魔王と! 私と! ※!

白雛

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第五章『魔王(仮)』

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 ロウリーク卿の屋敷に使用人はいない。
 正確にはそれは正しくない。"生きた"使用人はいない。
 皆、死霊か屍、それらを禁忌の呪法で動かしているものだった。そのために入ったその瞬間からロキはむせかえるような腐臭に顔をしかめた。
 執事はリビングデッドに礼装をまとわせたもの。出迎えの飼い犬も目玉が落ち、ハラワタが飛び出したもの。
 誰も彼も肉としては腐りきり、ドブの匂いが室内中にこびりついているのだった。
 以前はまだマシだった。姉フレイアが懸命に香水を撒いて、死体の匂いを隠していたからだ。
 それが数年のうちに微塵もなく、取り払われている……。
 見ればそこかしこにクモの巣が蔓延り、下駄箱に上着掛け、床はおろか階段の手すりに至るまで見渡す限り埃だらけだ。
 まともに人が住んでいるようには見えず、売り出し中の没落貴族の廃家屋かおくのようだった。
 姉の住まう気配が、まるで見えてこない……。
 こんなところに本当に姉は住んでいるのか?
 それから……ロキは隣を盗み見るように伺った。
 レイスァータではない。その胸に抱かれた少女を見た。
 この子はこんなところで暮らしているのか……。
 これが吸血鬼の暮らしなのか? 脳裏にはさまざまな憶測が浮かんでは渦を巻き、立ち所にまた気分が悪くなった。
「おや……大層、顔色が優れませんが、若。どうでしょう、姉に会っていかれる前に、途中に客室がございます、そこで一休みでもなさっては——」
「一刻も早く……!」
 ロキは一喝した。敵意を隠す気もなかった。
「用事だけ済ませて、こんなところからは立ち去りたいんだっ! 貴様は黙ってフレイアのところへ案内しろ!」
「ひっ……」
 呻いたのはレイスァータの胸に抱かれた少女だった。
 メルキオール。そう呼ばれた少女がレイスァータの胸に顔を隠すようにして、ロキはたじろいだ。
「あ……」
 レイスァータが胸元の少女を厳かにたしなめる。
「こら、メルキオール。客人に対して失礼だぞ。顔をあげなさい」
「はい、お父様……」
 顔をあげた少女は怯えた目つきでロキを見た。
 たまらない。まるで自分があの頃の父にでもなったような気分にさせられる。
「くく……それでよい。若、失礼いたしました。我が妻フレイアは地下におります。こちらです……くくくくっ」
 そんなロキを眺めて、もはや笑いを堪えることもできなくなったように言いながら、レイスァータは暗がりの廊下の先を進んだ。
 ロキは苦汁を味わいながら、彼の後に従い、地下へ。
 一歩、一歩、下りていく。
 地下は想像以上の下劣さだった。
 まずあらゆる生き物が檻に閉じ込められた部屋を抜けた。
 獣、虫、樹木生命体、妖精の類が囚われている。獣は来客があるととたんに唸り、吠え出し、比較的大人しい樹木生命体や妖精たちは鉄のカゴの中に肩を寄せ合い、哀しげな上目遣いを寄越していた。
 臭いも地上とは比較にならない。この辺の地下には死臭が染み付いている。それが充満して、終いに鼻が効かなくなる。
 それからヒトそのものを含めた人型の生き物もいた。
 隣部屋の獣たちと同じく男女問わず檻に囚われ、もはや理性味のかけらも感じられなかった。
 それらの部屋を過ぎて、果ての一室に、ようやく辿り着く。
 それまでの部屋とは打って変わって、中はぼんやりと明るい。
 隅に並んだ天井まで届く大きな透明の瓶の発光が、壁に括られたランタンなどよりもずっと強く、部屋全体を不思議なエメラルド色にとっぷりと浸からせているようだった。
 透明の瓶の中には液体が詰まっていて、それが光の発しているようだった。さながら海中にいるような感覚を覚えるのも、おそらくその液体のかすかなゆらめきの為。
 部屋に入り、床に下ろされるなり、メルキオールがとたんに駆け寄っていって、瓶に張り付き、その中を嬉々として眺めた。
 液体には赤子が浮かんでいた。
 自分と比べれば指先ほどの小さな手のひらを握りしめ、背を丸めて目を閉じているが、メルキオールが声をかけると、むず痒そうに顔をしかめて身動いだ。
 生きている……。
 一つの瓶に一人。まだヒトの形を成していないもう一基を含めて、計三基の瓶が並んでいた。だが、手前の一基はすでに破られ、機能を停止している。
