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序章・この素晴らしくも狂った世界へ
第9話
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「おぉ、いらっしゃい。今日も世界の運命を左右するような重要な任務かね?それとも単なるパン強奪作戦かのぅ?」
パン屋に来た私を出迎えてくれたのはヨボヨボのおじいちゃんエルフだった。
その姿は、完璧な世界にポツンと置かれた、愛おしいほどの不完全さである。
「こんにちは。今日もパンを買いにきましたよ。世界の命運を握るパンではないですけど。まあ、私の朝食の運命は左右しますけどね」
「それはそれは、いつも贔屓にしてくれてありがたいのぅ。えーっと……」
「エルミアです」
「あぁ、エルミア……そうじゃったそうじゃった。昨日も来たような……いや、それとも100年前だったかな?」
このお爺ちゃんはかなりのご高齢らしく、頻繁に訪れる私の事をあまり覚えていないようだ。
普通ならば顔を顰めるところだが、私にはそれが心地よかった。
エルフの中で唯一私を「普通の客」として扱ってくれる存在。
素晴らしいではないか。このパン屋さんで働きたいくらいだ。
「おや、小さな子も一緒かね……可愛らしい人質かな?それとも新しい王位継承者?」
おじいちゃんエルフは私に抱かれている女の子を見てそう言った。
私は思わず噴き出しそうになるのを抑えながら腕の中の女の子を見る。
「ええ、ちょっと縁があったのもので。人質でも王位継承者でもありませんよ。ただの迷子です。それとも、私の秘密の娘だと思います?」
「そうかいそうかい。人質じゃないならいいことじゃ。王位継承者でないのもいいね。秘密の娘?ああ、そうかもしれんな。皆秘密の子供を持っているものだからねぇ」
おじいちゃんエルフはそう言ってほっほっと笑うと、女の子に向かって言った。
「女の子の名前はエルミアじゃったか?お母さんの言う事をよく聞くんじゃよ……」
「いえ、エルミアは私です。この子は私の秘密の娘……じゃなくて、さっき出会った子です」
「おや、そうじゃったか。いやはや歳を取ると記憶が曖昧でのぅ。すまんなシャルロット……」
「私はエルミアです。シャルロットではありません」
「おや、そうだったかな?まあいい、若い子は皆同じじゃ。さて、どんなパンがいいかね?」
会話を程よく切り上げて、店の中のパンを見る。
そこにはぷっくりと焼き上げられた美味しそうなパンがずらりと並んでいた。
まるで小さな美食の楽園だ。いや、むしろ「禁断の楽園」と言うべきか。
だって、これだけパンを食べたら、エルフの完璧なスタイルも台無しになりそうだ。
(いい匂い……これぞパンの匂い……!)
私は胸いっぱいにパンの芳ばしい香りを吸い込む。鼻腔を擽るその香りは、思わずよだれが溢れそうになる程であった。
私はパンが好きだ。というかエルフは皆パンが好きらしい。
私たちの主食はお米ではなくパンなのだ。完璧な歯並びも、このパンを食べるためにあるのかもしれない。
「ポンポコーヌ、いつものでいいかのぅ?それとも今日は世界平和のためのスペシャルパンかね?」
「いえ、いつものというのは私は存じ上げないので、自分で選びます。それと、私はポンポコーヌではありません。エルミアです。タヌキでもありません」
ポンポコーヌって誰やねん。タヌキかなんかか?
そんな名前の奴がいるわけがないだろ……。
エルフの国にタヌキがいたら、完璧な生態系が崩れちゃうわ。
騎士たちは店内を警戒するように見回している。まるでパンが突然剣に変わるとでも思っているのか。
「あの、騎士さんたち。ここでは剣じゃなくて、パンを選ぶのよ。それとも、メロンパンとクロワッサンのどちらが攻撃力が高いか判断するつもり?個人的には、固くなったバゲットの方が武器としては優秀だと思うけど」
騎士たちは一瞬凍りついたかのように動きを止めた。そして、突然我に返ったように慌てふためいた。
「はっ。も、申し訳ございません!おい、パンを選ぶ振りをするぞ!姫様に気づかれないように、自然に振る舞え!」
一人の騎士が小声で命令を出す。
他の騎士たちは頷き、急に不自然な動きでパンを手に取り始めた。まるで初めてパンを見た宇宙人のようだ。
「これは……攻撃力5の焼きそばパンか?」
「いや、それは防御力が高そうだ。盾の代わりになるかもしれん」
「このクリームパン、毒見が必要だな。姫様に万が一のことがあっては……」
そんな彼らの様子を見て私は溜息を吐きながらも、私は女の子を床に下ろしてから店の中を歩き回った。女の子は私に付いて来る……可愛いね。
後ろでは騎士たちが「姫様の好みのパンを徹底調査せよ」と真剣に議論を始めている……コイツらはあんまり可愛くないな。
「ここのクロワッサン美味いんだよな、俺も二つくらい買っておくか。姫様の護衛には最高のエネルギー源だ」
「いや、待て。もしかしたらクロワッサンの形状は武器として使えるかもしれない。角が鋭いだろう?」
騎士達もワイワイとパンを選び始めた。こいつらさっき小さい子に剣向けた事忘れてないか?
