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1.旅立ち
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俺が育った村——アサの村は、山の麓にある畑ばかりの小さな村だった。
物心ついた時から前世の記憶をはっきりと持っていた俺は、以前暮らしていた東京という大都市とこの小さな村の差にげんなりとしていた。
周りにあるのは黒々した土の畑ばかりで、人間よりも家畜の方が多い。歳の近い子どももおらず、老人と口うるさいおかみさん連中ばかりの村で、俺が何より苦しかったのは、食べ物である。
『また野菜のスープ……』
『文句を言わないでさっさと食べな!』
『この固いパン、もっと他に食べ方ないの?』
『うるさいガキだね! パンっていうのはこういうものなんだよ!』
幼少期から何度も繰り返されたマウイばあさんとの会話が頭の中を巡る。
そう、俺がこの世界で何よりも我慢できなかったのは、退屈な村でも魔物の存在でもなく、パンの不味さだった。
忘れられないのである。
この世界に来る前、俺は何よりもパンが好きだった。
パン好きと言っても、高級店にあるような“本格派”のパンではない。
発祥の地で愛されたような古式ゆかしい正統派のパンではなく、俺が好きだったのは、やきそばパンやコロッケパン、たまごサンドにフルーツサンド、ソーセージを挟んだホットドッグにチョコたっぷりのチョココロネ、外はサクサク中はふんわりのメロンパン……そういう、庶民派のパンである。
あの世界はそんな庶民のささやかな楽しみがいつでも満たされる良い世界だった。夜中でもやっている店に入れば、そんなパンがいくらでも売っている。気取った看板のおしゃれなパン屋だって、入ってみれば明太フランスだのあんバターだの食欲全振りの罪深いパンたちが鎮座していた。
さらに好きが高じて、俺は小麦粉をこねて自分でパンを作ることも好きだった。素人とはいえ焼きたてのパンの味は格別で、チーズ入りのクロワッサンやフルーツデニッシュを完成させた時の達成感もまた甘美なものだった。
それが今この世界に来てしまって、パンというものの幅の狭さには驚愕してしまう。
この世界のパンといえば、いわゆるバゲットのような固くて味のしないシンプルなものが主流、というより、それしかないのである。
長かったり丸かったり形は色々あるのだが、味と固さはどれも似たり寄ったりで、しかも固すぎるからいつでもスープに浸して食べる。
どこの家でもそれが主食で、それについて誰も何も思わないからそんな生活が続いているらしい。牛や豚も食べるし野菜だってそれなりに種類があるのに、それで作った惣菜とパンとを合わせてみようとはしないのだった。
こんな世界が許されるわけがない。
俺が記憶を持ってこの世界に転生した理由があるとしたら、きっとこの退屈なパンしかない世界に惣菜パンや菓子パンの美味さを広めるために違いない——そう思ったのが、俺がアサの村を出ようと思ったきっかけである。
ひとまず目標は村から一番近いカンパラという町だ。
カンパラにはパン屋があって、そこに行けばもっと色々なパンを買えるはずだ。何しろカンパラの町は城下町で、少し東に行けば港もあって領土外との交易も盛んらしい。そこのパン屋には何か珍しいパンもあるに違いない。
が、その旅立ちは実は失敗続きだった。
何しろ村の外には魔物がいる。
マウイばあさんに言われた通り、旅立ちを決意して村を出ても魔物に出くわしては逃げ帰り、もう何度も失敗している。
仕方のないことなのだ。
村で手に入る武器を持ったところで扱うための訓練は何もしていない。強そうな剣は重くて持てないし、そもそも買う金もない。魔法なんて村で使えるのは長老のジジイ一人だけで、それも初歩的な回復呪文だけだというから教わったところでどうにもならないだろう。
カンパラの町までは歩いていける距離のはずだが、魔物に一度も出会わずに行くには少し遠過ぎるらしい。
「どうしたもんかな……」
俺は村の入り口で地面にあぐらをかき、首を捻る。
傭兵とは言わないが、例えば同じ方向に行く人がいれば同行させてもらって町を目指せるのだが、そう都合よく物事は……。
「あの、もしかしてレイさんですか?」
「はい?」
思わず返事をしてしまってから振り返ると、そこにいたのは見慣れない若者だった。
「こんにちは。僕はリック、カンパラの町からヤギのミルクを買いに来たんですが、イエールさんから村の近くにいるだろうあなたに声をかけてほしいと頼まれて」
若者はいかにも爽やかに笑い、手に持ったヤギのミルク入りの瓶を少し持ち上げてみせた。
「イエールさんから?」
イエールさんというのは村でヤギを飼っている気の良いご婦人である。口うるさいマウイばあさんにも臆せず俺の世話を焼いてくれる親切な人で、俺がカンパラの町へ行くと話した時には餞にと言って少しの金貨を用立ててくれた。
「カンパラの町に行くんでしょう? 僕もこれから町に戻りますから、よかったら一緒に行きましょう」
若者——リックは村から出られない俺を見兼ねたイエールさんに言われて俺を探してくれていたらしい。
よく見ればその背中には立派な剣を背負っていて、魔物狩りに行く男たちに近いような出立ちをしていた。
