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あとがき …果てしなく長かった旅路の末に…。

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 この小説のモチーフ「恋愛版スタンド・バイ・ミー」という構想を思いついたのは、1997年頃の事でした。作中にもあるとおり、当時の女子高生たちはミニスカートとルーズソックスを身につけていました(今リバイバルでまた流行しているようですね)。そして他でもないこの僕もまた、レッドウィングのエンジニア・ブーツにブーツカットのジーンズという出立ちで、渋谷の街を闊歩しておりました。
 このモチーフを思いついた後、二年かけて七回書き直し、とある賞に送ったものの見事に落選してしまった事もまた、当時の情景と共に今となってはほろ苦くも微笑ましい思い出の一つとなってこの胸の中で燦然と輝いています。
 当時の「恋愛版スタンド・バイ・ミー」は、今にして思えば、とても小説と呼べるような代物ではありませんでした。にも関わらずそんな物を賞に投稿したのは、ひとえに若さ故の過ちでしかありません。
 …なぜ「思い出スイッチ」が入ったのか、何ら説明もないのに突然物語の語り手である主人公の回想が始まり、いつかまたこの二人は再開するであろうと読者に想像させるようなラスト、…少なくとも作者である僕自身は、読者はきっとそう想像してくれるだろうと思って締めくくったラスト。…が、今にして思えば、あんな書き方で何かが人に伝わろうはずもないし、あれほど一人よがりな書き方もないだろうと思うほどの、それはそれは恥ずかしい出来栄えでした。「よくもこんな独り言と一人称を一緒くたに考えて書いたような物を小説だと思い込んでいられたよな」、と、穴があったら入りたいくらいです(今にして思えば、そう言われるのはむしろ逆に当然の代物だったのにも関わらず、「まるで村上春樹のようだ」と言われてひどく憤慨したなどという事もありました)。

 それから十数年後、気づけば僕は若さと情熱を完全に失くしてしまっていました。それが七年ほど前、どうしたわけか突如書きたいという気持ちが再びムクムクと芽生えてきたのでした。そして、やはり若い頃に構想したはいいものの、ついぞ納得いくレベルにまで仕上げる事のできなかったネタに再び取りかかろうと決意!
 …するとどうでしょう、若い頃あんなに苦労していたのがまるで嘘のように、サクッと書き上がってしまったのでした。これが拙著「忘れ花火」の誕生秘話です。またこの小説を書く事で、「人に伝わるような書き方をするという事がどういう事なのか」が、自分の中でようやくカチッと見えてきたのでした。
 それは、しかし「忘れ花火」だけではどうしても満足できず、「せめてあともう一つぐらい、誰がなんと言おうとも少なくとも自分では名作だと思える小説をどうにかして捻り出したい」と考え、悶々としていたある日の事でした、…ふと、思いついたのです。「今の自分の持てうる全ての知識と力を注ぎ込んで、例の『恋愛版スタンド・バイ・ミー』をリメイクしてみよう」、と。
 まず初めに、かつての「小説もどき」の最大の弱点であった、「なぜ、物語の語り手である主人公の思い出スイッチが入ったのか」、この点を読者に理解してもらうため、中学時代に交際していた彼女に婚約者ができたとの報告を受けたという設定を考案しました。そしてその反作用として、主人公とヒロインは、きっといつかどこかで奇跡的な再会を果たすのであろうというなんともご都合主義的かつおセンチなオチはボツとなりました。と同時に、「今カノとともに元カノの結婚式に参加するため、飛行機に乗ってさあロスへ行こうというところで締めくくる」という、現実的にはまず間違いなくあり得ないであろうオチを思いついたのです。また主人公をボーカルからギタリストへと変更し、その主人公が弾いているギターはヒロインの兄の形見で、後半の火事のドサクサで返そうにも返せないまま別れているという設定を考案しました。2004年のクリスティーズのオークションにて、クラプトンの愛器・ブラッキーが一億円で落札されたという史実を冒頭部分に書き、お金という非常に分かりやすいマテリアルで読者にインパクトを与えるというアイデアも、当時の僕ならタイムリープでもしない限り絶対に考え得る事のできないもので、原作者としても非常に気に入っているポイントの一つでもあります。
 また当時の「小説もどき」を読んでくださった人の中に、実はこのようなたいへん有用なご指摘をして下さった方がいたのでした。
「このヒロインの"好き"っていう気持ちが、行間から強く伝わってくるんだよ。それなのに別れ方が妙にあっさりとし過ぎている事が不自然に思えて仕方がないんだ。この子が外国へ行くと言うのならまだ分かるんだけど…」
 せっかくこんなに貴重な指摘をして頂いたのにも関わらず、当時の僕はやはり若さ故の過ちから、半ばそれを無視するような形で、「『小説もどき』はこれで完成だ!」と自惚れてしまっていたのです。
 リメイクするにあたり、僕は、「外国へ行くと言うのならまだ分かるんだけど」というアドバイスを再検証しました。そして、結論したのです。
「ああそうか! だったら外国へ行かしちまえばいいんだ! 葉山なら横須賀も近いし、ハーフという設定もちっとも苦しくない!」
 若い時より今の方が思考に柔軟性があるだなんて、これまたなんという皮肉なのでしょう。それとも人の意見を聞かずに突っ走ってしまうというのも、これまた若さ故の過ちなのでしょうか。
 また「小説もどき」の時は父親から乱暴されそうになったヒロインが、たまたま帰ってきた母親に助けてもらったという筋書きだったのですが、自分に襲いかかろうとする父親に刃物で反撃し、恐らくは殺してしまったから外国へ逃げたのだという事にすればより悲劇性が高まる事に気づいてこの点も大幅に変更しました。体育館に、実はヒロインの父親がいたとも知らずに、「とてもいい人だったと聞いています」と主人公が発言し油を注いでしまったという設定も、「外国へ行かせる」と言うアイデアとほぼ同時に思いつきました。
 主人公の父親が痴漢だと疑われたというエピソードは、ネットで読んだ話をそのまま利用させて頂きました(都内で実際にあのような不幸な出来事があったそうです)、ただし主人公が次の日学校で二次災害に遭ったというのは作者の創作です。
「クラスで孤立しているコスモと交流するという、一見デメリットしかないような行為を主人公があえて選んだのはなぜなのか、その動機を読者に理解させる必要がある、さて、この問題をどうやってブレイクスルーしよう」
 …この問題は、源平合戦に敗れた平家の落ち武者伝説が残る、栃木県は湯西川の温泉旅館の屋上の露天風呂で、同棲している温泉好きのツレと共に寒空の元で入浴しながら考案しました。そして、「痴漢→冤罪→二次災害→引越し」という一連のエピソードを考案した事によって完成の目処が立ったと確信した僕は、家に帰るなりさっそく執筆に取りかかったのでした。…更にファーストキスのシーンでは源家に縁のある森戸神社を登場させるという我ながら憎い演出もまた、今の僕でなければ思いつく事など恐らくは絶対にあり得なかったであろうネタであります。

