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第百六回『蝶々幻想 〜 Chaos-Fantasy 』
しおりを挟む「あと二話……二話で、時止めは切れる」
小出は至って真面目な顔して続けた。
「今ので、一回挟んだから、あと二話になっちゃった……ほんと、ごめんなさい」
リツは嬉々として腕を振り上げた。
「小出ぇぇええーーーっ! てんめぇ、さっそくしょうもないことで一話消費しやがってええぇぇーーーーっ!」
しかし次の瞬間、燃える拳が突き刺さっていたのはリツの方だった。
——クロス・カウンター。
小出に向けて放たれたリツの右腕と交差するように、マギの幻の左がその上から被さるように伸び、リツの右頬をものすごく歪めていた。
べべべべべべべ。
「うげあーーーっ!」
リツが吹っ飛んでいく一方で、空からは絶えず弾幕が降り注ぎ続けている。地上の人間たちは逃げ惑ったりしながら硬直している。実にシュールな光景であった。
リツはたちまち飛び起きると、前回殴られた左と合わせて左右の頬が腫れ上がり、もはやご本人確認できない有様になっていた。
マギは指差して笑った。
「茹で上がったタコみたいになってる」
「…………」
タマは真剣な顔つきで黙っていた……黙っていたが、やがて堪えきれずに口元を指で押さえて、
「——プ、グゥぅーーー!」
と笑った。
リツは両腕をぶんぶんと振るいながら猛然と抗議した。
「なんでっ、なんでっ! なんでそういうことするのっ?! いくら私が守銭奴で売国奴の堕天使だからって、今は関係ないじゃないっ! 小出のせいで、一話消費したのは事実だし、私だって女の子なのにっ!」
「なら、この一話、早く進めたらいいだけでしょ。こんなことやって——プ、ブーーーッ! だ、ダメだ、リッちゃん、その顔なんとかして! こっち向けないで!」
「てめぇのせいだよ! ……彼氏だからって肩持ちやがって!」
再びリツの顔面にマギの拳が突き刺さっていた。
いよいよリツの顔面はブラッドボーン・DLCに出てくる脳みそか、はたまた梅干しみたいになった。
マギは赤面すると、頬に手を当てながら身を捩って言った。
「だ、だだだだ、旦那様なんて! だ、誰も言ってないでしょ?! もうリッちゃんたら!」
「本当に誰も言ってねえんだけど、ねぇ、何が聞こえてるのー! この人ー! もうほんと怖いんだけど。何言っても殴ってくる病気じゃん! この人ー! ミカ先輩より怖い!」
梅干しが言い返す傍ら、小出は胸を手で押さえてハラハラしていた。
そんな小出の肩に手を置いて、レイが言った。
「小出くん……それで、説明は以上で全部かしらー?」
「あ、レイさん。左様です。……というか」
小出は改まると、頭を下げて言った。
「ご無沙汰しております、挨拶遅れてすみません……」
「ううん。今はそんなことよりもミカちゃんを止める方が先だものー」
ピキッと、空気が張り詰めた。
梅干しが、口があるだろう箇所を手で押さえて震え出し、マギは春の寒気に白く吸い込まれそうな空虚な息を吐いて言った。
「……え?」
レイと小出、二人の会話はそんなマギたちを無視して続いた。
小出は青年っぽい良い男の声で言った。
「そうですね——いえ、それにしても、マギさんの先輩が、レイさんの妹さんだったなんて……」
「話してなかったかしらー」
「いつも寝てばかりいたじゃないですか。しかし、自分はその寝相や寝癖の悪さ、歯軋りに床ずれ、鼻ちょうちんから色んなことを学ばせてもらったものです」
「あらあら、そんな観察されてたなんて……恥ずかしいわ」
「いえ。貴女に鍛え上げられたお陰様で異能も使えるようになって、今では警視総監ですよ。本当に、感謝してます」
「昔のことよー」
「……え? え?」
マギは天の川よりも蒼白な顔色になって、二人の間にゾンビみたいに両手を出して彷徨わせたあげく、いよいよ尋ねた。
