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第六章『スワンプマンの号哭』
一
しおりを挟むインベルからもらったコウモリがカゴの中で羽音を立てていた。
天蓋付きのベッドで目を覚ましたとき、外はすでに暗かった。
ハーレィは一つあくびをつきながら起き上がると、帝都〈ネオ・スパイラル〉で流行り、ハルピュイア便にて取り寄せたもこもこの夜衾とナイトキャップを被ったまま誰もいない食堂に降りて、とうもろこしを砕いて固めたシリアルをトマトジュースに浸して食べた。
その後歯を磨き、着替えを済ませると、地下で水槽の様子を確認したのち、居間のソファに横たわって何度となく繰り返し読んだ古書を開き、また読んだ。
感情はなかった。
何をしていても、どこにいても。
研究はお爺様の亡くなったあの日を境にストップし続け、横道を逸れ続けている。
熱意というものはいつもそうだ。
燃え上がった瞬間やその近くの時期こそ何よりも強く己を支えるような気がして、自分を励ましてくれる一方、ある日ふとぱったり途切れたり、少しならと思って気を抜いたことがだんだんと標準化したり、あるいは誰かの傍若無人を目の当たりにしたりすることで突如すべて夢か何かだったかのように醒めて、なにもなくなる。
熱意にブレーキは効かない。壊れるまで飛ばし続けることを覚悟してアクセルを踏み抜くか、あるいはまたいずれ火がつくのを期待して、今はそっと足を浮かすかの選択を迫られる。
しかし、その時はエンジンに火が点き始めるのもまた相応の労力がいるということを忘れていて、どうしようもない。
もしブレーキが効くとしたらそれは熱意ではないし、その人はまだ熱意を知らないのだろう。
だがそれが正常である。
すなわち熱意とは、人の持てる狂気的な側面そのものだからだ。センチメンタルに表現するとこれが愛情になる。
寝て、覚めると、昨日の夜にいた元気な自分が霞のようにいなくなっていて、まどろっこしい自分が目を覚ましている。またここから、一日かけて狂った自分を思い出していく作業が始まると思うと気が乗らず、頭をからっぽにもしたくなる。
起きたてが一番死にたい。
朝目覚めて死にたい自分と夜に生きたいと吠える自分と、どちらが狂っているのかはさておき、ハーレィといえばいつもそんなもので、起きたばかりが最も機嫌が悪い。機嫌が悪いというよりは、エネルギーがない。寝る前には夢中で考えていたり、気になっていたりすることがからっぽになって、嘘のようにやる気がなくなっている。
いつからか……(ハーレィは一度忘れたことを二度と思い出せない)気付くと飼い出したコウモリの相手も、いかんせん肩から飛び上がるときの羽音がうるさくて、最初はそれっぽく見えるかと思い、面倒を見ていたものの、十八時間でカゴに閉じ込めたきり、その存在を忘れた。
使用人のいない広い屋敷を見て回り、掃除を済ませた頃には日を跨いでいる。
彼女は集めたごみをまとめて袋に詰め、月下のもとを散歩がてら歩き、麓の村の収集所に届けた。
オレンジ色の常夜灯に向けて吹かされた紫煙のように漂う雲の隙間に、ぼんやりと浮かぶ黄色い月を眺めて、詮無いことを思う。
いつまで、こんな日常が続くのか。
私はいつまで、生きていればいい?
「今日こそ死ねっ! この吸血鬼魔女めっ!」
暗がりから突如として青年が飛び出してきたときには、ハーレィはその眼前に腕を突き出していた。そして、彼の振るう直剣の太刀筋を見極めると、刃を摘み、容易く手折ってみせる。
「まだだっ!」
青年は狼狽える風もなく、すぐさま懐からボウガンを取り出すと、彼女の至近距離で矢を放った——が、それもまた放たれた直後を見極め、ハーレィは軽く指でシャフトを摘んで止めた。
矢尻からは染み込んだ毒液が垂れ落ちた。
「なんのっ!」
終いに彼はパンパンに張り詰めた小袋を投げ、自身は素早く岩陰に伏せる。
どんっ! と地響きが一つ起きて、粉塵を巻き上げるとともに視界が大地と揺れ動く。
青年は勇んで岩陰から身を乗り出し、もうもうと噴き上がる埃の中心を覗き込んだ。
「どうだ、やったか?!」
「たわけ」
しかし、そうして拳をかかげた時には、ハーレィはすでに青年の背後にいた。
シャフトをつまんだまま、その手の甲をぽかりと彼の頭の上に落として言った。
「こんな粉爆弾ごときで妾を果たせるわけがないじゃろう」
「……い、いつのまに!」
「例え当たっていたところで、すぐに復活する。本当に妾を殺したいのなら、戦車の一つも率いてこんか。……まぁそれでも無駄じゃろうがの」
