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5.エルダ
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フロッキースの奥、店舗から続くドアの向こうにはさらに二つの扉と階段があった。
二階には一家と職人がそれぞれ暮らす居室があり、ドアの一つは焼き釜のある工房へ、もう一つは倉庫へと続いているらしく、俺が通されたのは倉庫だった。
倉庫にはパンの材料らしき粉袋が積み上げられていて、部屋の中央には大きめのテーブルが置かれている。俺は三つある椅子の一つに座って、フロッカーさんの淹れてくれた紅茶を飲んでいる。
リックが呼びに行ったエルダという人がこの店のパン職人らしい。
俺は思いの外、落ち着いていた。
ここまで来たならもう慌てても後の祭りである。
職人がどんな屈強な男だろうと、俺はただ自分の思いを伝え、それで殴られたところで逃げ帰るしかないのである。そうして最悪の事態を想定していれば、恐れたところで待ち受けているのは結局自分の蒔いた種を刈り取るだけの作業に思えた。
しばらく待っていると、廊下からリックと誰かの話し声が聞こえてきた。
「……明日の仕込みで忙しいんだが」
「わかってます、仕込みなら明日の分は僕も手伝いますから。とにかく話を聞いてあげてほしいんです」
「そう言うなら坊ちゃん、ちゃんと修行をしてくれないと困りますよ。店を継ぐのはあなたしかいないんだから」
そうリックに答えたのは低く響く声である。どうやらその低い声の主がパン職人のエルダのようだった。
「……お待たせしてすみません。オーナー、何か御用ですか?」
ドアを開けて入ってきたのは——重低音の声にぴったりな、顎髭を生やした、どうみても屈強そうな男だった。
二の腕まで捲り上げた水色のシャツがはち切れそうなほど分厚い胸板を見て、死んだはずの俺の臆病虫は途端に息を吹き返した。
「悪いな。彼がうちのパンについて質問があるらしいんだが、生憎わしでは答えられん」
「質問?」
職人は隠す気もないという様子で眉間に深く皺を寄せた。
案内をしてきたリックはドアのそばに立ち、気の毒そうな顔をしてこちらを見ている。
「あー、レイ君。これがうちの職人のエルダだ、わしに弟子入りしてもう二十年この店でパンを捏ねている。この町、いや、この国で一番のパン職人だ。きみの質問にもきっと答えられるはずだ」
フロッカーさん柔らかい雰囲気のまま言い、職人を俺の正面の席に座るよう促した。
膝の上で握り締めた拳がじっとりと汗をかく。
「……お、おお忙しいところ申し訳ありません……」
「……別に構わないが。質問とはなんだ?」
俺はこの時、前世で就職活動をしていた頃のことを思い出していた。
お世辞にも一流とはいえない私立大学の卒業を控え、周りがやっているからという理由で始めた就職活動はなかなかに厳しいものだった。
ただなんとなく、安定と福利厚生を重視して採用試験を受けていた企業には正直それほど魅力を感じていなかった。それでも数を打てばいくらか成果も出てくれたのは、やはりそれまでの俺の経歴が、会社にとっても「ただなんとなく」可もなく不可もなくと言える水準には達していたせいだろう。
いくつか貰った内定のうち、最初に採用してくれた会社は中規模の食品メーカーだった。メーカーといっても当然研究職ではなく、営業も向いてないと判断されたせいか書面の作成などの事務作業ばかりやらされていた。それでも不満はなかった。業務内容や会社の安定性ではなく、最終面接で人事部長からかけられた言葉が気に入っての入社だったからだ。
『きみは目立った経歴や特技もないそうだけど、悪くないんだよな。悪くない、とにかくそれに尽きる』
困ったように笑って言った人事部長を俺は今でも覚えている。
俺は俺の人生が“悪くない”なら、それでいい。
懐かしいというにはあまりに遠い出来事を思い出し、息を大きく吸った。
