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第六章『スワンプマンの号哭』
十六
しおりを挟む「おはよう」
ハーレィは召使に声をかけた。
廊下の花瓶を変えていた召使は大層驚いて、返事が遅れる。
「お、おはようございます、ハーレィ王妃」
そのとたんハーレィの半ば猟奇的とさえ言えるような眼球の動きが、捕えられた獲物を見る爬虫類のそれのように突き刺さって、彼女を凍り付かせた。
「王妃が声をかけたことがそんなに珍しい?」
「は……い、いえっ! そんな滅相も……」
「……けれど——」
しかし、ハーレィは立ち所に心の蛇を抑えると、
「——いえ……そうね。この城に来てから、ずっと逃げていたのはこの私のほうだった……」
「え……え! お、王妃様……」
「仕事に大小も貴賤もないわ。しっかり努めなさい。それを無碍にしない人も必ずいる。頑張って」
「は、はいっ、王妃様!」
ハーレィが立ち去った後で、その召使は嵐が過ぎ去ったように呆然とした。が、すぐにその言葉を思い出すと、城の手入れに精を出すのだった。ハーレィの眼差しを信じて。
そんな風にハーレィは再び城内に旋風を巻き起こした。続いても、他の客室貴族からその侍女、使用人にまで、通りがかり、目に止まったすべての城民に分け隔てなく声をかけていったのだ。
その姿は、この城の王家に嫁いでからというもの、城民の誰もが見たことがないような凛々しい顔つきにして、その一方でどこか幼い……子供還りを起こしたようにも見えて、一夜にしての変わりぶりに、またしても御乱心か……。と危ぶみ重い息をつく人々のよそで、限界なく極め抜かれ、洗練された不完全な完成度、絶妙な飴と鞭の匙加減に早くも骨抜きにされた者もいた。
そして。
玉座の間——。
騎士団の面々は違った。
彼らは朝一番から当たり前のような顔をして玉座の前に整然と列を成し、城内に残っている者は一人の欠けもなく直立不動の姿勢を保っていた。
さながら初めからハーレィのその姿を知っていたかのように——。
ハーレィもまた同様だった。玉座の間に入り、
「おはよう、みんな」
そんな彼らがそこに、そうしているのを予め予見していたかのような得意げな笑みを浮かべて言うと、
「おはようございます! ハーレィ女王陛下!」
彼らもまた一斉に声を揃えて威勢のいい挨拶を返した。
まるでタクトに揃えられたような男たちの大音声は玉座の間を軽く飛び越え、廊下の端々にまで届き、なおのこと城民たちを驚かせたが、ハーレィと騎士団の彼らだけは悪戯が成功した子供のような無邪気さで微笑みあった。
ハーレィはそのまま玉座の前に進み出る。
すでに跪いて控える騎士長の面前。そこが騎士団の先頭だ。すなわち彼らは完全なるハーレィの支配下にあることを全体から敬意をもって示している。
ハーレィの瞳は熱かった。女王とその騎士という関係性をこえた親愛をもって一人一人を眺めると、肩の力を抜くように語った。
「さて、まず皆には篤く礼を申し上げねばならないわね。一日、私に時間をくれたこと、その手管と防衛術、全てに心から感謝するわ。本当にありがとう——おかげさまで、私は私を取り戻せた気がしている」
「願ってもないお言葉」
「あなた達を信じます。その上で今日こそ城下へ降りる。無論、私の首を刎ねるためじゃない。この事件の解決には町民の協力が不可欠だからよ。私自ら話を聴きに行く。そのために今こそあなた達の力を貸してちょうだい。あなた達に私のいのちを預けるわ」
騎士団のメンバーを代表して、跪いた騎士長オーエンが顔をあげる。
「騎士長オーエン・ドゥラモルリエール。この身にかえても王妃を御守りいたしまする」
「では、いくぞ! 皆の衆! 世の女王の凱旋である!」
オーエンは即座に立ち上がると、振り返り、騎士団に告げた。
「第二陣は王妃の後部へ! 第三、第四は左右を固め! 第一陣は我と前を護る! 投石一つ見逃すな! 出陣せよ!」
