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第三章:『石の見る夢』
十五
しおりを挟む道中には丸三日かけた。が、これでも大分急いでいるほうである。途中キングワームを殴り倒して従わせ、不眠不休で走らせたのだ。
セティリスは——自分の不在を誰よりも憂いていた。
こうして都を離れることなど初めての経験であったし、今は頼みの竜たちもいない。それがどんな意味を持っているか、誰よりも解っている。
だから、例え長年連れ添った人間以上の相手であれ、そこにもはや感傷などという余計な些事を挟むわけにはいかなかったのだ。
急ぎ、ウェドたちを殺し、急ぎ、都に戻る。
考えているのはそれだけだった。
それだけに集中した。
砂漠の北東に聳える〈ゲルニカ火山〉一帯はおよそ生物の生ける土地ではなかった。
黄土に煌めく砂上が、冷えて黒ずみ堆積した溶岩で満たされる頃になると、キングワームを放してやり、なめした革で拵えた具足を踏みしめながら岩山の道なき道を昇っていった。
幾度となく溶岩に肌が触れ焼かれても、具足を貫く熱に溶け出した皮膚が中で張り付き剥がれても、一瞬たりとも足を止めずに登り続けた。
そうして頂の程広い空間に出ると、少し大気の温度が下がったように思われた。そこは周囲の崖が鼠返しになった空洞になっている。一目見て判った。宮殿の中枢にある竜の寝床に雰囲気がよく似ている。
あちらは青、こちらは赤茶色で、色味は正反対であるが。竜とて生物、延々と燃え盛る大気の中でいられるわけではないのかもしれない。
だから中にこんな寝床をこしらえる。
空洞下はそこが火山であることを忘れられるくらいに冷ややかだった。灼熱と大気による急激な冷却が外と内で同時に繰り返されて、自然はこんな不可思議な状況を作るのだ。
「なんたる壮大な……」
〈であろう……セティリスよ〉
自然の偉大さを噛み締めていると、声がかかった。
幼き頃、初めて相対した時より、ずっと傍で聴いていた声を。
それは——その祠の真奥で羽根を折り畳み、まるで正座をするかのような姿勢で、セティリスを待っていた。
「ウェド……」
〈さて、始めるか〉
辺りには竜の寝床と同じように無数の横穴が空き、同じ数の無数の火竜たちが羽根を休めて、こちらの動向をじっと伺っている。
ウェドはにべもなく言うと、鋭く爪を立てた。
〈焦っているのだろう。貴様のそんな面を見るのは、十一の頃に最後に寝小便をした時以来だ〉
「ウェド……」
〈楽しめ。我とて野生の雄が一匹。強者との決闘は何よりも心が躍るもの。そうさ、セティリス。ネフティスの前では死んでも言えんがな。我々はずっと想っていたのだ。貴様と戦陣をかけるたび、この戦場で一番の強者とは誰か? それを考え、叶わぬ妄想に血潮をたぎらせていた! そうさ! いずれ貴様とも死合うてみたいとな!〉
ウェドは言い切ると同時、翼を高らかに広げた。
瞬間。
あまりにも巨大なその体躯に似つかず、目にも止まらない速度で、気がつくと爪が目の前にあった。
「——っ!」
セティリスは人の身を超越した反応速度で跳びのき、距離を取る。二人の動きに驚愕するように二人を取り巻く大気がごうっと唸りを上げた。
一撃で真っ二つに裂かれることはかろうじて避けたが、はらりと着衣が垂れるようにして、セティリスの腹の皮膚が一本の大きな傷を創り、川から溢れるようにそこから赤い血液が溢れた。
セティリスの口元に思わず笑みがこぼれる。
「……ははは。己が血潮を見るのはいつぶりのことか。たぎる……たぎるなぁ、ウェド!」
〈あぁ、人のくせになんと楽しませてくれる! 貴様こそ真の武士よ! 全霊でこい! 貴様の臓腑を喰ろうて、我が内腑の焔に焚べてくれるわっ!〉
両者の決闘はそこから半日以上続いた。
ウェドの白いブレスが壁を崩し、セティリスは崩落する岩滓を足場にして宙を飛び回った。
空に柱を描く閃光と舞い散る剣戟が両者の間に無数の火花を散らした。
