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第三章:『石の見る夢』
十
しおりを挟むタドゥキパの研究室兼自室となっている礼拝堂のような空間には〈竜皮病〉の患者が集められていた。皆、全身に包帯を巻いて、さながらすでにミイラの様相。そうした人たちが急拵えの二段ベッドに寝床狭しと2~30人はうごめいていた。
治療は夜更けまで続いた。
といっても専ら看病の域を出ず、急遽助手となったインベルとアルの二人を加えてネフティスら〈賢婦人〉は患者が呻く都度に要望に応えて水を与えたり、タドゥキパの指示に従って、細かく皮膚を採取したりするのみであった。そんな中タドゥキパだけが時々部屋の端の自分の机にそれらを持ち帰っては丹念に調べているようだった。
細菌の流出を防ぐために窓もなく、ロウソクやランプの灯りでさらに熱気がこもる室内での作業は熾烈を極めた。
〈賢婦人〉は交代制で、ときどき人が入れ替わった。入れ替わる際には入り口にタドゥキパが描いた魔法陣で洗礼を受け、身を清めてから出ていく。
「本当に重ね重ね……お二人には何とお礼を申し上げたらいいものやら」
「いいのよ。不謹慎かもしれないけどね、こういうトラブルに遭いたくて旅してんだから。良い経験値だわ」
「あぁ……」
ネフティスはため息をつくと崩れるようにインベルの手を取った。多少なりともこれには驚いて、インベルは声を上げる。
「ど、どうしたの」
「本当に……インベル様……あなたのような人がこの国にずっといてくれたら……」
「あぁ……」
今度息を漏らしたのはインベルの方だった。
それは叶わない。この状況の歪さにもそろそろ向き合わなくてはならない頃合いだろう。
そんな気配を察してか、タドゥキパの尖った黒い耳が部屋の隅、密やかにそばだてられているように感じた。
「では、今日のところはこの辺でお暇します。お二人もすぐにお休みになってください。給仕の一室を自由にお使い頂けるよう、言いつけてありますから」
「うん。こちらこそありがとう。ネフティス。おやすみなさい」
日を跨ぐ頃、ネフティスもまたそのようにして、部屋を出ていくと、
「さて……」
それを待っていたかのようにして、タドゥキパが呟いた。
壁際に書物の山と積まれた机を前にすっと立ち上がると、〈賢婦人〉の女性治療者たちに二、三の指示を告げてから、二人を外に連れ出した。
この宮殿は半ば山脈に飲み込まれるような形で築き上げられていた。すなわち宮殿内はそのまま山脈の横っ腹に開けられた大きな洞穴から出来ており、柱も地層からそのまま取り出したようにして彫られている。
テラスもそうだ。それはさながら峠道に築かれた休憩所のごとく中腹から突き出して在り、眼下には模型のような城下町が、その果てには青く月光の落ちる砂漠が地平の彼方までどこまでも広がっていた。
「単調直入に尋ねてすまないが、其方らはこの時代の人間ではないな」
タドゥキパは石造の手すりの前にくると、振り返り、外套に隠れた赤い目つきを鋭く煌めかせて言った。
「どうやってきた?」
インベルとアルは一度顔を見合わせて返した。
「それが私たちにもよく判らなくて、気づいたら……としか」
しかしそれは多分に配慮した嘘だ。インベルにはこの事態の原因が解りつつある。だがだからといって、明け透けにあなたの国の跡地で例の皇子の甲冑を調べていたら……などとは言えないものだ。
が、タドゥキパの心眼はインベルの予想を超えて鋭かった。
「そうかそうか。月明かりの叡智を借りたのだね。陽光から栄養を省いた空っぽの光は、幻惑をかけるのに最適だ」
「幻惑……この現実感が?」
「左様。其方らはつまり、夢を見ているのだよ」
タドゥキパの物言いは、インベルの腑にも落ちた。
「ゆめ……」
「見させられている、と言ったほうがいいか。それならばこうして我々と意思疎通が図れていることも納得ができる。夢なのだからね、実際には起きていないことでもそのように感じられるわけだ。現実の君たちは今なお深い眠りの中にあり、時間は揺蕩う海中のように鈍い。おそらく寝付いて小一時間も経っていないだろう」
その言葉は、ちくりと、インベルの胸を刺した。
(実際には起きていない……)
夢……と断じて覚めるにも、すでにあまりに深く自分たちは関わりすぎていた。いや、その関わりすらも夢だというのだから。
「しかし、もういいだろう。そろそろ目覚めの時間ではないかな……インベル殿」
タドゥキパはそう言うと外套の長い袖を持ち上げて、両手を構えた。そのとたんに眩い虹色の光がその両手から流れる滝壺のように溢れでて、二人の周囲まで飲み込んでいく。
決して悪意のあるものではないから、インベルも反応が遅れた。けれど、魂が言うと同時、インベルは口を挟んだ。
「待って!」
とっさに出た声はほとんど悲鳴に近かった。
世界最強の称号を恣にしているインベルである。けれども自分でそれと気付けるほどに、その根にはまだ、花開くことのない少女の自分がいるのだ。
冷静に御しきれない自分がいる。
それが言った。
——それでいいの? 本当にこのままでいいの?
——と。
「まだ、夢を見ていたい」
「ほう……」
「解ってる。きっとここから崩壊が始まるんでしょう? セティリスに頼り切りの民たち、ネフティスの関わっていた〈竜皮病〉……いくらでも条件は揃ってるわ。けれど、例えどんなに哀しい結末になったとしても、見届けてあげなきゃ。だって、私たちに術をかけたその人は、それを望んでいる……」
「夢だろうと、精神は同じもの……傷を負うことになるやもしれんぞ? 殊に精神の傷は肉体のそれより深く治し難い」
「傷ならとうにあるわ。どんなにしたって治しようのない大きな傷が一つ」
タドゥキパは目を見張っていた。袖から零れ落ちる虹色の滴の流れを塞き止めて、調子を戻すように腕を二、三振るうと、アルにも尋ねた。
「そちらも御同様かね」
「オイラは姉御の弟子っすからね。姉御の行くところどこにだって行くんでさ」
尖った鉤鼻をつんと反らせてアルは言い、タドゥキパは外套から覗く口元をにわかに笑わせた。
「そうかそうか……何やら私にも解った気がするよ。其方らに夢を見せたものの正体が……であれば、すまないね。苦労をかける……」
夢だと気付くと、世界の表情が一変した。
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