 コスモにはモデルになった人物がいます。しかしこの小説はごく一部分に作者の実体験が入ってはいるものの、そのほとんどはフィクションです。僕は本編の主人公のように、本当の意味での勇気なんてこれっぽっちも持ち合わせてはいませんし、また優等生でもありませんでした。優しくもなければ真面目でもありませんし、ましてやこんなにモテた事なんてもっともっとありませんでした(だからといって、"やっぱりそうだったか、こんな小説きっとモテないヤツの妄想に決まってるって最初っから分かってたんだ!"とかなんとか言わないでくださいね。そんなのは鳥山明に向かって"アンタは孫悟空のように強くない"と言うのと同じでナンセンスです。それにこれでも一応は、小学生の時に三年連続で匿名の女の子からバレンタイン・チョコをポストに投函して貰ったなんて事もあったんですから。そのチョコにはいかにも女の子らしい小さな丸い文字でこう書いてありました、"ないしょだけど好きです"、と)。更に正直に言うなら、むしろ逆に僕の方が、コスモのように救いを必要としていたぐらいなのです。
 …そう、コスモのモデルは、何を隠そうこの僕自身なのです。
 僕の母親は重度のアルコール依存症でした。また話に伝え聞く限り、おそらくは母の母、つまり僕の祖母もアルコール依存症のようでした(祖母は僕が生まれるよりも前に死んだそうです。したがって本当にアルコール依存症だったのかについては確かめようがないのですが、そうに違いないと確信しています)。
 また、父の父、つまり僕の祖父は話に伝え聞く限りおそらくはうつ病だったのではないかと思ってもいます。なぜならそうとしか思えないような話を父から嫌というほど聞かされ続けて育ったからです。
「いいか、お父さんのお父さん、つまりお前のおじいちゃんはだな、毎日毎日、仕事に行くフリをして近くの神社で昼寝をするようなヤツだったんだ。でもまわりの奴らはみんなそれを見ていて知っていたんだ。事実お父さんは毎日のようにこう聞かされていたんだ。"お前の家の親父、どこそこの神社で昼寝していたぞ"ってな。そんな親父が死んだ時、お父さんは葬式の席で誓ったんだ、こんな父親にだけはなってたまるかって! それからお父さんは必死になって仕事をし続けてきたんだ。お前はそんなお父さんに比べたらはるかに幸せなんだぞ(自分で言うな!)。ところがどうだお前ときたら! せっかくこんなにいい家庭を作ってやっているのに(だから自分で言うな!)、学校をサボるわバイトもサボるわ、まるであのクソ親父と瓜二つだ!(お前がそう育てたんだ!)」
 仕事をしない(正確にはしたくてもできない)祖父のせいで、父はそれはそれは貧しく惨めな少年時代を送ったようでした。そして、それが理由で父は仕事依存症、兼、買い物依存症になってしまったのです。父は、本人も常々主張していたように、確かに仕事は真面目にやっていました。しかしそれ以外の部分については決して褒められた人物ではなかったのです。事実、
「父さんは、子どもより、車やオーディオや腕時計の方が大事なんですか?」
 と思いたくなるような言動の数々に、僕の心は幼い頃から、何度も何度も、そして何度も、それはそれは著しく傷つけられてきたのです。
 例えばこのような事がありました。僕の父は毎週仕事が休みになるたび、主に洋画のビデオをレンタルしてきては、それをダビングしてコレクションするという事を趣味にしていました。その頃宮崎勤の「連続幼女誘拐殺人事件」があった事もあり、大量のコレクションをそろえている家に住む僕は一部のクラスメイト達から「オタク」と言われてそれはそれは屈辱的な思いを味わわされていたのです(もしも僕がオタクなら、バイクが好きな人はみんな暴走族だと思うのですけど)。誰の物か分からないエロビデオが発掘されると、いつも決まって「これはアイツの物だ」と決めつけられ、「それは違う」と反論すると、「嘘をつけ!」と殴られる、という事もしばしばでした。しかし父は常にこう主張していたのでした。
