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第六章『スワンプマンの号哭』
十四
しおりを挟む「いつになったら、家畜の虐殺は止まるんだ?!」
「現在のところ目下捜査中である。謹んで報告を待たれよ」
「私たちの娘はどこへ行ってしまったの! いつになったら帰ってくるの!」
「現在のところ目下捜索中である。謹んで報告を待たれよ」
「同じセリフを何度繰り返せば気が済むんだ!」
「言わせてるのはお前らだ! 進展がなければ何度でも繰り返す他ないだろう! 我々とて努力はしている! しかし、貴様らがこんな風に詰めかけることでこうして余計な手間も生まれていることを少しは解れ! つまらないことでいちいち揚げ足を取って……待つということはできんのか!」
「なんだ、この……税金で食ってる連中が偉そうに言いやがって!」
「つまらないって……他人の子供を何だと思っているの!」
「そうではない! 状況が分からんのか!」
「今、そう言ったじゃない! この人が!」
「あぁ、この……」
延々とこの繰り返しだった。
だがまだ平和なやりとりなのだ、ということが判らないのが文民というものだろうか。犬然り猫然り、人はそれがいつだって自分の急所を潰せる爪や牙を持っていることを忘れがちなものであった。
なおも解決せずにいる王政への不信、疑惑は気付けば火に油を注ぐように燃え上がり、王妃への信頼は一転して中傷に変わった。
被害に遭った娘の親たちは哀しみを転じて憎しみへと変え、これを聞きつけた国民たちも同情して集い、果てに暴動寸前の状態にまでなった。
怒れる国民たちはついに大挙して「女王の首を差し出せ」と城門前に詰め寄せていた。
「王妃……」
玉座の間にて、心配そうに傍らに控えるオーエンを他所に、若い騎士が駆けつけてきて、肩で息をしながら宣った。
「報告いたします……! 暴動を起こしている国民の数はすでに百を超え、津波のように門の前に押し寄せております! 只今は騎士団総員で壁をなし、押さえておりますが、如何せん連中の辛抱も限界の様子で……いつこちら側に怪我人が出るとも知れず! かくなる上は我々も武力を持って応じる他……」
「否」
ハーレィは一言にして鎮めるように放つと玉座を立った。
「私が行く」
オーエンの神経は限界だった。たちどころに叫んだ。
「お待ちください! 王妃!」
「ならん。猶予はない。この上どちらかに怪我人が一人でも出たときこそが本当の最後だ。わかるだろう?」
「陛下こそ、わかっておられるはずでしょう! 全ては先代が——!」
もうなりふり構っていられなかった。
今、止めなければ王妃は——その一心でついに直接的な文句を口から出したオーエンだったが、当のハーレィはなおもそつなく首を振って返してみせる。
「それこそ根拠のない憶測にすぎん。それに今更私が潔白だと公に示したところでどうなると思う? 私の根本に悪意を抱き、信じたくないものは天地がひっくり返ろうが信じぬよ。例え証拠が出てこようとな、そんなのは……」
「——あなたはっ! 自ら死ぬおつもりだ!」
その淡々とした口調が、ついにオーエンのフラストレーションを臨界に押し上げた。
ハーレィは瞠目する。
その姿はまるで飼い主に牙を向く子犬か……あるいは無垢な少年のように見えて——ハーレィの内奥を強く、揺さぶりをかけた。
オーエンの悲痛な、絞り出すような声が、玉座の間に響く。
「……そんなにご自害なさりたいか」
「……オーエン」
「まだ、どうにかなるかもしれない……希望は潰えていないかもしれない……騎士たちは懸命にそれを信じて民を押し宥めてくれている。民とだって話せばわかってくれる者もいるかもしれない……可能性はそれこそいくらだってある! それなのに! あなたは……あなたは、もうどうにもならなければ自分が全ての責任を背負い込んで死んでしまえばいいとっ! それだけ考えて、だから、そんな机上の話をひょうひょうと為されるのだ……そんなに死にたいですか。そんなにこの世が嫌ですか。生きていたくないですか。価値が見出せませんか……我々ではあの騎士一人に、足りませんか——」
狼狽えた。
ハーレィの瞳に少女のような煌めきが戻って、動揺に震える。
「やめろ……」
「あなたにとって所詮信頼とは、そのような自分にだけ都合の良い、そんなものなんです。しかしだ! 我々にとってのあなたはそうじゃない!」
「やめろ——!」
「あなたに死なれたら、あなたとの未来を望んだすべての輩が! あなたと同じような絶望を味わうということがまだわかりませんか! あなたが先に死なれたからといって、我々まで置いていこうとするのはおやめください!」
「もうやめてくれ——!」
ハーレィは顔を覆って声を張り上げた。
いつからか、なんて考える間もない。
ロランが死んだあの日に、もうハーレィも一緒に死んでいた——ただ身体が動いていただけで。
もうこの世にその人がいない。
その事実だけで、死にたかった。
もし目の前でそれを見ることがなければ、まだ望みは持てたかもしれない。遠いどこかの地で、生き絶えたというのならば、ああ、それはこの目で見ていない。だから、どこか現実として捉えることはなく、本当はどこかで生き続けているのでは? と夢想を抱けたかもしれない。
