸ばした。答えろ」
どうやら黒い物体の正体は男の人だったようだ。心地よい高音気味のテノールが聞こえた。
状況から察するに、知らんおっさんが不法侵入して私に触ろうとしたらしい。
怖っ‼ 笑えないよ、危機一髪やないか‼
そして、黒い物体――おっさんを倒してくれたお兄さんは私の護衛なのだろう。
もしかして今までずっと見守ってくれていたのだろうか。貴族のご令嬢のセキュリティは万全でした、すいません。
「ぐぅっ、なぜこんなところにまで……。クソッ離せ‼ 影のくせに生意気な! 俺に触れるんじゃねえ!」
と侵入者が吠えると、ボコォッ‼ っという音が聞こえた。
「しゃべる元気があるならとっとと答えるんだな。あと、この子の前でそんな汚ねぇ言葉吐くんじゃねえ。殺すぞ」
なんだかお兄さんの殺意が知らぬ間にMAXである。
えっ? なんで? そりゃ不法侵入は犯罪(この世界では知らんが)ですけども。
そこまで殺意MAXになりますかね?
あれかな? “影”って言葉が差別用語だったのかな?
大丈夫だよ、忍者みたいなもんだよね? カッコイイよ!
突然の展開に自分でもだいぶパニックになっているみたいだ。全然頭が回らない。
お兄さんは私の方を向いて、無事かどうか確認するように見つめてきた。
まさに忍者のようなマスクで顔の大半が隠れており、顔立ちは分からないものの、心配するような眼差しをしたダークグレーの瞳からは、本当にこちらを気遣っている様子が分かる。
無意識のうちに私は緊張していたのだろう、身体の強張りが溶けていくのを感じた。それから、この優しいお兄さんに、少しでも安心してほしくて体いっぱい使って笑顔を向けた。
「あぅぁ~‼ あぃあとー‼(大丈夫だよー! ありがとー!)」
相変わらずマスクで分かりにくいが、ホッとしたように見えた。
その一瞬のゆるみを逃がさなかった侵入者が、拘束された状態を抜けドアの方へ逃げていく。
「馬鹿が、逃がすと思ってんのか」
お兄さんも即座に動き、部屋から少し出た付近で再び取り押さえる。
するとベビーベッドが置かれている隣の窓から、何故か雨が入ってきた。
(おかしいな、マリアが窓を全部閉めていたはずなんだけど……)
気づいた時には遅かった。
「お嬢‼」
私は窓から入ってきたもう一人の侵入者に抱き上げられていた。
(はぇ、誰⁉ 侵入者は一人じゃなかったの⁉ ていうかこの侵入者……もしかして……)
ある違和感を覚える中、お兄さんに捕まっている侵入者が何かをこちらに投げてきた。
ボンっ‼ という大きい音と同時に、緑の煙幕が広がる。
それから私は、降りしきる雨の中、侵入者に誘拐されてしまった。
◆◆◆
俺はバジル家に仕えている影、名はハヤト。
歳は十六だがこれでも幼い頃から訓練を受けてきた、その道のプロだと自負している。
ガンディール様に仕えている先輩方には「まだまだだ」と言われるが、あの人たちは俺が慢心しないように鼓舞してくれているのだろう。
そんな必要ないのに。ちょっとは俺のことを褒めてくれてもいいと思う。
そんな優秀だが身の丈を知っている俺は、なぜか当主であるガンディール様でなく、ましてやご長男のエディール様でもない、まだ赤子のリリーナ様の影に任命されてしまった。
それを聞いた時は、大変不躾ではあるがこの屋敷の影長に抗議した。
この国で“影”という存在は、表に出て正々堂々と戦うことをしない卑怯者と侮蔑されている。歴史の中で、我々影は重要な任務や役割を担ってきたというのに。
その任務は秘密裏に行われることが多く、大衆の目に映らなかったが。まったく、目に見える華々しいものを美徳とし、表面しか見ないこの国の人々には呆れる。
だが、ガンディール様は違った。他では忌避され先の大戦以降行き場をなくした我々を引き入れ、他の兵士と同じように、いや、それ以上に重宝してくださる。
「使えるものは何でも使う。能力があるものをなぜ使わない? 俺には理解できんな」
俺は能力を評価し、我々の歴史を認めてくれたガンディール様のお言葉に救われた。幼いながらに俺はこの人の為に働き、死のうと思った。
