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第四章『血染めの花嫁と敗北の遺伝子』
十
しおりを挟む夜半の酒場前にゴブリンの悲鳴じみた声が響いた。
〈いけねぇ! 姉御! ここは人間社会なんだ! 暴力はダメだ! それこそ姉御にゃ前科がある! 今度こそ世界が敵に……〉
「全世界を敵に回そうとも私の敵じゃないわよ。そんなことになれば、その日がこの世の終わりだ」
〈んなこと言ってたら、マジで姉御! あんた、魔王になっちまうぞ!〉
「魔王なら知り合いに一人いるわ。それがなに?」
インベルはその酒場の両開きの戸を吹き飛ばして入店しながら言った。
「生きんのに、自分が何者かなんてつまらねーこと気にすんのは人間だけなんだよ」
酒場は静まり返っていた。
台風のように入り口を破壊しながら突如として現れた二人組を目の当たりにして。
そこは大衆酒場のようだった。慌てて看板娘とでもいうような初々しいエプロンを重ねたウェイトレスがやってくる。
「ご注文は……?」
「この街の滅亡」
「は……?」
「つまんねー、つまんねー、つまんねー……くそくだらねー境界で生きてるゴミ虫やろうどもの……」
しかしそれは女性店員に向けられたものではなく、彼女の独り言のようなものだ。
インベルは言いながら店内を見回し……見つけていた。
昼間に出会ったばかりの他力本願のクソ事務員の姿を。
「……阿鼻叫喚は地獄絵図」
「あの……」
ウェイトレスがお伺いを繰り返したが、すぐに事態を察した亜人種の主人が止めに入った。トカゲが混じったレプティリアンだ。
「命が惜しかったら今すぐこの街を離れなさい」
インベルは言った。その時初めて彼女は女性店員と主人の二人をその視界に捉えた。
「な……」
そのレプティリアンは驚愕に目を見開いて狼狽混じりに言葉にならない声を漏らしながら、彼女の眼差しを見て……その時こそ芯の底から真に恐怖し、絶句した……。
およそ自分の知る生き物の持つ眼差しではなかった。
殺意もない殺意。この者にとって"それ"は人が普段羽虫を打ち落とすくらいの、むしろ常識的な振る舞いであるということを一瞬のうちに遺伝子に刻み込まれるような、意思のまるで通いそうにない目つき。
それでも残滓と呼ぶような、か細い残り香程度であったが……口調にこそまだかろうじて女性としての温情を残しつつも、インベルのその目に、もはや光はなかった。
冷酷なパニッシャーのごとき漆黒の瞳が感情の一切を削り落として、さながら出荷を控える家畜を眺めるかごとき冷たさで、無機質に二人を覗き込んでいた……!
「あ……あぁ……!」
遺伝子からして敗北を悟る。
種の本能が逃走を脳に命じる。
自分は単なる被捕食者であった。
逃げねば。自分たちの信じる神だとか言葉だとか、そうした意思の一切が通用しない。逃げねば……その尊厳などはじめから全て虚構であったかのように……! 路傍に転がる何変哲ない石ころの如く、そのただの歩行の元に踏み潰されるだけ……!
