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第三章:『石の見る夢』
エピローグ
しおりを挟むこれはインベルやアルも知らない、過去の一幕。
ディアマンダラは他の竜たちとも別れて、一頭、旅路の果てに北東の大陸にそびえる峡谷群に辿り着いた。
すでに数百年と生きた老体。
全てはアトゥムと出会ってから、長い、永い年月がすぎて、疲れた身体を横たえた。
残った魔力を用いて姿を隠しながら。
その丘のちょうどいい広場を見つけて。
ある時そこに一人の人間が現れた。貴族風の男だった。燕尾服を几帳面にきながら、女中を侍らせている。けれども、その目は勇ましく、いつか見た亡国の戦士たちを彷彿とさせるものだった。
「おや……」
男は丘陵をあがってきてそう言うと、用事を思いついたと適当に続けて、女中を麓の屋敷に追い返した。
男は広場の前に屈んだ。
さながら野生の小動物でも見つけたように、何もないはずの宙に、澄んだ目を向け、手を差し出した。
「お前……どこからきた? お母さんは? 逸れてしまったのか?」
アトゥムと同じことを言われ、ディアマンダラは思わず笑った。
長い首を起こして、男を見下ろした。
〈ふはは。面白い男だ。視えているのか〉
「こう見えて僕は人以上に自然に好かれる気質があるのさ。踊りに天気に女に酒に……代々僕の家の当主がそうだった。好奇心旺盛っていうのかな? 楽しそうなことに余念がない」
男は言った。
「よかったら、友達にならないか? 別に何をしてくれなくてもいい。気が向いた時に話し相手になったり……そうだな、この丘を見守っていてくれ。良い場所だろう? ここは」
〈くくく……老体の口説き方まで心得ておるとは。いいだろう、少々物足りぬと思っておったところだ〉
ディアマンダラは丘の木々と風の隙間に、その声を滲ませた。
〈承ろう。その盟約を——〉
時は現代に戻って——インベルとアルの二人は再び跡地に戻り、甲冑に花を添えていた。
タドゥキパの末路を報告しに戻ってきたのだ。
甲冑は何も言わずにただ広場の中央に横たわっているのみだった。
おそらく二人を認めているからこその静寂。
二度と二人の前でセティリスが目覚めることはないだろう。
夢の発信者は現代のタドゥキパだった。しかし、その奇跡に〈エニアドの赤涙〉と化したセティリスが更なる力を与えて介入していたのだ。
「何とも言えないっすね……」
「いつものことよ」
「姉御。姉御は、なぜ生きているんすか」
アルは知っている。
例えどれだけ無敵で、何にも臆さず、何が起きても何でもなさそうな表情をしていたってインベルの中にも弱い人がいる。
この世の無情感。虚無感に絶望して泣いている心があるはずだ。
それでもインベルは世界を旅する。
人と魔物と、関わり続ける。
自分が救い、平和になったこの世界を旅して、これからも多くの無情な誰かと誰かのすれ違いを見続けていくだろう。それを疑問に思っての、問いかけだった。
立ち止まってしまえばいい。それこそもう平和になったのだ。もう戦い続ける必要なんてないはずなのに。
「自分が弱かった頃のことを忘れてないから」
「弱かった頃?」
「そうよ。弱かった時はいつも思ってたわ。完璧な強さを持った救世主が現れて、この世の辛いこと、苦しいこと、全部払ってくれたらいいのに。なんで神様は使徒を遣わして、そんなふうに人を助けてくれないんだろう? ……って、都合よくね。その時はそんな都合のいいものがいるわけないんだから、自分がなってみせるんだって切り替えて、猛烈に勉強して、修行に打ち込んだ。痛いこと、辛いこと、哀しいこと、全部その為の糧だと思って。それこそセティリスやネフティスみたいにね。——でもさ、やっぱいたらいいじゃん、ヒーローって」
インベルはアルに笑いかけて言う。
「解決できないことも多いけどね。でも力で解決できるなら、私にはそれができるでしょ? ひょっこり現れて、面倒ごとをババっと片付けて……」
「姉御……」
