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第六章『スワンプマンの号哭』
十
しおりを挟む瞬く間に時間が過ぎていった。
その間ハーレィは自分が何をしていたか覚えていない。
何にも感情が湧かなかった。
生きる、ということは、つまりそういうことだ。
単一で生きられるわけがない。
その人は根本のところがなにかおかしい。
誰もがそんな誰か、何かがいて、その良好な反応を得られる、あるいは望め、想像に浮かべられるから、それでも、せめて自分は一人ではないと思えて、生きていられている。
その誰かを、何かを、ハーレィは失った。
いのちにも等しいものだった。
時折、忙しい公務の合間に若き王が訪れ、彼女を慰めるようにしたし、召使や騎士たちも慮っていたが、何も効果をなさなかった。
かつて自分が言ったことが何度となく頭の中で繰り返された。
——この世で私が最も許せないものの一つが弱者の愚。
——あの青虫だって次の瞬間には鳥に食べられてしまうかもしれないけれど——。
——無意味に見えて、実に美しいわ。
美しいわけがあるか。こんなもの。
ロランが最後に言った通り。
夢は叶うから綺麗なのだ。
蝶になれずに死んだ青虫を綺麗と思うものはいない。
叶いもしない夢など、不毛な努力など、みじめな野良犬も同等、いやそれ以上に詮無い以外にない。
そんな上向きの言葉なんてのは、叶える力があるから言えるだけの。
持つものだから、勝者だから、そうして願いが届いた成功例があるから言えるだけの詭弁でしかなかった。
それを振りかざして気取った自分は、世間知らずなだけの、何もわかっていないクソガキにすぎなかった。
自分はただ本の世界から何かを知った気になって、わかったつもりでいただけの、背伸びをしていただけの、傲慢でどうしようもなく壊れた、クソアマだったのだ……!
生きていてももう意味はない。
愛しきを望むべくもないならば。
そうして夜更け、ナイフを腕に突き刺した。
横に割くのではない。骨と筋肉が邪魔をする。あれはかまってほしいだけのバカがすることで、私の目的は初めから違った。
だから、骨と筋肉にそって刃が入るように、縦に全霊をこめて突き立てた。
足をばたつかせたいほどの激痛が走った。
「——~~~っ!」
悲鳴をどうにか堪えるのでやっとだった。
時に床を叩き、時に頭をかきむしって耐えた。
痛い。
痛い……。
ハーレィは荒く息をこぼしながら、けれど安堵する。
ロランといられた気がした。
この痛みはあの日ロランが受けたものに近い。
ロランの痛みと近しいものをせめて自分に与えられて。
泣きながら、熱い息を吐く。
これで楽になる。
もう苦しまなくて済む。
今一度、覚悟をこめてナイフを抜き去った。
そうして横に投げ打つと、血潮が周囲に糸を引くように舞った。
パンにバターを塗るように床に血糊がついた。
ハーレィは壁に背をつけて宙を仰ぎ、目を閉じた。
それでも、哀しいことは哀しいものだ。
なぜこんな末路になってしまったんだろう。
神様がもし本当にこの先の世界にいるとしたら……ああ、月並みだけれど、だからこそいないのだろうとも確実に思えるのだけど——、
絶対に殺してやる。
その家族から、子供から、皆殺しにして、
私のこの想いそっくりに味わわせてやる。
そう思った。
しかし、数刻と過ぎても、ハーレィの意識はいつまでも消えなかった。
途切れることもなく、なお明々として、この私は続き続けている。
こんなにかかるものなのか?