 息がしづらかった。
 自分の呼吸が音になって聞こえ、固唾を呑む。
 ロキは尋ねた。
「これは……これは、なんだ?」
 透明の瓶の足元には黄金の札がつけられ、文字が刻まれている。
 真ん中がバルタザール。奥がカスパール。そして機能を停止したものの前には……メルキオールと書かれている。
「ホムンクルスですよ」
「ホムンクルス……人造のヒト……貴様が造ったというのか——この子たちを……!」
「そうです。今現在も製造中です」
 つまり……——ロキは驚愕におののきながら、足元で赤子を眺めるメルキオールを見た。
 ——足元で妹たちの出産を心待ちにして眺めるこの子も、こうして産まれたのだ……。
 そして、三基の瓶から無数の管をつたって、部屋の中央には見たことのない物体が置かれていた。
 まるで土で固めたスポンジケーキに近い。円の形をして、上面は平ら。円の外には小窓がついており、周囲の瓶と同じように、中は緑色の液体で満たされているのが見えた。
 レイスァータは奥へと進み、それに手を置き、振り返ると、こともなげに言った。
「フレイアです」
「……は?」
「ですから、我が妻フレイアです。これが」
 視界が奇妙に揺れた。
 レイスァータの言った言葉の意味がまるで解せない。
 脚から力が抜けていく。虚脱感。
 恐れに震えが止まらない……!
「は? どういう……」
「これは〈ナルガディア〉国内でも極秘裏に開発された人工子宮というものに、私の長年に渡る研究成果を加えて完成させたものです。いや、素晴らしいでしょう。彼の地の技術力は。どうしてでしょうかねぇ……チョコレート、コーヒー、ガラスに銃火器。そしてこの科学技術……この世界の技術力を遥か何世紀先までも超越していますよ、あの国は……」
「な、何を言ってるんだ、おまえは」
「理解できないか? まぁ所詮ゴリラから産まれた猿程度の頭では致し方あるまい」
「……姉さんはどこだ?」
「ですから、これが……」
「姉さんはっ——!」
 闇雲に怯えるように、ロキの魔力が膨れ上がった。
「どこかと聞いているんだぁぁーーーっ!」
 ロキは叫びながら一足飛びで詰め寄った。
 レイスァータはしかし、微動だにしなかった。そうして襟を掴まれ、機器の横に押し倒され、激しく揺すられながら、なお笑っている。
「レイスァータ……! 貴様、姉さんに何をしたっ?!」
 メルキオールが再び驚いて、怯えた眼差しを寄越していた。レイスァータは含み笑いをやめない。
「答えろ! 姉さんに——」
「あの日」
 レイスァータは語った。
 あの日。
 若が城を出て、戦場へ向かったことは間もなくフレイアの耳にも入っていた。そして、あの女は身支度を整え、私が家に帰るなり、事もあろうにこう言ったのです。
「勝手に産み落とし、勝手に人生を決めつけ、それに従わなければろくでなしと言って家を追放する……! 例え一家の長だろうと、親だろうと王だろうと、こんな横暴が許されていいわけがない! それこそ魔王の所業だわ! ずっと言いなりになってきたけど、もう従うことはできない!」
「フレイア。やはり……君たちは……」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい……レイスァータ。あなたと過ごしていく未来も考えなかったわけじゃない……けれど、私の心はもうとっくに——」
 一息そう置いてから、フレイアは穢れのない少女のようにまっすぐに私を見つめて言い放った。
「弟だろうと、この気持ちを殺したままで生きていくことはできません! だって、私はあの小さな救世主のことをこんなにも……」
「それ以上は言うな、フレイア……」
「こんなにも——愛してしまっているから」
 何も言わずに逃げ出していればよかったものを。
 あの女は持ち前の律儀さ、正義感のために愚かにも私の帰りを待ち、一言挨拶を交わそうとした。
 それが災いしたのです。
 気付くと私は彼女をバラバラにしていた。
 月明かりだけが戸の隙間から差し込む、真っ暗な玄関で、腕に、手についた彼女の血潮を丹念に舐め取りながら、私は。
「言ったじゃないか——それ以上言えば、私は……愛しさでお前を殺してしまうのだから」
 私は彼女の断片を拾い集め、この機械に詰め込んだ。
 そして蘇生を開始した。
 ホムンクルスの媒体として、彼女の身体を用い——!
 そもそもあの日。
 君とまみえ、君と彼女との生活を覗き見てしまったときからこうすることには決めていたのだが。
 だって、そうだろう? 若。
 誰かの手で穢れた彼女を抱くより——。

