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第六章『スワンプマンの号哭』
四
しおりを挟む朝の礼拝と朝食を済ませると、ハーレィは家庭教師の座学の時間だった。
そこで言語学、修辞学、音楽、算術に幾何学。
それから当時の女の嗜みとして医学の知識や裁縫、料理等の家庭科。
読んで字の如く座ってできる基本的な学問から兵士として戦場に立つ男たちを補佐し、恥じることなく嫁げる(この部分に特にハーレィは冷笑する)作法に芸事まで全般を叩き込まれるのだが、その実ハーレィ自身は何一つ彼女らから学んだことはないと豪語する。
いや一つだけあるとしたら。
いかにこの時間が無意味かつ非効率的なもので、人をわざわざ教えようと進み出る人間の本質が歪な顕示欲、支配欲に満ち、その自惚れに救いようがないか、ということだった。
通例寝室なりその奥の間で行われる授業は、チョーカー家の事情により、特別に当てがわれた専用の部屋を用いて行われた。
大きな欠伸をこぼすハーレィの隣でロランが挙手する。
生徒は他にも数人いた。皆、このチョーカー家に仕える侍女見習いの子供たちであるが、彼はさっそく朝の失態を取り返すチャンスだと人一倍、意気込んでいたのだった。
「はいっ! ニガヨモギとはキク科ヨモギ属に属する多年草で、その苦味成分に抗菌作用があることから防腐剤から戦場では薬草にまでさまざまに用いられます!」
「大正解! ロランくん、予習してきた? それとも、前の教えがよかったのかな?」
「実は長旅になるので……とサバイバルに関しては少し学んできました!」
その後も他の見習いをさしおき意気揚々と答えていくロランの横で、ハーレィは頬杖をついて延々そっぽを向き続けていた。
そもそも通常男の子は上級騎士について、馬の世話や給仕手伝い、いわゆる遣いぱしりに走り回らされている時間である。
それがハーレィの隣で他の侍女見習いと同じように座学を受けており、そのことを本人もいたって気にしていない。
客人だから、という以上に彼の可愛らしい見た目にこの特別な采配の原因がありそうなこともハーレィの反感を買った。
「あんた、バカなの」
座学の時間から解放されるや、ハーレィは極めてつまらなさそうにロランを罵った。
ロランはとたんに目を泳がせて動揺する。
「え……え!」
「一度パンツ脱がせて、本当にモノがついてるか確認したいくらいね」
「ひ、姫様! なんてハレンチなこと——」
慌てた矢先、ロランの頬に平手打ちが飛んだ。
ハーレィがすぐさまその場に足を止めて、犬を躾けるように引っ叩いたのだ。
「すぐキョドんな。それから教養人や召使……大人たちに良い顔をして……そんなに自分は良い子だって思われたい? 情けない……自分というものがないの?」
「……申し訳ございません! 姫様」
涙を浮かべて項垂れるロランを引き連れて、ハーレィは見通しのよい中庭前の廊下を抜けながらも続けた。
「何が申し訳ないの」
「姫様の……ご期待に沿うような言動ができなくて……」
「私の期待とは?」
「……凛々しく、する?」
「私の顔色を窺うな。またひっぱたかれたい?」
「も、申し訳ございませんっ!」
「ああ、本当にひっぱたきたくなってきた……謝るなら、言動で示そうとは思わないの?」
「次からはそうします!」
「……自然に育まれる精神に基づく自律よ」
「え——いや! はい! 姫様!」
「それが得てして凛々しいという表情や所作……すなわち外見になるの。自分の視点、感情を大切にしつつ、深い見識から我を律する。人間というのはそういうことができる生き物なのよ。できないから家畜と呼ぶ。どちらかではない。どちらも必ずできる。覚えておきなさい。私が一番嫌いなのはね、ポーズだけのクズ」
「はい! 肝に銘じますっ!」
「なら次に、あなたには何ができるの」
「もっと男らしく堂々と致します! それから、教養人のおばさま、召使のお姉様方にも横柄に接してみせます!」
「……ふん。まぁいいわ」
まだ納得はしていない様子ながら、初日から痛めつけすぎて折れてもしょうがない……そう考えて、ハーレィは打ち切った。
長い通路と階段を跨いで、ハーレィが向かったのはまず寝室だった。
