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第四章『血染めの花嫁と敗北の遺伝子』
九
しおりを挟む郊外の河川敷にアルはいた。
小さな身体を丸めて座り込んでいる。
〈悪かったな、姉御〉
開口一番にインベルの顔を見るともなく、アルはそう言った。
先手を打たれて、インベルが眉根をごくわずかに上げて間を空けると、その小鬼は寂しげな薄ら笑いを浮かべながら続けた。
〈……顔みりゃわかる〉
「……いや」
インベルは言いながら隣に腰を下ろした。
カートルが泥で汚れようともまるで気にしない座り方。インベルの所作に街の女らしさはなかった。
「良い社会見学になったわ」
「……そうか」
しばらく沈黙が続いた。
陽が沈んでいく。オレンジ色に映えた川辺に、人間の女とゴブリンが足を丸めてぼんやりと座っている。
アルがふと切り出した。
〈姉御は……姉御はさ。ゴブリンって聞くとどんな奴を思い浮かべる?〉
「雑魚」
アルは容赦ない返答にがくっと体勢を崩した。
〈ひ、ひでぇ……〉
「私は優秀だったからね。初めての実戦の時ですら、すでに眼中にもなかったわ。小さくて、非力で、相手にも数えたことがない」
〈う、うん……まぁ、しかし、その通りさ。俺たちゃ弱え。腕っぷしもないし、小さいし、魔力もさほどねえ。たまに突出してるのはいるが、そんなのは一握りでさ、ゴブリン界でも気狂いとか変態といわれる類さ。力ではオークに敵わない、魔法ではエルフがいる。器用さにかけては多少の自信はあるが、職人の花形ったらやっぱドワーフさ。俺たちは……俺たちは、そんな上位互換どもの顔を伺いながら、狭間でずる賢く立ち回って生きてくしかねぇんだ……〉
アルの話は続いた。
そんな俺たちでも出来ることが生まれた。
人間界に入って、自分たちでも小物を造って売って。
そりゃ精が出た。初めて売れたのは靴だ。働き盛りの若え女が気に入って手に取ってくれた。忘れもしねえ。人間界のものにはない丈夫さと風情があるって言われた。嬉しかった。
しかしそうやってくうちに嫌なことも起こる。だんだんと横柄になってくんだ。うちらの製品には自信がある。けれど永遠に壊れないものなんかない。使いようによっちゃすぐに痛む。できるのは延命だけさ。それは自然のことだ。だが、人間たちはそれらを聞きもしねえで道具を粗雑に扱っては壊し、あまつさえ俺たちのせいにしてきたこともあった。そんな時に決まって言われた。
「たかがゴブリンのくせに」
根本のところで俺たちは舐められてんだ。
どうしようもねえ体格差がある。印象も悪い。
だがねぇ……俺らだってそんなもんに望んで産まれたわきゃねえでしょう! 仕方ねえだろ! 俺たちはそれでももう産まれちまった。このろくでもない宿命引きずって息の根止まるまでそれでも生きていかなきゃなんねえんだよ!
