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第四章『血染めの花嫁と敗北の遺伝子』
四
しおりを挟む戦場で、千人斬れば英雄も、平和になればただの大量殺人鬼。
平和になった世界に武力による権威はただ別の争いを招く危険物でしかない。だからハッピーエンドの続きは描かれることがない。
平和になった世界に救世主は要らない。
平和になった世界に救世主の居場所はなかった。
そのようにして救世主インベルの名は一転して、恐怖の象徴になった。その点でマルティンの根回しが非常に効果的であったことは言うまでもないが、しかしどのみち、同じだったろう。じきにそうなっていたことはインベルの目には明瞭だった。
マルティンとて打算もなく彼女に良い顔をしていたわけでもあるまい。彼は縁談の話で持ちきりになると言った。しかしそれは彼女の影響力、すなわち最終兵器としての側面を利用するための争奪戦が始まるという意味でもあったのだ。
彼女がいる以上もはや武力による衝突に然したる意味はない。彼女の絶大なる戦力はたちどころにその全てを解決してしまうからだ。事実として政情にはそのような折衷論が誕生し、〈マリステリア魔王国〉を除いた各国は水面下で競い合う冷戦時代に突入したのだ。
そんな世界で彼女の存在は味方であればこの上なく頼もしいが、周囲の国々からは畏れゆえのあらぬ因縁も振りかけられかねない、非常に扱いの難しいものだった。
いっそお飾りの花嫁なりとなって、形骸化してもらうことが尤も理想的だったのである。
いつの世も平和と言って、内の実情はそんなもの。とあるやむを得ない事情から争いの仕方が物理的なものから、精神的構造へと変化したに過ぎない。
それが飽くなき欲に駆られたヒトの世情というものなのだ。
それでも——……。
〈グランドシティ〉郊外に抜ける路地を歩いていると、インベルの頭目掛けて卵が飛んできた。
ぱしゃっ、と音にもならないような音を立てて、中身をインベルの側頭部にぶちまける。
一歩二歩しりぞいて、様子を伺う者、面倒ごとに巻き込まれまいとただちに逃げ去る者。それぞれいたが、通行人の目は総じて冷ややかだった。
通りの向こうから卵を投げてきたらしい女が叫ぶ。
「何が救世主だ! アデル様を弄びやがって! あんまり私たちを舐めんじゃないわよっ、この性悪ビッチがっ! 地獄に堕ちろっ!」
それを皮切りにして、口々に通行人たちが呟いた。
「インベルだ……千人斬りのインベルだ……」
「三日三晩で世界中の王子たちとやったってよ……」
「どうせ救世主ってのもそうやって……」
中には最初の女に呼応して糾弾する者もいた。
「そうだ! 俺たちを騙しやがって! この卑怯者っ! 何とか言えよっ!」
「ちやほやされて図に乗ってんだよ! たまたま闇の王にトドメ刺したくらいでよ!」
やがて街人総勢から出ていけのシュプレヒコールのようにまでなった。
それでも——……。
「お姉ちゃん!」
母親に手を引かれていた子供が意を決したように駆けてくる。可愛らしい刺繍の施されたハンカチを取り出すと、背伸びしてインベルの側頭部に当てがった。
インベルは少女の背丈まで身を屈めながら返した。
「……いいの? これ、大切なものなんじゃない?」
「ううん」
「……そっか。ありがとう」
インベルは自分にできるかぎりの笑顔を浮かべて言うと、その子の頭を撫でた。
「良い子だね」
「ウチの子にさわらないでちょうだいっ!」
その手を、娘の母親が弾いた。
「悪魔めっ!」
ハンカチが地面に落ちて、母親が吐き捨てるように言い、娘の手が強引に引っ張られていく。
「行きますよ、ほら!」
「あっ……おねえ……」
「まったくこの子ったら何にも知らないで……」
インベルは腕を掴まれ引かれていきながら、いつまでも振り返り続ける娘に、やはりできるかぎりの笑顔を浮かべて、手を添え返していた。
娘のハンカチは母親の足で踏みにじられていた。
◇
〈エステバリス〉は大陸の東端からぐるっと海岸沿いに南西にいたるまでを占める大領地である。そのまま西に進み続ければ〈神聖アルカディア〉、北上すれば〈ナルガディア帝国〉の領土が陸続きにある。
インベルは海沿いに人の少ない通りを選んで抜けていき、漁村を目指していた。
途中の林を抜ける際に小川によってハンカチを濯ぐと、
「ミオ」
その名を呼んで、目の前に異次元の扉を開いてもらう。
〈ドルグリーヴァ〉の得意技は次元跳躍。この穴を通して、世界中……いやそれこそ世界も時間も飛び越えることができる。