にもかかわらず! ガンディール様でなく、ましてやいずれ家を継がれるエディール様でもない、リリーナ様のお付きになってしまった。
その事実が、どうしても受け入れられなかった。
そもそも、貴族の子息に影という見えない護衛を付けるのは一般的だが、家を継ぐ予定のない女児に影を付けるなど前代未聞である。必要性を感じない。
あの合理的で常識にとらわれないガンディール様が、こんな無駄なことをするだろうか? 理解できないのは、俺の修行が足りないせいだろうか……
結局抗議は受け入れられず、俺は生後数か月のリリーナ様のお付きになった。
決まってしまったのであればしょうがない。俺は全身全霊で任を全うするまでだ。真面目に仕事をして、評価されてゆくゆくはガンディール様付きになることを目標に頑張ることにしよう。
リリーお嬢様は病弱とのことだったので、万一にそなえベビーベッドでの状況も把握できるよう、屋根裏から見守る。
……初めて見た時にも思ったが、お嬢様は将来がめちゃくちゃ楽しみな容姿をされている。さすがエマ様とガンディール様の娘様。色素の薄い天使のような姿は、見ていて全然飽きない。
赤子のお付きなんて暇でしょうがないだろうと思っていたが、あの可愛らしい姿を見ていたら気づけば時間が過ぎている。この間なんて、朝日を浴びた天使を見て“今日も頑張るぞ”と思ったら交代の者が来てビビッてしまった。
(あ、また奇妙な踊りをしてる)
リリーお嬢様は最近とても活発だ。あのように指しゃぶりをしながら両足をうごうごと動かしたり、前よりもよく喋るようになった。この間なんてエディール様のお名前を呼ばれており、エディール様は小一時間ほど興奮が収まらなかった。
「リリー! 今度は“エディ兄さま大好き”って言って‼」
とずっとリリーお嬢様に引っ付いており、乳母のマリア様を困らせていた。
──自分のこともいつかあの可愛らしいお声で呼んで下さるだろうか。
“ハヤト”は中々言いやすい名前だと思っているので、ひそかに期待している。
……いやいやいや、自分は陰ながらの護衛だ。ましてや将来的にはリリーお嬢様のお付きを離れる身だ。そんな贅沢な願いなど……
悶々と考えていると、お昼の時間になったのか、料理長のザインが離乳食を持って部屋に入ってきた。後ろでメイドが睨んでいるのが見える。
(あのオヤジ料理長は、また勝手に持ってきたのか)
初めはお嬢様に近づこうともしなかったくせに、拒否されないからと調子に乗って……。従者内で毎食、誰がお嬢様に食べさせられるか血を見るほどの争いをしているというのに、あのオヤジは自分が作ったものをシレッと持っていくようになったのだ。
本来サーブするのも、世話をするのも料理長の仕事じゃないのに。きっかけを作ってしまったメイドのレイナですら後悔しているほど、頻繁にお嬢様へ餌付けしている。
そう、お世話ではなく餌付けだ。ヤツは知らないだろうが、お嬢様が食後お眠りになられた時に呟いた言葉を、俺はしっかりと聞いた。
「この調子でお嬢の舌を育てて“ザインの料理しか食べたくない”って言われるように頑張っちゃうぜ~♪」
ふんふ~んっとスキップしながら出ていくのを見送る。煩悩の塊のような男だ。
彼の料理は確かに美味い。バジル家に仕えてよかったと思うランキングトップテンにいつも入ってくるほど、影の者にも人気が高い。
彼の料理には感謝しているが、お嬢様の教育上少しでも悪いと感じたら容赦はしない。とりあえずブラックリストに載せておき、ガンディール様へ報告できるようにしている。
「お嬢~、今日も新作作ってきたよ~」
いつもの悪人面はどうしたというほど、しまりのないデレデレとした顔でお嬢様に話しかけている。イライラしながら見守っていると、ドア付近が騒がしくなってくる。
バンッ! と開いたドアから、エディール様が現れた。
「リリー! 兄さまが来たよ‼」
「ぼ、坊ちゃん、お勉強はどうしたんですか?」
「先生の体調が悪いみたいで今日は終わったよ! あっ! リリー、今からご飯なの? 兄さまが食べさせてあげるね!」
そう言いながらエディール様はザインが持っていた匙と離乳食を奪った。
「坊ちゃん! 自分が食べさせますんで、坊ちゃんもおやつにしましょ⁉ ね⁉」