「そういうことか! 助かるよ! よろしく頼む!」
俺は勢いよく立ち上がると、リックの手を力強く握った。
物心ついた時から前世の記憶をはっきりと持っていた俺は、以前暮らしていた東京という大都市とこの小さな村の差にげんなりとしていた。
周りにあるのは黒々した土の畑ばかりで、人間よりも家畜の方が多い。歳の近い子どももおらず、老人と口うるさいおかみさん連中ばかりの村で、俺が何より苦しかったのは、食べ物である。
『また野菜のスープ……』
『文句を言わないでさっさと食べな!』
『この固いパン、もっと他に食べ方ないの?』
『うるさいガキだね! パンっていうのはこういうものなんだよ!』
幼少期から何度も繰り返されたマウイばあさんとの会話が頭の中を巡る。
そう、俺がこの世界で何よりも我慢できなかったのは、退屈な村でも魔物の存在でもなく、パンの不味さだった。
忘れられないのである。
この世界に来る前、俺は何よりもパンが好きだった。
パン好きと言っても、高級店にあるような“本格派”のパンではない。
発祥の地で愛されたような古式ゆかしい正統派のパンではなく、俺が好きだったのは、やきそばパンやコロッケパン、たまごサンドにフルーツサンド、ソーセージを挟んだホットドッグにチョコたっぷりのチョココロネ、外はサクサク中はふんわりのメロンパン……そういう、庶民派のパンである。
あの世界はそんな庶民のささやかな楽しみがいつでも満たされる良い世界だった。夜中でもやっている店に入れば、そんなパンがいくらでも売っている。気取った看板のおしゃれなパン屋だって、入ってみれば明太フランスだのあんバターだの食欲全振りの罪深いパンたちが鎮座していた。
さらに好きが高じて、俺は小麦粉をこねて自分でパンを作ることも好きだった。素人とはいえ焼きたてのパンの味は格別で、チーズ入りのクロワッサンやフルーツデニッシュを完成させた時の達成感もまた甘美なものだった。
それが今この世界に来てしまって、パンというものの幅の狭さには驚愕してしまう。
この世界のパンといえば、いわゆるバゲットのような固くて味のしないシンプルなものが主流、というより、それしかないのである。
長かったり丸かったり形は色々あるのだが、味と固さはどれも似たり寄ったりで、しかも固すぎるからいつでもスープに浸して食べる。
どこの家でもそれが主食で、それについて誰も何も思わないからそんな生活が続いているらしい。牛や豚も食べるし野菜だってそれなりに種類があるのに、それで作った惣菜とパンとを合わせてみようとはしないのだった。
こんな世界が許されるわけがない。
俺が記憶を持ってこの世界に転生した理由があるとしたら、きっとこの退屈なパンしかない世界に惣菜パンや菓子パンの美味さを広めるために違いない——そう思ったのが、俺がアサの村を出ようと思ったきっかけである。
ひとまず目標は村から一番近いカンパラという町だ。
カンパラにはパン屋があって、そこに行けばもっと色々なパンを買えるはずだ。何しろカンパラの町は城下町で、少し東に行けば港もあって領土外との交易も盛んらしい。そこのパン屋には何か珍しいパンもあるに違いない。
が、その旅立ちは実は失敗続きだった。
何しろ村の外には魔物がいる。
マウイばあさんに言われた通り、旅立ちを決意して村を出ても魔物に出くわしては逃げ帰り、もう何度も失敗している。
仕方のないことなのだ。
村で手に入る武器を持ったところで扱うための訓練は何もしていない。強そうな剣は重くて持てないし、そもそも買う金もない。魔法なんて村で使えるのは長老のジジイ一人だけで、それも初歩的な回復呪文だけだというから教わったところでどうにもならないだろう。
カンパラの町までは歩いていける距離のはずだが、魔物に一度も出会わずに行くには少し遠過ぎるらしい。
「どうしたもんかな……」
俺は村の入り口で地面にあぐらをかき、首を捻る。
傭兵とは言わないが、例えば同じ方向に行く人がいれば同行させてもらって町を目指せるのだが、そう都合よく物事は……。
「あの、もしかしてレイさんですか?」
「はい?」
思わず返事をしてしまってから振り返ると、そこにいたのは見慣れない若者だった。
「こんにちは。僕はリック、カンパラの町からヤギのミルクを買いに来たんですが、イエールさんから村の近くにいるだろうあなたに声をかけてほしいと頼まれて」
若者はいかにも爽やかに笑い、手に持ったヤギのミルク入りの瓶を少し持ち上げてみせた。
「イエールさんから?」
イエールさんというのは村でヤギを飼っている気の良いご婦人である。口うるさいマウイばあさんにも臆せず俺の世話を焼いてくれる親切な人で、俺がカンパラの町へ行くと話した時には餞にと言って少しの金貨を用立ててくれた。
「カンパラの町に行くんでしょう? 僕もこれから町に戻りますから、よかったら一緒に行きましょう」
若者——リックは村から出られない俺を見兼ねたイエールさんに言われて俺を探してくれていたらしい。
よく見ればその背中には立派な剣を背負っていて、魔物狩りに行く男たちに近いような出立ちをしていた。
「そういうことか! 助かるよ! よろしく頼む!」
俺は勢いよく立ち上がると、リックの手を力強く握った。
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