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第六章『スワンプマンの号哭』
七
しおりを挟むそれからの毎日は実はハーレィにとっても急転直下、頭の悩まされる日々となっていた。
毎日毎日ロランは何かにつけてドジをやらかした。その度にハーレィは彼を厳しく叱りつけ、時には泣かせ、慚愧に後悔を繰り返した。
これまでと同じように自分の正義に従っているだけなのに、なぜこのような複雑な気持ちにさせられるのか知れない。
一方でその思い悩む様を奴に見せてもいけなかった。
常に背筋を伸ばし、私は何も思い悩むことなどないかのように完璧でなければいけない。少なくとも、私を強く信じ込むロランの前では。
試しにため息の一つでもついてみよう。立ち所に彼は、
「ひ、姫様! もしかしてどこか具合が悪いのでは?」
とか心配しだしたり、もっと最悪な場合には、
「ひ、ひょっとして……やっぱり僕が来たから。それで姫様は無理をなさって心労を増して……ああああ、申し訳ございません!」
こんなことになりかねない。
心労が祟ったのには何も間違いがないし、原因もコイツのせいでその通りなのだが、ハーレィはそれを少なくとも負担であると認めるわけにはいかなかった。
なぜ?
決まってる。
プライドのためだ。
ひょんなところから、自分を芯の底から信じる臣下が現れた。その期待に応え、彼の憧憬を崩さぬために、ハーレィは是が非でも世界一の美姫でなければならないのだ。
一方でロランもこの城……いやひいては人類の真理とでも言うべき内情に気付きつつあった。
人間はどうやら三種類に大別できるようだ。成長するものとそれを止めたもの。そして、両方の性質を併せ持つもの……実質的に変化がないにも関わらず、成長しているふりが妙に卓越しているもの。——すなわち、これがハーレィに言わせるポーズだけのクズだろう。
ロランと同年代の子たちが働く姿は珍しくなかった。庶民であれば昼間から麦酒で喉を潤し、ひたすら農業に励んだ時代。貴族の子らは早々に城に仕え、男の子なら騎士について武芸全般を、女の子なら侍女に付き添って花嫁修行に明け暮れた。この城〈ヴェデルレーベ城〉でもその在り方に変わりはなく、記憶を辿る限り、ロランの地元でもそうだったろう。
しかし、それらを注意深く観察してみれば、やはり日々押し寄せる仕事に疲れて、人目を盗んでは更ける跳ね返りもいて、決して着いていくことはなかったもののロランも一度とならず誘われた。これはまだいい。
問題は真面目にやっているようでいて、その仕事内容に変化が見られない人たちにある。
彼らは傍目にはそれと気付かれにくい。なぜなら、彼らの能力は決して低くないからだ。
要領がよく機転もきく。人に言われたことは卒なくこなすし、態度も悪くないどころか、返事はしっかりとしているし、それで評価もされている。
しかしその実、ロランから言わせれば彼らの良さは見せかけで、からっぽであった。
バカみたいに真面目にやるのでもなく、かといって下手にぶつかりにいくのでもなく、まるで周囲と同化したような存在感。自ら進んで奴隷となるかのような物言い。彼らと話していてもどこかこちらのやる気まで削がれるような場面が何度となくあって、そこからわかったことは彼ら自体が一個の群体のようだ。そう、まさしくコミュニティという一個の群体。
彼らを指してハーレィが生きてない、といった意味がわかるような気がした。
ロランは男でありながら、ハーレィについて女の子のグループに混じり、立派な花嫁になる鍛錬に勤しんでいたのだが、それでいてハーレィがいないときに。
「待って。まだ終わってないよ」
「……いえ。わたくし共が仰せつかっている範囲は終わっておりますわ」
「でも、ここまで進めれば、後が楽じゃない?」
「……と、言われましても、わたくし共が言い付けられているのはこの範囲まででして」
「お姉様の言うとおりですわ。余計なことをして侍女のお姉様方に無礼を働いてしまったり……もし目立ったことをして、あの姫様の機嫌でも損ねることがあったりしたら……」
侍女見習いの女の子たちは揃って身体を震わせると、声を合わせて言う。
「そのほうがよっぽど恐ろしいですわ」
ロランはもう呆れる。軽蔑したといって過言ではない。
この人たちにとって、怒られるかそうでないかが最大の関心事なのである。しかし、それはなんだろう?