……まあ、パンの前では皆平等になるのかもしれない。それかパンの香りで脳みそがリセットされたかのどっちかだ。
「では私はこれにしましょうか」
私が選んだのは、香ばしい香りのするクルミパンであった。アズルウッドのクルミは絶品で、私のお気に入りなのだ。
「おぉ、今日は沢山売れるのう。鎧がパンを食べるとは知らなかった、今度は鎧の口に合うパンも開発せねばならんな」
そして私(と騎士達、そして彼らの熱い議論)は会計を済ませる。
まるで小さなパン屋で王国会議でも行われたかのような賑やかさだ。いや、王国会議よりもずっと賑やかかもしれない。
「また来てくだされ、エルミア様。次は世界平和のためのパンでも焼いておきますぞ……」
おじいちゃんエルフにそう言われて私は微笑む。
この人、さっきから世界平和とか大きすぎるテーマばかり口にするなぁ。
「はい、また来ますね。その時は『普通のパン』をお願いします。世界を救うパンじゃなくて、私のお腹を満たすパンで十分です。世界平和は私のお腹の平和から始まるということで」
おじいちゃんは首をかしげた。
「普通のパンかね?そんなものあったかな……」
私は思わず笑ってしまった。このおじいちゃん、本当に面白い。
そして私は再び女の子を抱いて、帰路へと着いたのであった。
騎士たちは私の後ろをついてくる。彼らの鎧がガチャガチャと音を立てる。
パン屋から逃げ出した鉄の食パンの群れみたいで無粋である……。
その時である。
一人の女性エルフが、血相を変えてこちらに走ってくるのが見えた。その女性は、私を見つけると叫ぶように声を上げた。
「姫様、申し訳ございません!私の娘が御身に迷惑をおかけしてし……!」
あぁ、彼女は女の子のお母さんか。
私は内心でため息をついた。せっかくの「普通の時間」が終わってしまう。
「いいえ、何も迷惑なんてかかっていませんよ。むしろ、楽しい時間を過ごせました」
女性エルフは私の前に跪こうとしたが、私は慌てて止めた。
「地面は冷たいですから跪くのはやめてね。それに、娘さんが心配しますよ」
女性は困惑した表情を浮かべた。騎士たちは、まるで新たな敵が現れたかのように警戒態勢に入っている。
「でも、姫様に触れてしまったなんて……」
「触れただけで何か問題でも?私はただのエルフですよ。毒を持っているわけでも、触れたら呪いがかかるわけでもありません」
「でも、姫様……私たちのような下賤の者が……」
「下賤だなんて、そんな言葉使わないで。それに、あなたのお嬢さんのおかげで、私はとても楽しい時間を過ごせたの。感謝しているくらいよ」
私は女の子にウインクをした。
「ねえ、お母さんに言ってあげて。私たちがどんなに楽しい時間を過ごしたか。それと、世界一普通なパンを買ってきたことも」
女の子は嬉しそうに母親を見上げた。
「お母さん、姫様はとっても優しいの!それに、面白いんだよ。パンが武器になるとか……」
母親は困惑しつつも、少しずつ緊張が解けていくのが見えた。
あぁ、良かった。
そんな私達のやり取りを見ていた騎士達が言う。
「流石は姫様です……その寛大な心、まるで伝説の聖人のようです……!姫様の慈悲に感動して鎧の中が涙でびしょびしょです!」
いやそういうのマジでいいから。いいから……。鎧の中が湿気るぞ。
私が辟易していると、騎士の一人が母親に向かって言った。
「エルミア姫様が寛大だから良かったものの、他のエルフの貴族の方々にこのような無礼を働いたらどうなるか分かっているであろう?そなたらの命程度、朝露よりも儚く消え去ることになるのだぞ」
ん?どういう事だ?他の貴族は私みたいにしないのか?