べべべべべべべべ。
後ろでは絶えず弾幕が放たれ、干渉できない状態とはいえ、地上の人間たちに降り注がれている。
「……お、おいでぃー? ひ、ひりあい?」
「あ、マギさんには、まだ言ってなかったっけ——」
小出はとても良い男の表情で返した。
きらきらしていた。
「警察学校時代の特別顧問として、当時大天使の位だったレイさんに監督してもらってたんだ。恩師なんだよ」
「昔の話よー」
「べ、別にあ、あれですよね……オイディーがあれとか、そういうこれでは……」
「えっ……」
小出は一瞬黙って、照れ隠しに笑った。
「な、何を言ってるんだ、マギさん。そ、そんなことあるわけないじゃないですか! そ、そりゃレイさんは同期の間で、あ、憧れのおかずだったけど!」
小出は男子中学生レベルの反応で、ちらちらレイの顔色を伺いながら言った。
マギはそれこそ時を止められたように動かない。
レイは微笑みを絶やさず切り返した。
「あらあらー、今のは聞かなかったことにするけど、本人の前で言っちゃダメよー」
「……レイさんっていくつなんですか?」
そう尋ねたタマは純粋だった。
不純物ゼロのその問いかけゆえ、レイは微笑みを絶やさず答えた。
「パンドラよー。というより、天使なんだもの。人間の齢で換算してはいけないわー」
「それもそうですね。それ言ったら私だって……あはははっ」
「うふふふふっ」
マギは思考を切り替えていた。
そうだ。
パイセンだったら、こういうときどうしたか?
どうするか?
あのゲロにして唯一の美点といえるプロの矜持は、なんと言っていた……?
「おい、いつまでべちゃくちゃと喋ってんだ……」
「…………」
「あ……」
マギは男塾みたいなマッキーで塗りたくったように濃ゆい眉とタッチで、指紋まで筆で描き込まれたような親指を奥に差して言った。失恋のショックでたぶん水瀬いのりから、小野Dくらいまで声質が変わった。
心なしか、口に葉っぱの茎を咥え、長ランを着て、背後霊がうっすら見えた。
「んなこたいいから早く行こうぜ。ちんたらやってる間に一話終わっちまうぞ」
「……そうね。昔話に華を咲かせている場合ではないわね」
「でした。ミカさんを止めないと!」
圧倒的な漢を醸し出し始めたマギ。
レイもタマも、その迫力を前に、気を引き締めなおしたように身構えると、改めて弾幕を吐き続けているミカを見据えるのだった。
「…………」
リツが納得いかないように二人を追い、マギがしんがりを努めた。
そうしてマギは心から漢になることで、初恋を乗り越えるのだった。
◇
「とはいえ……具体的にどうします?」
べべべべべべべ。
と弾幕が張り続けられる中、タマが言った。
依然ミカの三体からはカラフルな弾幕が空の一面を覆う勢いで放出され続けており、その一発一発が、室伏の砲弾級の威力を誇る。
当たったら「アイテーーーッ!」では済まされない。
関節の脱臼は免れないだろう。
「この弾幕……近づくだけでも! なかなか! ……至難の業ですよ」
「そうだね。ぶん殴って進めばいいんじゃないかな」
マギが機械的に答えた。つい今しがた喰らった失恋の傷跡がまだ堪えているのか、上の空……というか、廃人寸前だった。
リツは珍しくマギを慮った。
「(……マギ)」
目の焦点は定まらず、瞳孔と口は開きっぱなし。涎は垂れ流し……。
かつて宮沢賢治が何かの隅に書き残したという詩の話を、リツは思い浮かべて、心で泣いた。
"やぶれし しょうねんの うたへる"
この詩がへたくそな鳥の絵と共に書き残されていたという。
同時に、宮沢賢治といえば、恋はすれどもその漢気ゆえに、生涯童貞を貫き通した偉人としても有名であり。
有名であるということは、このように、死してなお、人類の滅びるその日まで、未来永劫、生涯童貞であったことが晒され、知れ渡り続けるという、あまりにも過酷すぎる運命を背負ってしまった男だということである……!
