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第五章『魔王(仮)』
イントロ
しおりを挟む——五年前。
極北の雪煙る帝都の法廷にて。
「主文は判決理由の後に言い渡します。被告人は——」
昼間にも関わらず、薄暗い議事堂だった。
古い教会をそのように作り変えたのだろう。
極めて珍しいものが石壁のスリットに嵌っていたので、それをよく見ていた。
ガラス細工というものだ。それ自体は古くからあり、黒曜石や石英を用いた不透明体だったはずだが、この議事堂には向こう側の滲んで見える薄い板が幾重もの多彩な色合いの光を落としていた。外の白さと相まって、光が赤、白、水、黄色と鮮やかに投影する。
美しい。
庭に咲く花のように。
あれほどのものが産まれ始めたのなら、この世は飛躍的に進歩する。善し悪しに関わらず……! 己もまた善悪を問わず、その革新を思い、胸が揺れた。
しかし、己にそれを見ることは叶わないだろう。
冷たい頭巾を被ったものたちの頭領が、告げた。
生き物に相対する面差しはない。
数刻を以て尽きる魂の、すでに空になった器でも眺めるような白い眼差しが己を貫いた。
「よって、被告人を死——」
「ちょおっと待ったああっ!」
その矢先だった。
目の前に眩むような光が差した。
その時男は裁判官に対し、背を向ける形で座らされていた。瞳術で呪いをかけられると恐れたヒトのささやかな抵抗によるものだ。
教会の大扉が開かれ、外の雪化粧を反射した強い光が童話にある小狐のように目に突き刺さる感じがして、男は軽く顔を背け、その瞬きのうちに見た。
光の彼方に二つの影が伸びている。
一人は他の成人男性と比べても頭ひとつ抜きん出た痩躯の青年。耳が長い。エルフだ。
もう一人は横にそびえるエルフに比べると幼児にも等しいような背丈の女——ふわふわと掴みどころのない性格を見事に投影したかのような葡萄酒色の髪を花嫁の着飾るヴェールのごとくたなびかせた女。
インベル・レディ・ヴラッドヴェールだった。
◇
——現代の玉座にて。
肘掛けに青色の腕を乗せ、そのまた上に顎を乗せながら、ロキはため息をついた。
「なぁ。インベルはまだ来ないのかなぁ」
謁見の最中だった。
それからも、ロキは村民を三人もさばく毎にうわ言のようにそう呟いた。
「なぁ。あいつは今頃なにをやっているのかなぁ」
「さぁ? このメルキオール、預かりしれませぬが、若。今しばらくは民の言葉に集中なさってくださいませ」
ロキの前には門の外まで伸びた長蛇の列ができている。毎朝から昼過ぎまで続く謁見の時間のためであった。
魔王都〈スターディンリオール〉では戦後そのようにして王城は終日開放され、人々が自由に行き来できるようになっていた。もちろん近衛兵たちの監視はあるものの、戦前のような殺伐とした雰囲気はまるでない。
それぞれ今か今かと列の端を眺めながら、そわそわと囁いて、その時を待っている。
さながら願望器であるかのように、そこでは今代の闇の王であるロキ・エルハザードが人々の不平不満を直接聴き、政にいかす謁見が日々行われているのだった。
しかし当の本人は上の空。
いい歳こいた大人の身なりをして、恋に恋するうら若き乙女のように外を眺めては儚くため息をもらすのであった。
「昨日も夢に見た。俺はひょっとしたら……と思っているんだ。気の強い奴のことだ。ツテを頼って特別に俺に会いに来るなんてことはせず、ひょっとしたらそのうちひょこっと、この列に紛れてくるのではないかとな」
「では、謁見の後、直接会いに行かれますか?」
ロキは鼻で笑った。
「メルキオール。貴様は何もわかってないな。そんなことをしたらロマンを感じられないではないか。こうして待っているところにひょこっと現れるから、心が躍るのだ。それに直接会いに行くなんて、もし向こうにその気がなければストーキングも甚だしい。俺はそのような作法も心情も慮れない凡百の野郎とは確実に違うのだよ。分かるか? だからこそ、向こうからの来訪を待つのが……」
「まぁ! 己のいくじのなさを棚に上げる脳の回転だけはとてもお早く、精の出ますこと。次の方……」
壇上に上がってくるのは老若男女を問わない。
その時は足の震える老人だった。
