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第十話 人の心、クズ知らず。
23(side翔瑚)
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「ふぅ……」
仕事終わりの木曜日の男こと俺──初瀬翔瑚は、トボトボと駅前のレンガ道を歩きながらため息を吐いた。
それはつい昨日のこと。
一晩が明けても元気ハツラツとはいかないほど、ちょっと、いやかなり落胆する出来事が起こったのだ。
昨日、木曜日は恋人である咲を独占できる、俺にとって一週間のうち最も素晴らしいハレルヤな日である。
だがそれは、入社して三か月となり気が抜けつつあった新入社員がうっかり大きなミスをするまでの話だった。
おかげさまで朝から警備の諸君に受付嬢、課の仲間たちに爽やかな笑顔を振りまいて出勤した俺のハッピーデイは、たったひと言でバッドデイへと変貌。
『す、すみませんリーダー……っ!』
──オーマイガー。
話を聞くと、新人はクライアントに勝手な口頭での約束をした上に、それを直属の先輩である梶にもチームのリーダーである俺にも伝えず今の今まで忘れていたらしい。
うちのチームでは常日頃『本社に確認、判断を仰ぐ時間でロストするくらいならその場で自分の判断、裁量を奮い、ベストだと思った案を推せ』と教えている。
ただそれと同時に『その判断を下した理由、状況、根拠を言語化し、必ず報告をしろ』とも教えている。
二つはセットなのだ。
しかし新人がそれを怠ったために、何度もうちと取り引きしているクライアントが社員の言葉を信じて、例の件についてです~っとガチガチの契約書が送られてきてしまった。
現場はてんやわんやだ。
同時に委託される案件を誰も知らなかったのだから当然である。
手が離せないチームメンバーを除いて営業部内で対応できる人員を急ぎ確保し、企画部をはじめ関係各位に頭を下げて急遽各担当者を決定。
発注書を持って現場に駆け込むと製造部とエンジニアチームの責任者たちは無言で壁を殴ったが、普段あちこちの頼みをニッコリ承知していた俺の頼みということで受け入れてもらえた。日頃の行いバーストストリーム!
奔走している間、クライアントへの連絡は梶に任せておいた。
梶はこういう繊細な人間関係のフォローが飛びぬけて得意なんだ。
課の隔てなく社内の誰とでもサラッと話しているし、多少のミスじゃ気にされないくらい取引先にも可愛がられている。機嫌を損ねることなくうまく事情を説明してくれた。
梶はあの咲とだってゴリゴリ話す猛者だからな……まぁ行動原理は全く理解はできていないらしいが。
俺は、バタつくオフィスで青ざめる新人を、慰めることはしない。
ただ〝どうしてこうなったか〟〝どうすればよかったか〟〝次はどうするか〟は考えさせた。
彼が自己嫌悪で埋もれることなく今回の件を受け止めて猛省しながらも、自分がダメだとか無為な思考停止をしないよう動き続けさせるためだ。
仕事が終わった夜は、温かい飲み物一杯分だけ二人きりで話をした。
アフターフォローはリーダーの仕事だ。新人とは育てるもの。
考えすぎて沈むタイプかどうかはわからない。様子を見ながら話し、最後にはお互い笑ってまた明日と手を振った。
これにて一件落着だろう。
まぁ、仕事は。
自販機の前で腕時計を見たが、案の定日付が変わっていて、昼間のうちに咲にキャンセルの連絡をしていてよかったと思う。
だが、話の最中も……俺は当たり前のように咲のことを思い出していた。
もっとずっと昔。
リーダーと呼ばれる今よりずいぶんミスの多いただの俺だった頃。
『あはっ。なんで自分からやたら複雑にしたがってんの?』
『えっ……?』
『口で言うほど、人間の中身は単純にできてねーでしょーが。たぶん』
せっかく第一志望の会社に入ってもミスするたびにいちいち落ち込んでは隣にいる咲に集中できず、曖昧にごまかしてばかりだった俺を、咲はいつも俺の代わりに笑い飛ばしてくれたこと。
『よかったね。失敗して』
『っ』
失敗して、よかったねと言われるとは思わなかったこと。
そう言ってくれた人も……後にも先にも、咲だけだったこと。
『失敗して血の気が引く感覚。知らない成功者よりビビって慌てて大袈裟に取り立てて、そうやって最悪からすら逃げられることもあるだろうし、結果オーライ?』
『どうせオマエは、泣きながらでも這って進むんだからさ』
取り方によっては、馬鹿にしているようにも取れるセリフ。
だが見方を変えれば、失敗に怯えながらも進むことをやめないだろう? という無意識の信頼だ。
俺は自分に自信が無い。
でも、咲は俺を疑わないから。
この日ミスをした新人に言った言葉の半分は、そういう咲から教わった言葉だったりする。俺は咲でできている。
できているのに──会えるはずの木曜日に、咲と会えなかった。
長くなったがそういうわけで、俺は残業なく帰ることができた金曜日の夕暮れだというのに、肩を丸めてしょぼしょぼと歩いているのである。
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