ハーレィは騎士たちを鼓舞しながらその足で城下に向かう。
玉座の間を通り、城の出入り口を抜け、石階段を降りるとすぐに言葉による小競り合いを続ける件の城門が見えてくる。
暴動寸前に膨れ上がった町民の怒りが、不満が、そこには目に見えるように城に向かい雑言投げかける黒々とした群衆として集まっていた。中には木札を立てかけて訴えかける者もいる。
それらを一日、騎士たちが押し留めていてくれた。
改めて全霊をこめて警備に当たっていた騎士たちをシュプレヒコールに負けない大音声で労いつつ、王妃が姿を現すと、城への悪意はとたんに王妃そのものへの侮辱に切り替わった。
ハーレィは声を張り上げる。
「聴け! 聴けぇっ、親民たち! そなたらの憤懣、しかとこの耳に届いておる! 話を聴け! 騎士団は元より妾もまだ解決を諦めていない! 必ず真相を突き止め……」
間もなく投石が飛んだ。
城門の鉄格子の間、騎士たちの間を縫って駆け抜けたそれはハーレィの目前で、オーエンの一刀が叩き落とした。
しかし、一投に終わらない。続けとばかり、連続して町民たちが石を拾い、投げ出した。
投石のあられが降り注ぎ、その大半はコントロールを失い、騎士の甲冑に弾かれるか、てんで違う方向にすっ飛んでいくかしたが、中には明確にハーレィ目掛けて一直線に飛び抜けてくるものもあった。
「……王妃! これでは仕様がございません! やはり一度撤退して……」
「ええ。そのようね……ここまで苛烈とは私も想定外だったわ」
ハーレィは悔しげな素振りを見せながら騎士たちに伝える。
「我ら本体は一度城内へ撤退する! 第四陣はここに残り、既存の警備と交代! 警備隊も我に続け!」
「イエス、マム!」
出てきたばかりですごすごと場内に戻っていく女王の後ろ姿を眺めて、デモ隊は歓喜の声をあげ、一層声高に罵声を続けた。
その声を背中に受けつつ、
「……王妃」
「ええ。一手目は滞りなく完遂……これでしばらく奴らは私たちがこの城の中に居ると錯誤する……作戦はここからよ。私のあなた達!」
そう言ってハーレィは無邪気に微笑むのだった。
◇
「攫われた娘は全部で十一人。そして捜索は州をまたいで滞りなく行われた——間違いないわね」
「はっ。この騎士団の誇りにかけて。捜索に手抜かりはございません」
この国〈ホワイトピーチ・グラウンド〉はなだらかな丘陵の上に都市が築かれており、最も栄えた人工的な州都〈ティア・クリスタル〉の他には農村しかない。そしてそれらをつなぐ道中も、農村部の周りも、勾配の少ない平原地帯が広がっている。
各地の戦乱における敗残兵、または野盗の仕業と目されてはいるものの、その実彼らが忍べるような岩山も少なく、また森を含めて、そのような場所があればすでに騎士団が捜索済みであった。
そして攫われた娘は全部で十一人。それも、多くが州都か、あるいはそこからさほど離れていない村の者である。
これだけの人数ならば、日々食わせるだけでもそれなりの費用と物資が必要になるし、生かしておくには例えば結託、逃亡等のデメリットの方が多い。娘の集団拉致、監禁事件は間々あれど、大抵がその手の方法で打開されている。
「にも関わらず、そんな動きはない上に、今のところ死体は一つも見つかっていない——死体を消す方法は魔族や強力な術者……それこそ吸血鬼なら、できなくもないけど、そんな気配はないし、そもそも彼らならその選民思考からして真っ先に城の貴族を狙うでしょう。私にそうしたように」
ハーレィは外の城門から戻り、玉座の間に向かう短い道中に考えをまとめると、
「死体を消していないという前提で条件をクリアできる場所といえば、一つしかないわ。メリットは……その後に利用価値があるから」
そのようにつぶやいて、城の敷居をまたいだ。
女王、騎士団一行の急速な出戻りにも関わらず、一際大きな「お帰りなさいませ!」を玉座の間に響かせた召使の一人を捕まえると、さっそくハーレィは尋ねた。
「先代王は今は?」