「今、私はそれこそ世界を救いも壊しもできる力を得た。その宿命……ってか、役目だと思うのよ。神様じゃないから、全部は見てまわってあげられない。例え救いようのない人たちばかりでも、ときどき救いきれないことがあっても……あの日の少女に答えるために、私は、立ち止まるわけにはいかないの」
アルはやれやれと息をついて、肩をすくめながら隣に寄り添う。
「損な役回りっすねぇ。せっかくの力があるのに……。でも、オイラはついていきますよ。オイラは姉御の行くところ、どこにだってついていくんでさ」
しかし、インベルの耳にアルの臭いセリフは微塵も届いていなかった。大階段の上の方で音がして、インベルは耳をそば立てていたのだ。
「——アル、聞こえた?」
「え?」
「もう何のためのアンタの聴覚よ。あの大階段のところ……誰か、いる?」
アルは不服そうにしながら、長い耳を澄ませる。
たっ、たっ、と確かに音がする。宮殿内からだ。
「確かに音が……こりゃ、足音か? しかし盗賊かなんかじゃねえんですかい?」
「セティリスがいるのよ。この地には彼に認められた者以外留まれないはずなのに……いったい、どうして? まさか、認められたのが別にいるとでもいうの?」
インベルは言うやいなや向こうに勘づかれないように足音を殺しつつ、階段を駆け上った。
すると、宮殿の方に逃げる影があった。
〈ニンゲンだ! いけね、逃げるぞ〉
影は確かにそんなことを言って、山脈の内部を奥の方へと去っていく。
「あ、待って!」
インベルは階段を登ってくるアルを待って尋ねた。
「アル。聞こえる?」
「はぁはぁ……まってくだせえ。オイラ、姉御ほど無敵じゃねえんで……」
「早く。見失ったら——二度と判らない気がするの」
「何なんすか……」
二人は影の後を追いかけた。
それからもアルの指示に従い、奥の回廊跡を地下に進んでいく。すると、初めてここに来た時に水浴びをした水脈よりもはるかに深くまできて、その場所に辿り着いた。
見間違えるはずもない。
その洞窟然とした内壁、朽ち果てながら未だに残る無数の横穴。中央に生える草花。
——竜の寝床だった場所だ。
そこにサハギンという魚人のような……いや、それとも違う奇妙な人型の生き物がいた。
インベルたちと同じに二本足で立ち、全身を覆う青い鱗はしかし、絶妙に人の形と融合してさながら民族衣装を着飾っているかのように美しい。
セイレーンなどの人魚も彷彿とさせたが、それらを一時に説明できる言葉をインベルとアルの二人は知っている。
すなわち、人と、竜の、混成生物がそこにいた。
〈うわ、ここまで来たよ! 兄ちゃん!〉
〈なんでだ? 入り口の英霊が護ってくれてるはずなのに! おかしいぞ、こいつら〉
その子たちは魔族の言葉を使っている。アルはもちろん、インベルには精霊の加護で解るようになっている。
インベルははやる気持ちを抑えながら言った。
「待って。何もしないわ! ほら見て!」
インベルは両の腕を広げてみせ、敵意がないことを伝えようとした。しかし、その二人は自分たちを恐れるように寄り添って、ひそひそと話した。
〈なんだこいつ。ニンゲンのくせに言葉がわかるのか?〉
〈ヤバいよ、兄ちゃん。だから甲冑を見にいかなければよかったんだ〉
〈最近大きな音がしたって言ったのはお前だろ〉
インベルは腕を広げたまま近寄った。
その矢先——おそらく兄の方がその場に四つん這いになって牙を剥いた。そうするとまるで小さな竜そのものに見える。
〈弟に寄るな、ニンゲン! 子供だからって甘くみるなよ! ここから先へは進ませないぞ!〉
〈待って、兄ちゃん。そういえば、この人たちの姿、どこかで……〉
〈あ?〉
〈ほら! あれだよ! 婆ちゃんが話してくれた、おかしな二人の旅の者みたいだ!〉
〈なんだって?〉
そう言うと兄の方が上体を起こし訝しがりながらも足をそーっとこちらに伸ばして、二人の顔を覗き込んでくる。
弟の方が好奇心に満ちた眼差しで一歩進み出て言った。
〈ねぇ、そっちのちっさいのはゴブリンっていうんでしょ?〉
「え、オイラっすか?」
〈やっぱりそうだ。変な剣を持った女剣士と小鬼。英霊様が反応しないのもきっと、そういうことなんだよ〉
インベルはもはや居ても立っても居られず、急かすように尋ねた。