青年はその場に尻をついてハーレィを見上げると、降参したようにがっくりと肩を落とし、大きくため息をついた。
「……うちに、そんな金はない」
「なら、剣技を磨け」
「……俺に、そんな才能はない」
「なら、ルーン文字を学べ」
「……辞書を買うなんて夢のまた夢だ」
「はぁ……」
青年の情けなさにハーレィも言葉をなくし、同じように頭を抱えた。
「……そんなんでは千年あっても、妾に傷一つつけられんぞ。どれか一つでも、今日変えてみせるとかそういう……」
「……だったら! あんたんとこにある本を! 俺に貸してくれよ! いっぱいあるんだろ!」
確かにハーレィの屋敷には古い学問書が所狭しと積まれ、書斎はおろかあらゆる部屋を埋め尽くすばかりにあった。
しかし、ハーレィは神妙に目を細めて返した。
「……あれはアドル爺様のものじゃ。それにルーン文字の辞典など一冊もない」
「……ちくしょうっ……ちくしょうっ……ちくしょうっ!」
青年が肩を振り上げ、拳を地べたに叩きつけようとしたところだった——ハーレィは彼が用いた得物の数々を止めたように、素早くその手を受け止めた。
青年は手首の感触に気付くや、すぐに腕を振るって喚き立てる。
「な、何をするっ! はなせっ!」
「やめておけ。そなたの傷は簡単には治らんからのぅ」
「うるさいっ! お前に関係あるか!」
青年はしまいにハーレィの手を振り切って、結局地べたに手をついたが、その時指は四方に広げてあった。
青年がそうして己の無力さを嘆き、涙までこぼす傍ら、
「…………」
ハーレィは未来を予知するようにそれら青年の挙動を見ていた。
青年が、拳をそのまま振り下ろした場合の未来では、その涙に、余計に、彼の紅い血が混じっていただろう。
彼の美しい肌は地べたの石ころで傷つき、破れ、そこから血が滲み出していた。土にしみた細菌如何で爛れることさえあったかもしれない。
数百年と生きた吸血鬼に比べたら人間の、それも青年は弱く……あまりにも弱く、その実殺意だけは本物だ。
身に余る憎悪と妄執にその身体はいとも容易く傷ついて、そしてすぐには治らない。
枯れてなお続く、自分のようにはいかないから。
ハーレィは、その虚しさを嫌ったのだった。
「……今夜はこんなところか、ルカ」
「…………」
そっぽを向いて無言で答えるルカの頭に、ハーレィは手のひらを乗せた。
「よし、よし。無力さを嘆いておっても詮無い。ま、時間だけはあるからの。せいぜい頑張ることじゃ」
「……この豚女め。いつかチャーシューにしてやる」
「はいはい。妾も今、お主の家に行こうと思っておったところじゃ。途中まで、共に行くか」
さながら孫にそうするかのように、優しく声をかけると青年を起き上がらせ、並んで麓の村を抜けていくのだった。
ハーレィの屋敷からすると対岸。村を抜けた先の丘にそびえる彼の屋敷へと。
◇
ルカの襲撃はその日に始まったことではなかった。
ハーレィの活動時間帯は夜更け以降、夜明け前に限定される。
そのため夜毎、彼は自分の店を開く前にハーレィの屋敷を訪れ、そして出てきた彼女をありとあらゆる手段で襲いかかる。この習慣は、それこそ彼に下の毛が生える前から続いていた。
ハーレィはルカを村の途中にある酒場まで送り届けると、そのまま村民の寝静まった家屋の間を通って、彼の屋敷に赴く。
彼の母に迎え入れられ、ときどき食事をいただき、そして彼の父に会って、夜が明けないうちに帰路に着く。
母にご馳走にならなかったときには、帰りの道すがら、ルカのやってる酒場に寄り、彼の作った特製のご飯を食べ、やはり帰路に着く。
根が真面目なのか、アホなのか。この食事に毒が盛られたことだけは、一度としてなかった。
そうして屋敷に戻る頃には丑三つ時くらいになるので、彼女はまた読書に耽り、ときどき気付いたことがあれば試して、明け方かその頃に地下からあがり、鎧戸を閉ざした真っ暗な部屋で寝につく。
それでも寝台はある。彼女は生前を思い返すように布団に包まるのが好きだった。少しでも人間味のある生活を、と爺様が用意してくれたものだった。冷たく味気のない棺の中では眠らない。
ルカの部分を先代に変えれば、彼の襲撃以外のこのルーティーンがもう何十年と続いている。
その間もハーレィの姿は変わらない。
ずっと同じ姿、肌のハリ、美貌を湛えていた。
彼女がまだ人間の、それも絶世の美姫であった頃のままに。むしろ、肉体として死んだ時よりも若く、時折幼い姿で。
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