……まさか子供がぶつかったくらいで、切り捨て御免になんかしないよね?
そんなの中世の暴君じゃないか。いや、暴君ですらここまでしないだろう。
──ノーブルエルフ。
エルフの上位存在にして支配者階級。普通のエルフと高貴なハイエルフの間に挟まれた、エルフ社会のミドルクラス。
彼等もまた普通のエルフとは一線を画した存在で、エルフに対して強力な命令権を持っているらしい。
エルフ版の封建領主とでも言おうか。
ハイエルフの血が若干だが混じっているノーブルエルフはハイエルフに仕える従者でもある。
ハイエルフはこの国に数える程しかいないものの、ノーブルともなるとそれなりにはいるようだ。
まぁ、人口の95%以上は普通のエルフだけども……。
つまり、この国の階級制度は、ピラミッドというより、てっぺんがやたら小さな三角錐といった感じか。
私がそんな事を思っていると、母親は顔を真っ青にし、再び平身低頭した。まるで、地面に顔をこすりつけようとしているかのようだ。
「申し訳ございません!私はどうなっても構いません……!どうか娘をお許しください!」
私は思わずため息をついた。
せっかくの雰囲気がぶち壊しではないか。
「この鎧を着てるエルフたちの話は聞かなくていいですよ。パンを武器だと思い込んでるちょっとヤバい連中ですから。彼らの言うことを真に受けたら、この国はとっくにパン戦争で滅んでるはずよ」
騎士たちが抗議の声を上げようとしたが、私は手を挙げて制した。
「私はあなたたちを罰したりしません。楽しい時間を過ごせて感謝してるくらいです。この子と遊べて、私の方が得をしたくらいよ」
母親は困惑した表情を浮かべている。
恐らく、彼女の頭の中では「姫様」と「普通の会話」という概念が衝突して、ショートしかけているのだろう。
「しかし、姫様!」
「はい、はい、姫様姫様。私にだって名前はあるのよ。エルミアって言うの。初めて知った?それとも、姫様という名前で生まれたと思ってた?」
私の言葉を聞き、皆が口をパクパクさせている。
まるで、突然エルフ語を忘れてしまったかのようだ。
「ね、お母さん」
女の子が母親の袖を引っ張った。
「エルミア姫様、本当に面白いんだよ。パン屋さんでね、おじいちゃんと一緒に……」
女の子は楽しそうに話し始めた。その様子を見ていると、私は思わず笑みがこぼれた。
騎士たちは私に何か言いたげな様子だったが、まるで口に蓋でもされたかのように黙っている。
彼らの顔には「姫様の尊厳が!」という文字が踊っているようだ。
そのうちに母親は落ち着いたのか、女の子の手を握ると私に向かって頭を下げた。
「姫様。本日は大変申し訳ございませんでした。娘の無礼をお許しください」
そう言い、母親は女の子の手を引き、何度も頭を下げて去って行く。
女の子は私に向かって手を振った。その笑顔には、さっきまでの楽しい時間の名残が見える。
「ばいばい姫様ー!また会えたら遊んでね!」
「ほ、ほら!ポンポコーヌ、行くよ!」
親子は私にペコペコと何度も頭を下げながら、去って行った。
女の子の背を見ながら、私は深いため息をついた。
エルフ社会の常識は、頑固な鎧のように簡単には外れないらしい。
騎士たちも、女の子の母親も。
だけど、子供は無邪気に私の言葉を聞いてくれる。
それだけが救いである。
「さて、私たちも帰りましょう。早く食べないとパンが硬くなっちゃうし。硬くなったら、貴方たちの武器として支給することになるかも」
騎士たちは困惑した表情を浮かべながら互いに顔を見合わせている。
きっと彼らの頭の中では、パンを使った新しい戦術が真剣に検討されているに違いない。
私たちは王宮への道を歩き始めた。
遠くに見える世界樹に夕焼けが映え、その枝葉が赤く染まっている。
その幻想的な光景を見ながら、私は思った。
ポンポコーヌ、普通にいたわ……。
パン屋に来た私を出迎えてくれたのはヨボヨボのおじいちゃんエルフだった。
その姿は、完璧な世界にポツンと置かれた、愛おしいほどの不完全さである。
「こんにちは。今日もパンを買いにきましたよ。世界の命運を握るパンではないですけど。まあ、私の朝食の運命は左右しますけどね」
「それはそれは、いつも贔屓にしてくれてありがたいのぅ。えーっと……」
「エルミアです」