「姫様。では、僕はここで……」
お待ちしておりますと言いかけるより早く、ハーレィは戸を開けながら当然のように言った。
「何言ってんの。あんたも入るのよ」
「え?」
「いいから……!」
ハーレィはそう言うと強引にロランの腕を引っ張って中に入れ、かつ自分は廊下の端々に目を光らせてから戸を閉めた。
「マリー。例の服を」
そうして中で待機していた侍女に告げるなり、ハーレィは部屋の中を足早に進みながらドレスを破くように脱ぎ捨て、髪も同時に解く。
慣れた女性の妙にしてあっという間の早業だったが、それはロランの目も憚らずに行われ、彼は目を見開いたまま気絶するかのように言葉を失い、入口で立ち尽くした。
その間の記憶がない彼の代わりに説明すると、一番の問題はやはりコルセットである。腰回りを固定することで腰部への負担を軽減するために補強されるドレスの定番といえるパーツだが、これは前部、または後部についたハトメを紐で結いて着用する。
しかし、実はその他の細々としたパーツも大抵紐で結く。
そこでハーレィはあらかじめもやい結び……またはボーライン・ノットと呼ばれるような頑丈で、かつ解きやすい結び方をしておいて、速着替えに応用した。指で結び目を引っ張るだけで解ける結び方だ。
それらをまとめて引き抜くと、あとはローブを二重三重に着ているだけなので、これだけで格段に着替えのスピードがあがる。下着のシュミーズはそのままでいい。
そして奥の間でマリーと呼ばれた侍女が用意していた軽装……庶民が着るようなリネンで上下一枚の長袖のローブ……裾丈の短い専用のカートルに素早く袖を通すと、髪も簡単なポニーテールに結い上げ(これもまた早業だった)、換気と調光のために開け放たれた鎧戸から縄を放り投げて言った。
「じゃあ、マリー。いつものように」
侍女のマリーは脱ぎ捨てられたドレスの断片を拾い集めながら、しわにならないように丁寧に腕から提げて返した。
「はい。姫様。今晩はお父上の仕事が半刻ほど早めに片付きそうでございます。それでは、ごゆるりとお寛ぎくださいませ」
「ありがとう」
ハーレィは言うと、ロランの方を向き、首の振り方で『続け』と示し、ひと足先に窓の外にその姿を消すのだった。
「…………」
マリーと二人、部屋に取り残されたロランはまるで心の準備もできていない急展開に頭が追いつかず足取りも覚束ないまま、とりあえずというように、部屋を横断した。
その間もじっと目を閉じ、上着掛けのごとくその場で待機……というより静止に近い……しているマリーの隣を通り過ぎ。
そうしてロランがもたもたとしながら鎧戸に到着した矢先、そこから腕が伸びて、彼の胸元を掴んだ。
「いいから早く来い……!」
ハーレィは窓の外からそれだけ凄んで、ようやく彼は尻に火がついたように彼女の後を追って鎧戸を越えるのだった。
その先は当然、絶壁であった。
外敵の侵入を防ぐために窓際に掴まるところなどなく屋根はさらに上の方。——だが、青虫が保護色で周りと同化するように、外壁と同じ色の縄が目立たないように垂れ下げてあった。
ハーレィに急かされて降りる寸前に(通常、手順は逆だが)室内を見てみれば、縄は上手いこと奥の間のベッドの脚に括り付けられていた。
とはいえ、二人の服装は同化しておらず、見る者が見れば一瞬で気付かれる。ハーレィは縄にしがみついたまま、なおももたもたするロランを下から急かして言った。
「遅い……!」
「とは言っても……ひ、姫様……僕……」
「あんた、木登りしたことないの? あれと同じよ」
「そ、そんなこと言われたって……」
どうにか無事地面に着くと、見計らったように縄が勝手に動いた。
上を見ると窓からハーレィの寝室に吸い込まれていくのが見える。中で侍女のマリーが引っ張り上げている……今更だが、彼女はグルだ。証拠隠滅を図っているのだ。
と思いきや、すぐにハーレィがロランの耳をひっぱった。
「見惚れてないで……こっち!」
「い、痛いです、姫様……」
ハーレィは突き刺すような勢いで人差し指をロランの眼前に突きつけながら、彼を厳しく睨め付けて言った。
「これ以上遅れるならもっと痛い目に遭わすわよ」
「…………」
……しかし正直なところ、それはロランの一番好きになりつつある彼女の目つきだった!