 殺して造り直せば生まれたままの身体は手に入るのだからね。

 レイスァータは己に陶酔しきっている。
 ロキに押し倒されながら、その目はどこを見ているとも知れず、悪びれず、まるで赤子をあやす時のような赤ちゃん言葉を交えて続けた。
「伴侶の穢れなき身体は男の永遠の叶わぬ夢だ。別の男に穢された身体なんぞおぞましくて堪えないのが本音。同じ口で、私に、私の可愛い子らに愛を語るのか? ——笑わせるなァッ! こいつらにはいったい、いったい何枚舌があるんだと思わないかい? 談笑している最中に引き抜いてやろうと考えたことは? 君も男なら……そうだろう? 若。私を裏切らせての密会は・・・・・・・・・・・さぞ楽しかったろう・・・・・・・・・?」
「…………」
 ロキの手が緩んだ。
 戦慄に芯の底から寒気がして、震える。
 全てはあの日から、もう手遅れだったのか。
 あの日、自分が若気に挑みかかってしまった——あの日から。
「ゔっ……」
 ロキは男のおぞましい告白を聴くと、傍らに嘔吐した。
 反対にレイスァータはゆうゆうと埃を払って起き上がるや嬉々としてそれを見下ろし、先の衝突ですだれ・・・のように垂れ下がった前髪を持ち上げつつ、目元を押さえ込んで語った。
「若、被害者ぶってくれるなよ。君だって自分だけの姉君を欲したのはそうだろう。同じさ。君と私は同じ……同じフレイアを自分のものにする夢に駆けた同士……私とて君と同じような感情はある……私だってなっ!」
 狂気的な高笑いを一つ挟むと、自らの欲望、野望の成就を訴えるように、言葉をロキの後頭部に叩きつけた。
「——そしてメルキオールを! バルタザールを! カスパールをっ!」
 ——メルキオールが部屋のすみでビクッと身を縮ませた。
「手に入れるために私は自分にできる最大限の努力をしたまでのことっ! 代わりにもう君の優しいお姉さんは……君を愛した君だけのお姉さんなんか——どこにもいないっ!」
 愉悦に酔うような口調はすぐにも憎き恋敵に対する万感のこもった罵倒に変じた。
「すべてっ! 私に奪われ、塵も残さず、細胞まで解けていなくなったんだよっ! アーーーッハッハッハッ!」
 カオスに支配された地下室で。
 胃の中身を全て吐き戻しながら、ロキは。
 フレイアの臨終の時を想う。
 どんな気持ちで、逝ったんだろうか。
 この男に全てを奪われながら……!
 あまつさえ、これからも、この男は奪い続ける気なのだ。
 メルキオール。
 姉そっくりの人造人間を造り……。
 ロキは思い出していた。
 あの日。
 初めて姉と分かち合えたあの夜のこと。
 ——私たち、どうして産まれなければいけなかったんだろうね。
 ——ごめんね。私さえいなければ、すべて、うまくいっていたのに。
 まるで同じことを考え、歪みあっていたことを悟るや、それまでの時間を取り返すように急速に、魂の溶ける感覚がした。
 それからは自分が味わったことがあるように、この人をむしばむ孤独を払いたいと思った。そう思って日々彼女の寝室に通い、愛を語らい、そうして彼女を抱くたび同時に強く、彼女をこの世の残酷と孤独から守り抜けるだけの強い男になると誓ったはずだった。
 それなのに!
 いつしか俺は強さを外の誰かに求めるようになっていた。
 自分ではない。
 自分にはできない。
 そう、弱気に思い込んで——。
 ——そうでしょう? 王子! 俺は応援しまっせ!
 ——若。期待させてもらいます。
 ——その人が必ずこの国を変え、私たちを夢の国に連れてってくれる。子供たちが理不尽な怒りや哀しみに苛まれなくて済むように、子供らしく生きていける、そんな夢の国に。必ず——。
 みんな、他ならない俺に期待してくれていたのにっ……!
 俺が、やるしかなかったのにっ——!
 記憶と感情が収束して、頭の中で弾け——ロキは、その時、背をそりかえらせて高らかに吠えた!
「うあああああーーーーっ!」
 爆発した。
 その瞬間。自分への怒りと共に。
 ロキの潜在に秘められていた未知数の魔力が。
 枷を外したように周囲に解き放たれ、部屋は眩い閃光に包まれた。たちまち地下にこもった死臭がかききえ、光の渦が部屋を抜け、瓶までも激しく揺らし……。
 もはやレイスァータの笑い声はしなかった。
 彼はその光と暴風の袂にいながら、その中心に立ちはだかるものを驚愕して見ていた。
 メルキオールは瓶に手をつき振り返ったまま、感じたことのない高揚にその者を見上げていた。
 どちらも、見ていた。
 黄金の輝く魔力に包まれ、涙を流しながら立ち上がったロキのその姿を——。






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