「あぁ、エルミア……そうじゃったそうじゃった。昨日も来たような……いや、それとも100年前だったかな?」
このお爺ちゃんはかなりのご高齢らしく、頻繁に訪れる私の事をあまり覚えていないようだ。
普通ならば顔を顰めるところだが、私にはそれが心地よかった。
エルフの中で唯一私を「普通の客」として扱ってくれる存在。
素晴らしいではないか。このパン屋さんで働きたいくらいだ。
「おや、小さな子も一緒かね……可愛らしい人質かな?それとも新しい王位継承者?」
おじいちゃんエルフは私に抱かれている女の子を見てそう言った。
私は思わず噴き出しそうになるのを抑えながら腕の中の女の子を見る。
「ええ、ちょっと縁があったのもので。人質でも王位継承者でもありませんよ。ただの迷子です。それとも、私の秘密の娘だと思います?」
「そうかいそうかい。人質じゃないならいいことじゃ。王位継承者でないのもいいね。秘密の娘?ああ、そうかもしれんな。皆秘密の子供を持っているものだからねぇ」
おじいちゃんエルフはそう言ってほっほっと笑うと、女の子に向かって言った。
「女の子の名前はエルミアじゃったか?お母さんの言う事をよく聞くんじゃよ……」
「いえ、エルミアは私です。この子は私の秘密の娘……じゃなくて、さっき出会った子です」
「おや、そうじゃったか。いやはや歳を取ると記憶が曖昧でのぅ。すまんなシャルロット……」
「私はエルミアです。シャルロットではありません」
「おや、そうだったかな?まあいい、若い子は皆同じじゃ。さて、どんなパンがいいかね?」
会話を程よく切り上げて、店の中のパンを見る。
そこにはぷっくりと焼き上げられた美味しそうなパンがずらりと並んでいた。
まるで小さな美食の楽園だ。いや、むしろ「禁断の楽園」と言うべきか。
だって、これだけパンを食べたら、エルフの完璧なスタイルも台無しになりそうだ。
(いい匂い……これぞパンの匂い……!)
私は胸いっぱいにパンの芳ばしい香りを吸い込む。鼻腔を擽るその香りは、思わずよだれが溢れそうになる程であった。
私はパンが好きだ。というかエルフは皆パンが好きらしい。
私たちの主食はお米ではなくパンなのだ。完璧な歯並びも、このパンを食べるためにあるのかもしれない。
「ポンポコーヌ、いつものでいいかのぅ?それとも今日は世界平和のためのスペシャルパンかね?」
「いえ、いつものというのは私は存じ上げないので、自分で選びます。それと、私はポンポコーヌではありません。エルミアです。タヌキでもありません」
ポンポコーヌって誰やねん。タヌキかなんかか?
そんな名前の奴がいるわけがないだろ……。
エルフの国にタヌキがいたら、完璧な生態系が崩れちゃうわ。
騎士たちは店内を警戒するように見回している。まるでパンが突然剣に変わるとでも思っているのか。
「あの、騎士さんたち。ここでは剣じゃなくて、パンを選ぶのよ。それとも、メロンパンとクロワッサンのどちらが攻撃力が高いか判断するつもり?個人的には、固くなったバゲットの方が武器としては優秀だと思うけど」
騎士たちは一瞬凍りついたかのように動きを止めた。そして、突然我に返ったように慌てふためいた。
「はっ。も、申し訳ございません!おい、パンを選ぶ振りをするぞ!姫様に気づかれないように、自然に振る舞え!」
一人の騎士が小声で命令を出す。
他の騎士たちは頷き、急に不自然な動きでパンを手に取り始めた。まるで初めてパンを見た宇宙人のようだ。
「これは……攻撃力5の焼きそばパンか?」
「いや、それは防御力が高そうだ。盾の代わりになるかもしれん」
「このクリームパン、毒見が必要だな。姫様に万が一のことがあっては……」
そんな彼らの様子を見て私は溜息を吐きながらも、私は女の子を床に下ろしてから店の中を歩き回った。女の子は私に付いて来る……可愛いね。
後ろでは騎士たちが「姫様の好みのパンを徹底調査せよ」と真剣に議論を始めている……コイツらはあんまり可愛くないな。
「ここのクロワッサン美味いんだよな、俺も二つくらい買っておくか。姫様の護衛には最高のエネルギー源だ」
「いや、待て。もしかしたらクロワッサンの形状は武器として使えるかもしれない。角が鋭いだろう?」
騎士達もワイワイとパンを選び始めた。こいつらさっき小さい子に剣向けた事忘れてないか?
