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第三章:『石の見る夢』
十二
しおりを挟む皇子と皇の口論はいわゆる丑三つ刻を過ぎたところでようやく終わり、双方の折り合いは結局つかず、皇子は肩をいからせたまま玉座の間を後にした。
「追いかけましょ。ネフティスも気になるし」
「姉御、おかしなこと考えてねぇでしょうね」
「殴るわよ。私だって……いやまぁ少年皇子の寝姿とか(グフフ……)興味ないわけじゃないけれど……時と場合くらい弁えるわ」
(……んなこと言って、姉御がそんな人並みの道徳感持ち合わせてるわけねぇんだ)
廊下の風情も一変して、奇妙な回廊に成り果てていた。
それ自体が変なのではない。こんな時間でも衛兵らがいて、夜番をしている給仕や女中など様々な人がいる。それらが囁き合うため顔を突き合わせていたりする。
しかし、一切動きはなかった。また声も聞こえなかった。
凍りついた時間の狭間に、動くものは自分たちと廊下を進むセティリスのみ。
術者が重要視していない場面では、これからもこのようになるのだろう。
セティリスの後を追いながら、笑いを噛み殺すようにインベルが言った。
「残念ねー、アル。これじゃあなたが期待したような光景もお目にかかれそうにないわー」
(他人のことはズケズケと言うんだよなぁ)
セティリスは回廊をひたすら下に降りていった。
途中騎士たちの訓練場らしき広場の脇を通る。そこには夜にも関わらず汗を流して訓練に勤しむ男と竜たちがいた。
背に乗り、上空に舞い上がった姿勢のまま、この凍りついた時間の世界ではそれが彫刻のように浮かんで見える。
地を這う火竜は鋭い爪を立て、牙を剥き、兵士たちの相手をしていて、所々に休憩して革袋から取り出した兵糧を取り合い、同じ手で竜に食べさせるものたちもいた。それらはまるで気のおけない兄弟か幼馴染のようだった。
そこを通り過ぎると、風景の色味がはっきりと変わった。
等間隔に吊るされていた松明もその頃から数が少なくなり、暗黒の空洞内を通っているように思えて、地上よりよほど明るい。
風とみずのせせらぐ音が反響して伝わってきて、湿度もぐんとあがった。
ここいらの鉱石にはそれらの属性を映し取り、増幅する成分でも含まれているのに違いない。
そう信じられるほどに、その先はひたすら青く、澄み渡っていた——インベルには心当たりがある。
はるか未来——現代において、水浴びをした空間に似ていた。
その空洞内も超えた先に突如として開けた空間が現れた。
おそらくは宮殿の奥深く、山脈の中枢に築かれた竜の寝床だろう。一面が洞窟然としていて、壁から床から人の手が入った痕跡がなく、自然の地層はそのままに無数の横穴が空けられた竜のコロニーだ。
水脈の近くにあるのか、周囲の壁からは水が滴り流れ、壁沿いに小川を形成している。そして天井は山を貫く空洞となり、そこから宝石を散りばめたドレスを着飾るようにきらきらと降り溢れる月明かりが、一帯を青く照らしている。
それが今来た道……空洞の内部までも根強く反射して、光源となっていたのだ。
二人は思わず感嘆の息を漏らしていた。
中心には僅かながら花も咲く芝生が生えていた。多くの竜たちは壁に開けられた横穴の中で休んでいるようだ。
しかし今はそこから一匹の巨大な火成竜が降りてきていた。
一人の少年を腹に抱くようにして、中心の芝生の上に寝転び、巨大な羽根を休めている。
ウェドとネフティスだった。
ネフティスはその腹元に足を折りたたんでさらに子竜を抱き、木の匙で挿し餌を与えていた。穏やかな表情と女性もののチュニックが相まって、それは幼児をあやす母のように愛しみに満ちていた。
剽げた態度でセティリスが言った。
「いいのか。またここにきて。……見つかればドーリアンやタドゥキパが黙っていないだろう?」
「いいんですよ。あのオーブの陣内に在るより、ここで月明かりを浴びていたほうが落ち着くんです」
ネフティスはセティリスに目を向けることもなく、子竜に餌付けしながら、たおやかに話した。
「お兄様こそどうしたんですか」
「なにが」
「お兄様がここに来るときは、機嫌が悪いか、とてもいい時だけです」
「……違いない」
時間が流れたのだろう。