そう、デザインされているかのような無機質極まりない目つきだった。
「ここはじき戦場になるから」
女性店員と主人は互いに肩を抱き寄せあい、こくこくと無言で首肯すると、埃を立てることすら失礼になるかのように、静かに押し黙り、インベルの挙動を見守った。
それだけ言うとインベルは店内を突き進んだ。
オークと女が下衆い面突き合わしている奥の席まで。
間もなくアズサの隣にいた傍目に見分けがつかないほど同じ顔したアバズレが気付いた。とっさにアズサのカートルの袖を引く。
「ね、ねぇ……こっち……くるんだけど——!」
次第に恐れ上がって声を大きくする女の隣で、アズサの目がインベルを捉えた。
インベルは笑った。
「よぉ。昼間は世話になったな」
「あ、あれ?」
アズサはその雰囲気の変わり様に多少驚いて見せたが、すぐに上から下まで視線を流すと、気軽そうに笑って切り返した。
「なぁんだ、やっぱあんたも来たんだ。いいよ? 座りなよ。……へいきへいき。この子が今言ってた昼間の——」
そう言って隣に囁くアズサの前に、インベルは有無を言わさず拳を振り下ろした——。
それは閃光だった。光速を超えたインベルの空拳の速度は眩い光となって周囲一面、店内全域を白く染め上げ、身体ごと消し飛びそうな途方もない威力の衝撃波を引き起こした。
金属の発振にも似たキン——という耳鳴りが止んで。
目を開けたとき、土埃の中から浮かび上がる原材料にまで戻ったテーブルを見つけて、それぞれ愕然とし、皆、世界の終わりをもたらす巨大隕石を空に眺めるように、おそるおそるとインベルを見上げるのだった。
爆撃の跡のように地面には深い穴が空き、その縁に焦げ目がついている。底の見えないクレーターができている。それはちょうどU字型の席に座っていた彼女の股先ぎりぎりのところまで広がっていた。
インベルは耳の裏をかきながら言う。
「なに勘違いしてる? てめぇみたいなアバズレとゲロみたいなこんな店の酒交わすわけないだろ」
「あ……あ……」
恐慌に満ちたアズサの眼前で、インベルは全身の細胞から怒りを噴出させるように言い放った。
「私はただお前を……ぶっ殺しに来たんだっ——!」
再度放たれたインベルのオーラは店内のテーブルというテーブルをひっくり返し、悉くグラスを割り大皿を割り、その内容物をぶちまけ、破壊し尽くした。
店の外からも怖いもの見たさの観客が集った。
他の客たちはすくみあがって一斉に倒れた柱や看板やひっくり返ったテーブルの裏に身を隠した。
アズサは突然始まった審判の日に全身を哀れなくらいに震わせて、すでに涙ぐみながら、しかし気丈にも言い返した。
「な……なにが?! なんだっつぅのよ! 私が……わ、私がいったい何をしたって?!」
「魂の殺人」
インベルはにべもなく言う。
「てめえは純心を侮辱した。純心を踏みにじる侮辱は魂の殺人に及ぶ。よって、侮辱を込めた死で以て贖わせる。そう決めてるの」
「き、決めたってえ、え、偉そうに……! なんであんたがそんなこと——」
「だって私、救世主だから」
アズサ含め、誰もが耳を疑い、しかし同時に静聴する中、インベルはたんたんと続ける。
「私がいなきゃてめえら今頃皆魔族の奴隷か腹ん中。なら、残ったお前らどうしようと私の勝手だろ。文句あるか」
「な……ま、魔王じゃん! そんなの! 救世主だからって、あんたが神様にでもなったつもり?!」
「なら魔王にでも神にでもなってやるわ、どうでもいい。どうでもいいんだよ、そんなことは。私の目の前で気に障ることが起きた。重要なのはそれだけだ」
「ま、まってくだせえ! 姉御!」
アルが言いながら飛び出し、間に割って入った。
しかしアルを見下ろす眼差しにさえ、感情の色は少しも伴わない。
「ひっこんでろ。もう私の喧嘩なんだよ」
「いいや。姉御! こんなことにあんたはもう力を使っちゃならねえ! それが今、はっきりと解った! あんたはもう——」
「アルキメデス社長……」
アズサがアルの言葉尻を遮った。
振り返ったアルと目線が交差する。
一瞬……恐れ混じりの控えめな視線のように見えたのも束の間、アズサの目つきはぎらっと鋭く尖った。