およそ千年先の、中学生でヤリたてほやほやのガキクソにすら鼻で笑われながら、こう言われるのだ。
『え、お前、まだなの?』
昼休み。
早々とコンビニパンを食べ終えたチュウが、隣の机に腰掛けながら言った。
『俺ですら昨日捨てっちまったのに……』
シュウジは突如立ち上がると、真ん中の席について項垂れるミヤを庇っていきりたった。
『おい! お前やめろよ! ワザワザそういうこと言うの!』
『え、だって、童貞が許されっちまうのって十四歳までだよね。生涯とか……例え彼女いない歴年齢のおっさんだとしても仕事人で捨てっちまうでしょ? え? 違っちまうの?』
シュウジはチュウの肩をグーパンして言った。
『おいっ! ワザワザやめろって!』
『だ、だってさ。汚れっちまった悲しみも知らないで死ぬとか……』
『お前! ミヤに謝れって!』
『だってさ……』
これはきつい。
これはきつい。
これは、あんまりきつすぎる。
かくて、あの人は、生涯女体の柔らかさも温みも抱擁の安心感も一体感も知らずに逝ったと延々言われ続ける宮沢賢治大先生の影を、リツはマギの背中に重ねて、ワザワザ汚れっちまった悲しみを見っちまったのだった。
「脳筋のマギさんはそれでいいかも……ですけど!」
それはともかく、タマが弾幕を凌ぎながら返した。
というのも、弾幕シューティングというのは、ボスキャラに近寄らずに、端っこで弾がばらけてできた空間を保持し、かわしながら、相手を倒すゲームである。
ボスキャラに近づくのは、基本的に一回の攻撃が終わってから次の攻撃が始まるまでの、インターバル中に落とした得点や強化アイテムを回収する時のみ!(画面上半分以上に行くと、自機に吸い込んで回収できるシステムなのだ)
それすら次の攻撃が苛烈な場合には諦めることもあり、さながら街中でカメラを見つけて「ウェーーぱっぱっぱらっぽ、ぱっぱっぱらっぽ!」ってはしゃぎ倒すアホのように、ボスキャラの周囲を飛び回るくらいなのである。
マギの鉄拳制裁は、通常弾がない代わりにボムを乱発できるに等しく、まったくゲーム性に則していないチートみたいな能力なのだった。
「私が引きつけるわ」
すると、レイが錫杖を器用に回しながら言った。
錫杖の回転速度が上がるのとシンクロして、その肌が、マギやミカの時同様に変化していく……が、レイの場合はより一層白くなった。
小麦色ってのはー……んー。ま、ギャルだからいいんであって、奥さんがそうなのは……バツイチ子持ちのヤンママさんとかもいいんだけど……ちょっと違うっしょ。
っぱママといえば、栗毛色のおさげに、あんま外出てなさそうな色白。タートルネック・ニットセーター(手が隠れるくらい大きめ)にエプロン、それから神器オタマを手に持ちおかえりなさい、これで決まりっしょ。
あと少々太めの二の腕ね。
という完全なる神の好み——いや、ロマンだった。
そうして、より色白おさげなママ味を増したレイは続けた。
「その隙に、マギ、リツ、タマ、あなた達でミカちゃんにメッ……てしてきなさい」
「レイさん……」とマギ。
「レイさん、危険ですよ! あの室伏の投げた砲丸ですよ! 当たったら、あざになっちゃう!」
タマは食い下がったが、レイは気丈に続けた。
くるくるくるくるくる。
錫杖を回転させながら——。
「——大丈夫よ。こんなときのため、私には吉田沙保里のタックルがあるから!」
「……レイさん」
「…………」
リツはマギに殴られる可能性を恐れて、余計なことは言わずに黙っていた。
マギは、逡巡しつつ、言った。
「わかりました! 絶対に——パイセンを止めてきます!」
