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第六章『スワンプマンの号哭』
十八
しおりを挟むデモ隊の代表的な面子を連れて帰城すると、門の前で小競り合いをしていた残りの部隊、および第四陣の騎士たちが呆然としてハーレィ一行を出迎えた。
「ハーレィ……ハーレィだ! みんな! こっちにハーレィがいるぞー!」
「様、もしくは王妃をつけなさい、このクズ。下手に出てれば朝から晩までこんなとこで文句言うために居座って、良い歳こいた大人が乱痴気騒ぎなんて恥ずかしい。子供が見たらなんて言うかしらね」
「立派なデモ行為だ! お前たちの悪政を追求しているんだ!」
「何が立派よ、笑わせないで。聖書片手に、返答も無視して聞き分けのないガキみたいにがなりたてることしかしてないじゃない。そんなに私が怖いのかしら」
「そんなふうに他人を見下してるから、国民のことが目に入ってないんだ!」
「インポ野郎が、鏡をご覧なさい。自分のしていることも見えないマヌケが映っているわよ。あなたに育てられる子供がかわいそうだわ。いっそ全て城で預かることにしようかしら。私が直々に育てるの。本気で検討したくなってきたわ、そのパタスモンキーにも劣るざこざこしいお顔を見ていたら! おーーーっほっほっほっ!」
一人でデモ隊一人一人と舌戦を繰り広げるハーレィを前にアーロンは唖然とする。
「……す、すげぇ、カー……ハーレィ王妃。よくもあんな次から次へと舌が回りますねー」
「王妃様、絶好調だな」
「なんか楽しそうですらありますね……」
その場に残っていたのは主力を欠いたいわゆる残党である。普段から人の勝ち馬に乗って声を合わせることしかできない背景同化人の連中には所詮、主だって王妃にその得物を突きつける勇気すらない。
それを解ったうえでのこのあしらい。口舌だったら例え相手が何百人だろうとハーレィにとっては恐るるに足らず。
それでも中には口より先に手が出る原始人レベルの人間も混ざっている。
それが隙をついて手をあげようとしたのだが、そうした物理的悪意に目を光らせているのが守護役の務め。オーエンの前にやはり、あえなく阻止されるのだった。
デモ隊の連中にすらどこか遠巻きにされながら、その跳ねっ返りは押しても引いてもびくともしない腕を離そうとしてうめいた。
「く……くそっ、離せっ!」
「アーロン、ハーシェル」
「はっ!」
原始人と交わす言葉を持たない、とでも言うようにオーエンは取り合わず、跳ねっ返りを後ろの二人に引き渡し、その身柄はたちまちすでに捕まっている他のデモ隊に加わった。
オーエンの立ち回りに他の面々も気圧されたところで、ハーレィが短くため息をつくと、
「……とにかく今日のところは日が暮れるわ。捜索はまた明日」
「待って! 私の娘が……」
デモ隊の中から別の母親が食い下がってきた。
「私の娘はどこに行ったんですか。いつ帰ってくるんですか?」
「安心なさい。おそらく無事よ。あなたが思ってるよりもずっとね」
「——え? そ、それはほ、ほんとうですか!」
「大体ね、これだけ探して死体が一つもあがっていないのがおかしいとは思わないの? まったく、その頭の中に何が入っているか見てみたいものね。跳ねてみなさいよ、からから音がしそう」
「え……え……」
「……とにかく、吸血鬼女王だって人並みに疲労は感じるのだから、家に帰って食事して、夜は休ませるくらいさせてちょうだい」
改めてそう締めくくり、騎士たちを連れてその間を進むのだった。
しかし、一行の仕事はそれこそ城に帰ってからが本番のようなものだった。
本日二度目。門を潜った一行をさっそく待ち侘びていたかのように一人の騎士と召使が出迎えた。エミリアとカールだ。