「ちょっと! 社長がどうしてこんなところにいるんですか?! 休職中のはずでしょ? いったい……」
目元を釣り上げ、アルを責め立てながら、アズサはさらにインベルと見比べると、得意満面に続ける。
「あーそういうこと? この女と遊び回ってたんだ……皆大変だってときに自分だけ仕事休んじゃってさ!」
「う……確かにそうだが。遊んでたわけじゃ……」
「最低。男としても、人間としても……あまつさえこんな用心棒みたいなの雇ってさ、誰かを責める資格あるんですか?」
そこで先の衝撃波に倒れ、気を失っていたオークや狼男たちの意識が戻った。かぶった木屑を払い、それぞれ頭を振って一人また一人と起き上がってくる。
〈くっそ……いきなり何が起きた? なんだこりゃ! 爆撃か?〉
とたんアズサは自分の頭ほどもあるその大きな掌にすりより、嬌声をあげた。アズサの顔が小さいというのではない。オークがそれだけ巨体なのである。
「あーん。皆、早く起きてー! コイツらマジでウザいんだけど、皆でぶっ飛ばしちゃって!」
「ア?」
オークはまだ頭をさすりながら、インベルとアルを見下ろして——。
「ナンダ、コイツラ。ゴブリンにニンゲンのメス……」
——しかしインベルの鍛え上げられたしなやかな肢体に視線を這わせると、いやらしく目つきを細めて魔族の言葉で呟いた。
〈へへ、しかし……こりゃさぞかし楽しい夜になりそうだ……〉
ピンク色に色づき、顔も腕も腹もでっぷりとよく肥えたその身体は和の国〈オノゴロ〉に伝わる相撲取りの平均水準と比べても、軽く一回り以上大きな体格を誇り、殊筋肉量と粗暴さにかけて巨人族を除けば右に出るものがなく、それよりもまだ融通の効く知性を持ち合わせていることから、魔王軍でも廉価な戦力として重宝されたのがオークだ。
しかし、その全てをたった一言で表すこともできる。インベルのような勇猛な戦士ほど好んで使うスラング。すなわちその生き物は、まるきり二足歩行ができる豚である。
アズサはヒヅメこそないもののそんなオークの掌に己の身体を押し付けるようにして言った。
「あの二人、やっちゃってよ! そしたらあーんなこと、こーんなこと何でもさせてあげるからー!」
「……っ」
彼女の口から恥じらいもなく飛び出す卑猥な表現にアルの表情が曇る。オークたちは慣れない人語で笑った。
「ダハハハッ! ナニ、コイツラ。オマエのモトカレ? オンナはイイケド、ゴブリンカヨ。クソダセェジャン」
「マァミテナ。ドイツもコイツもワンパンでシズメテヤンヨ、ガハハッ」
前髪を垂らした狼男もキザったらしく吐き捨てて、アズサの甘い声色がそれに続いた。
「きゃー。格好いいー! 頼もしいー!」
獰猛なオークたちが出張ってきたことでインベルがすぐに気を発しようとしたが、その矢先アルが制止した。
「姉御、だめっす!」
「アル。なんでっ——」
「姉御はもう戦っちゃならねえ! ここは俺が……」
「とミセカケテ!」
——言うが早いか、オークはインベルの方に迫った。
「姉御っ!」
オークの樹木のような腕が、間に飛び込んだアルの側頭部を貫いた。
アルの小さな身体はインベルの目の前を吹き飛び、窓際に激突したあげく一瞬にして砕け散ったテーブルや鎧戸の木屑に埋もれた。
「アルっ!」
「アリャ……マァイイヤ。ネエチャン。オレとアソボウゼ」
オークは腕を振り抜いた体勢で、改めてインベルの全身に視線を這わせると……そこから出迎えるように両腕を広げ、辛抱堪らないように自身を震え上がらせながら言った。
「タマンネェナ! ニンゲンのオンナッテノハ! ドイツもコイツもチョットヤサシクスリャ、マゾク、マゾクッテ、ツイテキヤガッテヨ!」
インベルは鼻で笑う。
「それは堕ちたものね。人間の尊厳も。……あんたみたいな家畜にまで見下されるようになっちゃ」
「へへ……へへ」
ニヤついていたオークがしかし、次の瞬間激昂した。
「イイカ! ニンゲンのメスッ! カチクッテノハニドとクチにスルナッ! オレタチはカチクジャネェー! ホコリタカイ、マゾクのセンシナンダッ!」
「家畜がそんなに気に障った? なら食料でいいわ。豚が人間を見下すなよ」
「キメタゼッ! ナエドコにスルダケジャキガスマネェ! テメェはイタブッタアトにクシヤキにシテ、クウコトにキメタッ!」