——と、気付けば、痛みがない。
決して脳の作用のせいではない。
おそるおそる目をあけ、ハーレィは見た。
刮目して見た。
自分の左腕の肘より少し上のところを右手で縛り付けるように持ち上げて、そこにあるはずの傷を探して、ハーレィは、次の瞬間には床を這いずっていた。
床の血はそのまま残っているのに。
落ちていたナイフを拾い上げて、再び腕に突き立てた。
切り裂くような痛みが脳に、神経に走った。
ハーレィは呻き、また涙を流しながらも唇を噛み締め、声を押し殺して、自分の腕を貫いた。
しかし、一度ではダメだったのだ。
もう一度。いや、もっと。
二度。三度と突き刺しては引き抜き、またナイフを突き立てる……しまいに腕は綺麗なピンク色の筋肉を見せながら、周囲に鮮血を散らせていた。どくどくと跳ねるように脈打つ私の深指屈筋。ロランの時とは似て非なる、臓物の損傷から溢れる血液とは違う、まだ明るい血の赤が、絶え間なく腕をつたって、薄めた絵の具のようにさらさらとして落ちていく。
しかしだ!
ハーレィはそれ以上に信じられない光景を目の当たりにしていた。
切り裂いた矢先から、腕は、なんと——再生してゆく。
たちまち傷は癒え、くすぐったいような感覚とともに痛みがすっと失せ、裂かれ、欠如した肉が、血が、肌が、端から端から綺麗に埋まっていく。
ハーレィは絶叫するように言った。
「なんでっ——!」
その頃になってようやく異常を嗅ぎつけた巡回騎士が食堂に降りていたハーレィを見つけて、にわかに騒ぎになった。
応援を呼んだ巡回騎士の声を聞きつけて飛んできた騎士長。ならびに召使、給仕に王。先代夫婦。それから子供たち。
それらの前で、彼らの目もまるで憚らず、ハーレィは発狂したかのように暴れて、なお自傷を続けようとして、止められたのだった。
「なんで……」
繰り返された彼女の泣き声が深夜の食堂に切なく響いた。
ハーレィはますますやつれた。
絶望しきって部屋から出ることもなくなり。
寝台から降りることすら忘れた。
誰とも言葉を交わさなくなって、数週間。
心配した子供たちが訪ねてきた。
のぼれない小型犬のように寝台に飛びついた格好で、下の子が言う。
「ママ様……ご病気なの?」
「……なぜ僕らを見てくれないの」
上の子は勘が鋭かった。騎士の名さえ覚えていた。
「あのロランって人は誰なの? なんでママ様はあの時、泣いていたの。なんであの人が死んでからママ様は変になったの」
「王子……王妃様はお疲れのようですから。この辺でお暇いたしましょう」
侍女が気を遣っていったが、幼い心は止まらない。
上の子が必死の形相で訴えた。胸に手を当て、ハーレィの眼前に躍り出て。
「ママ様! 僕らを見てよ! ママ様にはまだ、僕らがいるんだよ!」
「黙れ」
ハーレィの声だった。
冷酷な眼差しが二人の子供に突き刺さっていた。
しかしそれは、かつてのような……ロランが好きだったような厳しくも情のある目つきではない。ひたすらに相手を嫌悪し、憎悪し、忌み嫌い、蹴落とし、たたき伏せて、傷つけようとする悪意の塊のような、そんな眼差しだった。
「あなたたちなんて所詮無理やりに決められた相手の子供にすぎない。よく見ればお前は特に王に似てきた。けれど私がほしかったのはお前なんかじゃない! 私が本当に産みたかったのは——!」
「王妃様っ!」
侍女が懸命に止めた。
二人の子供を母から庇い、寝台から引き下ろすと、さながら悪魔でも見るような軽蔑した目つきでハーレィを見て言った。
「自分の子供に……なんてことを——」
「黙れ……黙れ黙れ黙れ黙れ黙れっ!」
ハーレィは頭を抱え、振り上げながら怒鳴りつけた。
「お前なんかに何がわかるっ! 蝶よ花よと愛られながら、結局自分の運命一つ満足に決められなかった……そのせいで一番大切な人をどん底に追いつめてしまった……私の気持ちなんてっ! 所詮自由恋愛に生きられる庶民にはわからないっ! わかったようなことを言うなぁっ!」
「それでも……」
「うるさい! 烏滸がましいぞ、低俗物!」
終いにハーレィは顔を覆って咽び泣いた。
ああ、わかってる。
低俗物は私だ。
どうしてこんなに弱いのだ。
愛が強くする? そんなのは、そんなのは絶望を知らないから言えるのだ。この世は果てまで絶望だ。いとしきを望みながら、どれだけ望んでも望まれないその時、人の心の内に何が芽生えるかも知らないから、味わったことがないから、そのように傲慢に宣えるのだ!