そこで二人や二人を取り囲む竜や子竜の姿が煙のように消え、気がつくとすでにセティリスが子竜の代わりにその膝枕で寝転び、子竜はウェドのより胸に近い部分に丸まって寝息を立てていた。
芝生に足を無防備に伸ばしながらセティリスが言う。その風情のどこにも、普段の緊張感はなかった。
「痛むか……腕は?」
「いえ……特に」
「見せてみろ」
まるで添い寝役の女のような仕草で腿を折りたたみ、そこに乗せたセティリスの額を撫でていたネフティスだったが、彼に言われると、しぶしぶ左の腕を覆う銅の筒を外してみせた。
腕は、一面青い鱗で覆われていた。
「……おかしなものだな」
セティリスは弄ぶようにその表面をなぞりながら、口元を緩ませる。が——、
「かかるなら、俺のほうだろうに……」
その表情とは裏腹に、言葉は夜露のごとき儚さで空間内に散り響き、
「ウェド。なぁ、そうだろうが……」
二人に寄り添うウェドの眼差しは神妙だった。
「お兄様がかかったら、それこそこの国は終わりです」
ウェドの代わりにネフティスが答えていた。
「……僕でまだよかったんですよ」
「タドゥキパはなんて」
「彼は……彼は細胞同士の争いによるものだと。ゆえに如何に克服するか、そうして免疫をつけられるかが肝であると……そう言って地上全体に治癒の魔法陣を敷いて覆っています」
「しかし、効果は正反対だ……俺や兵たちはかからず、街に残る民草や衛兵たち、ネフティス……竜と共に戦わないものばかりがかかる……やはり、ネフティス——」
「——お兄様の方は、今夜はどうされたんですか」
先ほどの繰り返しで、話題を無理やり変えるようにネフティスは兄の言葉の続きを遮った。
その目に宿る焔は自分のものよりもよほど頑なだ……そんな風に受け取ったのか、セティリスもその意を汲んだ。
「……少年兵がいた」
「…………」
「ネフティス……お前とそう年頃も変わらない……そんな者らが痩せっぽっちの身体にボロの胸当てをつけさせられ、石を流木にくくりつけたような槍を持たされ、戦場にいたんだ……」
「……殺したのですね」
ネフティスは鋭くも慈悲深くも見える複雑な面差しで兄を見下ろし、セティリスは首を背け、弟のそんな眼差しに堪えられないように視線を逃した。
「"砂漠の翼"の奴らには重々に告げてあるが、下手をすれば苦しんで逝くことになる……だからせめてすこしでも楽に逝けるよう、俺が率先して首を刎ねた……戦場に出ればいつものことだが、お前とよく似た子供たちを……」
セティリスはまるで悍ましいものを見るように手鏡をすると、震えながら額に押し当てる。
「……父上の言う通りだ。俺もまた救えぬから、殺している……俺だって命の選択をしている……」
ネフティスがすぐさまその手を取り上げるようにして掴んで言った。
「お兄様……それは違う。違いますよ、お兄様は誰よりも人々のことを、竜たちのことも全部、考えてやっています! そうでしょう?」
「しかし、結果は……」
「そうだ、結果はまだ出ていない。僕だって結果を出せてはいない。けどね、だからもうここでお辞めになるんですか? 今が耐え難いほど辛いから、もうダメだって。そんなのこそ、死んでいった全ての人たちに報いれない!」
「ネフティス……」
「いいですか。行こうでも行きたいでもなく、僕らは必ず行くんです。行ってみせるしかないんだ、〈約束の地〉へ。僕たちがそうして糧に変えてしまった全ての輩のためにも。愛する民や竜のためにも。それが僕らにしかできないことなら……! そう、決めたでしょう? あの日、話した時に……」
セティリスの本性が命に対する愛しみであるのと同様に、ネフティスの真価がまさにこれだった。
表面に伝わる物腰のやわらかさや優しさ以上に、獅子のごとく尽きない情熱と折れない男気。
どちらかといえばセティリスのほうが日頃彼に甘えているのだが、その真実を知る者は多くない。
ネフティスはその日もそうして強く、辛抱強くセティリスを励まし続けた。
「大丈夫。僕がついてます。ずっと一緒ですよ、お兄様。それからウェドも。そして願わくば——」
しかし、その数日後、ネフティスは倒れた。
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