箱に詰めた猫の生死を考えるように。
けれど、ハーレィはコインの裏表を確かめるように現実を見てしまった。
知ってしまった。
その手で紛れもなく確認したのだった。
もうこの世にその人がいない、現実を。
こんなとき、あの世でロランは情けないと思うだろうなどというのは詭弁だ。なぜって、それは生者のためのお為ごかしであって、死者は語らない。そして今際の際を看取ったものからすれば、その時残された言葉だけがその人の真実だから。
——得られぬ者からすればこの世は果てなく続く闇だ。
ロランは最後、この世を憎みながら逝った。
そして、他ならない私がそう思わせた——それがハーレィにとっても全てとなった。
私は生きるべきではなかった。
ゴミも同然の、産まれてきたことが何かの間違いであったらよかったのにと国民の誰からも思われるほどの傲慢で無知なクソアマとして、国民に蹂躙されながら、今こそ死ぬべきだと考えた——これはロランの代わりに自分で自分自身に下す復讐なのだ。
ひいては、責任感も罪悪感もなく、人類を続けようとする人類全てに対する抵抗——。
「そうよ——」
ハーレィは切り返した。
「そうよ、そうよ、そうよ、そうよっ! 私は! 死にたいの! もう嫌なの! この身体が! この魂が! 世界も人も、ひっくるめてありとあらゆる全てが嫌で嫌で仕方がない! 生きていてどうなるっていうの? 人類が続くことで何か良いことが? いつも絶望の中で死ねと言われてるようだった……! もういいでしょ? 疲れたの! 邪魔しないでよ! 死なせてよ! 終わりにしたいのっ!」
「致しかねまする!」
「アンタじゃロランには死んでも届かない! 代わりなんてできない!」
「元よりそのようなことは考えておりませぬ!」
「なら——」
「ただ我々を信頼させたあなたには、信頼で応える義務があろうが!」
「脅迫……? そうやって……」
「違う!」
オーエンは言った。
「あなたが納得しないはずだ」
「——っ!」
「私が知るあなたならこう言う! そんな自惚れたことを言って自己完結におわる前に、まず自分に惚れ込んだ相手を不幸にさせるなと! 相互補完に努めろと!」
ハーレィの苦悶の表情たるや筆舌に尽くしがたい。
悶絶するように彼女は膝から崩れ落ちた。
「それが上に立つものの器だと! あなたが仰ったのではありませんかっ! 我々はあなたに恥じぬ臣下であるために、それを実践しております! しかし、あなたは……?」
終始見守っていたマリーが駆け寄った。
絹をゆっくりと裂くようなか細い嗚咽がハーレィの口から漏れている。
長い銀髪がドレスの裾のように床に垂れていた。
「生きることに希望が見出せず、お辛いのはわかります。だが負けるな! 折れてるなら繋ぎなおせばいい。立てないなら、我々の力を借りて構わないっ! 格好いいか悪いかなんて犬に喰わせて、どうか! 奮い立たせてくださいませ、王妃!」
「口だけなのだっ……しょせん私など……ただの小娘に過ぎんのだよっ!」
「それでも、我々はあなたが好きだ! あなたはもう一人で生きているんじゃない。どうか我々を不幸にさせないでください——」
オーエンは同じように膝をつき、ハーレィの肩に触れた。
「やるだけのことはやりましょう。それでもダメなら、その時はこのオーエン、地獄の果てまででもお供いたしまする——……」
◇
「思えば」
その夜。
寝台の縁にかけ、未だ子供のように泣き縋るハーレィの頭を優しく抱きかかえながらマリーは言った。
「ロラン様やオーエン殿にはされても、姫様自身がされたことはございませんでしたね」
「マリー……」
「今は姫様の番でございます。不肖、このマリーがお付き添いたくぞんじます」
「……あなたには幸せになって欲しかった」
ハーレィは都度、鼻をすすりながら言う。
「オーエンにも。でも、私はいないほうがいい。私は関わる皆を不幸にする。私自身さえも。……本当の自分が誰かに好かれるなんて思えない……人の目線が怖い。何を考えてるのかわからない……生まれてくるべきではなかった。初めから、いないほうがよかった……」
「そんなことはございません。それこそ姫様の妄想でございます」
「……忘れていた。ロランは——」
ハーレィはずっと思い出さないようにしていたロランの死に様を今一度思い返した。
最後、絶望に暮れたロランを想うやハーレィは吸血鬼に噛まれた身体を利用して、彼と共に生きようと努めた。
そして、ロランは。
「私の理解者になれた。ありがとうございますって、言おうとしてた——言おうとしてたのに……っ」
「……そうでしょうとも」
マリーも目にきらりと光るものを浮かべ、
「とても気持ちの良い殿方でしたね」
「ロラン……」
その名を口に、いや思い浮かべることさえ自分に禁じていた。
その瞬間、彼との想い出が刹那に溢れ出して止まらなくなる。
「ロラン……!」
まるで遠い昔に、父が亡くなった母の洋服を抱き、泣きぬれていたときのように——。
ハーレィは一夜泣き続けたのだった。
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