「やってみろ——」
その時だった。
背後の瓦礫からか細く声がする——皆の視線が集中する——と、崩れた木屑の中からアルが立ち上がっていた。
すでに目元が覆われるほどに腫れ上がっている。全身はすりむいて青い血だらけ。白目を剥いて、見るからに虫の息だった。そうして立っていられるのが不思議なくらいに……。
〈あ、姉御に近づくな……〉
少しの間を空けて、オークたちは一層大きく腹を抱えて笑い上げた。
「ギャーーーッハッハッハッ! サイコウダゼ、オマエ!」
「ウマレタテのユニコーンミテェにブルッテンジャネエカ! ションベンはモレテネエカ? ダイジョウブカ? オイッ!」
インベルが一睨みで連中を鳴き止ませようとすると——アルの声が響く。
〈姉御!〉
その目にも力が戻っていた。
インベルは即座に切り返す。
「——なんでよ! こんな奴ら……!」
その身体はすでにボロボロ。喉か肺を痛めたのか、息はひゅーひゅーとかすれ、かろうじて支える細い脚の震え様が見るも傷ましい。
——しかしその目は、かけらも死んでいなかった。
仄かにも曇りのない眼で、ただ正面の敵を睨みつけていた。
〈男に恥をかかせねぇでくだせえ〉
「……っ!」
一際大きなオークが進み出て吹き出した。
〈ぷっ、すでに恥だろ。お前〉
アルはボロ切れのような脚をひきずって進む。
オークは慣れた魔族の言語で続けた。
〈情けねぇよな。人間に媚びへつらわなきゃ生きていけねえ。腕っぷしで女も守れねえ! 負けて負けて負け続けて、俺ら強者に奪われるだけのお前の人生に何の意味があるッ?! 生き恥! お前みたいな弱者が生きてることが! すでに恥みてぇなもんだろうッ!〉
〈好きに言えや。でもな、ちっとも怖くねえんだよ、お前なんか〉
〈あ?〉
進みながらアルは言った。
〈なんでかなぁ……人間の残虐性っての、この目で見ちまったからかなぁ……姉さんのパワーを見ちまったからかなぁ……俺の頭の中でもすでにタガが外れちまってるみてえによ。お前みたいの、凄いとか、強そうだとか、怖えだとかこれっぽっちも! 思わねえんだよなぁ!〉
〈へ、へへ……なら望み通りに地獄を見せて——やるよッ!〉
再び。
言うや否や、オークは腕を振りかぶっていた。
刹那。アルは体勢を屈めた。
〈ほらな〉
オークの腕は空を素通りして、小さなアルの頭上を振り抜く。アルは叫んだ。
〈てめえごときじゃ俺の命はもうとれねえ!〉
〈……な〉
〈喰らえっ、豚野郎!〉
アルは叫ぶとともに腕を振り上げ、渾身の力を込めてガラ空きの腹に叩き込んだ。
〈必殺のおおお、ゴブリンパンチだあああッ——!〉
アルの拳はドスっとオークの腹に突き刺さった——。
——しかし。
〈は?〉
〈……え?〉
オークはびくともしない。
何か、文字通り、蚊にでも止まられたかのようにオークは腹を撫でながら振り返ると、
〈いたくねえ……〉
再三店内に響き渡る声で笑い飛ばしながら言った。
〈ギャーーーッハッハッハッ! え? 今、何したの? コイツさーっ!〉
愕然と立ち尽くすアルの周囲で狼男も笑った。
〈オイオイっ! やめてやれよっー! 必殺の……ぷぷぷっ、あ……なんだっけ? ギャハハハッ! 腹いてぇ!〉
〈お前、コメディアンの才能あるよ! 笑ったほうがまだ腹いてぇ! コイツのパンチ、ぜんぜん効かねえーっ! ぷぎゃっぎゃっぎゃ!〉
〈……っ!〉
オークや狼男だけではなかった。強者の余裕に引かれてか、一人がつられて笑い出すと、一人また一人とギャラリーの連中も笑い出し、間もなく店内中が爆笑の渦に包み込まれていた。
屈辱だったが、それでも、まだアルの瞳は曇らない。
その中心に立ちすくみ、震えるくらい拳を握り込んで耐えた……ゴブリン人生、こんなことはいくらでもあった……そう思えば、耐え忍べた——アズサの声を聴くまでは。
アズサも笑っていた。
アルの失態を指さし、嘲るように腹を抱えて笑っている。
それが……アルの心を折った。
その者の1パーセントの良心にかけて強く信じる一方、うすうすと気づけることもある。
もし自分の信じるような人であれば、ならばなぜ? なぜもっと判りやすく好意を返してはくれないのか?