しかも彼は多感な成長期……恐怖と興奮の両方を複雑に相食むがごとき胸中を存分に味わいながら、彼はこくこくと頷いた。
しかし、ハーレィの舌は一度滑り出すやしばらく止まらない。ロランの内情などまるで気にせず続けた。
「ぐりぐりと踏み潰して、見た目通りの女の子にしてやる。お母様はさぞ驚くことでしょうね、三ヶ月の間に息子が娘になっているんですもの。嫁ではなく嫁ぎ先を探さなきゃ、おーーっほっ……今は静かにしなきゃダメでしょ。もう、笑わせないでちょうだい」
「……自分で言ったんじゃ……」
「しっ。お願いだから静かにして」
内容もさることながら、ハーレィのめちゃくちゃな脅し文句に満足すると、それからもロランは黙って彼女の後に続いた。
城周りの草むらに隠れながら、近くの鎧戸を引き開けて(これもまた事前に閂の錠を外してある)再び城内へ入ると、時に立てかけられた甲冑の影に隠れて兵士の巡回をやりすごし、時に部屋を渡って召使の横を壁越しに抜け、辺りを警戒しつつ二人は進んだ。
「大体さっき言ったばかりでしょ。あんた、あんな大人の女がいいわけ? やっぱり」
「な、なんのことですか、姫様」
「とぼけないで。マリーが美人だからって気にして……確かに私が選んだだけあって美人の上に超有能だけど、あれは私の侍女なんだから。許さないわよ」
「なんのことですか、姫様……そもそも、どこに向かってるんですか? なぜ姫様は庶民の服を?」
「愚問ね。第一に着けば解るわ。第二にあんなドレス、動きにくくてしょうがない。それに知らないの? あのふわふわのスカートの中身。あれってね、バレずに用を足すためのものなのよ。そんな汚いもの、一秒だって着ていたくないわ」
「えっ……てことはひめ——」
「……それ以上何か言うなら死よりも恐ろしい目に遭わせる。夢をぶち壊すようなこと言うんじゃないわよ」
「……自分で言ったんじゃ……」
そうして二人が着いた先は、日陰でも日向でもなく、城の中心から少し外れた大広間にある、見渡す限りを本棚で埋め尽くされた古書の保管庫——大書庫だった。
本はこの時代、極めて高価だったが、チョーカー家の先祖が知識人だったのか、古今東西の古書が、城の中程のスペースを縦に三階分にもわたって貫いた高い空間内に、無尽蔵に詰め込まれている。
ハーレィに言わせてみれば、朝から晩まで具にもつかないおべっかを言い合うのが趣味の、この城の人たちにしては、信じられないくらい良いセンスの詰まった場所であった。
彼女はその知識の大半を独学……というより雑学を身につけるかのように、ここで会得した。
当時大陸のほとんど全てを占めていた〈神聖アルカディア王国〉だったが、その広過ぎる領土とそれゆえの強力な宗教的支配が災いして、文化が育つほどに各所で反乱勢力を築き、それが基で独立戦争が起きていた。
そうしてやがて南の〈アルカディア〉、北の〈ナルガディア〉、争いを嫌う小領主たちが集って孤島に潜んだ北西の〈レナ・ルガディア〉に分かれることになるのだが、それ以前は無数の小国ひしめくいわば連邦というような成り立ちで、同じ国といえど地方で言語がまるで違ったり、文化的にそりが合わなかったりした。
市井ではこれらを必須科目に据えることで情報の流出を防ぎ、かつ理解、交流を図ったのだが、彼女は子供の頃からそのあらゆる言語と文化に精通していた。
というのも、先祖代々伝わるこの大書庫にある本は、いずれを欠いても読めない(大人においても)難しい本ばかりだったからである。
子供の教師といえばお兄さんお姉さん、あるいは母親や親戚が務めることが一般的だった時代に、ハーレィには母がおらず、また父母の親戚も共に小国の外に別の領地を持っていたので滅多に訪れなかった。
そのためこうして城下から雇った教養人の女に講義を賜っているのだが、より幼い頃に一度真面目に受けようとしたきり、ハーレィは彼女たちから何かを学ぼうという意思を完全に失ってしまった。
すでに大書庫が、その代わりとして彼女の好奇心を満足させてあまりある巨大な知識の塔としてそびえたっていたからである。
彼女は時間ができると部屋を抜け出し、本の宝物庫とでも言うような、広く、またカビ臭いこの大部屋にこもって、一冊、また一冊と手当たり次第に摘み出しては、夢中になって文字をたどった。
ルーン文字も混ざった複雑怪奇で曲者揃いの古書ばかり。当然、初めはかけらも理解できなかった。
それが相互に読みかけて、読書するうち、突然頭の中で点と点がつなぎあわされたかのように、まったく関係がないように思われ、それまでぼんやりと感じていた気持ちの悪い頭の中の雲が晴れて、晴天のように明快な理解となって彼女の脳髄に深く染み渡ったのである。
