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第四章『血染めの花嫁と敗北の遺伝子』
イントロ
しおりを挟む人は、七つの大陸、十三以上の州からなる九つの大国を軸にして世界があり、全ての生き物が生きている。
そう思っていた。
しかし、実際は違う。
初めに海ありき。
海から出でし竜が空を眺めて空を見つけ、地を這うことで地を知り、息をすることで草木、森、そして雨と落雷を浴びることで火の囁き声を聞いた。
それらには精なるイデアが宿り、彼らはその声を聞くことで既にして自分たちが遥か後続であることを知り、またこれからも無数の形が呼び起こされることを知った。
空を飛んだ竜は鳥へ、地を這う竜は蛇へとイデアを呼び起こされ、森に生きる竜は猿となり、草原を駆ければ獣へ、地底を彷徨う竜は虫となった。
命は数珠の連なりを重ねながら、長い年月をかけて、無数のイデアを思い出しては、多様な生き物へと変じていった。
生き物が先ではない。星と海と月と太陽が、全ての源である。
それがこの世界の創世記。
星の名は〈テスカトリポカ〉。
あらゆる突端の総算の意を含めて、そう呼ばれた。
やがて、星を我が物とし、手中に収めようとする傲慢な者らの手によって大戦争が起きた。
特に信仰と神の国〈神聖アルカディア王国〉、科学と技術の国〈ナルガディア帝国〉、魔族と自由の国〈マリステリア魔王国〉は三大強国として世に名を連ね、激しい闘争が繰り広げられた。
そんな頃、世の情勢など知る由もなく、自然と魔法の国〈レナ・ルガディア王国〉の西の果て、ソンクン州にある山奥のタジべ村に一人の赤子が産まれた。女の子であった。それがインベルである。
森に潜む虫の声と体液の臭さ、小川のせせらぎ。丸太小屋の木の匂いと暖炉で爆ぜる炭の香り、苔むした山道と木板張りの小径の湿気とぬかるみ。それらありあわせの自然の中で揉まれながら彼女はすくすくと育ち、やがて初めての恋をした。
近所の幼馴染だった。名はヒナタ。彼女は毎日ヒナタの後をついて回り、岩山の洞穴を探検し、鉱山夫に混じって箱車を運んでは、川で魚取りに、森では果物摘みに興じていた。
戦乱の火がこの〈レナ・ルガディア〉の奥地にまで届き始めたとき、ヒナタは言った。
確かに言った。
インベルの記憶違いなどでは絶対にない。
あれは裏手の丘の上だった。
インベルは辺りの芝生に生える花を摘んで冠を作っていた。
「できた」
「こっちもできた」
「なにを?」
インベルが尋ねるとその振り返りざま、ヒナタはインベルの左手をとって薬指に小さな花の指輪を通してみせた。
不意打ちだった。インベルは目をぱちぱちと瞬かせて、何度も指先を確かめたのをよく、よく覚えている。
ヒナタは頬を人差し指の先でひっかくと、照れくさそうに笑う。
「婚約指輪」
「———!」
驚きと感じたことのない高揚感に頭が真っ白になった。
飛び上がりたいのを抑えて、何も言えずにいるうち、ヒナタは素早く立ち上がり、麓の村、それからその向こうにそびえる山の峰を——さらにその果てを見据えるようにしながら続けた。
「先に言っておこうと思って」
しかし、インベルの気持ちは一気に沈んだ。
嫌な予感がした。
ヒナタは唾を呑み込むように一度俯いてから、足元に座ったままのインベルの目を見て言った。
「俺、この村を出るよ。騎士になるんだ」
「……あぁ」
予感は的中した。もしインベルに獣のような尻尾や耳がついていたのなら、激しく動いたり、かと思えば急に垂れ下がったり、その動作は見るも忙しなかったろうと思う。
この山の向こうでは戦争が起きている。
毎日たくさんの人が死んでいる。
その話は子供ながらに伝わり、そして騎士を志して出ていく者は少なくない。ヒナタもその一人だったのだ。
元気に見送ってあげなければ……そんな心情に反して、目線を落としてしまうインベルに、ヒナタは素早く屈み、その手をとって答えた。
