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第六章『スワンプマンの号哭』
三
しおりを挟むハーレィの産まれた国は、現代の〈ナルガディア〉の南西に位置する大山脈の麓にあった。山を東南に越えれば〈エステバリス〉、反対に向かえば〈アルカディア〉の豊かな大地が見えてくる。
小競り合いの絶えない土地にありながら、山は自然の防壁となって彼女らを護り、育んだ。ハーレィはその小国の何代目になるともしれない王女として産まれ、人間としての十五年間をそこで過ごした。
艶めく漆黒の長い髪。凛と澄まされた小さな顔つきに、ゆるりと垂れる肩。色素の薄い肌に、流れる脚線美。
彼女はひたすらに美しかった。
声も、見た目も、目の輝きの一つですら他に類を見ない輝きを誇り、見る者全てを一見にして惑わすほどに。
国一番の富と権力を持ち、かつ類稀な美貌まで兼ね備えていた彼女は、幼い頃からわがまま放題をして臣下や国民を困惑させるその実、他人にも自分にも厳しく大変に頑固な性格だったという。
その時、彼女の前には辺境からやってきた一台の馬車が倒れていた。従者が手綱を誤って近くの広葉樹にぶつけたのだった。幼きハーレィはその様子を見ていた。
箱の中から貴婦人と小柄な男の子が投げ出され、従者がたちまち興奮した馬を宥め、箱を立て直すのに躍起になる傍ら、投げ出された親子は足元でうずくまっていた。
貴婦人はすぐにハーレィを見つけ、気を失ったままの男子を抱えて言った。
「私は急ぎの用があって、すぐに行かねばなりません。さぞかし名のある家のお嬢様と見受けます。どうかこの子を三ヶ月ほどばかり預かってはいただけませんか?」
ハーレィは手の甲で蠕動運動を繰り返す小さなイモムシを眺め、その先に貴婦人を見据えながら言った。
「嫌ですわ。なぜわたくしが羽虫のお世話をしないといけないの?」
「え……え! はむ?」
「このような青虫でも自らの醜い身体を懸命に引きずって、ありありと自分の宿命を生き抜こうとしておりますのに……」
「そ、そこをどうか慈悲を……」
「出ましたわ。慈悲。慈悲……慈悲をどうか。青虫にも劣る情けない顔つきをして……」
ハーレィは愛でるようにイモムシを近くの幹に帰すと、改めて貴婦人に向き直った。
うろんな目つきだが、その芯にはなにか……少女とは到底思えない冷たさと静けさがあって、貴婦人はたちまち目を奪われていた。
「大体あなた、今、西の方からいらっしゃいましたわ。この辺りは大国を三分する小競り合いが始まって久しく……西の国の〈バラ・クワーマ〉の間者とも限りませんわね。それに魔族であるかも。例えば、そう……吸血鬼とか」
「な——! そ、そのようなことは……!」
「おほほほ。言ってみただけです。それに本当に吸血鬼なら私はもうとっくにかじられてしまっているでしょう? 少しは頭を使いなさい、グズ」
「な、なんてこと……」
「お黙りなさい」
ハーレィは貴婦人を残酷に見下ろして言った。
「この世で私が最も許せないものの一つが弱者の愚。いいこと? 慈悲を乞うて願いが叶い賜うなら誰でもそうするわ。けど現実には千年待ってもそんなことは起こらないから皆、叶わぬ可能性も見据えた上で不毛になるかもしれない努力を日々重ねるの。あの青虫だって次の瞬間には鳥に食べられてしまうかもしれないけれど、蝶になるために懸命に地を這いずっている。無意味に見えて、実に美しいわ」
「……で、ですけど、そんな風に言えるのはあなたが初めからそういう力を得ているからで……」
「ざぁこ」
「ひ、ひどい!」
「ひどい? むしろ優しいくらいですわ。この私自ら相手をし、かつざこいあなたでも解るように教えて差し上げているのよ。命などそもそも誰に乞うてもならぬ。本当に願うならば只管、孤独であれ虎視眈々として耐え抜き、自らの実力を見せつけ、わからせるしかないのだとね」
「ハーレィ! ハーレィ、よーい!」
「パパ様!」
背後から男性の声がしたかと思うと、ハーレィの気配は打って変わって見た目相応の少女に返った。
その変わり様はまさに別人。ノストゥラ婦人は恐ろしいものを見たようにその時こそ縮みあがり、男性の介入に安らぎを覚えた。
「ハーレィ……! あまり遠くへ行きすぎるな。私を心配させないでくれ」
「ごめんなさい、パパ様。大きな音がしたもので……」
「大きな……おっと、これは! いったいどうなさった! ご婦人!」
男性は顎を挟んでたくましく伸びた白髭を湛える壮年で、名をリリダン・キュルテン・チョーカーという。この小国を収める領主にして、ハーレィの父であった。
ノストゥラ婦人は先刻のことがあって少女ハーレィを警戒しながらも……しかし、やはり意を決すると彼に救いを求めた。
「あ、あの……私はカーミラ・ノストゥラ。西の〈コヨ・クラーマ〉から〈バラ・クワーマ〉を超えて参りました。夫は伯爵です。私はこれから急ぎ東方に赴かなくてはならなくて……怪我をした息子を連れてはいけませんの。用事が片付き次第、あなたの家に物資を授けます! 必ず! ですから、どうか……どうか、息子を……」