「もう……おねがい……もう、ほうっておいてぇ……」
かつての誇り高い姿などもはや見る影もなかった。
ハーレィはそれからもさめざめと泣き続けた。
餓死ならばどうか。
もう何も食べない。飲まない。
それなら流石の吸血鬼であっても、死ねるのではないか。
そう考えていた。
数ヶ月が過ぎると、その姿は原型を留めず衰弱しきっていた。
手足は枯れ木のように痩せ衰え、髪は痛んで抜け落ち、肌はひび割れ、その辺の流木とも見分けがつかない。
流石に意識がかすれ、もはや何も考えられないくらいに弱ってきた頃。
また部屋を訪ねるものがあった。
騎士長が連れてきた。
だいぶ歳をとったように見えた。かつて自分が憧れた姿ままでこそなかったが……ハーレィには一目でわかった。
その目に一縷の潤いが灯り、その者は同じようにハーレィを一目見るや、泣き崩れるように走り寄ってくる。
ハーレィもそれに応え、寝台から痩せ衰えた身体を飛び起こそうとして、力が入らず、芋虫のように寝台にうつ伏せたところ、その者の腕が優しく抱き起こしてくれた。
その腕からは何変わりない温かなあの日のままの匂いがした。
マリーだった。
かつて〈ヴェデルレーベ城〉でハーレィに親身に仕えた侍女……彼女は今のハーレィにも劣らず、顔をしわくちゃにしながら嘆き、その頭を両腕に抱きしめて言った。
「姫様……あぁ、姫様……こんなになって」
「どうして……?」
「あの騎士様がかつて姫様に仕えたものとして、私をお探しなさったのです。わざわざ遠方まで出向いて、報せにきてくださって……」
マリーの肩先から向こう側を覗けば、かつて何か言うたびに好きに引っ叩いていた騎士長が相も変わらない無愛想な顔で立っていた。
何が有能かなんて、自分はとことん何もわかっていなかった。
声はうまくあげられなかった。
息と息の継ぎ目に音を挟むようにして、しかしハーレィは子供のようにしがみついて咽び泣いた——。
その一方で、嗅覚が鋭敏だった。
自分でも信じがたいほどに鋭く、その臭いを嗅ぎ取っていることに、久方ぶりに生身の人と接したことで気づく。
と同時、心臓の音が拍を飛ばすように高鳴った。
一瞬にして世界の色が変わる。
ハーレィにはわかった。
頭の奥底ではマリーを……それを、若い肉と血にしか感じていないことを。
ああ……マリー。
愛しいマリー。
会いに来てくれた!