「王妃様……」
「どうだった?」
しかし二人の面持ちは暗い。
ハーレィが要点を省きつつもその声色に優しさを滲ませて尋ねると、二人はハーレィに耳打ちした。
「……そう。わかった。辛いでしょうけど、皆、広間に集まるように言ってくれる?」
「かしこまりました」
「カール」
「はっ!」
「言わなくても解ってるとは思うけど……」
「はっ! このカール・クライスヘッジ。男にかけて紳士的に務めてみせます」
「その通りよ。ありがとう」
そうして二人は昼間と同じように玉座の間の向こう側へと進んでいき、ハーレィは背後に付き添う騎士たちに指示する。
「ハーシェルは装備の点検に行って」
「はっ!」
「アーロン、オーエンは私と……直接対決にいくわよ。監視を含めてね」
「はい、王妃様」
城には規模にもよるが王族貴族を始め、お付きの次女、城に雇われた召使、給仕に騎士団合わせてざっと百人~多くて二百人程度の人間が同居している。一家族が住む家というよりは、集合住宅のような感覚である。
その上、それぞれが普段の生活で使うエリアは非常に限られていて、王妃なら召使や給仕の居住域に降りていくことはまずないし、また付き人でもなければ下層階級の人間が王族の暮らす上階にあがることもなかった。
こうなると行動時間や仕事でもかぶらない限りは同じ空間で生活していても互いに面識すらないことも多くなる。
突然それなりの数の知らない顔を見ることになったとしても特別な違和感など持たない。もし気にかけるものがいたとしても、同じ衣装をして、さらに先代なりのお墨付きがあれば、よっぽどのことでもないかぎり疑う者はないだろう。
例え、平民や野盗が紛れ込んでいても。
ハーレィは会食などに使う大広間に入ると、まずその無駄に長いテーブルに並ぶ面々を見た。
義父にあたる先代王が上座、そして傍らにその奥方が座り、向かいにハーレィの息子、娘と並んで座っている。
数メートルほどに渡る長いテーブルだが、そうして使われているのは端っこだけだった。馬鹿らしい。
息子の目がぎろりとハーレィを見返している。最近では妹と共に先代と懇意にしているのだった……そして、ハーレィは相手にせず、まず先代を見据えて切り出した。
「城から出るまでもなかった……ということね、お義父様」
そこで控える近衛の制止を押し切り、テーブルの奥まで進みながら、食事中の先代王に迫った。
「まったく。私も頭が錆びついていたわ。地元の城のことなら何でも覚えていたものだけど、他所の、それもやる気もしないところではまるでどうでもよかったもの」
先代王は粛々とテーブルクロスで口元を拭うと、目つきを細めてハーレィを流し見た。
「無礼無礼と思っていたが……食事中である。何の話だ」
「今、攫われた娘たちが顔をそろえてここにやってくる。謝るなら今のうちなのだけど、あなたの答えは反省の色は皆無。……それでいい?」
「……きさ」
「あなたの目的は二つ。私の権威を貶めることと、それから自分の権威を取り戻すこと」
ごめんなさい以外の言葉は取り合わない。そう突き付けるようにハーレィはすらすらと語り出した。
「したがって、娘を攫わせるにしても見てないところで何をしでかすか判らない下手人の監視下に置いておくわけにはいかないし、私を処刑したあとのアフターケアもほしかった。それで、私が処刑されたあとで、私の居住域から攫われた娘が見つかったことにするつもりだったのでしょ。そのとき一人か二人くらい殺しておけば、私が吸血鬼ゆえの食事のために攫ったという解釈に自然と箔がつき、かつあなたは娘を悪しき吸血鬼の女王の魔の手から救い出し、見つけ出したヒーローになる。この城は広いわ、互いに面識なんてないのが当たり前のようなものだし。紛れ込ませて隠すにしても、自分たちに仕える近衛騎士や新人侍女ということにしておけば、そう難しいことじゃない。でも残念。この策はね、バレてしまったら言い逃れができない諸刃なのよ。なぜって、証人も証拠もこの城の中にごまんと残すことになるのだもの。権威で揉み消せると思ったあなたの負け」
