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第六章『スワンプマンの号哭』
五
しおりを挟むロランが本を一冊抱えて戻ってきて、隣に並びながら読書を始めて少し……。
「あ、あのさ」
時間にして三十分くらいが過ぎてから、ハーレィは隣のロランを——その読んでる本でも、読み進めている姿勢でもなく、その顔を——窺うと、遠慮がちに言った。
「私だって、なにも憎くて厳しいことを言ってるんじゃないんだからね……その……私なりに、そうした方がいいって思うからそれを言ってるだけ……だって、そうでしょう? 大抵の人は途中のことをずっと言い合うわ。でもそれが何になるの? そんなの何も進まない……答え同士で会話しなければ……結局聴きたいのはそこなのだし、余計な時間になるだけでしょ? ねぇ、ロラン。あなたは……そう思わない——?」
「…………」
ロランは本に集中していた。
その目は淀みなく開かれたページを追って流れつづけている。ハーレィのことなどまるで目に入っていない。
耳にも入ってなかったのだろう。ふ、とロランは顔をあげるとそこで意識が覚めたように左右を改めて、初めてハーレィに気付いた。
何事もない、変わらない表情で言った。
「あ、姫様。なにかございましたか?」
「……今の、聴いてなかったの?」
言葉と共にハーレィがじろりと睨みつけるや、すぐに以前のように動揺するロランであった。
「え? あ——も、申し訳ありません! ぼ、僕、夢中になるとどうしても他に気が回らなくなっちゃって……」
「…………」
自分のことを無視した。それはそれでとてつもない屈辱だったが……同時にその集中力には素直に感嘆せざるを得ない。
そして、このとき戒められるべきは自分の方だ。常日頃、人に誠実さを求めておいてそれを認めないわけにもいかなかった……。
ハーレィは入り乱れる憤懣に震え、慚愧の念に奥歯をぎりぎりと噛み締めながら、ぐっと堪えると、
「……なんでもないわ」
「え」
「なんでもないっつってんでしょ!」
「ひっ……も、申し訳ございません!」
軽はずみな癇癪でさらに自分に×がついて——どう返そうともこの男はその敬意がゆえに、私に謝り通す。しかし、断じてそれは彼のせいではなく、私の稚気のためなのに——何を、どうしても、この男は!
ハーレィの小さな頭は予測される無限ループにパンクした!
終いに力無く肩を落とすと、声まで落ち込ませてハーレィは言った。
「いちいち……謝らなくて、いいから」
「え、でも……」
「今、ひっぱたかれなきゃいけないのは——私だ。ちくしょう」
ハーレィが奥歯まで食いしばりながら腕を普段より自分の顔の近くにあげると——ロランはすぐさまその意図を察して、腕を引き留めた。
「ええっ! ひ、姫様、ダメです!」
「何するの、不敬でしょ、離しなさい、ロラン! あんたは黙って読書してりゃいいでしょ!」
ハーレィは自分の頬をひっぱたくつもりなのであった。ロランはその腕にしがみつくようにして止めた。
「いけません! ど、どうして! いきなり、そんな!」
「自分で自分を戒めたいときくらいあるでしょ! それをできない人間が、私は嫌いなの!」
「だったら——あ!」
ロランはハーレィの自傷を引き留めながら妙案を思いついた。自分では天啓だとさえ思う閃きだった。
「だったら、姫様! 僕に優しくしてください!」
「——は?」
「僕のことを許せないんでしょ? そんな僕にも優しくしなきゃいけないってのは自分への罰になりませんか?」
「なるか、アホ」
「ひどい!」
とっさに否定したものの、しかし、それは妙案だとハーレィも考え、改めていた。この男の得になるようなことは確かに、自分への戒め、罰になりうるのでは?