「だからさ。だからこそ、インベルにはこの村で幸せにいてほしいから。俺、この村を……インベルを守って、それでお嫁さんにしたいんだ!」
「守ってくれなくていい……一緒にいてくれるだけでいいよ」
「それじゃダメなんだ。今は皆が戦っている。俺だけぬくぬくと生きてはいられないんだよ」
「それでもし……もしヒナタが——」
「——俺は死なない」
ヒナタは言った。
インベルの手を熱く握りしめ、その目をまっすぐに見ながら。
「約束するよ。必ず生きて帰ってくる。そしたら……そしたら、結婚しよう」
その瞬間、頭の中で鐘の音が聞こえた。天使たちが空を舞い、ラッパを吹かしながら、降りてきた気がした。
丘の上に一陣の風が巻き起こり、芝生の草花が花弁を散らした。
インベルは産まれながら自然に好かれるところがあった。だからこの時も花の精や風の精が祝福してくれたのだと思った。
自分の命を、人生を。
この約束を叶えるために、私は産まれてきたのだ——と。
◇
インベルは手のひらに巻きつけた紐をするすると滑らせ、肩から背中に回した麻の手荷物をその場に落とした。
「や、やぁ……インベル」
目の前にはヒナタがいる。大人になったヒナタだ。
あれから長い年月が過ぎて、インベルも立派な成人女性であった。もはや何も躊躇う必要はない。そのはずだし、少なくともインベルはそのつもりだったのたが、一方のヒナタは頭の後ろに回した手で後頭部をかき、妙に挙動不審で、インベルの顔を見るなり脂汗が止まらない様子であった。
そして、今しがた信じられない声を彼女は聞いたのだった。
それはヒナタの足元にすがりつく小さな生物が放った。
今も片手をヒナタの足に置き、もう片方の手の指を薄汚く口に突っ込みながら、こちらを見ている。覗き込んでいる。インプに見紛う小さな悪魔の化身は確かに、インベルの耳が正しければこう言った。
パパー。このおばさん、だれ?
「…………」
「あー……」
ヒナタは白々しく目線を彼方の空へ逃したのち、インベルの両肩を掴んで言った。
「いや! 言いたいことは解る! 解るよ? でも俺も色々あってさ……」
ぎぃーっと調子のはずれた蝶番の戦慄きがして、ヒナタの後ろの丸太小屋……しかも高床式で、軒下がある……の玄関から誰か出てきた。
女だ。
しかも、もう一匹悪魔の化身を連れている。
悪魔の化身を胸に抱きながら、そのサキュバスが醜いたらこ唇をひん剥くように黄ばんだ歯並びを見せて言った。
「あなたぁー、えー、誰? その人ー」
「あ、あぁ。え、えっと……昔の……近所に住んでた子」
(近所に住んでた子……?!)
「うわ……なにそのカッコ……あはは、ウケるー。騎士様がこんな辺境になんのようっすかー? ここなんもないでしょー? ま、やることないから子供ばっか増えんだけど」
「ミ、ミレディミレディ……やめないか。一回家に戻ってなさい」
絶句するインベルの目を見た瞬間、サキュバスの胸のインプがハルピュイアも白い目で見て囁きだすようなやかましい声で泣き出した。
「あーよしよーし……なんか、あのお姉さんこわいねー」
「ミレディさん、やめようか?!」
「はいはーい。あ、もうご飯できてるよーって呼びにきたんだった。早く食べようよ、家族一緒に」
「ミヒヒヒーレディさーん?!」
「はいはい。パパも大変だねー。厄介なのに好かれて」
ばたんっと縦床二階の玄関が閉じられ、悪魔の鳴き声も遠ざかると、インベルはヒナタと足元のインプと三人、その場に取り残された。
ヒナタはまだ後頭部をかきながら、白々しく述べた——。
「あ、あぁ……うん、そういうことだか——」
その刹那、インベルの全ての神経が勝手に動いた。涙がだばだばと流れて、腕はヒナタの首に伸び、全身が目の前の男を殺すためだけに機能する殺人傀儡のようだった。
「意味わかんないから……え? は? どういうことだから?」
インプの悲鳴があがって、間もなく集まってきた村の男たちにインベルは取り押さえられた。
本気を出せば全員即時灰にしてやれたが、村人に罪はない。
罪があるのは目の前のこの男だ!