「……スープに浸さなくても食べられる、そういうパンは作れませんか?」
二階には一家と職人がそれぞれ暮らす居室があり、ドアの一つは焼き釜のある工房へ、もう一つは倉庫へと続いているらしく、俺が通されたのは倉庫だった。
倉庫にはパンの材料らしき粉袋が積み上げられていて、部屋の中央には大きめのテーブルが置かれている。俺は三つある椅子の一つに座って、フロッカーさんの淹れてくれた紅茶を飲んでいる。
リックが呼びに行ったエルダという人がこの店のパン職人らしい。
俺は思いの外、落ち着いていた。
ここまで来たならもう慌てても後の祭りである。
職人がどんな屈強な男だろうと、俺はただ自分の思いを伝え、それで殴られたところで逃げ帰るしかないのである。そうして最悪の事態を想定していれば、恐れたところで待ち受けているのは結局自分の蒔いた種を刈り取るだけの作業に思えた。
しばらく待っていると、廊下からリックと誰かの話し声が聞こえてきた。
「……明日の仕込みで忙しいんだが」
「わかってます、仕込みなら明日の分は僕も手伝いますから。とにかく話を聞いてあげてほしいんです」
「そう言うなら坊ちゃん、ちゃんと修行をしてくれないと困りますよ。店を継ぐのはあなたしかいないんだから」
そうリックに答えたのは低く響く声である。どうやらその低い声の主がパン職人のエルダのようだった。
「……お待たせしてすみません。オーナー、何か御用ですか?」
ドアを開けて入ってきたのは——重低音の声にぴったりな、顎髭を生やした、どうみても屈強そうな男だった。
二の腕まで捲り上げた水色のシャツがはち切れそうなほど分厚い胸板を見て、死んだはずの俺の臆病虫は途端に息を吹き返した。
「悪いな。彼がうちのパンについて質問があるらしいんだが、生憎わしでは答えられん」
「質問?」
職人は隠す気もないという様子で眉間に深く皺を寄せた。
案内をしてきたリックはドアのそばに立ち、気の毒そうな顔をしてこちらを見ている。
「あー、レイ君。これがうちの職人のエルダだ、わしに弟子入りしてもう二十年この店でパンを捏ねている。この町、いや、この国で一番のパン職人だ。きみの質問にもきっと答えられるはずだ」
フロッカーさん柔らかい雰囲気のまま言い、職人を俺の正面の席に座るよう促した。
膝の上で握り締めた拳がじっとりと汗をかく。
「……お、おお忙しいところ申し訳ありません……」
「……別に構わないが。質問とはなんだ?」
俺はこの時、前世で就職活動をしていた頃のことを思い出していた。
お世辞にも一流とはいえない私立大学の卒業を控え、周りがやっているからという理由で始めた就職活動はなかなかに厳しいものだった。
ただなんとなく、安定と福利厚生を重視して採用試験を受けていた企業には正直それほど魅力を感じていなかった。それでも数を打てばいくらか成果も出てくれたのは、やはりそれまでの俺の経歴が、会社にとっても「ただなんとなく」可もなく不可もなくと言える水準には達していたせいだろう。
いくつか貰った内定のうち、最初に採用してくれた会社は中規模の食品メーカーだった。メーカーといっても当然研究職ではなく、営業も向いてないと判断されたせいか書面の作成などの事務作業ばかりやらされていた。それでも不満はなかった。業務内容や会社の安定性ではなく、最終面接で人事部長からかけられた言葉が気に入っての入社だったからだ。
『きみは目立った経歴や特技もないそうだけど、悪くないんだよな。悪くない、とにかくそれに尽きる』
困ったように笑って言った人事部長を俺は今でも覚えている。
俺は俺の人生が“悪くない”なら、それでいい。
懐かしいというにはあまりに遠い出来事を思い出し、息を大きく吸った。
「……スープに浸さなくても食べられる、そういうパンは作れませんか?」
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