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第三章:『石の見る夢』
七
しおりを挟むその名は〈アトゥム〉。
この砂に覆われた地では、当初人々の生存領域は川沿いしかなかった。自然と川の近くに住めるものほど権力を持つようになり、それらが川の範囲を仕切るようになり、いくつかの集落の発展と共に階級が生まれた。
彼女の一族は最も気高い領主一族から水を分けられ、新天地を求めて日々砂漠を放浪させられては、草一つ生えないと報告しに川に戻るだけの、最も貧しい一族だった。
来る日も来る日も灼熱の砂上をあてどなく彷徨える根無し草の、さらに奴隷階級。それが少女の意味。
恥部をかろうじて覆うばかりの、およそ服とも思えぬ布切れを与えられ、痩せほそった身体は添い寝に使う魅力にすら能わず、虫ケラ同然に扱われる兄弟姉妹と共に育った。
草と同じく朽ち果て、ただ生まれては死んでいくだけの無慈悲なる運命に立ち向かうには、希望が必要だった。
彼女は日々たくさんの兄弟たちと歌い、自分たちを励ました。
見渡す限り一面の、凪にもころぶ砂の海。
トカゲの背に見る夢の華。
我らを乗せて蒼き空。
地にも天にも見えぬ道。
我らを運べ、竜の羽根。
針山突き抜け、穴掘って。
我ら導く、"約束の地"へと。
至りし、我ら、血涙の痕。
彼女には未来を視る眼があったに違いない。
そんな拍子の数々の伝承歌をこの地に遺した。
その日の砂漠は荒れていた。どう荒れていたかというといつにも増して空気が渇き、地熱は一層彼女らの体力を奪っていた。
大人たちが息を潜めているのが判った。
何かに恐れを抱いているように見えた。
ふいに地響きがあり、砂の大地が沈み、そこから無数のキングワームが顔を出したのは、それから数刻と経たないうちだった。
しかし、これは吉兆だ。彼女の目は輝いた。
というのもキングワームが通った道はやわらかく、山の向こうで降った雨が滴り流れて地下水脈になる。この地方のオアシスはそうして出来る。その話を彼女は川元の老人たちの会話を盗み聞いて、知っていたのだ。
キングワームの突進を受けて吹き飛ばされたり押しつぶされる他方、残りは瞬く間に流砂に飲み込まれた。
彼女もまた同様だったが、死は怖くなかった。それよりもすべき目の前のことに夢中だった。目のないキングワームを呼び寄せるように流砂の中に波紋を散らし、自分たちの足元を掘らせると、突進によって空高く打ち上げられた。
その一瞬に喰われたものもいたが、彼女の目論見は上手く行った。キングワームの体表はやわらかく打ち上げられた彼女の小さな身体を受け止める。同時に彼女は肌に飛びつく水滴を感じて、確信した。
キングワームが出てきた部分の地盤が一挙に沈み込んで、水を噴き上げている。
さながら牙の食い込んだ腕のように水が次から次へと盛り上がって溢れ、たちまち水溜まりを作った。自噴泉を得たのだ。
「やった」
彼女は再びキングワームが砂の中に顔を隠すのに合わせて素早く地上に飛び降りると、小さく拳を握り込んだ。
ふと辺りを見ると大人たちは全滅していた。残ったのはわずかな兄弟姉妹の数人と、いつの間に紛れ込んだのか、自分たちより一回り小さな子竜が一匹だけだった。
彼女たちは水溜まりを囲んでビバークした。水溜まりは翌朝には池になり、彼女たちを潤すに十分な量にまでなっていた。
初めて自由にできる水を得て彼らは歓喜し、食料は皆で分けた。この皆には子竜も含まれていた。
おそらくは群れと逸れてしまったのだ。もしかしたら異常な熱気やキングワームの機嫌の悪さもそのせいだったかもしれない。
それら境遇を話し合ううち、自然と子どもたちの間で群れに還すまで育てることに決まったのだった。
数日かけて池が十分な大きさに育ったところを見て、そこの地下水がしばらくは涸れないことを見定めると、川沿いの集落に子供たちだけで帰還した。
彼らの足で一日はかかる行程を超え、どうにか川の集落に帰ると、予想だにしない吉報を聞きつけた大人たちが目の色を変えて子供たちを囲み、詳細を探った。
死んだ人買いのことはもはやどうでも良いらしく、すぐさま男たちの探索隊が組まれ、子供たちが掘り当てた池を目指し旅立った。またその事態は子竜を忍び込ませるのに役立った。
こうして数日は川沿いの集落で穏やかに暮らした。穏やかというのは自噴泉を築いた功績もあって、比較的邪険にされず、相手にはされないが罵倒も受けないという意味である。子供たちは路地裏に自分たちのスペースを得て、そこに捨ててあった木箱に子竜を隠して、身を寄せ合っていた。
そんなある日、集落の一面を真っ暗な影が覆い尽くした。大陸の北東にあるという〈ゲルニカ火山〉からの使い……すなわち火成竜の連れが川沿いの集落を囲んだのだ。
