魔王と! 私と! ※!

白雛

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第四章『血染めの花嫁と敗北の遺伝子』

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「さぁ、入って」
 言うなり、アデルは怒張したリビドーをぶつけるようにインベルに迫った。
 もはや強姦に等しい情熱的な抱擁とたっぷりの口付けのあと、部屋を横断して足が寝台にぶつかると、そのまま押し倒された。
 アデルは燕尾えんび服を剥ぐようにして脱ぎ、戦士たちと比べては華奢きゃしゃだが文民なりに引き締まった上体を覗かせながら、すでに片手はインベルの身体中をむさぼるように撫でていた。
 恐れはなかった。
 闇の王を制したインベルにとって人間など取るに足らない。恐るるにあたわず。
 ただ身を任せて、アデルの好きにさせていた。
 しかし、この時この瞬間まですっかり忘れていたのだが、インベルには己の手足よりも外しがたい愛剣がある。
 よもやここに来て外せませんというわけにもいくまい。かといって、帯剣帯をつけたまま腰を振られるというのも初めてながらどうかと考えていた。喘ぐ傍らかちゃかちゃと鳴っていたら、インベルはきっと笑ってしまう。
 考えているうちにアデルの腕がそこに伸びた。よほど我慢に堪えかねていたのだろう。滑稽こっけいなまでにいきりたって帯剣帯を外そうとしている。
 インベルはさりげなく〈ドルグリーヴァ〉の柄を触った。
 大人しくしててね。
 そう含めたつもりだった。しかし——。
 ひそかに目を開いた竜は事態を把握すると、超能力を操るように気づけば場の空気を支配していた。
 自分の本当の力は母の許可なくしては打てない。そこで本人の力を借りることにした。
 重力を完全に制御し、埃を集め、インベルの鼻先に漂わせる。アデルの指先が帯剣帯を外し、〈ドルグリーヴァ〉に触れたその瞬間——。
「いぇっきしっ——!」
 インベルはアデルの性欲よりも先に堪えきれずくしゃみを飛ばした。自ずと全身に力が入り、上体を起こして、鼻を鳴らした。
 しかしそれは現実にはくしゃみはおろか重水素が融合の末、爆発でも引き起こして粒子を一斉に拡散させたかのような前代未聞の超威力を伴い、その一瞬のうちに周囲の全てを——破壊した。
 部屋を包んでいた四方の城壁は端微塵ぱみじんに砕け散り、天井が支えを失うと共に四隅の柱ごと崩落した。
 隣の部屋を貫いて横切った一陣の風は延々と壁に穴を空けて突き進み、官邸の外、遥か彼方の都市をへだてる城門にまで大きな亀裂を走らせた。
 突然始まった砲撃に、なにごとかと衛兵たちが右往左往としていた。口々に声を荒げて言った。
「なにが……いったいなにが! 起きたんだっ!」
「上だ! 上から聞こえた! もしかしたらドラゴンが入ってきてるかもしれない!」
「ドラゴンだと?!」
「それも超大物だ! 俺は確かに聴いたんだ。地獄の底から地平の果てまで響かせるようなばかみたいにでっけぇ咆哮を! 間違いないよ! この上、超級のドラゴンがいる!」
 余談だが、この衛兵の証言のためにインベルのくしゃみが引き起こしたこの夜の出来事は〈救世主の息吹〉事件として後世まで語り継がれることとなる。
 夜衾よぶすま一枚で部屋を飛び出し、衛兵に連れられて一旦退避していたマルティンはインベルの宿泊室で鼻をすすって一人たたずむ彼女と合流して、官邸から消失した息子を探した。方々を巡ったのち、遥か城門の亀裂の中についに虫の息となった彼を見つけ、大いにむせび泣いた。
 奇跡的に一命は取り留めたものの、その時は死体と何ら区別もつかない変わり果てた息子の姿に追いすがると、大統領として身につけたよく通る大音声を遺憾無く発揮した。
「あの女だ! あの女がやったんだ!」
 全身を寒水に浸からせたように震わせ、恐れるようにインベルから一歩も二歩も退いてみせながら。
「聞いたことがある! 人間とて野生の本性を持つ! 英雄は戦いを好むあまりに血生臭いこととは無縁でいられなくなる、そうして平時にも死線を求め、次第血に抗えなくなっていくのだと!」
 それはしかし、哀しいまでにインベルのよく知るマルティンの姿だ。
 好々爺を装い、計算し尽くされた大袈裟な振る舞いで衆目を集めつつ、狡猾に人心を操作して、気付けば思惑通りに事を進めてきた者……周囲を味方につけてきた者の手管。これまでは味方であったからこそ頼もしく見えていただけのこと。
 今となっては敵と認識されたから、浅ましく見えているだけのこと。
 いや、無論インベルとてそうした彼の性質を利用し尽くした末に、今この場に立っているのだから。さらに言えば場合によってはその果てに用済みになれば弱肉強食の宿命さながら無情に蹴落とすつもりでさえいたのだから——。
 哀しむなんて、そんな感情なんて、自分には烏滸おこがましいものだと彼女は自嘲じちょうした。
 彼はもう味方ではない。頼れる存在ではなく、むしろこれからは徹底して私を潰しに来るだろうと思えば、その変わりようはしかしそれでも心寒くもあった。
 彼の宣言は周囲の人の耳を打ちながら、夜空も高らかに続いた。
「闇の王を制した救世主インベル——しかしならば! 奴は、闇の王をも超える恐るべき魔力を身につけている何よりもの証左ではないかっ! 奴こそ魔王を超えし魔神! 女と見て甘く考えてはならん! 今、最も世界をすべるに近い、次なる魔王に最も近い——人類の仇敵になる可能性を秘めているのは、救世主インベルなのだっ——!」
 白いヴェールや純白のドレスはアデルの返り血に染まっていた。
 "血染めの花嫁"……誰かがそう呼んだ。
 セミロングの天然パーマにワインレッドの髪色が相まって真っ赤なヴェールを被っているように見える。加えて戦場で出会えば即死の百戦錬磨ひゃくせんれんまだったことからいつしか魔王軍の間で囁かれるようになった彼女の忌むべきあだ名は、そうしてヒトの間にも金字塔を打ち立てた。
 こうしてインベルの名は一夜にして救世主からいつ爆発するともしれない恐るべき災いに転じたのだった。
 インベルはこれから身に降りかかる不幸を、自らの失態を噛み締めるようにただ……ただ無言で歯を食いしばり、〈ドルグリーヴァ〉の柄を撫でていた。

