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第一章:『歌う丘』
二
しおりを挟む昼過ぎになると、麓の集落で、恐ろしい事態が起きた。
近くの渓谷に住み着いた半身を鳥類、半身を人間という鳥の化け物、ハルピュイアの襲撃を受けたのである。
一団の目的は若き男たちであった。
彼女らはそうして人間の集落を襲い、男を攫っては巣につれ帰り、交配を繰り返してきたのである。
彼女らは腕の大きな両翼を広げて村人たちの頭上を羽ばたき、巻き起こした暴風や鷹のように鋭い脚の爪を武器にして村の用心棒を容易く退けると、今度はその爪で若き男たちを掴んで連れ去っていく。
訳もわからず掴まれた子供は恐怖に泣き叫び、足元の母は空に両手を掲げて、降りかかった不幸を嘆いた。
「ああ! どうか、どうか許してくださいまし! 私の子だけは! 連れて行かないで! どうか!」
ハルピュイアの一団の、若きリーダー格が、声だけは世界的オペラ歌手にも負けない美しい響きで言った。
「おーーっほっほっほっ! どうかどうか。それはこちらのセリフですことよ、人間のお母様方。どうか、ご理解なさってくださいまし。何もあなた方の息子たちを取って食おうなどとは言っていないのだから。種の存続のため、少しの間、お借りするだけなのだから。お返しする頃には、感謝さえなさることと思いますわ」
「そんなことを言って、いつになるか分からないのでしょう? 風の噂によれば、そうして子供の頃に攫われた子たちが、お爺さんの代になってようやく帰ってきたと聞きます。それはもう、私たち人間にとっては死別も同義なのです」
「そうですわね……わたくしども、魔族の寿命はあなた方とはずいぶん違うみたいですわ。でもご心配なさらないで、お母様。たった数十年のこと。歌でも歌って、お酒でも飲んでいれば、あっという間じゃないかしら? 物は考えようですわ、お母様。あなたも歌いなさい。歌って、享楽に全てを忘れてしまえばいいっ——!」
そう言うとリーダー格の娘は仲間たちに合図して歌い出した。
傲岸不遜な物言いに反して、それはまさしく天使の歌声——耳をくすぐるような爽やかさでありながら、時に甘く、うっとりとさせてしまう蜜のような声色だった。
ハルピュイアの歌声には、そうして人間を脱力させてしまう魔力がある。
捕まっていた子供も青年たちもたちまち泣き止み、母親たちも彼女らの歌を聞くだに全身の力が抜け、広場の真ん中で足元から崩れ落ちてしまう。
その寝しなにも、涙を流しながら村の女たちは嘆いた。
「ああっ……力無き母を許して……! どうか我が息子よ」
「おーーっほっほっほっ! まったくか弱いものですわね、人の子というのは。いいから酔いしれてしまいなさい? その方が楽になるのだから——」
ハルピュイアの娘が表情だけ慈悲深げに告げたちょうどその時、丘の上から少年が下りてきた。
それが、あまりにも静かな振る舞いだったから、娘もすぐ傍に来るまでその存在に気づかなかった。
両目を固く閉ざしたまま広場まで来ると、少年は鼻をすんすんと鳴らしていた。
ハルピュイアの娘がその眼前に舞い降りる。そして少年を見下ろすと、脇で先ほどの母親が呻くように言った。
「待って……その子だけはいけません。その子は男爵様の忘れ形見。どうか……」
ハルピュイアの娘はまるで聞き入れなかった。白髪の少年を興味深そうに見るなり、
「どうしたことかしら。この人の子、私たちの歌が効かないとでもいうの?」
一方で少年は腕を中空で彷徨わせ、指先で辺りを探っていた。
丘の上から女中があわてて駆けつけるも、一足遅かった。
ハルピュイアの娘の、先端で翼と一体化した手のひらがそれを素早く捕まえる。
しかし少年はわざとらしいまでににっこりと破顔して、娘の顔があるだろう方向に笑いかけた。そして、掴まれていない方の手をまるでアンテナのように伸ばすと、ハルピュイアの娘の顔に触れるのだった——。
「無礼者!」
娘は間もなくその手を払い除けたが、少年は首を傾げるのみで何も言わない。
「……?」
「いったい、いきなり何を——」
そう自分で言った矢先、娘はすぐに勘づいた。
曰くありげに目を細めると、後を続けた。
「——あぁ……なるほど。そういうこと。……この子、目が、そして耳も聞こえないのね」
少年のまさに眼前で翼の手を振るいながら言い、
「どれ、少し試してやるわ——」
娘は一呼吸する。
その直後、さっきまでとは更に比べ物にならないほどの、もはやこの世のものとは思えない超音波で広場を轟かせた。
ハルピュイアの魔力を全開にして発声に込めれば、そうして人間の魂だって吸い出してしまうことができる。だからいつもは加減して歌っているのだが、この時はそのくらいに本気だった。
村人たちは先ほどとは打って変わって、今度は苦しみに悲鳴をあげた。彼女の部下たちに捕まり、寝ていた者たちもたちまち飛び起きるや、眼球が飛び出しそうなほどに目を見開き、血走らせ、苦痛に身体をよじった。
己の生命が細胞の一つ一つから引っこ抜かれていく地獄の苦しみに悶えたのだ。
しかし、当の少年は何にも気づかない。
目の前でどれだけ悲惨な光景が繰り広げられていようとも、絶望的な響きが大気に波紋を広げていようとも、柳に風、暖簾に腕押しというように、少年は目を閉じたまま顔を揺らし、見失った相手の顔の位置さえ探るので精一杯なのだ。
少年にとっては嗅覚と触覚が世界の大部分を占めていた。いなくなったと思われた相手を探して、腕を彷徨わせる。
そして、ハルピュイアの娘の手を見つけて、掴むと、先ほどと同じように屈託なく微笑みかけた。
理解し難い。
ハルピュイアの娘にとって人の子というのは、自分の歌さえ聴かせれば思い通りになる豚も同然だった。
それが不可解な接触を試みようとしてくることが、当初気味悪く映った。
歌唱が終わると、ハルピュイアの娘の麗しい金色の双眸が、禍々しく歪んでこの時こそしかと少年を捉えた。
「なんなの、お前……なんて憎たらしい。そして哀れなの! この美貌も美声もお前には判らないなんて。お前みたいなのは、いらないわ! 子孫に傷をつけるわけにもいかないもの!」
娘は表情を醜く歪ませて盲ろうの少年を厳しく睨めつけると、口惜しげにこう吐き捨て、同時、少年の手を振り払うのだった。
少年はまた娘を見失い、動揺した。
それからすぐに気を取り直すと、
「人間のお母様方。可愛い息子たちはわたくしどもが責任を持って大切にお預かりいたしますわ、それではごきげんよう。おーーっほっほっほっ!」
村人たちにもそう告げて、仲間たちに帰還を合図した。
そして、人の子らを伴って草原の青い空を渡り、渓谷の奥地へと飛び去っていくのだった。
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