「親には子どもの事なんてなんだって分かるんだ」
 もしこの言葉が本当なら、僕がイジメに遭っていると知っていてあえてコレクションしていたという事になります。なお、父がそれをやめたのは、僕が決死の思いで、
「ビデオのせいでオタクって言われてるんだよ!」
 と訴えてからでした。これでどうして、やれ、
「親には子どもの事なんてなんだって分かる」だの、
「こんなにいい家庭を作ってやっているのに」だのと言えるというのでしょう。
 また、僕には高校へ上がってすぐの頃、身に覚えのない嫌疑をかけられ同級生の不良グループからナイフで左腕を刺されて大怪我をした事がありました。そしてそれが理由でもう二度とギターの弾けない身体になってしまったのです。その事にしても、もし父がもっともっと僕に親として当然取るであろう働きかけをしてきてくれていたなら、事前に回避できていた可能性は十分すぎるほどあり得たのでした。ところが父はどうしたわけか、この事に限った話ではなく、僕が本当に助けて欲しいと望んでいる時に限って何もしてくれないという事を幾度となく行い続けてきたのです。
 …一体これでどうして心を病まずにいられると言うのでしょう?
 恐らくはもう、肺ガンで死んでいるであろう父が、もし目の前にいるのなら一言こう言ってやりたいと僕は常々思っているのです。
「まるであのクソ親父と瓜二つ? 違うな、親父、アンタがオレをそう育てたんだ」、と。
 また母にしても、常に酒を飲んで酔っ払って冷静さを失くしていたが故に、望んでもいない私立中学への進学を勝手に望んでいると思い込んで受験勉強を強要してきた事がありました。
 それはとある私立中学から僕宛てのDMがやって来たのがきっかけでした。それを見た僕は、
「へえ、プラネタリウムがあるんだ、いいな」と呟いたところ、この言葉の一体どこをどう解釈したらそうなるのか(それが酒の恐ろしさなのです)、
「まあ、アンタやっとやる気になったのね。さあ、今すぐに受験勉強を始めましょう。鉄は熱いうちに打てだ!」
 と言って熱くもなんともない僕を勉強机へと押し込んだのです。生まれつき決してコミニケーションスキルが高くはなかった僕は、
「違うよ、プラネタリウムがあるからいいなと言っただけだ」
 とは言い出せず、結果、酔っ払いの母からやる気などまるでないのに勝手に受験戦争へのレールに乗せられてしまったのでした。そんな風にして強要された勉強が身につくはずもなく、国語はともかく、僕は算数でたちまち躓いてしまいました。するとその事に苛立った母から更に心ない事を言われ、僕は更に傷つけられたのです。
 ある日、決死の覚悟で、「もう止めたい」と進言しました。すると、頼んでもいないのに勝手に買ってきた過去問集や願書を持ち出し、
「ああ、お金がもったいない」と言って僕を罵り、人格を否定するような事を言い始めたのでした、それも、それはそれは酒臭い息を吐きながら…。
 …子どもへの投資をもったいないと思うのなら、そもそも最初から親になんかならなけりゃいいのに…。
 …そもそもそれ以前に、親が子どもに「勉強しろ」と言うのは、子どもの未来が心配だからではなく、自分の老後が心配だからなのは様子を見てりゃ明白なのに…。
 国語のテストで99点を取った時、その採れなかった1点の事で説教しながら僕の頭を酒瓶で小突いた母親が、今ではもう、どこにいるのかさえ分からない、そして知ろうという気にすらならない母親が、もし目の前にいるのなら一言こう言ってやりたいと僕は常々思っているのです。
「そういうアンタは母親として0点だったよな」、と。