このときハーレィは、当然のように自分が優しくすることがロランにとっての得になると考えているが、前提として自分が優しくして男が嬉しくならないわけがないという断固たる自負があってのことである。
まだその真意には辿り着かない。
「……悔しいけれど、う……ん。あなたの言うことも一理あるかも……ね」
「あ……はい! では今から……そうですね。この書庫を出るまで僕に優しくしてください、姫様!」
「突然いきいきしだして……優しくするって? 何をどうしてほしいわけ?」
「え……っと、そうだなぁ……」
「なによ。考えなしに言ってたの?」
「あーじゃあまずはその口調。僕に優しくするんだから、厳しいことはなしです。うんと甘くしてください」
「具体的には?」
「あー、よしよしするとか?」
「は?」
「だから、あの……頭撫でるとか、お母さんがするみたいに……」
「…………」
まるまる一分以上は黙っていた。
ハーレィは少しと言わずに肩を引いて、空間に距離を作り、ロランを見ている。その目つきたるや、まるで貴婦人のスカートの裏側にひっついたものでも見るかのように全霊を込めて蔑むものだった。
これは今朝のとは違うものだ。流石のロランも好きになれない。
「……あんた、マザコンなの。その年でまさかまだママーとか呼んでたりする……?」
でも、ロランも半ばそうだった。
なにか突然、自分でも信じられないくらい呆気なく、ぷつりと感情の線が切れた。
「わかりました……もう、いいですよ」
ロランが哀しげに視線を落とすや、ハーレィは深いため息をつきながら、
「はぁぁ……わかったわかった」
その手をロランの丸い頭の上に乗せると、左右に振った。
「よしよーし。いいこいいこー」
しかし、その手つきはあまりにもやる気がなく、そのやる気のなさはロランの心をさらにえぐった。
母と離れ、目が覚めたら見知らぬ城に一人きりでいる心細さがそうした辛さを巻き込みながらうねりをあげてこみあげ、拳は握られ、その目からはついに涙がこぼれだした。
ハーレィは目を見開いて驚いた。
「ちょ——! ちょっと? 泣くほど?」
「……いえ。もう姫様には何も求めません」
「うそうそ。なんで。じ、冗談というか……いや、ある程度本気だったけど……ジョークじゃない」
「僕だって!」
ロランは号哭した。
「僕だって恥ずかしいとか……! 人並みの感情ありますよ。でも姫様だから……! 命を救ってくれた人だから、勇気出して言ったのに……姫様は僕に何も返してくれない!」
ロランは本気だった。本気の怒りにして、それは諦観だ。あまりにも虐めすぎた。そうなってみて、ようやくハーレィは己の犯した罪に気付いた。
ロランは続けた。
「所詮姫様にとって信頼とは自分にだけ都合のいい、そんなものなんです。けれど、姫様。それなら、臣下はどうやってあなたを信頼しろっていうんですか。何を信じてついていけばいいんですか」
「……ごめん」
「厳しいけれど、良いところもあるって思ったのに……心の痛みもわからない暴君じゃないですか」
「ごめん……なさい……」
二人とも、もう読書どころではなくなっていた。
夕暮れの赤い光が差し込むまで、痛く、重苦しい沈黙が、二人がハーレィの寝室に帰還した後も続いた。
その様子は間もなく侍女のマリーにも伝わって、
「……差し出がましいようですが、姫様」
「なに」
「なにかありましたね?」
「知らないわよ」
食事で城内に降りるときのために、改めて煌びやかな宮廷ドレスを着付けしてもらいながら、二人は話した。
マリーは淑やかだが、滔々と聴かせるように言った。
「ロランさんはまだ少年ですよ。それが起きたら突然まるで見知らぬ人の家に預けられており、しばらく暮らすことになったのですから、心細くもなりましょう」
「…………」
「そして、男というのはプライドを傷つけられることにとかく敏感なものです。ロランさんは虚勢を張るような殿方には見えませんが、一寸の蚊にも五分の魂と申します。あまり可哀想なことは為されないよう……」
「……わかってるわ」
ハーレィは髪を結い上げられながら、鋭く決意を瞳に宿して言い、
「ええ。姫様なら」
その両肩にぽんと手を乗せて、マリーは微笑んだ。
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