「ほれはほれはわかき闇の王におかへまひへは大変うるわしゅう……ほにゃらら」
「メルキオール。この者には入れ歯を与えよ。〈ディルトラサの森〉深くに住む鹿の角のエナメル質を用いるのが最適だ」
「は」
玉座の横に立つ秘書が、環を追従させる天体のような先っぽで、背丈の1.5倍はある不思議な杖を持ち出すと、どこからともなく老人の口に歯が生えた。
老人はぴっかりと白く輝く前歯を見せて、にこにこしながら答えた。
「ほ! こ、これは……ま、魔王様! なんと有り難き幸せ……婆様が亡くなったあの日に入れ歯まで落としちまってずっと喋れなんだ……うんぬんかんぬん」
ロキは追い払うように手を振って言う。
「あー、次」
「若」
メルキオールの嗜めに、ロキは八重歯を剥きながらつまらなさそうに返した。
「大変お待たせいたしました! メルキオール? お荷物をお預かりなさって。では、申しをどうぞ」
◇
謁見が終わると近隣の村を見て回る。メルキオールは世に二人といない次元跳躍の達人だ。その日に受けた人々の憂いはその日のうちに彼女の助けを借りて諸州を飛び回ることで魔王自ら解決する。
国内にあるとある山中にて。
崖沿いに面した通り道が巨大な岩盤で塞がれている。
「これが崩落のあった場所だな——ふんっ」
それを見上げながらロキは容易く言うと、腰に両の手のひらを当てがい、魔力を集中した——大気が渦を巻き、ロキの手の包みを中心に暗緑色の波動がみなぎる。
次いで、腕を大砲のようにして突き出すと、プラズマ球が放たれ、岩盤をこなごなに打ち砕いた。しかし、これは……闇の王を名乗るには少々頼りない威力ではあった。ベースに用いているのも初級の球形成術である。
綺麗になった山道を確認して、ロキはかるがると言い放つ。
「はい、終わった。次」
「お待ちください、若」
メルキオールは微弱に浮遊しながら付き添うと、杖の先で山道の隅を示した。
「クズ石が残っております。これではつまずくものがいないとも限りますまい」
「ちっ……こんなのにわざわざつまずくなんてのは、よほどのアホに違いあるまい。山を舐めた報いとしてそのまま死ぬべきだ」
「盲目の方にも同じことを言えますか」
メルキオールは続けて、どこからか取り出したハンカチを目に押し当てた。
「その方は盲目ながら、毎日毎日隣村に住むお医者様のところまで通わなければならないのです。というのも、地元で暮らす年老いた母のため。彼女を養うため、自分はまだ死ぬわけにはいかないと辛い身体に鞭打ち、杖をつきながら村に通い、懸命な治療を続けておるのです」
ロキは歯噛みして切り返した。
「……ならばその母ごと隣村に引っ越せばよいであろうが……」
「そんな簡単に済むならば苦労はいらない……そのような家を買うお金もなく、孤独と心労に耐えながら、慎ましく暮らしているのに……あぁっ、若の鬼畜! 悪魔! 魔王!」
「あーわかったわかった」
ロキはぶつくさと言いながら周辺の石ころを炭にし、胸を張った。
「どうだ。これで文句ないだろう?」
「若。埃が……」
「ちょっと待て。ここは山道だぞ。埃なんてどうにも」
「その方は呼吸器不全で酸素ボンベをつけながら……」
「ぐおおおお」
ロキはメルキオールの取り出した竹箒を用い、周辺を隅々まで払うのだった。
その次は子供の遣いだった(そう言ってしまえば、ロキにとって、このあらゆる雑務がそうなのだが……)。
謁見の最中、そいつは鼻水を垂らしながら、垂れてないほうの鼻に指を突っ込みながら言った。
「えっとねー、あのねー、僕ちゃんね、まおうさまに、やってほしいことがあってねー、きたのー」
「つかえておる、つかえておる。結論から申せ」
「それがねー、ええと、ええと……なんだったっけ?」
「メルキオール、今すぐ医者を呼べ。こいつは頭の検査が必要だ……」
「まぁまぁマルセイユちゃん」
魔王ロキが切り捨てると後ろからその子供の母らしき女性が隣に膝を折って言った。
「ごめんなさいね。いつもはもっとハキハキしてるんですけれど、魔王様の前で緊張してるのかしら。こーら、マルセイユちゃん。はっきり喋らないとダメっていつも教えているでしょ?」
「…………」
その母性。匂い立つようなふっくらとした肢体にふわりと漂う亜麻色の長髪。醸し出す大人の魅力を前にロキは鼻の穴を広げざるを得なかった……!