「いいよ、さっきご飯食べたばっかだもん。リリーの世話は兄さまがするの!」
エディール様はお嬢様が“エディ”と話せるようになってから、“今度は兄さまと呼んでもらう!” と張り切っておられる。お嬢様と接するときは、一人称を「兄さま」と言うようになった。
(エディール様も成長なされた)
お嬢様が生まれる前は、やんちゃ坊主であったのに。
目を離したらすぐにいなくなってたり、毎日どこで何をしているのかと思うほど洋服を泥まみれにしていた。年齢が近いからと、よく捜索やお相手に駆り出されていたなぁ。
しみじみとエディール様の成長を感じながら、ザインに向けてざまぁみろと笑う。
よく見ると、先程まで恨めしそうにザインを見ていた従者たちも同じように笑っていた。
ふとお嬢様を見ると、きょとんと大きなお目目をパッチリ開け、エディール様とザインのやりとりを見ていた。やっと食べられると分かったのか、エディール様に向かってキャッキャと笑っている。
そんな様子を見て落ち込んでいたザインが復活し、従者たちが棘のない笑みを浮かべていた。
その様子を見て、俺は案外この任も悪くないな、と感じていた。
──自分もマスクの下で柔らかい笑みを浮かべていると気付かずに。
そんな柔らかな記憶を頭の片隅で思い出しては、まるでその記憶を燃料にするかのように頭も体も熱くする。俺は今まで感じたことのない激情をコントロール出来ずにいた。
濡れた状態のまま、まるで八つ当たりのように……馬乗りになって男を殴り続ける。
「……ハヤト、そこまでにしとけって。それ以上は口が割れなくなるだろ~」
先輩であるダイスが、俺が振り上げた腕を止めて男に声をかける。
「おい、アンタもいい加減吐いてよ。見たところ影でも暗殺者でもないでしょ? 誰の依頼なの?」
それまで一方的に殴られていた男は、口内に溜まった血を吐き泣きながら答えた。
「はぁ、はぁ、ゴホッ。お前ら、卑怯な手でしか戦えねえ影物が! この俺にこんな仕打ち。許さねぇ……」
ボコォッという音とともに、それまで喚き散らしていた男が壁に吹っ飛ばされる。
「……人に注意しといて、何殴ってんですか。口割らせるんじゃなかったんすか」
「あぁ悪い。久々に反吐が出る言葉聞いたから、つい。いやぁ、おかしいな~。前はこんくらい屁でもなかったのになぁ」
先輩が首をかしげるのを呆れた表情で見つめた。
男からうめき声とすすり泣きが聞こえてくる。どうやら気を失ってはいないようだ。
「先輩、どいてください。コイツ、どうせ殺されないと思ってますし、もっと危機感がないと答えませんよ」
チャキッと腰に装備していた短刀ナイフを取り男に向ける。
「それもそうだな、あの子の為に早く居場所突き止めたいし~。指ならいいかな~」
先輩も自分の短刀を出しながら男の上に乗り、手を押さえつけた。俺たちの本気に気づいたのだろう。震えながら男が叫ぶ。
「ま、待て、たかが使用人の子どもだろっ⁉ あの商人に金でも積まれたのかっ。お、俺がその倍金をやる。だから助けてくれ‼ いくらだ、いくら出せばいい?」
その言葉を聞いて、やはりな……と確信した。状況が正しく理解できていないこの男に、“お優しい”先輩が真実を伝えてやるようだ。
「汚ねぇ金なんて少しも価値なんてないよ~、“ゴズリン商会の息子のドス・ゴズリン” さん。アンタ等の狙いが分からなかったから敢えて誤魔化してたけど、説明してあげるよ」
男の頭を持ち上げながら、瞳に憤怒を篭らせ続ける。
「アンタ等が攫った“あの子”は、このバジル辺境伯のご息女なの。アンタ等が攫おうとした“モレッツ商会副会長の子ども”じゃないんだよね~」
お嬢様が攫われた場所は従者室の近くのララの世話部屋だった。
そのため、狙われたのがお嬢様なのか、ララなのかハッキリとしなかったのだ。
だから俺達はお嬢様の存在を敢えてボカすよう言葉に気を付けていた。とはいえ俺は咄嗟に「お嬢」と呼んでしまったが(お嬢“様”と言わなかっただけ自分を褒めたい)。
先輩の話を聞いた男は、みるみる顔が青ざめる。