悪戯に弄ぶような態度をとって、心を安心させてはくれないのか。
何のことはない。自分が受け入れがたかっただけのことなのだ。自分が信じられないから……その事実を認めたくなかったから、信じるとか良心だとかそんなさも清く正しくあるかのような言葉にすがって、自分自身で自分を慰めていただけ。それこそが真実の裏返しであっただけ。
俺を一番見下し、バカにしてる元凶こそが、この女なんだ……。
その時こそアルの心は完全に折れた。
たちどころに瞳は曇り、今しがたまであったはずの気高い精神を反映するかのごとき眩い光は失われ、それは彼の全身で表現される。
強く握り込められていた拳もゆるゆると力を失う。解かれる。その強さだって所詮連中からすればそれこそ虫に止まられる程度……そう思えば、悔しさに拳を握り込むことにさえ、もうはや力は、みじんもはいらなかった。
(ああ……惨めだ……絶望する。いとしきをのぞむと書いて"絶望"……皮肉すぎる……そのありふれた幸福は、どういう因果か、俺にだけは微笑まねえ……微笑んだ試しがねぇ……!)
アルは思った。
(ちくしょうっ……ちくしょうっ!)
だらりと腕を垂れ下げ、強く瞼を閉じて絶望した。
(悔しい……ああ、悔しいッ! なんで……それならなんでっ! 俺は産まれちまったんだよっ! ぢぐしょうっ! こんな惨めな運命になるだけの……敗北の宿命を生きるくらいなら! 初めから、俺なんか産まれてこなきゃよかったのにっ——!)
正確には三人。
その中にいて、くすりとも笑わない者がいた。
恐怖を植え付けられて逃げるタイミングも逸した女性店員とレプティリアンの主人。
それから、女剣士のインベル。
その声はしかし、やかましい笑い声の中にあっても静謐に——凛然と響いた。
「——いや、効いたよ」
皆がそれを聴いて、目を白黒させた刹那。
大砲のような音が轟いた。
店内を束の間激しく揺らし、されどその一瞬のうちに、その場の誰の目にも映らないスピードで拳は放たれ、彼女の腰にしまわれる。
「私の心を震わせた——」
もう音はなかった。
誰も笑っていなかった。
その一瞬のうちに、オークの腹には大きな風穴が空いていた。
店外まで……いや、それなど容易く越えたはるか地平線の彼方まで——どこまでも、どこまでも続く途方もなく大きなまあるい幾何学模様が。
「世界最強のパンチだった——!」
アルは目を見開いて刮目していた。
その面前で、オークの巨体が力無く卒倒する。
奴は、己が死んだことすら自覚しなかったろう。オークは笑った表情で大きく口を開けたまま、ぐりんと白目を剥いてその場に倒れ落ちるのだった。
「うおおおおおっ!」
誰かが雄叫びのような声をあげたのを皮切りに、再度店内は騒然とした。今度は嘲笑などではない。ゴブリンの放った果てしない威力のパンチを賞賛し、喝采する声だった。