私に食べられるために。
そして次の瞬間、ハーレィは残る自我の残滓を振り絞って、マリーを突き飛ばしていた。
「ああああ——……!」
ハーレィは自分の顔、頭をしめつけるように押さえながら、身悶え、侘しい唸り声をあげた。
異変を察知した騎士長が駆け寄る。
マリーも同様だった。ただちに騎士長に目で促し、彼は一緒に運んできていた食卓からモノを持ち出した。
顔を隠し、寝台の隅で縮こまって悶えるハーレィの前髪に触れながら、そっと、マリーは騎士長から受け取った皿を差し出した。
赤い肉がのっけられている。
加工は一切していない。
生血のしたたる、さばいたそのままの肉だった。
ハーレィは目の色を変えて食いついた。
獣さながらに歯で肉を破り、こぼれる肉汁を極上のワインのように喉に流し込む。
数ヶ月ぶりの水を喉に流し込むがごとく恍惚にため息が漏れる。
その瞳孔は縦に裂かれ、ハーレィの麗しい唇の端からは鋭い犬歯が覗いていた。
唸り声をあげて生肉を貪るハーレィ。
言いようもない、無惨な光景。
その変わり果てた姿に、マリーは膝をついて両手で口元を押さえ込み、嗚咽を禁じ得なかった。騎士長も言葉なく……二人、ただ彼女の食事を眺め、静かに見守るのだった。
数ヶ月ぶりの食事を終えると、ハーレィはふと我を取り戻したように気がついて、その間のことは何一つ覚えていないように、元の人間らしい振る舞いを見せるようになった。
マリーは特別に城に住まうことになり、当てがわれた客室で寝る時以外はほぼ常に騎士長と行動を共にするようになった。
したがって、ハーレィが改めてそれを伺うまでに少しの時間がいった。
マリーと騎士長、この二人で専門的にハーレィの世話を担当するようになって一週間ほどしたある日。
マリーが彼女専用の食事を下げるのにひと足先に部屋を出た瞬間を見計らって、ハーレィは言った。
「……私、記憶がないことがある」
騎士長は瞠目しつつも、
「王妃……そのことは……」
「わかっている。その時私は……私は自我を失い、獣のようになっているのだろう……」
ハーレィは自分の手を見る。
気付くと爪が短くなっている。彼女自身に切った覚えはない。おそらく二人が、ハーレィが気を失っている間に切ってくれているのだろう——が、そうして眺めた矢先から、爪が伸びてきていた。
まるでサメの歯のような再生力で、爪は鋭く、細く、研磨され、見ている間にも伸びてくる。
「私はもう人間ではない……なぁ。オーエン」
「はい。王妃」
「もし獣の私が周りの誰かに危害を加えるようなことがあった時は……その時は、私の首を斬れ」
「…………」
オーエンは、すぐには返答できなかった。
何か言おうとしたものの、そうすると感情のほうが先に込み上げて、それをどうにか噛み堪えるので精一杯だった。
「腕を切ってもだめ。餓死でもだめ。となれば、首ならば、あるいは……」
「私は……」
深く息をつきつつ、騎士長オーエンは答えた。
「私はこの国の平和と未来を担うものとして騎士長の位を拝命してから、あなたに仕えることこそがその為になると信じ、貫いてまいりました。あなたの強さ、美しさがやがて親民にも届けば、人々は変わる。そう思った……しかし——!」
オーエンはその時こそ初めてハーレィの前で怒りの表情を見せた。
「これでは、あんまりではございませんか……!」
額を押さえるようにしながら、オーエンは思いの丈のぶちまけた。
「なぜ王妃様が……! 王妃様ばかりがこんな! どこかで何かがズレていれば全て上手くいっていたやもしれないというのに! 神は嘲笑うかのようにことごとく台無しにして!」
ハーレィは呆れるような、嘆くような、難しい表情で相槌を打つように首肯し、繰り返した。
「その通りだな……本当にその通り……出会うべくして出会ったと思いきや、よもや最悪の引き金になり……なぜ、ああ、なぜこのような仕打ちをなさるのだろうな……おそらく神は、それほどまでに嫌いなのだろうよ。私たち、人間が」
「すべての気の利く従者、騎士、呪い師、知人に果ては縁戚まで頼り、別の手段を探させております! どうか……どうか! 王妃っ……! その上、私までも巻き込むような……そのような命令をなされるな! あなたは自分のいのちをなんだと思っているんだ! 傲慢にも程がある! 断じて、致しかねまする……!」
オーエンは一息にそこまで喝し終えると、足早に部屋を後にした。
くっくっとハーレィは笑った。
久しぶりに安心しきった笑いだった。
「ああ、わかっている……私には勿体無い者ばかりだ——頼んだぞ、オーエン」
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