「う、嘘だ……! 使用人の部屋なんかに貴族の子どもがいる訳がないっ‼ でたらめを言うな。 そんな脅し通用しないぞ。それに貴様ら、俺のことを知っていてなぜこのような蛮行をしている‼ 俺はあのゴズリン商会の息子だぞ、離せっ離せえぇぇぇ‼」
暴れだした男を踏みつけている足に力を入れて黙らせる。
「うん、知ってるよ~。でもね、貴族でもないたかだた商人が、無断で辺境伯爵の屋敷に侵入した挙句、そのご息女を誘拐したんだよ~? 立派な極悪人。極刑も免れない犯罪者が、普通の罪人のように扱われると思ったら大間違いだよ~」
男は「嘘だ嘘だ嘘だっ……‼」と言うばかりでまるで話にならない。
こんな奴に出し抜かれ、挙句お嬢様を攫われてしまった現実に耐えきれず、俺は気づけば血が出るまで唇を噛んでいた。
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(何が優秀な俺だ、何が女児のお守りで納得できないだ……‼ 満足に任を遂行できない……何て弱く、傲慢で愚かな役立たずなんだ、俺はっ……‼)
お嬢様が攫われた後応援に来た影の者に男を託し、十分な説明もしないまますぐに誘拐犯の後を追った。だが雨と特殊な煙の臭いと刺激のせいで、鼻も目も使えずおめおめと逃がしてしまった。
先程の男の話から推測するにお嬢様はすぐに殺されはしないだろう。
だが、こうしている間にも小さなお嬢様が怖がったり苦しんでいると思うと……胸が張り裂けそうだ。
俺は耐えきれなくなり、持っていた短刀ナイフを男に向かって振り切った。スパッ! っという音とともに喚いていた男が大人しくなる。それなりの長さがあった髪が見事に切れて落ちていった。
「もうお前の喚きは飽き飽きだ。生易しい尋問は終わりだ。お前が嫌いな“影の者”お得意の、自分から喋りたくなるような“拷問”を、お前に体験させてやるよ」
◆◆◆
あまり整備されていない薄暗い路地裏。
誘拐犯に抱えられながら雨の中を移動する私はピンチである。
(うわぁぁああ! 揺れるっ揺れるぅぅう~! お昼の直後だったら吐いてるぞこれ~‼)
侵入者に誘拐された私は、小さな体に無遠慮に伝わる振動に気分を悪くしていた。誘拐されたというのに、満足に抵抗出来なかったのには訳があった。
しばらくすると体に当たっていた雨が止んだ。恐らく屋根があるところに移動したのだろう。
「ふぅ、何とか……まけたな」
今まで私を抱いて疾走していた誘拐犯は、そのフードをとり一息ついた。
露わになったその出で立ちは、前世で馴染みのある黒髪黒目で随分と痩せている。まだ大人と呼ぶには程遠い、小さな体をしていた。
(やっぱり、この子まだまだ子どもじゃないか)
抱き上げられつつも、その身長や体の感触から推測するに、十歳にも満たないくらいの子どもではないかと思っていたのだ。誘拐犯が私の護衛から逃げきれたのも、この小さな体でしか通れないような場所をひたすら通って逃げたからだろう。
それにしても、この子は私が貴族の娘だということを知っているのだろうか? 攫われたのが私の部屋であれば確実だが、ララの部屋だったしなぁ……と考える。
それに、この子はちゃんと食べているのだろうか。あまりにも痩せすぎだ。
前世二人の弟の世話をしていた私は、そんなことがどうも気になってしまう。
「あぅあ~。ちゃちゃ、ちゃちゃや~!」
さすがに疲れたのだろう。座り込んで休み始めた少年に、大丈夫か~? と声をかけてみる。
「ん? ……あぁ、悪いな、こんな事に巻き込んで。でもこうしないと俺も生きていけないんだ。恨むなら、敵を作ったお前の親を恨むんだな」
少年は私を冷たい目で見ながら、吐き捨てるように言った。
……なんて目をしているんだろう。私が見た世界は屋敷の中だけだったから、この世界がどんなものなのか未だに分かっていないが、こんな年端もいかぬ少年が、荒んだ目をしないと生きていけないような世界なのだろうか。
私はとっても悲しくなって、泣いてしまった。
頭では冷静に考えられるが、やはり体が勝手に反応してしまうようだ。
「ぁあああぁぁ~っうっあぁあ~ん‼ ひっく、んぁぁあああ~‼」
(そんな目をしないで、何がそんなに苦しいの? 寂しいの?)