「すげぇ! 見ろよ! あのでけぇオークがぺしゃんこだ!」
「あのゴブリン……いったい、なにしたんだっ?!」
アルは戸惑いながら、傍らのインベルを見上げた。
「あ、姉御……」
「さ、アル」
二人の会話を清聴するために歓声がやんだ。
インベルが一歩進み出ると、先の一撃に恐れをなし、戦意を喪失させた狼男が立ち所に隅に縮こまった。腕をあげてその中に隠れるように小さくなる。
しかし、二人の標的はそいつではない。
足元に小さくうずくまる人間の女。
アズサだった。
アズサは二人の目線を察して、とたんに取り縋った。
「ま、まって! おねがい……」
インベルは例の目つきで足元のそれを見下ろすと、その言葉をまるで感知しないように続けた。
「私の目の前にもう一匹、豚がいる。人間のように見えるだけの豚だ。……どうする? アル」
〈あ、姉御……〉
「あんたがお望みとあれば私は——」
〈姉御——!〉
しかし、アルはそんなインベルを押し留めていた。
ゴブリンの細く、小さな手のひらがインベルの握り込まれた拳に重なる。
包み込むように持ち上げられたその拳は、先の一発のためにオークの青い返り血に塗れていた。
インベル自身の拳が傷付けられることなどない。しかし、アルはそれを痛ましく見ていた。
〈だめっす、姉御。こんなことに拳を使っちゃ〉
アルは毅然とインベルのその漆黒に閉ざされた眼を見つめ返して言った。
〈姉御は言いやした。むしろコイツらの方が仲間だなんて思ってねえって……——なんて寂しいこと言うんだって思った。世界を救った人がそんな寂しいこと言って、その手のひらが同じ人間に向けられるなんて……そんな哀しいことあっちゃならねえ〉
アルは続けた。
〈しかしね、姉御。この手は同時に、俺を救ってくれた。俺にとっちゃかけがえのない尊い手のひらなんす。綺麗で優しい手のひらのはずなんす。その俺の憧れをもうこれ以上汚さねえでくだせえ〉
「…………」
〈この手だって泣いてるみてえじゃねえか。女の子の手なのに、こんなに血に塗れて、途方もない力込められて、いてえって、泣いてるみてえだ。……だから、姉御。姉御。もう二度と、こんなことに姉御の力は使っちゃならねえ。あんたの心まで魔王に染まっちまわねえように〉
「…………」
インベルは、
「ふ……ふんっ。そ、そんなこと言われても、ぜ、ぜんぜん? 何とも思わないけど?」
インベルは、再び目を、耳を疑っていた。
アルのその他の臭いセリフは一切どうでもよかった。ただアル、コイツ。今……。
インベルは自分の拳を隠すように胸にしまい込んで。
(いま、こいつ、女の子って言った……私の手! 女の子扱いされた……!)
じんわりと胸に広がる何かに全感情を包み込まれながら、インベルは乙女さながらに嬉しさで飛び上がるのだった。
(救世主になってから、初めて女の子扱いされた……!)