 幼い頃から父や母の心ない言動の数々で著しく傷つけられてきた僕の心がいよいよ崩壊し始めたのは、まさにナイフで左腕を刺された頃からでした。いつ、どこで誰が、自分に危害を加えてくるか分かったものではないと怖くなってしまい、もう誰も信じられなくなってしまったのです。これではうつ病にならない方がどうかしています。しかし父は、僕を「病人」として認知してはくれませんでした。
 …なお、いつかこの当時の一連の出来事を材料にした小説を、太宰治の「人間失格」とヘルマン・ヘッセの「車輪の下」を足して二で割ったようなタッチで描けたらな、と、常日頃から毎日のように構想を重ねている事を今ここで付け加えさせて頂こうかと思います。タイトルは、『スケープゴート』にしようと思っています。

 この父と母のエピソードは非常に重要な示唆を含んでいます。本編にも書いてあるとおり、虐待は世代間で連鎖する可能性が非常に高い事を、僕の両親は残酷なまでに見事に証明してしまっているのです。
「子どもを愛さない親はいない」なんて、親が自身を美化する事によって生まれた単なる理想論です、現実には、「子どもを愛せていない親」、…もう少しだけ正確に言うなら、「歪んだ形でしか子どもを愛せない親」は残念ながら実在しているのです。それが真実なのだと考えると、両親が僕に対して行ってきた様々な非道の理由にも辻褄が合って見えてくるのですから、それが現実なのだと受け入れるより他仕方がないのです。

 前述したとおり、僕には一度小説の執筆を諦めたという過去があります。
 それから再び筆を取るまでの間に、様々な出来事がありました。
 気づけば家族との縁は完全に切れてしまい、「親孝行 したい親など オレに無し」と開き直るより他ないぐらい、正真正銘の天涯孤独の身分になっていました(まことに幸いな事に、おかげさまで現在では、こんな僕なんかと共に暮らしてくれる事を選んでくれた相手がいます。そのおかげで正真正銘の天涯孤独の身からは辛うじて解放されました)。
 また、気づけば一時の気の迷いで入信してしまった、「他の宗教はみんな間違っている、正しいのは自分たちの宗教だけだ」と主張するカルト教団から抜け出し人生を心から楽しめるようにもなっていました。
 また、気づけばうつ病からも回復し、やりがいのある仕事を見つけて大いに働く事ができるようにもなっていました(今の僕を見て、昔うつ病で苦しんでいたと思う人は恐らく一人もいないでしょう)。
 また、気づけば酒もタバコも必要としない自由で清潔な暮らしを謳歌できるようにもなっていました。
 …喫煙者だった父親が、「肺ガンになって生活保護を受けている」との通知を受けたのは、そんなある日の事でした。その時僕は心からこう思いました。
「ざまあみろ!」
 役所にはもちろん、父を援助する気など一切ないとの旨をはっきりと伝えました。また父の住むアパートにも以下のような手紙を書いて送りつけました。
「オレがうつ病で苦しんで心療内科へ通っていた時、アンタはオレを助けてはくれなかった、むしろ逆に更に追い詰めた。"励ましたり叱ったりしてはいけません"、医者からそう聞かされていなかったはずがないんだ。にも関わらずお前は、二言目には"俺の親父にソックリだ!"と言ってオレの事をそれはそれは厳しく叱り続けた。その度ごとにオレの心はさらにさらに蝕まれていった。オレがますます就学する事も働く事も困難になるという悪循環に陥っていったのはそれが理由だったんだ。でもその事をお前は決して認めようとはしなかった。むしろ逆にオレの事をひたすら言葉のサンドバッグにしては自分の父親に対するモヤモヤをぶつけ続けた、しかもその行為を、"お前のためを思ってあえて厳しく説教してやっているんだ"という口実で正当化してオレから逃げ道を奪った上でそうしていたんだ、つまりお前には俺を病人として扱おうという気は全くなかったという事だ、だからオレもお前を病人扱いはしない。死ね! 命乞いをするな! 甘ったれたヒューマニズムは認めない!」
 こんな僕の事を、「なんて親不孝な人間だ」と決めつけるのは筋違いです。なぜなら父は、「自分はきちんと仕事をしているのだからいい父親だ」と主張するばかりで、ご自身の姿を見つめ直そうとしなかったからこそこうなったのですから、僕に言わせればただの自業自得です。それに、「親には子どもの事などなんでも分かる」と常々主張しておきながら、その実あの二人は僕の事を何も理解していなかったのです、…という事はあの二人は僕の本当の親ではない、という事になるわけです。なぜ、自分の親でもなんでもない人を見捨てる事が「親不孝」になるというのでしょう。むろんこの言い分が屁理屈以外の何物でもない事ぐらい言われなくても分かっています。しかし何も分かってはいなかったくせに「子どもの事など何でも分かる」と主張し続けた以上、その報いを受けるのはむしろ当然なのではないのでしょうか?

