人の心、クズ知らず。

木樫

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第八話 ショーゴと粉雪。

35(side翔瑚)

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 怒りをぶつけられないジレンマと説明できない激情が混ざり、思わず尋ねると、咲は静かに唇を閉じて、少しだけ目を見開いた。

 どうでもいい相手なら見逃した程度の僅かな表情の変化。

 それを目ざとく見つけて、咲が大真面目にこれが正解だと思っていたと確信した俺は、静かに俯く。

 やっぱり、咲は嘘を吐いたわけじゃあなかったんだ。

 きっと本当に好きだと思ったんだろう。
 俺のことを、本当に。

 咲のそれは、気に入ったペットに「愛してる」と囁いて、キスをして、抱いて、かわいがって、親心とも庇護欲ともつかない滅私奉公を恋と錯覚し、ただ飼い殺しているだけにすぎない。

 独占欲も嫉妬心も抱かずに恋しがることも切望することもないそれを、本物の恋愛感情だと思い込んでいた。

 咲、違うんだよ、それは。

 俺には恋愛感情の真理や境界線、チェックリストなんてわからないけれど。

 恋とは、愛とは、な。

 一人でだって生きていけるのに本能でも煩悩でも思考でも心でも全て使って他人を求める、生物の重大なバグなんだ。

 そんなふうに……きれいなだけじゃ、いられないんだよ。咲。


「……長い、夢だったな……」


 噛み締めた唇と握りこぶしを解く。
 全身から力が抜けて、左手のクリスマスプレゼントが鉛のように重く感じた。

 まるで自分の気持ちのようだ。
 宙ぶらりんで手に余る。置き場にも行き場にも困る浮かれた世界の成れの果て。


「ショーゴ、どした? なんで、怒ってんの? なぁ、ショーゴ」


 そう言う咲の手が、所在なさげに揺れたあと、空へ昇る風船のような無軌道で俺の頬へと伸ばされる。

 それをそっと、手の甲で払った。

 咲は逆らうことなく払われた手を下げたが、珍しく引き下がることなく、俺と目を合わせようと俯く顔を覗き込む。


「なんかダメだった? でも、俺はショーゴの望みをなんでも叶えてるよな。アイシテルからなんでもする。恋人だから世界最優先。俺の都合はどうでもいい。ショーゴのために死ねる。そういう彼氏が理想の男なんじゃねーの? みんながダイスキな、最高のカレシ」


 スラスラとどこかで得た知識を発表するように語りながら覗き込まれた俺は、顔を上げて、視線を逸らした。
 
 咲は知らないのだろう。
 恋人同士というものは、愛情の釣り合いがとれなくなれば、まるでシーソーのように目が合わなくなることを。

 だからこそ──俺と咲の目は、ただの一度も合っていなかったのだ。

 世論の夢見る恋人を演じる咲。
 俺を愛していると思い込んでいる咲。
 自分のコントローラーを相手に預けるだけで、愛を求める心すらない咲。

 気持ちがない関係は、虚しいだけだ。

 顔を逸らして「ロボットの恋人が欲しいわけじゃない」と言うと、咲は俺の頬を冷えきった両手で包み、無理やり目を合わせた。


「怒んないで、ショーゴ。怒んないで」

「う、っ」

「じゃあどんな恋人が欲しいの? 次からちゃんとするから安心しろよ。普通の恋人同士は喧嘩もすんだ。それといっしょ。ね?」


 淡々と、けれど矢継ぎ早に言葉を重ねて許しを乞う咲。
 なにもわかっていないままのくせに。

 薄い笑みを浮かべて首を傾げる美しい男が人形に見えたのは、きっと錯覚だろう。


「……さき……」


 パチ、パチ、と瞬きするたび、俺の頬を熱い雫が伝っていく。


「もし俺が……他の誰かと寝たら? お前を嫌いになって、他の誰かを愛したら……お前はどうするんだ……?」

「どうもしねーよ?」


 答え終わると同時にまぶたにちゅ、とキスを落とされた。

 目じりを擦られ、涙を拭われる。
 濡れた咲の指は冬の夜風に吹かれ、更に温度を失っていく。

 見るからに血の気のない手の持ち主が寒さに凍えていやしないかと心臓が絞られる気持ちを、咲は知りもしないのだろう。

 ──この恋は、未だ片想い。

 ドサッ、とカバンとプレゼントの紙袋がレンガ道の上へ落ちた。

 咲の両手に自分の空いた両手を添えて、ポロポロと泣き続ける。


「咲……」

「うん」

「咲……咲、咲、咲……」

「うん」

「愛してる……俺は咲が好きだ……毎日ふとした時には咲に会いたいと思って、毎日ふとした時には咲のことを考えてしまう……俺は毎日、咲の一番好きな人になりたいと、そういう夢を見ているんだ……」

「うん」

「だから……」

「うん」

「………………俺と、別れて、くれ」


 握りしめた咲の両手を下ろし、手を離した。手のひらに残る感触を惜しむくらいには、離しがたい咲の手。


「いーよ。それがショーゴの願いなら」




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