多少は自分の言ったことを鑑みて話している様子に、ハーレィはリリダンの太い腕に抱かさりながら満足げに微笑むのだった。
◇
ハーレィは父リリダンと久方ぶりに城を離れての行楽中だった。林の中を散歩しているうちに国境に続く道に出て、カーミラと名乗る女性の事故に遭遇した。
彼女の息子ロラン・ノストゥラを城に連れ帰ると、ハーレィの父リリダンは子供が一人増えるということで急遽家族用の空き部屋を掃除するよう侍女に命じ、一方でロランをいったん使用人の部屋に運び入れた。
夜更け前に彼が目覚めたと聴くや、ハーレィはいい子分ができると部屋を飛び出し、喜んで迎えに行った。ここまでがカーミラと遭遇した時とっさに頭の中で企てたハーレィの計画である。
ロランは使用人の部屋の寝台に寝ていた。頭を打っていて、包帯の巻かれた頭をまだぼんやりと浮かべている。
ハーレィ本人こそ認めなかったものの、ロランはそれこそ彼女に見劣りしないくらいに麗しい男子だった。
強い陽や灯りにかざすと透けるくらいの金髪で、顔は女性用のドレスを着せても似合いそうな童顔に小さな背丈。
ハーレィは木椅子を寝台の脇に引いて座ると、上体を起こした彼と向き合い、声をかけた。
「あなた、歳は?」
「十二……です」
「ふーん、私の一つ上ね。だけど、世界の姫といえば私なのだから、当然年齢なんて関係ないのよ? わかった? ロラン」
「はい……姫様」
「……あなた、思ったより頭が回るようね。いいわ。これからあなたはいついかなる時でも私のそばについて、私と共に過ごすのよ」
「はい、姫様……」
同じように返事をしたそのときだ。
「声を張りなさい。まるでみじめな野良犬みたいで見てるだけで吐き気がする」
——ハーレィの叱声が飛んだ。
彼女はスイッチを切り替えるように目も、声もとたんに厳しくなって、ロラン少年を戦慄させた。
「えっ……」
「二度言わせるな。幻滅させるつもり?」
続けて畳みかけられる彼女の冷徹な口振りに、ロランはすぐさま背筋を伸ばして言った。
「は、はいっ! 申し訳ございません! ハ、ハーレィさま!」
ハーレィは一つ間を置き、自分も息をついてから、滔々と続けた。
「……いいこと? あなたは今日すでに二度死んでいる。一度目は馬車から落ちた時。もう一度は今さっき。助けられたなんて思わないで。あなたはまだ崖に掴まってる最中ということ、くれぐれも忘れないようになさい」
「は、はいっ! ハーレィさま!」
「ふん……まだ情けない感じだけど、まぁいいわ。今日からよろしくね、ロラン」
「はいっ! ハーレィさま!」
その日からロランの特訓の日々が始まった。
ハーレィの噂は実は隣国にまで伝わっていた。鬼も恐れる淑女がいる。その噂通りにハーレィの躾は厳しいものだった。
毎朝時間通りに起きて、寝台の手入れを済ませ、外に出ると最初の挨拶。扇を携えて廊下を過ぎるハーレィに頭を下げて出迎える。
「…………」
……のだが、コルセットに引き締められた宮廷ドレスに身を包み、頭を整え盛り上げて、細部まで化粧を施した彼女の完璧な装いは、まさに絵画から飛び出してきたような光景そのもので——ロランは初日、とっさに目を奪われて凍りついてしまった。
通りがかりにハーレィの鷹のような鋭い視線が刺さったところで我に帰り、慌てて頭を下げたがもう遅かった。
ハーレィはロランの前に近寄るや——その頭を掴んで鳩尾に膝を入れた!
下腹部を貫く痛みと苦しみに呼吸もままならず喘ぐ彼の頭を掴んだまま持ち上げると、
「これで三回目……三ヶ月、もつのかしら」
彼女は囁くように眼前で低く凄んだ。
その目つき。
眼球がじろりと自分の内部まで覗くかのように睨みつける動きの一つ、毛細血管までも見えるような淀みのない白目の様一つ、紫色に透き通った虹彩の照り返し一つでさえ、なにもかもが、恐ろしいまでに美しい……!
そして凄んだ次の瞬間にはもう、ぱっと手を離し、自分からまったく興味を失ってしまったかのように、廊下の前を向いて再び何事もなく行進を続けるのだから……余計にたまらない。
絶対零度に全身がすくみあがるようでいながら、頭の後ろの部分がびりびりと悶えるその瀬戸際に立って、ようやくロランは、この女性の本当の恐ろしさが身に染みたような気がしていた。
嫉妬する……!
例え忌み嫌われ、罵声を浴びせかけられようとも、あの瞳に、眼光に、射すくめられるのならむしろ本望だ——。そう、心の底から誑かされるような身震いするほどの美貌を、さらにそれ以上に洗練された一挙手一投足が際立てる!
もしかしなくても、この一瞬で完全に折れ、萎縮してしまうものも多いのだろう。
——が、ロランは違った。
魔女か魔法か……その天性魔性の資質に触れると、ロランは中てられた恐怖に震えながらも、虜となる自分に気付かされるのだった……!
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