強力な魔術師でも空間に穴をあけ、そこを潜ることで転移は可能だが、他世界に飛ぶほどのものは創れないし、これほどまで自然に素早くやれるのは〈ドルグリーヴァ〉が唯一無二だ。
それに彼は鼻も利く。
「この匂いの元に」
どういう顛末を迎えるかはさておき、インベルはそうしてハンカチを彼女の元に送り届けるのだった。
閉じる亜空間に自分の指までも吸い込まれそうになって、ふと思った。
「いっそ……いっそミオと二人で、違う世界にでも行こうか……ね。ミオはどうしたい?」
「…………」
「ミオの元いた世界ってさ。どんなとこ?」
「…………」
「ここより酷い? それともずっと楽なのかなぁ……いやないか。ならばミオがここにきた理由にならない」
「…………」
「ここ〈テスカトリポカ〉はどうだった? それどころかぜんぜん別の世界も無数に見てきたんでしょ?」
「…………」
「どこまでいってもこんな世界が続くだけ……か。ねー、答えてよー。あん時は話してくれたじゃんー」
〈ドルグリーヴァ〉は答える言葉を持たなかった。
ただ柄の目玉を開いて、インベルを覗き込んだり、時折困ったふうに細めてみせたりするだけだ。
漁村は都会のような雑音がなく静かだった。
近くの平原まで来る頃には潮の香りが風に乗って運ばれはじめ、蒼ざめた海と空が視界の上部を占める頃にはどこからともなく波の音が鼓膜を優しく揺らした。
山育ちのインベルにとって海は新鮮で、山の自然よりも遠い神々だった。
全ての命はここから始まった。
月並みだけれどそう想いを馳せると、なんだかこの世にある憂いとか憎しみ、人の脂肪と呼べるようなものから解放されて、心が自然そのままに立ち還られる気がするのである。
人。人。人だ。
人を中心にしている。
人が世界の中心だと思い込んでる。
しかしそこからして間違いだ。
人は命のあり方の一つに過ぎない。
先達の生き物たちから見てみても遥か後続。
なのに、その影響力は計り知れない。
一つ一つは弱いはずなのに。
まるで病原菌だ。突然変異して、悪化もする。
人は、星を喰らう細菌のようだ。
そうして実り良かったこの星までも食い潰していくのだろうか。
荒波がぶつかる崖の上に座り込んでいた。
風と水と緑と土。それだけが彼女の心を洗った。
あの女の子の小さな指と手を思い出して手鏡する。小さな手のひら。かつての自分もそうだったように、なのにいつの間にか大人になって、あの小さな中にあった力を忘れていた気がした。
とんでもない勇気だ。
見渡すかぎりの人が怒号を飛び交わせている中を走り寄ってくるなんて。
自分の大人になった手のひらを握り込む。
捨てたもんでもない。
負けていられない。
世の中は無情で、人はこの上なく残忍だけれども、その中で芽生える小さな出会いや愛しみに、まだ自分は生きていていいと背を支えられる感覚がする。
インベルは救世主だ。
それでも——……まだ人が好きだった。
どんなに忌み嫌われていようとも、どれだけ足蹴にされ、心無い言動に蝕まれようとも、それでも——あんな子供もいて、その純粋さに救われることがある。
(大人にならなかったら、ずっとああでいられるのだろうか)
だから一時の悋気で全てを破壊すべく言葉や呪いを発することもせず、必ず訪れると信じるその一瞬のために、まだ死ぬわけにはいかない。
自分には彼女が困ったとき、それを救いうるだけの力が必ずあるはずなのだから。
でも、目から涙が出てきた。
悔しい。ああ、悔しい。
今にも〈ドルグリーヴァ〉を振るって、世界を破壊し尽くしてやりたくなる。それをお望みなんだろう? そう言って笑いながら、魔神にでも何にでもなってやりたくもなる。
だってインベルはまだ二十歳そこそこの女の子なのだ。十代と比べても、まだその背にこの宿命は重すぎる。
「うあああああ……なんでだよ! 私は救世主なんだぞっ!」
インベルは海に向かって叫んでいた。
「あれだけ持ち上げといて、あれだけ優しくしといて……そりゃ私も……ちょっとやり過ぎたとこあったかもしれないけどさ……じゃあ、お前らはなんなんだよっ! 汚いことの一つもせずに生きてる奴がいるもんかっ! そんな自分らのことは棚に上げてっ……よってたかって……」
足が大地にめり込んだ。大気がインベルを中心に渦を巻いて逆巻き、砂埃を飛ばし、気づけば空に走る灰色の柱となっている。
稚気にすこし魔力をもらせばこれだ!
私は強くなりすぎた! もはやまともな人間たちのところへは戻れないほどに。
でも人間って何だ?
そんなことが関係あるのか。
なんでつまらないことを考える。
垣根なんか、どこにもないはずなのにっ!