「はい。三階の居室で奥様と居られるかと」
「ありがとう。ちなみにあなた、名前は?」
「はい。エミリアと申します」
「ありがとう、エミリア。私ももう少しあなた達のことを知っていくべきね」
「はい……」
唐突な質問責めにはそつなく答えたものの、流石に不可解な顔を浮かべるエミリアにハーレィは、
「なんでもないわ。それよりも、ちょっといい?」
そう言って手招き。引き寄せると、そっと耳打ちした。
「ごにょごにょ……」
エミリアは降ってわいた憧れの女王の急接近に緊張して、やや邪に頬を赤らめつつ、
「え……はい! 今からでございますか?」
「もちろん。その後のことはこのカールと小隊に任せるから。何かあれば彼らを頼って」
ハーレィは騎士団から四人ほどの小隊を即座に選出すると、その先導を担わせた青年の肩を叩き、改めて念を押した。
「かしこまりました」
仔細は飲み込めずとも、要領は把握したようにエミリアは頷き、カールを見た。ハーレィも同じように小隊長の青年を見る。
金の短髪に鍛え抜かれた長身が映えるカールはその見た目からいたって模範的な騎士で、その誠実な仕事ぶりを見込んだ指名だった。
「……では、カール。手筈通りに。彼女たちのことは任せたわ」
「イエス、マム! 仰せのままに」
「エミリアも」
それから再度、召使の少女にも告げる。
「彼についていけば解る。とても大切なことなの。お願いね、エミリア」
「は、はい!」
召使の少女エミリアは女王への憧憬と指名の誇らしさに屈託なく目を煌めかせて答えた。
初々しい反応はハーレィとしても悪い印象ではない。
突然の白羽の矢におずおずとしながらも、ハーレィの目配せと微笑みに奮い立たせられるようにして、エミリアは広間の反対側の廊下へと彼を連れていくのだった。
その背を見送ると次は「作戦を立て直す」と嘯きつつ、一度騎士団の居住域に向かい、そこでハーレィは別れ、五階の自分の居室に向かう。
「マリー。例の服を」
寝室に戻るなり、ハーレィはドレスを脱ぎ捨てつつ、中で待ち構えていたマリーに告げた。
「はい。姫様」
マリーは嬉しそうに言いながら、庶民のカートルを代わりに寄越し、ハーレィは寝室を横断しながら一歩ごとに袖を通していく。
子供の頃には毎日のようにやっていた速着替えだ。忘れていたかに思えた今でも、身体が勝手に動いた。記憶の蓄積がしっかりと脳髄に残っているのだ。
この日はさらに、マリーが余計に一手間加えた。ハーレィの銀髪は目立つからと用意しておいたカツラである。
「何から何まで……本当にあなたほど頼れる人はいないわ、マリー」
ハーレィは上品なシーツを丁寧にカットして仕立てておいた紐を開け放った鎧戸から放り出し、マリーに言った。
「この上ない誉でございます。さ、姫様……」
「ええ。マリーもくれぐれも無理だけはしないで……何かあればすぐに騎士団のところへ逃げ込んで。お願い」
というのも、これは子供時代の児戯とは違うし、面々が犯人と目する人物は城内にこそいる。ハーレィたちはその証拠を集めに奔走しているのである。
互いに命懸けだった。
ハーレィの伸ばした手をとると、マリーは愛しんで握りしめる。
「必ず証拠を掴んでくる」
「はい、姫様……」
少しの抱擁のあとで、ハーレィは颯爽と城壁を降りた。
この城……あるいは国そのものがそうした性質と土壌にあるのかは知れないが……の王妃の寝室は北側に面していた。日の当たらない陰の部分に、隠すように設けられた王妃の部屋。
今よりもさらに昔。男女間の関係性において、男性の精が子供の形相を決め、女性は質料を提供したにすぎないと考えられていた。
当然、これは未開拓な時代ゆえの錯誤であり、実際は優生劣勢(これ自体が善し悪しを決めるものではない)遺伝子に基づいて胚は形成され、その後の教育により成長はさまざまだが、まさしく女性は子供を産む装置であるかのような考えであり、この国の在り方といえば未だにそれを色濃く受け継いでいるわけだ。