火竜の長らしき一際大きなドラゴンが告げた。
〈我が息子が砂漠の端でミミズ共に襲われ、未だ帰らぬ。匂いをたどり、ここへ来た。息子をどうした? 偽らずに答えるなら、何もしないと誓おう〉
「知りませんっ知りませんっ! 家畜か食料でしたら、どれでも好きなだけお持ちください! お望みとあらば人間の奴隷もいくらかございます! どうか私たちのお命ばかりは……」
大人たちが平身低頭ひれ伏す中、路地裏から子供たちが姿を現した。
「なぜ出てきた! お前らのような薄汚い餓鬼めらが! この方々をどなたと心得る!」
〈アトゥム〉たちは胸に子竜を抱き、まっすぐに母竜の元に差し出した。
恐れはなかった。
ただ少し、子竜との別れが寂しかった。
その澄んだ眼差しを見据え、母竜は告げた。
〈娘。名は?〉
「アトゥム……」
〈アトゥム。貴公の助力に一族をあげて感謝する。いくらか褒美を授けたい。何を求める?〉
そうなるや大人たちは手のひらを返して〈アトゥム〉に迫った。あーでもない、こーでもないと勝手気ままな欲望を垂れ流す大人たちを尻目に、彼女は素直な礼を返して。
「じゃあ、私の弟や妹がもう虐められることのない場所へ。この子と私たちとがずっと仲良く過ごせて、寂しい想いのすることのない、そんな世界に連れて行って」
〈仕った〉
母竜はそう言うと地に降り立ち、信じられないことに、まるで主人にお辞儀をするように首を下げると、子供たちをその背に乗せた。子供たちだけを。
そして翼膜を掲げて大きく大気を羽ばたくと、頭上は遥か空高く、雲の彼方まで群れを率いて飛び上がり、空路を北へと進んだ。
見る見るうちに川が遠く小さくなって、砂漠を超え、ついた先が北の山脈の麓。
「ここが"約束の地"……?」
胸に子竜を抱きながら戸惑いをみせる少女〈アトゥム〉に母竜が返した。
〈如何にも。この麓には自然にできた空洞があり、中には水脈がある。魚を取り、しばし過ごせ。我ら一族、総力を挙げて貴公らのための国を作ろう。貴公は今日よりネフェルティアマトを名乗れ〉
「ネフェル……?」
〈ネフェルティティは砂漠を支配する皇女の意。ティアマトは我ら竜族に伝わる神の名。アトゥム、共に生きよう、そして共に行こう、貴公の見た"約束の地"へ。誓いを忘れぬかぎり、我らはずっと一緒だ〉
こうして〈太陽の都 ヘリオポリス〉は誕生した。
当初キングワームのいる危険な砂漠を超えてまで子供たちを連れ戻しにくる命知らずはおらず、たまに迷い込むように遣わされた斥候奴隷を迎え入れることで、次第に国は大きくなっていった。
一方その噂は川沿いの集落にも浸透していた。例の子らは北端の山脈の麓、砂漠の果てに水を見つけ、そこで竜と共に不自由なく暮らしているのだという。噂とは幾重にも尾鰭背鰭のつくもの。〈ヘリオポリス〉はたちまち奴隷たちの間で夢物語のような華を咲かせるに至り、放浪の最中に命をかけて出奔するものも後を絶たなくなった。
こうなると川の領主らも黙っていられなくなった。
自分たちで独占するからこその権威。権益。それが他方でより自由に手に入れられるとあっては、実効支配が薄れるのも自明。
領主たちは考えた末に、彼らを邪教徒として扱うことにした。
〈ヘリオポリス〉は悪魔の都。人の身でありながら竜族に魂を売った恥を恥とも思わぬ野蛮人の集まりであり、妄言に釣られてやってきた旅人は皆、竜の餌になっている。男たちは一部を除いてここ以上に虐げられ、娘らは竜と交わらされ、混血のヒトもどきを排出させられている。
そのような根も葉もない噂を衆民の間に流したのだ。
毎日のようにこのプロパガンダは流布され、当初信じていなかった者も次第に傾倒していった。〈ヘリオポリス〉に憧れを持ったり、肯定したものに対しては率先して侮蔑が行われるようになった。領主らもそうした者共を贔屓するので、この際本心から信じていようといまいと関係がなかった。
彼らへの迫害が本当に民衆の意思であったかはさておき、中には元々抱いていた彼の地への嫉妬心から信奉する者も多くおり、そんな人たちが妄執に拍車をかけた。
宗教とは、"本来姿形を定めぬ事象に神が宿ると、あたかもそれ自身に意思があるかのように触れ回ること"である。
盲目的に川を信仰する民らは〈ヘリオポリス〉を訳もなく忌み嫌うようになり、〈ヘリオポリス〉は彼らから逃げてくる奴隷を受け入れながら勢力を拡大する一方、常にそんな川沿いの人々の襲撃に遭ってはそのたび国としての処世術を学びもした。
両者の因縁は以降、百年以上の長きに渡って続くことになる。
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