「ねぇ、あなたたちはどこから来たの? ここに……今も住んでるの?」
〈そうだよ。この奥にね、僕らの隠れ里があるんだ。ずっとそこで……〉
とたんに兄らしき方が、その頭を叩いた。
〈バカ! 教えてどうするんだよ! ニンゲンに知られてはいけないんだぞ!〉
〈ふ、ふぇ……だ、だって……〉
「あらあら。喧嘩しちゃダメよ」
インベルは二人の前で屈んで言った。
「ね? 私たち、あなた達のことを知りたいの。けど、ここで見たことは絶対に誰にも話さないと約束するわ。お願い、あなた達の里に連れてってくれないかな?」
二人は顔を見合わせた。インベルは重ねて頼んだ。
「お願い」
兄は顔を逸らして言った。
〈……絶対だぞ。もしこの地に何かあったら、英霊様が黙ってないんだからな。恐ろしく強い英霊様なんだからな。お前なんか……〉
「うん。知ってる……」
二人は再度顔を見合わせると、中央の草地を避けて回り込み、奥の一際大きな横穴を進んだ。
青い鉱石に包まれた岩肌が水に滴っている。
その奥もまた行き止まりだった。しかし——。
〈いいか? 絶対に、ぜぇーったいに! 内緒だぞ?〉
「うん。平気よ」
兄が念を押すように言うと、その壁にヒレのついた手をついた。と思いきや——するりとその壁を抜けて、腕が入っていくではないか。
二人は何の気兼ねもなくその壁の奥へと身体ごと消えていく。インベルは刮目した。
同じように手をついてみると、そこには感触がない。水の滴る岩肌に見えて、実際にはなにも隔てるものはなかった。
その奇妙な壁を潜ると、その先で待っていた弟がさらに長い空洞を案内しながら言った。
〈この山の鉱石には不思議な力が宿ってるんだ。水と月明かりを数百年浴び続けて貯めた魔力で、こんな風に幻惑してくるようになった。……って母ちゃんが言ってた〉
「すごい……。確かにこれなら、よっぽどのことがなければ見つからないわね」
〈でしょでしょ? そして、この先が——〉
手を引いて連れ立つ弟に導かれて、光の方へ向かいながらインベルは——インベルはふと思い出していた。
ネフティスに連れられて、初めて〈ヘリオポリス〉の城下を見下ろしたときのこと。
あれは夢だったはずなのだけれど、インベルは声まではっきりと覚えている。
——僕ら、こう見えてこの役職も、運命も、この国も大好きで……ご覧ください。
隣で、今もネフティスに案内されているようだった。
二人の姿が、目の前の二人に重なる。
セティリスとネフティスの姿が、目の前の二人の兄弟にかさなって見えた。
——インベル様。アル様。
ネフティスのその声に、導かれるように、
——これが百年かけて辿り着いた、僕らの……。
インベルは光の溢れる出口を抜けた。
洞窟を抜けると、そこは山脈の裏側。峰と峰に挟まれた窪地に見渡す限り草原が生い茂り、その向こうには大きな海が見えた。
こじんまりとした山村があった。
木造の家が寄り添うように連なり、石で埋めた広場があり、兄弟と同じ竜人たちが静かに暮らしていた。
争いも平和も超えた境地で。
セティリスは最期、ネフティスを、民を殺したのではなかった。
〈エニアドの赤涙〉と化して全土を包んだ焔はまさしくその伝承にある通り、彼らを次の段階へと進化させ、そうして民らはそろって完全な竜人となり、この地に安息の居場所を見出していたのだった。
あれから百年以上もずっと、ひっそりと。
歴代の皇たちと共に過ごした竜たちが、夢に見た〈約束の地〉で——。
インベルはとたんにその場に崩れ落ちた。
顔を覆った。
涙が止まらなかった。
兄弟が心配して声をかけてきた。
〈人間のお姉ちゃん? どうしたの? 哀しいことがあった?〉
「ううん、違うの……何でもない……」
インベルは涙を払いながら言った。
アルも同様だった。眉間を指で強く摘んで、男泣きをしている。
インベルは笑った。
泣きながら笑った。
「なんでもないよ」
竜人族の二人の兄弟に手を引かれながら、インベルとアルはその不思議な村に向かうのだった。
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