「…………」
そこまで言ったところでタイミングよく、まずハーシェルが入ってきた。
「我々の騎士の装備に異常はありませんでした。残るは先代の近衛騎士だけであります」
「こいつらが下手人ね。大方敗残兵やそうして野盗に落ちぶれた元騎士を金か作戦後の名誉で釣ったのでしょうけど……」
それから少ししてカールが、召使の名簿とリーダーを含めた十二人の若い召使を連れて入ってくる。
「王妃様! 攫われた娘たちです! 皆で問い詰めたら本名やその他、洗いざらい答えてくれました。それからこれが名簿です」
ハーレィはカールから名簿を受け取ると、そこにある署名と捺印を確認して後ろに連れ立つ若き召使たちを眺める。
「ご苦労。それで……」
「彼女が……」
カールがさりげない仕草で、二人の召使を示しながら、ハーレィに耳打ちしたときだ。
オーエンはとっさに判断が遅れた——というのもそれが、他ならない王妃の息子だったから。
刹那の隙。マルクがテーブルの傍らに立つハーレィにもたれかかるようにかぶさっていた。ずんぐりとした手には晩御飯を食べるのに使用していたテーブルナイフが握りしめられている。その間から、赤い鮮血が滴った。
ぽたり。
マルクが、手にしていたテーブルナイフでハーレィの腹を突き刺していた。
「王妃っ——!」
間もなくオーエン、ハーシェル、アーロン、カールの怒号が大広間に響き渡ったが、渦中のハーレィは額に脂汗を浮かべながら、首を振った。
手を挙げて、三人を制した。
マルクは積年の恨みを晴らすように言った。
「それで、俺たちを訴追して、自分だけ例の侍女やこいつらと幸せになるおつもりですか、ママ様……」
「マルク……」
「そんなの俺が許さない……自分だけ幸せになろうなんてっ——!」
ハーレィはうすく笑うと、
「惜しい……惜しいわ、マルク」
その握りしめられた手を上から被せるようにしながら押さえて言った。
「ママ様を殺すなら……腹ではなく首を斬り落としなさい……あなたも鬼退治の話なら聞いたことがあったでしょうに」
「今からそうしてやるよっ!」
「遅いんだ、それでは!」
今度こそオーエンが介入した。彼が鞘をつけたままの直剣を斬り上げてマルクの手を打ち払うと、すぐにハーシェルが対応して取り押さえる。
応じて動こうとした近衛騎士の首には、アーロンの短剣が突きつけられていた。
「……指先一本、動かせば斬ります」
「な……」
「伊達に王妃の身辺任されちゃないんすわ」
マルク王子は這いつくばり、後ろ手に腕を押さえられながらも激昂して言った。
「くそ……くそっ! 離せよっ! 無礼だぞ! 俺は第一王子……」
「いえ、あなたももう犯罪者でございます」
ハーレィのナイフを素早く抜き、肩を貸しながらオーエンはマルクを見下してカールの口から伝え聴いていたことをそのまま告げた。
「あろうことか、王子……! あなたというお方は……召使に暴行されましたな」
「……っ!」
「……兄様」
妹のドルチェが悲痛な顔で両の手を結び合わせた。
誰もがもう静観していた。先代王ですらこれは寝耳に水だったようで、テーブルの端に手をついて目を瞑ると力無く天を仰いだ。
オーエンは冷酷に続ける。