「人間は親になって初めて一人前」といった風潮がありますが、僕はそれを必ずしも正しい事だとは思っていません。むしろ逆に僕の父や母のように、本来なら親になるべきではない人間が親になってしまっているという現実がままあるのは、そういった風潮のせいではないかとすら考えていて、その事に僕は非常に強い懸念を感じているのです。「人間は親になって一人前」だなんて間違っています。むしろ逆に「必ず親にならなければならない」という発想の方がおかしいとさえ思うのです。もちろん、親にならないという人生を選択する人が増えれば、それだけ少子高齢化が加速する事ぐらい僕だって分かっています。しかしもし、「必ず親にならなければならない」という風潮の方がおかしいのであれば、少子高齢化やそれに伴う人口減少はむしろ逆に正常な反応だという見方もまた成り立つのではないのでしょうか? 少子高齢化によって生まれるであろう問題は、それはそれで問題です。しかし同時に、親としての適性のない人が、その事に無自覚なまま親になるという事もまた、少子高齢化と同じかそれ以上に重大かつ非常に危険な問題でもあるのです。親子の問題が今まであまりにも蔑ろにされ続けてきた事が、家庭心理学の発達で白日の元に晒されてしまった以上、軽々しく「少子高齢化はただ単純に出生率を増やせば解決する」と結論するのはあまりにも短絡すぎるとも言えましょう。
 また、今の僕のように、「オレも昔は酒やタバコをやってたけど、今はもうやっていないよ」と言う人が今後もっと増えるであろう事はもう、もはや日の目を見るより明らかであるとも言えましょう。そして何より、これからの時代を担うまだ酒やタバコの害を知らない若い人たちに対して、「それを知らない清潔な体のままで一生を終えて欲しい」、老婆心ながら僕は心からそう思ってもいるのです。この小説が広く世に知られる事で、社会がそのように変貌していったなら、原作者としてこれ以上の喜びはありません。

 この「あの日の二人はもう居ない」が完成するまでの旅路は、とても長い物となってしまいました。
 しかし後悔はしていません。むしろついにやり遂げたという達成感で胸がいっぱいになっています。そして何より、遠回りしたからこそ得られた輝きがこの小説にはあると僕は強く信じているのです。
 なおこの小説には、その後のコスモと歌祈との女同士の友情を描いた往復書簡体の小説、「遠い海から来たエア・メール」、そしてその更に後を描いた「真夏の風の中で」という後日譚があります。
 本作「あの日の二人はもう居ない」と、後日譚「真夏の風の中で」は、二つともに別の小説投稿サイトの予選を通過させて頂いています。しかも後日譚「真夏の風の中で」が、何を隠そう実は「安倍元総理大臣銃撃事件」以降、何かと注目されている「宗教二世問題」を重要なテーマとして扱っているがために、現在更なる加筆・修正を行ってアップデートを図っているところであります。前日譚・後日譚共々、読んで頂けたら作者としてこれ以上の幸せはありません。

 世の中が少しでも良くなると信じて…。

   如月トニー
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