それから改めてアズサの方に向き直ると咳払いを一つ。
「ま、でも女として言っとくと。コイツはそんな情けをかけたところで何とも思わない。ラッキー、助かったーくらいのもんで、どうせまたどこかで都合のいい男を見つけては……アル、あんたのように殺しを続けると思うわよ」
インベルは再度言いながらアズサを一瞥するが、その目に先ほどまでの冷酷さはなかった。
「この女が生きることで、あんたみたいな犠牲者は産まれ続ける」
しかし、厳しく続ける。
「どう? それでも、コイツ、今ここで始末しないほうがいいだなんて言える?」
〈姉御……〉
アルのその目にも冷たさはない。アズサには呆れるような、一方でインベルには嗜めるような目つきをしてアルは、慣れない人語を介して言った。
「ソレデモ——ダ。アズタロッサ、オレはアンタのコノアトをシンジル。1パーセントのリョウシンにカケテナ」
「えっ……え? 見逃して……くれるの?」
「だそうだ。よかったね、コイツがバカで。——いけ」
インベルが顎を入り口に向けると、アズタロッサはまだ当惑しつつも、ヒトの友人を引き起こしてそそくさと連れ立っていくのだった。
残されたインベルは改めて近くに生き残った椅子を立て直し、カウンターの近くに持っていくと跨ぐようにしてどっかり腰掛けた。
アルも同様にハイスツールを起こすとちょこんとその席に乗った。
「マスター! マスター……あ、そうか。私が追い払った——」
「——はいはい! お客様! ご注文はお決まりでしょうか!」
インベルが独りごちたところ、ずっと床で震えていた女性店員とレプティリアンの主人が急いで駆けつけて、注文を取った。
「この店で一番うまいものとうまい酒」
レプティリアンの主人は爬虫類の目を瞬かせて言った。
「えっ——は、はいっ! ただいま!」
〈姉御、そりゃねぇぜ。〈マリステリア〉の秘境に住む首狩り族だってまだマシな物の頼み方をする。この店は海鮮の唐揚げとレモンサワーがいけるんだ。港から直通で届いた新鮮な魚介を使っててよ、小麦粉を贅沢に使ってパリッと揚げてんのさ。レモンサワーってのは麦酒みたいにしゅわしゅわした酒をレモンで風味付けしたもの。唐揚げとさっぱりしたレモンサワーとの相性は最高なんだぜ〉
「んじゃ、それで」
「——思い出したっ!」
二人ではなかった。二人の団欒を遮って、一部始終を傍観していたギャラリーの亜人種が声をあげたのだ。
「あの女! インベルだ! インベル・レディ・ヴラッドヴェール!」
その名を聴くと、店内が再び湧き立った。まるで魔王が現れたかのように口々に話し始める。
「ち、血染めの花嫁?! 世界中から王子を集めて、鼻息で殺し尽くしたって言うあの!」
「俺は三日三晩で〈グランドシティ〉の酒と食いもん全部食い尽くしたって聞いたぜ!」
しかし今回、その話題は連れの小鬼にまで波及した。
「そのインベルと何気兼ねなく喋くってやがる。あのゴブリン……何者だ?」
という風に。
アルは耳をしだれかけさせて言った。
〈姉御。別の店にします?〉
「いいや。こういうときはね——」
インベルはそう言って腕を空に掲げると、有無を言わさず手のひらから魔力の球を放出した。
それはやはり目も眩むような閃光を放ちながら、腕の直線上にあるあらゆる物質を薙ぎ払い、店外まで突き抜け、空の彼方で見るも鮮やかな一発の打ち上げ花火を咲かせた。
その爆音が鳴り止む頃にもはや二人のことを話す者は一人もいなかった。尻尾を巻いて酒場から逃げ出すか、押し黙って隅に小さくなるかのどちらか。
「——こうすると静かになる」
ほどなくして料理が届いた。季節の白身魚にイカ、タコ、貝類が香ばしく挙げられたものが大皿に乗って現れ、傍にはさわさわと泡立つレモンサワーが添えられている。
「さっ、静かになったことだし。いただきましょ、アル、ミオ」
〈ミオ……他に誰かいるんで? そいつはいったい?〉
言うが早いか、インベルは唐揚げを一つ脇に落とした。
インベルの腰に差された直剣の柄が、瞬間的に膨らんだかと思うと、がっぷりと牙を見せてそれに喰いついた。
アルはスツールから転げ落ちそうになりながら言った。
〈ひええっ! な、なんすか! これ、生きてる?〉
「最孤の竜よ。ま、長くなるし。そのうちあんたにも聴かせてあげるわ」
インベルは唐揚げを頬張りながら、にべもなく言うのだった。
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「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
異世界でぺったんこさん!〜無限収納5段階活用で無双する〜
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間もなく50歳になる銀行マンのおっさんは、高校生達の異世界召喚に巻き込まれた。
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サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
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クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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