「まぁいいか」
すると、たちどころにメルキオールが口に手を当て、大声で叫んだ。
「ドクター! ドクター! 直ちにドクターを呼んでくださいっ! 若が! 若の頭がっ! あと股間も!」
「ちょっと待て! メルキオール!」
ロキは即座に怒鳴り返した。が、メルキオールの空間転移術は非常に優秀で、間もなくお抱え医師たちが謁見の間に押し寄せた。それぞれ魔王の急患とあって、口々に病状を確かめる。場はたちまち騒然とした。
「どうしました! 若! ……なんですと?! 若の股間が爆発寸前っ?! 大変恐ろしい奇病のようだ! すぐに服を脱がせ、こちらの担架に! オペの準備を急げっ!」
「いやいや、違う違う! 俺ではない、そこのこぞ……ちが……違うっ! 違うって! ねえ聴いて? 仮にも王の言葉だよ……?」
ロキが口答えした瞬間、大砲のような音が響いた。メルキオールの杖の先端がロキの腹にめりこんでいる。
「き……きさ……どういう……」
ロキは衝撃に意識までも失いかけて、ぐったりとメルキオールに身体を預けた。
毛布を運ぶようにロキの大人の身体を頭から被さりながら、彼女は四肢の間に顔を覗かせて言った。
「若様はご乱心なさっているようです。さ、今のうちに早く運んでしまいなさい」
「は! メルキオール様! オペの内容は?」
「邪な暗器の切除」
「医者がいるのは貴様だったか……メルキオール……」
ぼやけた眼差しを浮かべ、うわごとを漏らしながらロキは失神した。
その日の謁見はロキの代わりにメルキオールが仕り、ロキが子供の依頼内容を改めたのは自室で目覚めた後だった。
その日全ての依頼をこなす傍ら、ロキとメルキオールは行く先々で商店をめぐっていた。
「あーすみませんね。その商品は只今品切れとなってまして……」
「本日分はもう完売しておりまして……え? 予約券も販売と同時に受け付けておりまして、今からとなりますと、半年後の番になります」
しかし立ち寄る店舗どこへ赴いても、このように言って店員の顔は曇るばかり。挙げ句の果てに、
「ヤミチュウと伝説以外で好きなマモノン、三匹答えてください……知らない? 知らないのにカード買いに来るんですか?」
こんな風に質問された上、怪訝な顔で追い払われることすらあった。
「どういうことだ……魔王に対する敬意が少しも感じられないのはこの際百歩譲るとして……このロキに手にできぬ地上のものなどないというのに一個も手に入らんではないか! おかしいぞ、これだけ回って!」
依頼は今、人魔問わずあまねく世界で大流行中、愛好家たちもいるマモノンカードという札遊びの玩具、その最新弾が定価でほしいとのことだった。
魔物といえば〈マリステリア〉。元より娯楽に富んだ国柄だったのが戦後、それらの文化が各国に流通し始めて、子供はおろか大人にいたるまで娯楽家の話題を席巻しているのである。
ところが……、
「……しかし、そこに目をつけた一部の業者が組織ぐるみで品を買い占め、各地で高額で売りさばく……すなわち阿漕な転売の餌食となっているようですね」
「どこのものだ?」
「〈エステバリス〉から入ってきている雑種のグループのようです。ヤクザも一枚噛んでるみたいですね」
「アジト、親、全て洗え」
ロキの目は何を見るともなく、空を睨みつけている。
ただでさえ七面倒な子供の遣いぱしりにさせられてフラストレーションは臨界。そこに来てうろんな諸外国人の傍若無人にロキの怒りは早くもピークに達していた。
「陽が沈むまでに根絶やしにしてくれる……今日が転売屋の落日だ」
「御意」
メルキオールはその傍らにたたずみ、ただ静かに首肯すると額の第三の目を開くのだった。
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