セティリスのケペシュがウェドの左目の網膜を突き破ると、返しにウェドの牙がセティリスの右腕を裂いた。
一歩も譲らぬ死線の果てに、それでもやがて決着が訪れる。
眩い粒子に凝縮された火焔の息を、ウェドが放ったその時、セティリスは腕を捨てた。裂かれてすでに使い物にならない右腕を盾にするように、一瞬の間隙、柱の横を滑るように走った。
そしてそのままウェドの懐に入ると、回転しながら飛び上がり、竜巻のような剣舞でウェドを刻みながら。
その首にケペシュを突き立てた——。
——刹那。
ウェドは目を細めた。笑った。
心の底から嬉しそうに、笑った。
〈貴様ら兄弟の血肉となり、その命を繋ぐこと。この上ない誉れに想う——あぁ、良い生涯であった〉
セティリスは吠えた。
ケペシュをその首に突き立て、首肉を両断しながら。
ウェドの首と共に、自身も地面に落ちる。
受け身を取ることも叶わず、地面に全身を強く打ち、その痛みの自覚と共に、目の前に力無く転がる友人の首を眺め、喉仏を晒しながら、まさに竜が混じるかのごとき咆哮をあげた。
遅れて、ウェドの胴体がゆっくりと横たわった。
それを看取ると、横穴の竜たちも次々に咆哮をあげた。鼓膜が破れんばかりの遠吠えが空洞内に木霊した。
いつぞやの子竜が穴から出てきて。
ウェドに縋るように鼻を鳴らす。
首を持ち上げ、か細く咆哮を続ける。
セティリスは何も言えなかった。
どうあれ奴の親を殺したのは自分だ。
生涯かけて憎まれようとも、自分にはその業を背負う覚悟があり、彼にはその資格がある。
しばらくして中央の一際大きな穴から老いた竜が姿を見せる。セティリスは決壊して溢れる涙を拭うこともせずに顔を上げて見た。見覚えのある竜だった。あれは父ゴブヌティス皇が現役の頃に乗っていた竜である。名をディアマンダラ。
〈久しいなぁ、若よ。それがこんな再会になるとは……ゴブヌティスは何をやっておったのだ〉
「……オアシスの宗教に呑まれて人が変わった。奴はもう戦士ではなくなった」
〈そうか……しかし、解ってやれ。貴様がそうであるように奴とて所詮人の子。さらに言えば奴は戦士ではない。その中でも殊更に"弱い"人間だったのだ……ただ皇の宿命を負わされて産まれ落ちただけの……貴様ら兄弟のようにはなれぬ。誰にでも優先順位というものがある。愛する一人と国民全て。その両天秤に挟まれたとき、一人と奴隷を捨てて、大部分の国民たちを選ばされた……皇が宿命のゆえに。それだけのこと……〉
「ネフティスから聴いて解っている……もう一人いたことはな。ただ我ら兄弟の目指す未来は違う。それだけだ」
セティリスは息も絶え絶えに、鼻を啜りながら、短く言った。
「なぁ、お前たちはこのままどこか遠くへ消えてくれないか。〈竜皮病〉患者の分なら、ウェドの一つで事足りる……貴様らの顔はもう二度と見たくないのだ……」
ディアマンダラは深い息をつくと、わびしげに言った。
〈……人に遣いて百有余年。彼女の盟約もここまでか……。確かに我らは共にいるべきではなかったのかもしれんな〉
「それは違う!」
セティリスが遮って言った。
「必ず〈約束の地〉は見つけ出してみせる。アトゥムの願いは必ず叶う。我らはウェドを喰らってこれからも共に生きるのだ。それまでは……」
〈……では、その時を夢見て待つとしようか。アトゥムの遺児よ〉
ディアマンダラは最後にそう言って、他の竜を連れ立ち、火山の空を後にした。どこかに旅立っていった。
セティリスは休む間もなくウェドの心臓を抜き出すと、それを革袋に納めて、来た道を引き返していった。
再びキングワームを呼びつけ、その背で焦げた腕を縛り、全身の傷の応急処置を施しながら都に向かう。
——が、セティリスが目にしたのは、猛火に包まれた都の変わり果てた街並みだった。
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