……まあ、パンの前では皆平等になるのかもしれない。それかパンの香りで脳みそがリセットされたかのどっちかだ。
「では私はこれにしましょうか」
私が選んだのは、香ばしい香りのするクルミパンであった。アズルウッドのクルミは絶品で、私のお気に入りなのだ。
「おぉ、今日は沢山売れるのう。鎧がパンを食べるとは知らなかった、今度は鎧の口に合うパンも開発せねばならんな」
そして私(と騎士達、そして彼らの熱い議論)は会計を済ませる。
まるで小さなパン屋で王国会議でも行われたかのような賑やかさだ。いや、王国会議よりもずっと賑やかかもしれない。
「また来てくだされ、エルミア様。次は世界平和のためのパンでも焼いておきますぞ……」
おじいちゃんエルフにそう言われて私は微笑む。
この人、さっきから世界平和とか大きすぎるテーマばかり口にするなぁ。
「はい、また来ますね。その時は『普通のパン』をお願いします。世界を救うパンじゃなくて、私のお腹を満たすパンで十分です。世界平和は私のお腹の平和から始まるということで」
おじいちゃんは首をかしげた。
「普通のパンかね?そんなものあったかな……」
私は思わず笑ってしまった。このおじいちゃん、本当に面白い。
そして私は再び女の子を抱いて、帰路へと着いたのであった。
騎士たちは私の後ろをついてくる。彼らの鎧がガチャガチャと音を立てる。
パン屋から逃げ出した鉄の食パンの群れみたいで無粋である……。
その時である。
一人の女性エルフが、血相を変えてこちらに走ってくるのが見えた。その女性は、私を見つけると叫ぶように声を上げた。
「姫様、申し訳ございません!私の娘が御身に迷惑をおかけしてし……!」
あぁ、彼女は女の子のお母さんか。
私は内心でため息をついた。せっかくの「普通の時間」が終わってしまう。
「いいえ、何も迷惑なんてかかっていませんよ。むしろ、楽しい時間を過ごせました」
女性エルフは私の前に跪こうとしたが、私は慌てて止めた。
「地面は冷たいですから跪くのはやめてね。それに、娘さんが心配しますよ」
女性は困惑した表情を浮かべた。騎士たちは、まるで新たな敵が現れたかのように警戒態勢に入っている。
「でも、姫様に触れてしまったなんて……」
「触れただけで何か問題でも?私はただのエルフですよ。毒を持っているわけでも、触れたら呪いがかかるわけでもありません」
「でも、姫様……私たちのような下賤の者が……」
「下賤だなんて、そんな言葉使わないで。それに、あなたのお嬢さんのおかげで、私はとても楽しい時間を過ごせたの。感謝しているくらいよ」
私は女の子にウインクをした。
「ねえ、お母さんに言ってあげて。私たちがどんなに楽しい時間を過ごしたか。それと、世界一普通なパンを買ってきたことも」
女の子は嬉しそうに母親を見上げた。
「お母さん、姫様はとっても優しいの!それに、面白いんだよ。パンが武器になるとか……」
母親は困惑しつつも、少しずつ緊張が解けていくのが見えた。
あぁ、良かった。
そんな私達のやり取りを見ていた騎士達が言う。
「流石は姫様です……その寛大な心、まるで伝説の聖人のようです……!姫様の慈悲に感動して鎧の中が涙でびしょびしょです!」
いやそういうのマジでいいから。いいから……。鎧の中が湿気るぞ。
私が辟易していると、騎士の一人が母親に向かって言った。
「エルミア姫様が寛大だから良かったものの、他のエルフの貴族の方々にこのような無礼を働いたらどうなるか分かっているであろう?そなたらの命程度、朝露よりも儚く消え去ることになるのだぞ」
ん?どういう事だ?他の貴族は私みたいにしないのか?
