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第三章:『石の見る夢』
五
しおりを挟む一足早くアルの耳がぴくりと跳ねて、遠い、街並みの果てを見やり、それに気付いたインベルが何気なく視線を追った。
「アル……?」
そしてインベルが口にしたのと同時、叩き、打ち鳴らされる鐘の音が街の入り口から徐々に広がり、この大階段の頂上まで轟いた。
とたんに慌ただしく動き出す周囲の人々には目もくれず、インベルはアルに顔を近づけた。アルは長い耳をそばだてて、音を探っているようだった。
「姉御……結構な数ですぜ。迫ってくる」
「時間は?」
「十分もないんじゃねぇですかね。連中、砂漠用の鳥馬を操ってる……」
敵襲だ。いざとなれば自分自身が先陣切って殲滅してもいい。その覚悟で上体を起こしたインベルの耳を、一際大きな声が叩いた。
「静まりなさいっ!」
傍にいたネフティス弟皇子である。
ちなみに、背丈も程よく近かったアルはその一瞬で耳をやられて失神し、インベルは再度屈んでその小さな身体を支えながらネフティス皇子の背を見上げた。
彼は宮殿内入口の大通り全体に聞こえるようによく声を張り上げて続けた。
「伝令! 騎馬隊、戦車隊はただちに装備を整え、城門前へ集え! 第一近衛は城内の警備! 給仕、女中、神官をかくまいつつ、父皇の元へ! この場にいる第二近衛は兄の元へ馳せ参じ、第三は我に続き、街の警備へ赴く! 兄皇子セティリスにもそう伝えよ! ——いけっ!」
「はっ!」
一転して勇ましき様を見せた弟皇子の言付けを賜った伝令兵が視界の至る所で角笛を吹き鳴らし、そのあとに今受け取った伝令を、そのままに述べていく。
女中や給仕は衛兵に庇われながら、城内奥や近くの部屋を閉め切って、こもり、騎兵と思われるものは通りの最奥にある地面の穴の中へと消えていった。おそらく昇降装置があり、城下の馬小屋等につながっているものと思われる。
そして第三近衛と呼ばれる上等な小札を着込んだ者らが自身の周りに集うと、ネフティスは改めてインベルとその腕の中で寝入ったアルに言った。
「ご心配なさらないでください。じきに兄が出陣なさいます。必ず勝利を収めます。なので、お二方もしばらく……」
「待って。私も力になれるわ。アルも感覚が鋭い。役に立つはずよ」
「しかし、お客人にそんな……」
「私なら大丈夫——それよりも、ネフティス」
「はい」
「あなた達が戦っているのは、だれ? ここには魔王軍がまだ、いるの?」
インベルはここで目覚めたばかりのことを思い返していた。
——魔王軍の手先め!
ここの衛兵はインベルたち(主にアル)を見つけて間もなく確かにそう言っていた。しかし、それはありえないのだ。なぜなら、インベルの知る魔王軍はもう——。
「近隣の川沿いに住む民族です」
「…………」
「僕らの水を奪いに来るのです」
「……なるほど。ごめんなさい。杞憂だったわ。それなら、私も加勢する」
インベルは得意げに笑むと、怪しく口元をなめて、
「それに私もそろそろ暴れたくてうずうずして——」
「——あまり物騒なことを申されるなよ、旅の小娘!」
しかし、突如上空から響いた声がインベルの動向を遮っていた。城下へ続く大階段に大きな影が差し、その広がりと共に大気を丸ごと揺らすかのような強い羽音が瞬いた。
ネフティスが頭上を見上げ、歓喜に叫んだ。
「お兄様!」
セティリス兄皇子はネフティスに応えつつも、足元のインベルを指して続けた。
「——また牢にぶちこまれたいというなら、話は別だがな」
「セティリス……」
インベルも見上げた。
セティリスは大階段近くの空に羽ばたく紅蓮の竜の背に乗っていた。平均サイズの戦馬十頭分はある体躯、頭に生える二本の長く鋭い角、勇猛に扇がれる両翼は完全に広げれば家二、三軒は軽く包み込めそうなほどに大きい。
「なんて立派な……」
〈あれが貴様の言っていた小娘か——セティリス〉
低く唸るような吠え声にまじって、かろうじて聞き取れるような人語が聞こえる。
「ああ、そうだ、ウェド。似つかわしくない、妙な魔剣を腰に下げているだろう」
〈セティリスよ……あれは、ただの魔剣ではない……それどころか剣ですらない——竜そのものだ〉
「なんだって?! あれが竜……?!」
ウェドと呼ばれた火成竜はついにその名を唱えるように語るのだった。
〈"最孤の竜 ミドガルズオルム"……まさか、本当に実在していようとは……〉
「なんだ? それはいったい……」
〈世界を喰らう蛇の名だ〉
「…………」
インベルは正直嬉しくなった。自分の経験の中でも遭遇したことがないようなあまりに強大な成竜に、その名を認められていることが。
それで思わず唇が震え、口走った。
「へぇ、あなた、この子を知っているの?」
〈小娘、どうやって飼い慣らした? まともではあるまい〉
「さてね。世話してたら懐かれた……それだけよ」
〈世話……だと? くくくく……〉
インベルの返答にウェドと呼ばれた火竜は高笑いを放つ。あまりに豪胆、あまりにも愉悦に満ちた笑い声は、化け物じみてはいたものの、それだけにインベルは心地よかった。
〈ふははは。面白い小娘だ、懐かれた? あれに? そしてそのことを意にも介しておらぬとは……〉
「おい、ウェド。俺にも分かるように……」
〈セティリス。残念だが、あれは貴様の手に負える小娘などではないということだ〉
「なんだと?!」
〈世は広く、上には上がいる。セティリス。あれは叡智を超越している。無論、この我とてその足元にも及ぶまい。それを判ることもまた強者の業ぞ〉
「ちっ……それほどまでか……」
セティリスは悔しげに舌を打つと、しばし黙り、気迫のこもった顔つきをインベルに向けて言った。
「だが、ここは俺の国。貴様は俺の前では小娘であり、客人であることに何ら変わりはない。今は俺の顔を立てて、ゆっくりしていろ。そして……」
「そして?」
「帰ったら、その話、とくと俺に聞かすのだ。解ったな?」
インベルにとってはもはやどこを切っても耳をくすぐる甘い声にしか聞こえなかった。インベルはアルを足元に寝かせて、両手を胸の前で結ぶと、まつ毛をきらきらと瞬かせ、
「はい。嘸や首を長くして、お待ち申し上げております」
淑女が礼拝をささぐようにそう返して見送るのだった。
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