「あなたはもう彼女の親からすれば、あなたにとってのハーレィ王妃様と同じ……いやそれ以上の不倶戴天の敵……悪魔だ! それだけじゃない。騎士に扮して各地の農家を巡り、哀れな家畜を虐殺したのもあなたなのでしょう。騎士団は確かに警戒を強めて早朝から出張っていましたが、それだけに各村々に駐屯して警備網など敷いてる人的余裕はありませんでした。そもそも次どこで犯行が行われるかもわからないのに、そんな愚策には賭けられません。それなのに村人たちは口を揃えて、騎士の格好をした警備が毎日のようにうろついていたと証言しております。元々の計画では、家畜すらあのように殺すつもりなどなかったのではありませんか? それがいざ帰ってきたら余計に血だらけのあなたを見て、先代は大いに焦り、そこで急遽村娘の誘拐という安全策に切り替えたのです。ハーレィ王妃は先代の目的が自分たちの名誉を回復させるためと仰られました。が、もう一つ……特に誘拐事件に絡んでは、あなたの名誉こそ守ろうとしたように見えて仕方がない。もしもあなた方のシナリオのまま進んでいたら、大衆の不満の受け皿としてハーレィ王妃は死に、口無し、親たちも結局娘らが五体満足で戻ってきたのなら問題を感じにくく、王妃たった一人の犠牲で先代は全ての望みを得られたはずだ。その謀略に関してはさすが先代を務めた王と言える恥じない作劇でした。しかし……マルク王子、あなたは……」
オーエンが侮蔑の感情を隠さずに見据えると、マルクはうつ伏せに寝かされたまま吐露した。
「そうだよ……ちょうどいい憂さ晴らしが俺には必要だったんだ! だがそれもこれも全てママ様と、あのロランとかっていう騎士……そうだ、あいつのせいだ! あいつがきてから、ママ様もおかしくなった!」
ドルチェがさめざめと泣き出し、先代の奥方に頭を抱えられ、その他の面々も唖然とする中、マルクの言い訳は続いた。
「パパ様だって、そりゃ嫌だろう! あんな元彼みたいのが出てきて、ママ様は人が変わったみたいに落ち込んで……勝手じゃないか! ママ様は! ママ様がいけないんだ! 全部……全部! お前ら、親が悪いっ!」
オーエンはため息を漏らした。そうして無言のうちにマルクを連れて行かせようとしたとき、ハーレィが言った。
「そうね。元はと言えば、私のせい……」
「王妃……! その言い分はもう……」
「黙りなさい、オーエン。子の不手際はいつだって元を辿ればね、親の責任なのよ。卵が先なわけがない。この子は私という鶏がいなければこうして産まれ、その生死に苦しむことすらなかった……親になったらね、その事実からだけは、どんなことがあっても絶対に逃げてはいけないの」
「王妃……」
「けどね、マルク——」
ハーレィはうつ伏せる息子マルクの前に屈むと、さながら気取る男娼のような手つきで顎を持ち上げ——全霊をこめてその頬を引っ叩いた。
「……っ!」
「不幸自慢に不遇に卑下。大いに結構。好きなだけ呪い、憎み、嘆けばいい。でもね、そんなクズ野郎に真理を極めし者から一つ良いことを教えてあげるわ」
言いながら、首をより力強く引き寄せるように掴んで——、
「この世に特別な人間なんて一人だっていないんだよっ! その足りない頭で解るか? あぁ?! ……どんな可哀想な過去を持っていたって、どんな苦労を経て這い上がってきたからって、どんな偉業を成し遂げたからってな……! その事実がお前を特別にするわけじゃあない! その不幸の分、苦労の分、その先の人生が楽になるわけでも! 選民していいわけでも、周囲に災いをもたらしていい免罪符になるわけでもないんだっ!」
魂からの絶叫のようだった。
オーエンすら見たことがない乱暴な振る舞いは、それがハーレィの心からの姿であることの証左。呆然として見守る周囲の人々と同じくして、マルクは初めて見る母の姿に瞠目し、狼狽えた。
ハーレィは続ける。