なんで、生きてるんだろう。
「えぇ……姫様は……それこそそんな態度のほうを嫌うよ。もし失敗したとしても、その誠意を無碍にする人じゃないよ」
「あら。ロランさんは男の子ですし、まだこのお城に来てさほどもないからお知りにならないのです。姫様の恐ろしさを……ああ、そうでしたわ。皆、聴かせてあげて。あの哀れなカーラを拷問にかけたときのことを」
「ご、ごうもん……」
「ええ。あのトロい騎士様。騎士様でありながら、何をしてもウスノロでドジばかりのカーラの可哀想な話……」
以前カーラという騎士がいた。
彼は緊張しいでいつもヘマばかり。ハーレィの眼光に射すくめられるときも毎度哀れなくらいの縮み上がりようだったという。
二年前。つまりハーレィがまだ十歳の頃。彼女の乗馬の時間に、カーラがその補佐を務めた。それが悲劇の始まりだった。
彼は今にも消え去りそうな青ざめた顔で彼女の乗馬に付き合っていたが、馬は繊細で感情をよく読む。
そうした乗り手の心情はすぐさま伝わり、時に舐められもする。いつもならば言うことを聞くはずの愛馬も、ハーレィを間に乗せて緊張するカーラを舐め腐って、煽るように腰を振り、彼らを背からはね落とした。
彼はその身を挺してハーレィに怪我だけはさせなかったが、その際ハーレィを全身で抱きしめてしまったのだ。
ハーレィはこのことにいたく激怒し、彼を地下室に閉じ込めると、鞭を持って夜な夜な通いつめた。毎夜のごとくカーラの悲鳴は地下に響き渡り、その後彼は城から姿を消したという。
ロランは初めは固唾を呑んで喉を鳴らし、彼女らと同じように身を震わせながら聴いていたが、次第にムカムカとしてきた。
は? コイツらは何を言っているんだ?
それはむしろご褒美というんだ。
「なんだって! そんな長いこと姫様と二人で……そっちの方が問題じゃないか!」
「……え、ロランさん?」
「ああ、いや。……けど、つまり、その間姫様は彼の教育にそれだけ熱心だったってことでは?」
「……ロランさん? 今の話をどう聴いていましたら、そのような発想になるの?」
「え?」
「……え?」
「…………」
何かしら得体が知れず、決して見えもしないが、されど果てしなく分厚くまた超え難い空気の壁がロランと彼女らの間にはあるようだった。
しかし考えてみると、これは誇らしい。
もしこの場にハーレィが加わったなら、間違いない……姫様はこっち側のはずだ(そうだろうか?)。この壁を感じとれたこと、そしておそらく自分は姫様の側に立てているだろうこと、それがロランの誉だった!