「くそっ! くそがっ! 離せっ! お願い! 闇の王の魂がその男に取り憑いている! 私にソイツを——お願い、みんな、ソイツをなぶりころさせてぇぇええーーーーっ!」
「落ち着け、落ち着け、インベル。もう過ぎたことなんだ。皆、知らなかった。帰ってきたら、既に連れの女の腹は膨らみ、コイツはこの態度! せめて一家ごと数日身を隠しておけとも言った! けれどコイツの嫁がやたら強気で——」
「てめえ、一生恨んでやるっ! 私がっ——私がどんな想いでっ!」
インベルは半狂乱でヒナタに迫った。ヒナタは既に気を失っていたようだが、ぶるっと身体を震わせながら起き上がると、村人たちの手を借りて立ち上がり、痛めた首を押さえながら、インベルをさながら野獣でも見るような眼差しで見据えてこう言った。
「……でもさ、子供の頃の結婚の約束とか? そんなんよくある話じゃん。本気で信じる奴なんかいるの?」
吐き捨てるように言った。
「大人のくせに。なに本気になってんだよ、いてーなちくしょう。この人殺しっ! 重いんだよっ!」
「…………」
インベルはキスさえしたことがなかった。
そうして世界を救った。
青春はおろかまさしく半生をそれのために費やした。
それはこんな結果が見たかったからじゃない。
こんなクソみたいな人間に蔑まれるためじゃない。
信じた私が悪かったのか?
本気になった私が悪いのか?
こんなことを思わせる人間は、悪魔と何が違う——?
それから数日はまだよかった。懐かしい洞穴や川辺や木板張りの山道、例の丘。それぞれを見て回り、ゆっくりと戦の疲れを癒すようにして過ごした。
しかし、そんなのが連日続くと、両親に言われた。呆れるように母が言った。
「あんた、いつになったら結婚するの?」
「…………」
「そんな年になってまで子供がいないのなんか、この村であんただけよ? それなのに帰ってきてそうそう騒ぎまで起こして……少しは親の気持ちも考えてちょうだい」
ねぇ、お母さん。
「救世主だかなんだか知らないけど、それでこの先も食べていけるの? この村の子達はね……」
私は世界を救ったんだよ。
「毎日毎日木を切って、鉱石を掘って、畑を耕してね……汗を流しながら、懸命に生きてるのよ」
目先の楽しいことなんか目もくれずに必死に血を流しながら訓練に耐え、寝る間も惜しんで勉強して、子作りなんて無縁の世界で屈強な男たちに混ざりながら。
「夢みたいなこと言ってないで、少しは現実的に……」
世界の人々の夢を叶えて、この現実世界の平和を勝ち取ったんだよ。
——なのに、そのことを、後悔させないでよ……。
タジべ村はあまりに辺境だった。そもそも〈レナ・ルガディア〉自体が争いを嫌い、他国との競争から隠れるようにして自国の平和を守ってきた国柄である。
インベルが産まれたときもそうだったように、世界の動向など露知らず、戦時に猫の手も借りたくて兵士を募るようなことこそあれ、平和になればそんな世情の一切がこの山奥には入ってこない。
子供の頃は気にしていなかったけれど、ここは自然の要塞だった。隔離された空間だった。山を下りた足元や峰の向こうで何が起きてようとも関係ない、変わらない田舎の風景が続いていくだけ——。
娘が世界を救うなんてことよりも、曲がりなりにも子孫を増やすほうがよっぽど大義な、そんな里なのである。
その日の夜のうちにインベルは荷物をまとめて村を出た。
最後に父が追いかけてきた。
「すまないなぁ。判っているよ、おかしいのはこの村の方で、少し山を下りた世間ではお前がどんなに素晴らしいことをしたか、お前がどれだけ讃えられている人なのか」
「……父さん」
「でもな、これが自然なのさ。人間も動物だから。土と草を省いては生きられない。結局は子孫を残すことが正義なのであって、文明に浸ったものとは隔絶してしまう。それゆえかもしれんな。自分でもはっきりと解ったろう……」
父ははっきりと言った。
「もうここはお前の帰るところではなくなってしまっていたんだなぁ」
「…………」
それは理屈屋な父なりの励ましだった。インベルのヒナタなり母なり村人への振り上げたい拳を、そうして自分が代わりに受け止めようとしている。
だから、インベルもそんな父に甘えた。
「それでも命は共同体よ。一人で生きている者なんていないし、そうした傲慢からこの戦争は始まったの。父さんに解る? この村が滅びの危機に瀕したとき、いったい誰が助けてくれるのかしらね。人の恩を考えられないってそういうことよ」
「……すまないな。二度と会うことはないかもしれんが、それでもお前と過ごした時のことは忘れんよ。達者でな」
「……お父さんも。長生きしてね。ありがとう、ごめんね」
インベルはもう振り返らなかった。
村の門をくぐりながら、吐き捨てるように言った。
「この村にいることで、これ以上自分が救った人間を嫌いになりたくないの。消し炭にしていかないだけ、マシだと思ってね」
行き先は麓の通り小屋の中で決めた。
南東の交易都市国家〈エステバリス〉だ。
そこでインベルは世界にあまねく王侯貴族たちを呼び寄せた世紀の大婚活パーティを催すことになる。
応援ありがとうございます!
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