「罪は罪! 罰は罰! それはお前がどんな地位のどんな階級のどんな不幸と不遇を背負ってきた人間だろうと、何一つとして関係がない! わからないだろうな。立場や地位や環境や着飾った金品、持ってる調度品、衣装の数、部下の数、そうした上っ面の数字でしか人を計ることのできないバカなお前には……勘違いするバカが絶えんから、皆にも言っておく!」
強く息子の顎を掴み、相対しながら、ハーレィは、
「それでも……それでも賞賛され、特別視される者がいるとしたら、それは二種類だ」
尚も、一文字一文字を綴るように、喉をしぼるようにして、続けた。
時間はもうなかった。
己の寿命が解るものには解るように、ハーレィにもそれが解る。
残り何秒、何分だろうと、その最後の瞬間まで。
自分の言葉を伝え続けること。
それに殉じると決めていた。
時を隔てた著者たちがそうして私に言葉を遺してくれたように——。
後のことはきっと、私の信頼する部下たちが処理してくれる——それを信じ、自分は言葉を遺す——それが、彼らの信頼に対する私の最後の応え。
「このからっぽのバカみたいに身なりや地位といった外見で認められるか、行動で認められる者かだ」
「……王妃?」
オーエンだけが異変を感じ取っていた。
ただ先代やマルク王子の身柄を捕縛し、その罪状を論うにはあまりにその姿は……そう、まるで命を燃やし尽くすかのようで……。
気付けば息荒く、ハーレィは肩を揺らしている。
「心に刻め。前者はことごとくマガイモノだ。贋作だ。その頭にあるのは所詮手前の変わらない安息のことだけで、他の誰が何をどうしたって救いようがない……!」
オーエンは刮目した。ハーレィはそして、振り返ると——オーエンを見て、なにかを託すように、微笑むのだった。
「後者を見極め、そしてついていけ。そうすればその人は……その人の元で育まれたコミュニティはきっと——あなたを不幸にはしない」
オーエンの目元で何かが弾けた。
ハーレィは言い切ると、とたん苦しげに身を屈めた。
「ハーレィっ——!」
オーエンが叫び、腕を伸ばしきるよりも早く、その場に丸まり崩れ落ちたハーレィのお腹のあたりから赤い魔力が瞬間的に溢れ出し、眩い光とともに周囲を呑み込んでいった。
血液のようなハーレィの身体から流れ出る禍々しいオーラは、次第に彼女を取り巻く球体に変じて、宙に浮かびあがった。
そして呆然と皆が見守る中、突如ハリセンボンのように無数の針を伸ばし、四方八方に飛び出した。
警戒して距離を置いていたハーシェルやマルクはともかく、その一瞬のうちに近くにいた先代王、先代の近衛騎士が串刺しにされていた。
先代は額を貫かれている。即死だった。
近衛騎士は剣山のように伸びた触手で身体中を穴だらけにされながらもまだ生きていた。もがき、息苦しそうに兜を剥いで、まるでこの城に似つかわしくない浅黒く傷だらけの素顔を晒した。敗残兵だ。
皆、唖然として、その二人が球体に取り込まれるのを眺める中、とっさに身体の動くものたちがいた。
ハーレィの騎士たちだ。
彼らは直剣を抜いて触手に斬りかかると、何本かを落とすことに成功した。
しかし、まるで球体に影響は見られない。
オーエンの耳にはやっと悲鳴をあげだした先代王の奥方、身を寄せながら逃げ惑うドルチェ、それから入り口付近の召使たちの声が遠く聞こえた。
あの中にハーレィ王妃がいる……。
(絶対に……)
頭に浮かべるのも嫌で、書き換えた。
「(絶対に、救い出してみせるっ!)王妃っ!」
そう思って直剣を構えなおした矢先、球体はシャボン玉を弾くように割れた。
中から肌、髪、とにかく全身の色彩が人間とは一線を画した女が現れた。
瞳孔は蛇のように縦に切れ、虹彩は金色。肌はフジバカマのような薄い藍。髪は艶やかな桃色に映え、背中には紫の羽根、耳の少し上から羊のような角が軽い渦を巻きながら天に伸びるその姿は、まさに童話や伝説に謳われるサキュバスを彷彿とさせる——しかし、その一方で……。