「ちくしょう……ちくしょうっ……ちくしょおおーーーーっ! 人間なんてっ——大っ嫌いだーーーーーーーっ!」
しかし哀しいかな。その遠吠えすら海に円形の亀裂を走らせ、地平線の彼方まで幾何学模様を描く圧倒的な力の波動になって、大気を焦がすだけなのであった。
二年後。彼女はとある地方の村酒場にいた。
一人、奥の席についてひっそりと酒を嗜んでいると、二人組の客が両開きの戸を叩くように入ってきて、新たに酒とつまみを注文する。
問題はその内容だった。
「いやー今日も一日疲れたなぁ!」
「聞いたか? お前。〈血染めの花嫁〉の話!」
「あーそういやそんなこともあったなぁ。世界各国の王子を呼び集めて千人斬り……まーったく上流の奴らは何考えてんだかな。羨ましいよ、人生楽そうで」
「この辺に来てるらしいぜ」
「マジかよ! サイン貰いに行く? もしかしたら一発……」
インベルは席を立った。つかつかとその二人組の駄弁るテーブルに歩み寄っていく。周囲の客はそれとなく気がついて、殺伐とした雰囲気が充満し始める。
「お客さん!」
制止する酒場の主人をよそにインベルは二人の青年に向き合った。
二人もすでにインベルの接近に気がついている。怪訝な顔を浮かべて彼女を見ると、
「……なに? だれ、あんた?」
そっけなくそう言った。
インベルはくすり……とほくそ笑んだ。
「サイン書いてやるよ。どこがいい? そのだらしねえ腹か? それともマヌケな面がいいか?」
「はぁ?」
「んなこと言っといて顔も知らねえのか、てめえらは」
「はぁ? 何言ってんの、この女……あ、ひょっとしてこの酒場の……マスター! ここいつから売春窟になったの」
「やめとけ、坊主ども! その方はなぁ……」
再度今度は二人にかかる主人の制止も聞かず、青年たちはインベルの顔を吟味するように覗き込んだ。
ミミズのように折れ曲がった細い目つきと男らしくない風情が、第一印象でインベルはダメだった。性格は顔に出る。正確には表情に。これならまだ芋臭くても故郷タジべのカッペ連中のがマジな家庭を築くだろう。これもまたインベルの経験則だ。
「顔は良いけどさ……ちょっと言葉遣い悪いんじゃない、君。それじゃ客とれ」
次の瞬間、青年のうちの一人が姿を消した。
一瞬だった。
跡形もない。
驚いた主人が腰を抜かしたようにカウンターにすり寄り、嘆息をこぼしながら言った。
「こ、殺したのか! インベル! インベル・レディ・ブラッドヴェール!」
「人聞きの悪いこと言わないで」
すると屋外から叫び声がした。
青年のものと、あとに女性の声が続く。
客人たちが窓辺に走り寄って外を見ると、酒場近くに生えた街路樹の一本に青年がぶら下がっている。
肌着が枝に引っかかっているようだが、下半身は何も履いていなかった。衣服は亜空間に置いてきてしまったらしい。
「人を性的に侮辱したんだから、こんなもんでしょ」
「あ、あんたがインベル……?!」
青年が細い目つきをまんまるく見開いて喚くと、インベルはつれなく返した。
「一つお利口になったわね。初めまして。さようなら」
二の句を告げるまでもなく、青年は気づくと先の一人と同じように下半身すっぽんぽんで軒先に追いやられていた。
村の女たちの叫声が聞こえてくる中、インベルは奥の席に戻って陶器のゴブレットを持ち上げた。
「マスター。もう一杯」
酒場の主人は哀れなくらいに腰を引き、手揉みをしながらおずおずと提言した。
「あ、あのな……近くに棲むオークどもを追っ払ってくれたことにゃ感謝してる……けどな、騒ぎは起こさんでくれ。もしこれ以上暴れるつもりなら……」
「豚どもは野蛮で加減を知らない。暴れる機会を失って抑制が効かなくなった奴らがこの村に押し寄せていたら、アンタらはさぞ面白おかしく蹂躙されていたでしょうね。蹂躙よ? 解らないなら言ってあげましょうか。男はケツから杭を咥えさせられて串焼きに女は苗床になってた……」
インベルは冷徹に言いながら、ゴブレットの底に残る最後の一滴までも口の中に溢した。
主人は口ごもって言う。
「……何が言いたい」
「この世が平和に見えんのはアンタらの頭がお花畑だからだ。私に偉そうにされたくなかったら、次からは自分たちで身を守ることね。明日には私はもう出てくから」
「…………」
「マスター。もう一杯」
据わった目つきで盃を突き出すと、主人はすごすごと奥に下がり、新しい杯を持ってくるのだった。
インベル・レディ・ブラッドヴェール・ド・マリアンヌ。この時二十四歳。
職業:賞金稼ぎ——未婚。
世界は救えども我が人生に待ち人来らず。
故郷を離れて根無草。行く先々で悪さをする魔物をこらしめ、立ち寄った村の平和を守り、その日その日を気ままに(自堕落に)過ごす毎日を過ごしていた。
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