ある時、その真価を図れる出来事が起きた。
朝の礼拝に向かう道すがら、ハーレィは中庭の前でふと立ち止まると列を飛び出して、その幹に刮目した。
一時騒然として侍女長が引き止めに出向く中、ロランは侍女長を追い越して、ハーレィの隣に立った。
ハーレィは幹の一点をじっと見つめたまま省みることもせずに言った。
「見て、ロラン。蛹よ……すごい。じき、還るわ」
ハーレィが見ていたのは幹に止まった茶色の物体……菱形で糸で支えるようにくっついている……青虫の蛹だった。
しかも、蛹の上部にはすでにヒビが入っていて、中でうごめくものがある。ハーレィの言ったとおりだ。
じきに羽化するのだ。
「出てくる……」
「姫様——」
背後から迫っていた侍女長が言った。ロランは振り返るが、ハーレィはまるで彼女の存在ごと世界から追い出してしまっているように耳に入れていない。
「朝の礼拝に遅れてしまいます。神父様を待たせてはなりません」
侍女長はそうして口に出すにつれ、次第に声を大きくした。
「姫様……そんな虫がいったいなんだというのです? それよりも……」
「……ああああ、もう」
ハーレィが唸り声をあげはじめた——その時だった。
「——そこ、静かにしてください」
ロランが静かながらよく響くはっきりとした発声で、嗜めるように言った。
「姫様が集中なさってるのがわからないんですか」
ハーレィは瞠目して隣のロランを見た。先ほどの挙動を交互に繰り返しているかのように、今度はロランが微動だにせず、幹の蛹をじっと見つめている。
背後で侍女長の絶句する挙動が音となって伝わるようだったが、二人の目には入らなかった。
「…………」
自分を見つめるハーレィにロランは促すように言う。
「姫様……出ますよ」
「え……あ」
そうしてハーレィが改めて蛹を見たとき、ふいに周りの薄皮が破れ、中の蝶々が姿を現した。
その様は——映像の一コマ一コマを区切って見るように、一瞬のことながら実に鮮烈に、ハーレィの視界に焼き付いた。
蛹の中で器用に折り畳まれていた翅を抜き出し、外套をひるがえすように大胆に広げる。さながら女性が衣服を脱ぎ去り、素肌をさらすかのようで、妖艶にさえ思った。
細い脚を器用に用いて幹を伝い、その少し上の枝にあがる。翅はまだ羽ばたかない。蛹便(羽化液ともいう)が翅について濡れているからだ。これが乾くのを待って、蝶々は羽化した幹を飛び立つ。
翅は黒く見えて、グラデーションのある虹色だった。きらきらと鱗粉が艶めいて、オーロラのような色彩を浮かべ、それが黒と翠色に滲んで見える。
ああ、まるきり化粧のされた女性の表皮のようだった。
「ミヤマカラスアゲハね。なんて美しいの——あんな芋虫がどうしてこんなに」
「…………」
麗しく煌めく翅ならハーレィにもついている。
それら凛として澄ましたような風情は、ロランにはまるでハーレィのように見えた。
こんなときながら……いや、こんなときだからこそか。
その黒髪ごと抱きしめてしまいたくなった。
「姫様は蝶々がお好きなんですね」
取り繕う余裕もなかった。ハーレィは蝶々から目を離せずに夢見るような口調で言う。
「ええ。本当に素敵。青虫に言葉があったなら、どんなことを喋るのだろう? それとも葉を食むのに夢中で、何も喋らないのかしら。彼らは知っているのよ。自分がいずれ美しい蝶になり、その翅を広げて空を舞うときのことを。まるで知っているかのようにたくさん葉を食んで、栄養を蓄え、無事にそれを済ませると蛹になる。その中で何が起こると思う? 一回身体は何もかも溶け切ってどろどろになってしまうの。完全なる液体にまで一度溶けて、それが蛹の中で再生すると、あんなに美しい姿になっているなんて……こんな素敵なこと。だって、世にふたつとないでしょう?」
間で侍女長が「もう気は済みましたか」というようなことを言ったけれど、二人の耳にはやはり入らず、彼女はますます震え上がり、耳まで赤くした。
完全に二人の世界というやつだ。
「この子、美人さんだわ。ずっと見ていたいくらい……」
もともと饒舌だが、この時はそこに無邪気な熱意が乗って一層魅力的だった。ハーレィは蝶々を観察していたが、ロランはそんなハーレィの観察に夢中だったかもしれない。
「はい、姫様」
ロランが満足そうに言うと、ふと蝶々がひくひくと羽を動かした。
それからはあっという間だ。
「あ……!」
という声が重なったかと思えば、二人の面前でミヤマカラスアゲハは見事な翅を羽ばたかせ、その勢いで枝を離れた。
ひらひらと泳ぐように宙を舞って、緑と空の青に紛れて飛んでいく。
それを見送るとまるで一本の壮大な演劇でも見終えたかのような満足感が二人の胸に去来して、感嘆に息を漏らしていた。
そうやって振り返ったところに、かんかんになった侍女長が構えていた。
二人はその後しこたま怒られたけれど、ぜんぜん気にならなかった。怒られるかどうかなんてどうだってよかった。神や朝の礼拝だってどうでもいい。
こうして心触れ合える時間を過ごすために、自分たちは生きているのだからと。
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