 ◇

 銀河が目の前に広がっていた。
 夜空を切り裂く白い川が目の前に。
 形を成さずしてその形を示し、インベルの頭上……いやこの星〈テスカトリポカ〉を丸ごとすっぽりと覆い尽くすようにして、空にとぐろを巻いていた。
 それがインベルには銀河のように、天の川のように見えていたというだけのこと。
 あまりに長大、あまりに茫漠ぼうばくとした体躯たいくは、全身を銀色に艶めき、その突端がこちらを覗き込むようにして傾げられていた。
 一方で埃粒の一つ、薬缶やかんから溢れた水の一滴までもがその場に凍りついたように動きを止めている。
 世界の時間は制止していた。
 灰色に凍りついた狭間の中で、インベルとその蛇だけが息をしている。
 ミロスを見た。彼もまたみじろぎ一つしない。何かに驚き、退いたその瞬間の表情、姿勢で固まっている。
 彼女は自分の荒い呼吸をさえぎる蛇の声を聴いた。
 それはたしかに声だった。
 魔族の交わす波長でも、鳥がさえずり、獣が吠える音でもなく。
 自分のよく知る人の声だった。
 けれど、尋ね返さずにはいられなかった。
「今……なんて。なんて、言ったの?」
 〈銀色の蛇〉が言った。
 その時既に、インベルには聴き慣れた少年の声で。
〈僕を愛せ。僕を愛せ。君の生涯を、すべてを以て、僕を愛せ。そうする限り、僕は君の力になる。この星の創造主すら超越したまさに魔法の力を——君だけに与えよう。君が僕を愛する限り。それが人の愛だろう〉
 〈銀色の蛇〉の眼前に喉を晒しながら——けれど、インベルはゆっくりと首を振り、毅然きぜんと返した。
「いいえ。それは違うわ、ミオ。それは決して愛なんかじゃない」
〈……なんだと〉
 世界を文字通りその手中に収める〈銀色の蛇〉を前にして、彼女のとった行動は常軌を逸していた。
 彼女は一歩進み出ると、その大きな……とほうもなく大きな鼻先にあまりにも小さな腕を差し伸べ、抱き寄せるようにすると、まるで我が子にそうするかのように、彼に告げたのだ。
「違うけれど……なら一緒に探しにいこっか。ミオ」
〈ミオ……〉
「そう。今、つけた。私があなたにつけた名前。ミドガルズオルム、略してミオ。そうすれば、もしかしたら辿り着けるかも知れないよ。見つかるかも知れない。"絶望を超えた先にある本当の愛"が」
〈絶望を超えた先にある、本当の愛……〉
「私はそんな力求めない。そんなのがなくったって、あなたを見捨てたりしない。裏切られることを、もうこわがらないで」
 インベルは最初からそうだった。
 この女には常態の生き物がことごとく持つ"あるもの"が欠けている——。
 〈ドルグリーヴァ〉は抑えきれないエゴが引き起こした顛末てんまつを前にして、インベルに柄を撫でられながら、バツが悪そうに目を細めていた。
 またやってしまった。無数にある意識の中で嫉妬深い性質や怒りっぽい性格の持ち主も当然のようにいて、ミオは司令塔ながらその癇癪かんしゃくをどうしても抑えることができない。それこそがミオの魔力の源にあるものだからだ。
(大丈夫……違うよ。あなたは悪くない……。私が……)
 しかしインベルの対応は変わらない。
(私が愚かだった……慢心したんだ……ふっ、認めたくないものね。自分の中の人間臭さって……学ばせてもらったわ、まったく)
 大統領の始めたその身に迫る糾弾きゅうだんの前にあっても、いつもと変わらず、やわらかな仕草でただその頭を撫でるのみであった。





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