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第三章:『石の見る夢』
十九
しおりを挟む帰り道。
「……姉御。これからどうするつもりなんで?」
川沿いの商人街までの途中にあるオアシスで休憩中——近くの水源ではキングワームが、その湖の円周を埋めつくさんばかりのバカでかい頭を突っ込んで水分補給をし、バカンス中の人々を宙に跳ね上げている。
これもまた名物の一つで、キングワームは跳ね上げられた人々を器用にその背で受け止め、決して怪我をさせない。
——そんな歓声に紛れるように、古い濃緑色の外套を目深にかけた小柄なアルがぼそっと呟いた。
その手には赤いオーブが握られている。
ただし、それは〈エニアドの赤涙〉ではなかった。
涙とは両の目から流れ出るもの。二つで一対の代物。
それは亡国の誇り高き皇子と死して尚その執念に連れ添う竜の心臓のことだったのだ。
無論、甲冑の中身と共にそれは消えてしまったし、例えそれが取り出せたとしてもインベルに持ち帰る気はさらさらなかった。それで結局代わりのものをハルピュイアの配達便に調達させた。
羊皮紙に文言をしたため、知り合いの王に今回の顛末の詳細と共に送る。そこから望みの品が届くまでの間、二人は跡地に残り続けていたが、甲冑が動くことは二度となかった。
「まぁ、なんて下品な歌声なの! あなた、お尻の方がまだ良い音を奏でるのではなくて? 次呼ぶときはもっと上手くなっていてくださいまし! でなければあなた方の依頼は三割り増しに致しますわよ」
ちなみにハルピュイアの配達便は知る人ぞ知る経路である。特定の魔族や魔族に深い人、エルフなどが歌声なり特定の波長を用いるとどこからともなく飛んできて、物なり言葉なりを人に届ける。
もちろん今回ハルピュイアを呼ぶのに歌ったのはアルであった。
代わりのそれらしい宝石を見せればあの富豪も納得するだろうと思い、こうして持って帰ってきたのだが、アルはインベルの動向を窺っているようだった。
「別に」
インベルはオアシスの光景を眺めながらそげなく言った。時折水飛沫がこちらの顔まで飛んでくる。
「暴れたりしないから。安心してよ」
「——なんなら、俺ぁ、そっちのがまだ気が晴れる気がするっすよ。奴らなんでしょ。間者を送り、毒水流して病を流行らせ、都を滅ぼしたのは」
「…………」
「諸行無常ってのはこのことっすねぇ。で、自分たちは今の平和を得難いとも思わず存分に楽しんでるってわけだ。二人……いや兄弟とウェド、三人が夢にまで見た〈約束の地〉をよ。まったく何も知らねえで……」
「そうね。無知は罪だわ。私もそう思う。けれど、私たちがここで今更暴れて、仮に商人街の連中を滅ぼし返したとしても、少なくともネフティスは喜ばないわよ」
インベルは風もなしにさらさらと溢れる砂上の山に、膝をやまなりに立ててそう言うと、アルが呻くように返した。
「そもそもなんなんすか、宗教って。そんなもんが必要なんすか? 人には」
「あら。それは流石に暴論よ。例えばねー、アンタが恋してたあの子、名前なんてったっけ?」
「アズサ。アズタロッサっす」
「とにかく、恋する気持ち、それだって宗教でしょ」
アルはぽかんと口を空ける。
「博愛主義って言うのよ。その子でなければならない理由なんかない。でもそう結論づけても、その時は夢中になって、自分ではなくその子の意向そのものが、貴方の生きる指針になってたはずよ。違う?」
「……確かに。自分のためじゃなく、その人のため、それがオイラの人生だと想ってやした」
「それが信者の気持ちよ。自分の外に神を求めるってこと。それが宗教」
インベルは話した。
「愛するとか信じるってのもいいけどね、それを利用しようとする邪悪な者らもいることを忘れちゃいけないわね。セティリスやネフティス、ウェドは、だから、それを自分の中に見いだせと言っていたわね。でも、人は弱い。そうは言ってもなかなか変われない。その変われない弱さの前にあの子たちは敗れたのよ」
「一人一人では弱いはずなのに、なんかおかしな話っすね」
「人の強さってそういうものよ。言っても変わらない人はその頑なな心ゆえに変わらないし……でもそれは本当に強さなのかしら? ただ麻薬に溺れる快楽者みたいに、弱い心を都合よく洗脳されてる結果じゃなくて? だから私たちは常に自分の心に問いかけ続けるんだ。これで本当にいいのか? 自分の心はなんて言ってる? ……彼らがそうしたようにね。——他人の気持ちを変える術なんてないから自分が変わる、悔しいけれど、そうしていくしかないんだ。私たちは」
インベルがぼんやりと言うと、アルはまだ納得いかなさそうな顔でオーブを見つめた。表面上であれ、連中の良いように事を運ぶのがよっぽど気に食わないらしい。
もちろんインベルとて大人しく納得してるわけではなかった。アルを励ますように言う。
「ま、暴れないけど、落とし前はきっちりつけるつもりだからさ」
「落とし前……?」
「そうよ。他人をこんな不快な気持ちにさせた張本人が、この時代にまだ生きてるとしたら?」
アルはただでさえ大きな瞳をさらに大きくしてインベルを見た。
「まさか、そんなこと……」
それは無視して、インベルはぼんやりとただ真っ青な砂漠の空を見上げて言った。
「この世は弱者のための平和によって腐っていっている。本当の強者は果たしてどちらなのかしらね」
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