……まさか子供がぶつかったくらいで、切り捨て御免になんかしないよね?
そんなの中世の暴君じゃないか。いや、暴君ですらここまでしないだろう。
──ノーブルエルフ。
エルフの上位存在にして支配者階級。普通のエルフと高貴なハイエルフの間に挟まれた、エルフ社会のミドルクラス。
彼等もまた普通のエルフとは一線を画した存在で、エルフに対して強力な命令権を持っているらしい。
エルフ版の封建領主とでも言おうか。
ハイエルフの血が若干だが混じっているノーブルエルフはハイエルフに仕える従者でもある。
ハイエルフはこの国に数える程しかいないものの、ノーブルともなるとそれなりにはいるようだ。
まぁ、人口の95%以上は普通のエルフだけども……。
つまり、この国の階級制度は、ピラミッドというより、てっぺんがやたら小さな三角錐といった感じか。
私がそんな事を思っていると、母親は顔を真っ青にし、再び平身低頭した。まるで、地面に顔をこすりつけようとしているかのようだ。
「申し訳ございません!私はどうなっても構いません……!どうか娘をお許しください!」
私は思わずため息をついた。
せっかくの雰囲気がぶち壊しではないか。
「この鎧を着てるエルフたちの話は聞かなくていいですよ。パンを武器だと思い込んでるちょっとヤバい連中ですから。彼らの言うことを真に受けたら、この国はとっくにパン戦争で滅んでるはずよ」
騎士たちが抗議の声を上げようとしたが、私は手を挙げて制した。
「私はあなたたちを罰したりしません。楽しい時間を過ごせて感謝してるくらいです。この子と遊べて、私の方が得をしたくらいよ」
母親は困惑した表情を浮かべている。
恐らく、彼女の頭の中では「姫様」と「普通の会話」という概念が衝突して、ショートしかけているのだろう。
「しかし、姫様!」
「はい、はい、姫様姫様。私にだって名前はあるのよ。エルミアって言うの。初めて知った?それとも、姫様という名前で生まれたと思ってた?」
私の言葉を聞き、皆が口をパクパクさせている。
まるで、突然エルフ語を忘れてしまったかのようだ。
「ね、お母さん」
女の子が母親の袖を引っ張った。
「エルミア姫様、本当に面白いんだよ。パン屋さんでね、おじいちゃんと一緒に……」
女の子は楽しそうに話し始めた。その様子を見ていると、私は思わず笑みがこぼれた。
騎士たちは私に何か言いたげな様子だったが、まるで口に蓋でもされたかのように黙っている。
彼らの顔には「姫様の尊厳が!」という文字が踊っているようだ。
そのうちに母親は落ち着いたのか、女の子の手を握ると私に向かって頭を下げた。
「姫様。本日は大変申し訳ございませんでした。娘の無礼をお許しください」
そう言い、母親は女の子の手を引き、何度も頭を下げて去って行く。
女の子は私に向かって手を振った。その笑顔には、さっきまでの楽しい時間の名残が見える。
「ばいばい姫様ー!また会えたら遊んでね!」
「ほ、ほら!ポンポコーヌ、行くよ!」
親子は私にペコペコと何度も頭を下げながら、去って行った。
女の子の背を見ながら、私は深いため息をついた。
エルフ社会の常識は、頑固な鎧のように簡単には外れないらしい。
騎士たちも、女の子の母親も。
だけど、子供は無邪気に私の言葉を聞いてくれる。
それだけが救いである。
「さて、私たちも帰りましょう。早く食べないとパンが硬くなっちゃうし。硬くなったら、貴方たちの武器として支給することになるかも」
騎士たちは困惑した表情を浮かべながら互いに顔を見合わせている。
きっと彼らの頭の中では、パンを使った新しい戦術が真剣に検討されているに違いない。
私たちは王宮への道を歩き始めた。
遠くに見える世界樹に夕焼けが映え、その枝葉が赤く染まっている。
その幻想的な光景を見ながら、私は思った。
ポンポコーヌ、普通にいたわ……。
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