望んだ幸せも手にしてえ。なのに、人間はそれを踏みにじることばかり言いやがる。まるで俺たちにゃ幸せになる権利なんかねぇみてぇに。
なんなんだ。なんなんだよ。
大多数の人間どもの性根の悪さは。
それで嫌気がさして、腐っちまう奴らの気持ちも解るんだ。
でも俺たちは踏ん張った。
良いやつもいる。きっといる。
それでも、それでも、それでも……。
……俺は毎日職人たちを宥める一方で、人間たちに頭を下げて回った。
疲れてきた。
そんな頃に入ってきたのが、アズタロッサだった。
俺が頭を悩ませてるといい具合に茶を運んできてくれたり、毎日気兼ねなく挨拶してくれて……疲れた心にゃそんなのが一番効くんだ。当たり前のコミュニケーションってのかな。俺はすぐに彼女に惚れた。
だが同時に彼女の遍歴や裏の顔についても聞いちまったのさ。贔屓する。自分が気に入ってる奴は篤く取り上げ、下で頑張ってる連中には目もくれねえ。
それから、オークや狼男のいる酒場に入り浸ってるとかな。
〈俺に近づいてんのも資産目当てなんじゃないか。とか、信じたくはなかったが、疑心暗鬼は膨れ上がった。んで、気付いたらもう心身ともに疲れ果てちまってよ……〉
「で、休職か……」
〈姉御はさ。こういうとき、どうする? 相手が白か黒かわかんねえ。そんな時……〉
「考えなかったな」
〈考えない?〉
「私の場合は余計なこと考えたって確かめる術もなかったから。疑うこともなかったし……ひたすらに早く戦争を終わらせて、早く故郷に帰りたくて、鍛え続けた……その時ヒナタが何してんのかも知らずにね」
アルは触れると壊れてしまいそうなガラス細工でも見るように複雑な表情をして、インベルの横顔を眺めたのち、続けた。
〈似てるかもしれねぇけど。そんな時、俺は賭けるんだ〉
「賭ける?」
〈そう。1パーセントでもいい。自分が信じたい良心がある方に賭ける。1パーセントの良心にベットして、奇跡みたいな展開を願い、神様に祈って、信じる。ドラマや物語みたいにさ。そんな展開を期待する。そんな話もちらほらと聞いたりもするだろ?〉
一瞬輝いた目つきも、その直後昏く沈み込んだ。
アルはそうして続けた。
〈……だが、いつも負ける。親父のときも、いつの日も……産まれてから今日この日に至るまで、俺ぁ、この賭けにゃ一度として勝ったことがねぇ……!〉
悔しいなんて言葉で表せるような感情ではないだろう。
握り込まれた拳がインベルの目に痛い。
そうして裏切られ続けたのだ。
そうして費やしたことを、時間を、愛を、仇で返され続けたのだ。
そうした者だけが解る厭世感。
この世の救いようのなさがインベルには克明に伝わってくる。
そんな人生もあるだろう。最後まで報われずに、人知れず死んでいく運命も。
それが自分だとは思いたくなくて。抗って、抗って。
それでも、それでも、それでもと言い続け、信じ続け、笑いかけ続けて、尚ヒトは……運命は、我らの期待に応えない。
運命の女神は黙り続けるのみだ。
泣きついたって誰も助けちゃくれない。見てもくれない。救いなんざない。自分一人の手でどうにか切り開いてみせるしかないんだとでも言わんばかりに。
〈なぁ……姉御〉
「ん?」
その目から大粒の涙が溢れていた。
〈やっぱ人って、そんなに……! 信じられねぇもんなのかなぁ……!〉
「…………」
〈そんなに救いようがねえのかなぁ……どこにも心から優しい奴なんていねえのか……気持ちで動くオイラたちがバカなのか? もう無理だよ。何もかも信じられねぇ。人の良心や優しい言葉一つ一つに裏があるように見えて、しょうがねえんだ、本当は……! そう思いたくなんかねぇ。負けない! けど! ——だってよ、姉御。俺は見たことがないんだ! 俺以外に、自分みたいに気持ちで動く奴なんかっ——!〉
アルの震える背を撫でながら、風が止まった。
まるで大地が、空が、大気……この星そのものがそのたった一人の女性に恐れをなし、震え上がるかのように。
ぴたりと音がなくなり、次の瞬間。
その時こそ、怒りが爆発した。
インベルの怒りが。
もはや躊躇いなく——光の激流となって溢れ出し、周囲全土の大地を震わせ、薙ぎ倒さんばかりに街路樹を揺らし、頭上の雲をかき消していく。
通行人は一人残らず突風に遭ったように弾き飛ばされ、アルはぎりぎりのところでインベルの身体にしがみついていた。
そうして立ち上るオーラは魔力のごく微小なヒトの肉眼でもはっきりと捉えられるほどに強く、彼女を中心として——今こそ全霊を以て迸るのだった。
逆立つヴェールのように葡萄酒色の髪をたなびかせて。
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