男女そのものをどうこうという弁論自体にハーレィは興味がなかった。
先んじて別の場面でも再三語っているように、ハーレィの思想は万物は違うのが当たり前。自然とは混沌であるという前提に基づく。当然、男女、性差もこの一要素に過ぎず、特に身体の凹凸、そしてそこからないし、各々の性質から成る感じ方の違いを見れば一目瞭然にわかることをなぜあえて性別に焦点を絞る必要があるのか? というスタンスである。
彼女は自由意思を阻むもの、特に慣習や通例などに意味もなく従う思考停止をこそ忌み嫌う。それは彼女を育てたあの書庫の無数の著書を手掛けた過去の探求者たちへの侮辱だからだ。
彼らの中にはこういう言い方を嫌う者もいるだろうが敢えて言うなれば、彼らが研鑽し、認めたのはそれを後世に託すため以外に他ならないだろう。
思考停止はいわば、それを無為にする。
彼らの人生をなかったことにする。
その人たちが人生の最後まで抱いたその後の人類に対しての警告や、つまり信頼を反故にし、唾を吐き掛けるかのごとき蛮行だと定めているのだった。
先代がなんだ。
それが偉い、尊いと言わしめるなら、この現代がまずこの上のない素晴らしいものとして現代を生きる者にとって感じられていなければ成立しない。だが、まるでそうなっていないではないか。
この上多くの既得権益に取り憑く亡霊じみた者どもはそうした考えすらなく、ただ頭の上から文句を垂れるのみである。
その無学にして厚顔なる様がハーレィには許せない。
ハーレィ自身、無条件で尊ばれる地位の生まれだということにも起因する。
考えなしに自分を褒めてさえいれば安泰として傅く無能を幼少からごまんと見てきて、デク人形と接するかのような関係性に嫌気がさした結果のアンサーが『自然に育まれる精神に基づく自律』なのだった。
簡単にいえば、心から想ってないことを言うな。ということである。
そんなことに意味はないどころか、はっきり悪習である。
なぜって、周囲のお膳立てが伴わなければ立てない王や、ましてや姫など、そもそもその地位に足る器ではないのだから。
ハーレィから見れば能力の伴わない紛い物でしかなく、そんな偽物が信者の御輿に担がれた結果に王や姫などを名乗って幅を効かせるから、この世は狂い出すとさえ結論付けている。
得てして、社会も同じではないだろうか。
ハーレィが自分の経験から踏まえて事実を語るなら、間違っているものをその者が権威や地位ある者だから、あるいはその息子、娘だから。信者のつく有名な人だからと処断できなくなったら、その関係性、ひいてはその社会は人を生かすためではなく、一部の、権益を持つもののための独裁、あるいは邪教に堕しているということ。
ハーレィはロランを始めとする自分を真に慕い、信頼をおいてくれる臣下に恥じない君主足らんと、己を律した。
それゆえに反対に、こんな紛い物たちが……この城の在り方も、心の底から気に食わないのであった。
かつて子供時代にそうしたように、縄を伝い城壁を降り、地を見据えながらハーレィは改めて肝に銘じた。
昨日はその策謀に殺されるも良い。と弱気に諦めていたハーレィだったが、今はもう違う——!
どちらが怒れる国民の前に、その首を差し出されるかの瀬戸際!
なら当然、若く美しく、そして聡明たる私こそが生き残ること。その歴史が伝わることこそ、のちの人類のためになる。
なぜって、美しい、強い、努力。それらの価値が逆転して、醜い、弱い、だらしない、なんて具にもつかない人間がその言い訳に胡座をかくことを許され、紛い物の偶像のさばる世こそ、最低最悪下劣極まる暗黒の未来だと思うから——。
私は負けられない。
絶対的なる私は勝利を収めねばならないのだ。
これこそがハーレィのノブレスオブリージュ。
かつて地元の〈ヴェデルレーベ〉でそうして厳しく臣下を躾けていたときのような正義感が、彼女には宿っていたのだった。
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