それからはますます夢中になり、知識の量に応じて読了の速度は加速していった。
さながらここにはこの世の全てが収まっている。そしてその大海を、彼女は想像の中で旅して回るように、このいずれ劣らぬ曲者たちを攻略していったのだった。
それゆえ彼女は、自分を育てたのは教養人の押し付けがましい思想などではない。この本……一つ一つに綴られた文字にして、それを遥か過去にまとめたもうた国境も、時間さえも凌駕した教師たちであると信じているのである。
彼女の頭脳は臣下たちの常識を並外れるようになり、しかしそれゆえに目に映るあらゆる人々が大人も含め、皆、バカみたいに見えるようになってしまった。
彼女はロランだけではない。
あらゆる人々に、彼やその母に接したのと同じようにして接した。
その結果、いつしか"鬼をも恐れる淑女"として広まり、臣下には稀代の美姫として羨まれる一方、敬遠されもして、後世にはメスガキのように語られるのだった。
さて、確かに超常的で広く明晰な頭脳を会得したハーレィだったが、これが果たして良いことだったのかはこの時、まだ解らない。
この平和に見えて混沌に満ちた世で彼女は、彼女なりに得た知恵を以て気高く接することで、周囲の人々に貢献しているつもりだったということは、一つの事実である。
例えそれが、現代で言うところのパワハラにあたるとしても。
ハーレィは書庫の東側をすでに踏破して、北側の端から読み進めてまだ間もない頃だった。
慣れた足取りですたすたと本棚の間をすり抜けると、目的の棚から数冊とって、その場に座り込んだ。
「……何をしているの」
そうして間もなく、ハーレィは近くに突っ立ったままでいるロランに言った。彼女自身はすでに手元に分厚い古書を広げている。
ロランはその場で直立不動を保ったまま整然と答えた。
「はい! 姫様の周りに不審なものが寄ってきたときのため警護——」
「またひっぱたかれたい?」
ハーレィは顔をあげると、ロランに凄んだ。
「ここは書庫よ。そして私が何をしていると思う?」
「読書であります!」
「で? あなたは?」
「警護——あうっ!」
「……まだ腕をあげただけでしょ」
ハーレィはそもそも立ってすらいない、その場で腕を振り上げたところで手のひらが頬に届くはずもなかったが、ロランは反射的に身を屈めていた。
ハーレィは呆れてため息をもらすと、言った。
「警護なら外にいるわ。主人がこうして書庫の中まで連れ立ったのだから、あなたのすることは一つでしょ」
「え……」
「好きなのを持ってきなさいよ」
ロランは信じられないように目を丸くして、それから何度も瞬かせた。そうするだけで何も言わない彼に、ハーレィは鬱陶しそうに続ける。
「……なに?」
「僕も……読んでいいのですか? それも、好きな本を?」
「……何のためにここに連れてきたと思っているの。一緒に読書する以外にある?」
「あ……あ! ——た、只今! 只今、選んでまいります!」
「あ、近くにいなくてもいいから。私が帰るときは呼ぶから、好きにして……」
「い、いえ!」
ロランは驚きのあまり、今朝や先ほど叱られた時のような挙動不審になっていたが……真実に背くことこそハーレィに対しては無礼になる。ハーレィにはそれが伝わる——そう思って、思い切って言ってみた。
「よろしければ姫様の隣で……姫様のおそばで! 読ませてください!」
「…………」
今度、不可解に目を丸くしたのはハーレィだった。
これは非常に珍しい。例えばそんな機会は彼女自身この山と積まれた本の中でも、もう時々にしかお目にかかれないくらいに。
数秒……あるいは一分ほどもかかって、ハーレィはやっと声を出して返した。極めてそぼくな問いかけだ。
「……別に。どこでも同じだと思うのだけど」
「いいえ。僕にとっては……姫様の隣が、一番安心しますから」
欲や打算ではない。童心ままのロランにそんなものは感じられなかった。
純粋なその心からの一言がハーレィに刺さった。
再度驚かされて、
「……う、うん。あなたがそうしたいなら。ど、どうぞ? 好きにして……」
ハーレィはなんと、たじろいでいた!
これは召使や教養人が見ていたら、世界の終わりの予兆とされるくらい奇跡的な事象だ。
「ありがとうございます!」
「いちいち声を張り上げなくても聞こえるわ」
「はい。では」
「うん……」
言うや誇り高い騎士にでもなったように肩をいからせて本棚の間を行進するロランの背中を見送りつつ、
「——不思議なやつ……ふふっ」
さらにハーレィは微笑むのだった。
これは父リリダンにして、星の落下を恐れ、祈祷師に希うほどの天変地異に等しいことだった。
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