少年の熱を感じたくて、両手を伸ばして頬を触る。
あぁ、こんなに痩せて。悲しいね、苦しいね、痛いね、寂しいね。
この荒んだ目を、少しでも変えたくて……
泣いてもいい、怒ってもいい。だからそんな風に諦めた顔をしないでと、祈りながらすがった。
少年は、私が泣き始めた時はギョッとして慣れない手つきであやそうとしてくれたが、中々泣き止まない様子を見て、途方に暮れた顔をした。
「な、泣くなよ……。大丈夫だよ、お前は殺されないさ。脅しの為に攫っただけだ。お前の親父が契約を終えたら、すぐ返してもらえるって……」
抱き上げ揺すりながらあやしてくれるが、泣き止めない。
少年が、恐らく自分もいっぱいいっぱいなのに必死に慰めてくれることが、嬉しくて安心して……。今は別の意味で泣いているのだ。
あまりにも泣き止まない私を見て、これまでの疲労や不安がせり上がってきたのだろう。少年が怒り出しだ。
「……なんだよっ‼ お前には立派な親もいて、あんな良い部屋で暮らして、食うものにも困らないで‼ 何が不満なんだよ‼ ……泣きたいのは俺の方だ……うぅっうぐっ。……なぁ、泣くなよ。……泣き止んでくれよ」
少年も小さく泣き始め、強く抱きつき縋るように願い続けた。
少年と私の心を表したように、その後も雨は降り続け止むことはなかった。
◆◆◆
バジル家の屋敷は、まるで光が消えたように暗く沈んでいる。
そんな屋敷の女主人である私は、この世の終わりのような表情で涙を流している乳母のマリアを慰めていた。
「エマ様……本当に申し訳ございません。リリー様を任せていただいていたのに……代わりに死んででも守らなければならなかったのに、こんな……申し訳ありません! 申し訳ありませんっ‼」
わぁあっ‼ っとさらに泣き始めたマリアを強く抱きしめ、私は落ち着いた声になるように意識しながら答える。
「マリア、貴女だけのせいじゃないわ。影を付けさせているからある程度自由に育てましょうと提案した私の、貴族の生活に馴染めていなかった私の責任でもあるのよ……。そんなに自分を責めないでちょうだい。それに、マリアが死んだらララが泣いちゃうわ。もちろん、私たちも泣くわよ。だから、そんな悲しいこと言わないでちょうだいな」
自責の念に、こらえていた涙が頬を伝っていく。
常に数人の使用人が監視するように子育てをしている、貴族の風習に対して“何と息苦しい子育てか”と反発してしまったのは他でもない自分自身である。
長男のエディもどこで何をしているのか分からない時があるが伸び伸びと育っており、リリーにも同じように自由に育ってほしいと願ってしまった。
夫が笑って許してくれて、調子に乗ってしまった自分の落ち度だ。いまさら後悔しても遅い。
そんな頼りになる夫には、影が鳥便を至急で出してくれたようだが……早くても屋敷に戻るのは一日かかる。
──そんな長時間、何もしないなんてできない。
涙を拭き顔をあげたちょうどその時、侵入者を尋問した(あの様子だと、尋問で済まなかっただろう)ハヤトとダイスが部屋に入ってきた。
「エマ様~、出せるだけの情報出してきましたよ~。どうします? 部屋変えます~?」
他の従者達を気遣うように、ダイスが言った。
ここにはマリアを筆頭にリリーとの接触が多い信用できる従者しかいない。
ちなみにエディには何も伝えず、可哀そうだが気絶させて厳重体制で警備している(起きていると絶対にリリーのところへ行こうとするだろう。事件に気づかせないためにはと許可したのだ)。
とはいえ、恐らく当事者であるマリアに聞かせるには酷だと思い、部屋を移動しようと提案する為立ち上がると、泣きじゃくっていたマリアに手を取られる。
「エマ様、お願いです。私にもお嬢様のことを教えてくださいませ! 私のせいで怖い目に遭っているのに、何も知らずのうのうとお嬢様のご帰還を待つなんて、私には出来ませんっ‼」
あまりにも真摯で熱い眼差しに早々に負けを認めた私は、話を続けるようダイスに目配せをした。
「……マリア様、リリーお嬢様の誘拐はマリア様のせいじゃないですよ~。九割九分、このハヤトちゃんが自分の力を過信してたからです~。そんなに気負わないでください~」
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