オーエンは苦汁に顔を歪めた。
「王妃っ……」
一方で、その見目麗しき顔はハーレィそのままだった。
吸血鬼として完全に覚醒したハーレィは、まったく血の通わない冷酷な眼差しでオーエンを見据えると、腕をあげ、指を伸ばした。
「……!」
長い指がそうしてぴんと伸ばされたとたん、彼女の周りに胎盤のように残る血液の膜が、再び鋭く針のように伸びた。
オーエンはとっさに直剣で弾き、その一撃を凌ぐと、距離を取って刮目する。
あのハーレィの全身を取り巻く胎盤は水の性質を持っているかのように動き、そして自在に操れるようだった。
間もなくオーエンの背後で悲鳴があがった。
また一人、先代近衛の騎士が捕まっていた。
今度はまさしく植物のツルのように近衛騎士の全身に巻き付いて、その身体はハーレィの方へと、軽々と引き摺られていく。
「やめろっ!」
一気呵成とともにオーエンがその伸ばされた触手を斬り込んだときだ。
ぴっ——と音にもならない音がして、気がつくと、オーエンの眼前に別の触手があった。
針のように細く鋭く研ぎ澄まされたそれは、ハーレィが指先で動かし、しかしオーエンの眼前で完全に制止している……。
間隙。先に捕まった近衛騎士が悲鳴をあげながら宙を舞った。
オーエンが仰ぎ見るうち、その騎士はハーレィの傍に引き寄せられ、次の瞬間がぶりと、頭からかじられていた。
「…………」
突然始まった王妃との死闘に、誰もが絶句していた。
というのも、あの触手。あれがいつでもうねうねと動いて、その上、いつ、何に反応するかもわからない。下手に動けばその瞬間、自分が狙われるのではないか? という危機的想像は難くなく、皆『だるまさんがころんだ』をしているみたいに身動きが取れないのだった。
一方でハーレィは自由だった。
近衛騎士を触手で引き寄せ、警戒して周囲を見ながらも口元を血まみれにして頭からかぶりつくその仕草は……あまりにも壮麗で……そして残酷だった。
「王妃っ……」
ほんの数分前まであれほど凛々しかった人が、今ではその面影一つ残さず、まるで理性のない野生の獣……。
その光景はオーエンの脳裏に焼きつき、痛ましい傷を負わせた。
「……オーエン!」
ハーシェルが同じく直剣を構えながら呼びかける。
しかし、言われなくてもオーエンは解っていた。
先ほどの手心。それが全てを物語っている。
まだ……まだあの人の心はかすかに残っている。
オーエンは目元を拭うこともしなかった。
そして直剣を捨てると——からんっと金属音が広間に響いた——ただそのままに進んだ。
ハーレィの動きが止まる。
誰かがオーエンを呼ぶ。
しかし、これは他の誰でもない。
オーエンに授けられた約束だったから。
「……ええ。解っています」
オーエンは話しかけた。
「あなたはいつもそうだ。始点だけで途中がない。だからいつも我々はその終点に慌てさせられる……」
ハーレィは近衛騎士を咥えたまま、腕を振るおうとして……目を見開いた。
腕や指がそれ以上、言うことを聞かない。
「しかしその聡明さ、鋭さ、悪魔的魅力に騎士の誰もが焦がれ、敬意し、誰もがあなたを憧れたのです……」
ハーレィは再度腕を振るおうとした。
しかし、やはりその挙動はぎこちなく止まる。
「無論。この私もそうでした」
今や目の前にいた。
オーエンは腕を伸ばすと、ハーレィの身体を抱き寄せた。
その頭を胸の奥に抱え込み、その感触を刻み込むようにして——懐から短剣を抜くと、
「これまでも、これからも、ずっと——」
お慕いしております、王妃。
後ろからかくように、その首を斬り落とすのだった。
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