「お願いね。私の大切な妹を……」
レイは答えるや、続けて詠唱を始める。
「闇よりもなお昏きもの——夜よりもなお深きもの——」
「こ、この詠唱は……! 竜じゃない、重いほうだ!」
「行こう、リッちゃん!」
堪えきれずに突っ込んだリツを引っ張るようにマギは言った。
「我と汝が力持て——等しく、癒しを与えんことをっ——! 行きなさいっ! あなたたちっ!」
言うと同時、錫杖が光り輝きレイの周囲を包み込んだ。
「——ギガ・メンブレィィィィィーーーーーークッ!」
説明しよう。重母斬とは。
ただでさえ癒し効果抜群のASMRだが、本体が分身することによって、我々は両耳同時化に成功——。
図1はASMRの内容告知をコミュニティで受け、イヤッハァーーーッと飛び上がり、全員で拍手喝采。涙を流しながら互いの健闘を讃えあい、肩を抱き合い、全身で喜びを表す研究員たちの様子を写したもの。
まさに空間を超越して我らの耳を犯すが如く耳をかき、甘く囁き、時に抱きしめ、優しい心音を聴かせてくれる女神たちの究極奥義——メンバー限定ちょいエロ配信のことである。
それはさておき、レイの錫杖の回転力はハンドスピナーみたいな癖になって、次第に掃除機のような吸引力を伴った。
それがミカの弾幕を吸い込み続け、その隙に、完全にフリーになったミカの正面に三人は立った。
ミカは、人形のようだった。
三人が目の前に来てなお、まったく意に介していないように中空を瞳孔の開いた眼差しで見つめ続けている。
「パイセン……」
マギは丹田に力をこめ、下半身を深く落とすと、武術の構えを見せた。
「——お覚悟ぉっ!」
そして一閃——。
マギはその顔面に正拳を打ちつけた……つもりだった。
しかし。
「いってええぇぇーーーーっ!」
その拳はミカの面前で止まり、すぐにマギは痛みに悲鳴をあげた。赤くなった手の甲を見せて、ぶんぶんと振り仰ぎ、タマは目を見張った。
「?! ……こ、これは」
「ちょこざいな……防御壁ですね」
痛みに苦悶するマギの代わりに、リツとタマがさっそくミカの周りを手のひらで確認する……と、そこには見えない壁のようなものの存在が感じられた。
ミカの全身……周囲に沿って、卵状に、この壁は続いているようだった。
「……これ、すっげぇ硬い。大丈夫ですかー? マギ先輩」
「こ……の……」
マギはまだ痛みに顔をしかめ、腕を押さえながら、再度ミカと対峙した。
一方のミカは延々と仏頂面で、その視線もあさっての方角……、
「…………」
……かに思われて、マギの方をちらっと横目で流すと、
「……ぷひゅうーっ」
眉尻を下げて、極めて侮辱的な笑みを浮かべるのだった。
再度、マギのゲンコツが飛ぶ寸前でタマが羽交締めにして止めた。
「ダメですよ! また痛い思いするだけですって!」
「絶対! 殺すっ! コイツッ……!」とマギ。
ミカは防御壁の内側で、憎らしい顔つきを続けて、マギを煽った。
リツが言った。
「しかし、これじゃ、どうしようもないですよ……どうします? 諦めます? 人間」
「アホ! こんくらいぶん殴って乗り越えてやるわっ!」
激昂するマギに、リツは呆れて言った。
「ですから……殴れないんだってば……」
「それでも殴る! 絶対殴るっ! 一発ぶん殴ってやんなきゃ気が済まないっ!」
「…………」
肩を落とし、嘆息しながら……リツは思う。
思うところがあった。
考え、それからふと、訪ねた。
「……ちょっと思ったんですけど、訊いていいですか」
「あぁっ?!」
「マギさんっ!」
凄むマギに止めるタマ。
それらに介しないで、リツは顔をしかめるように眉間にシワを寄せて続けた。
「なんで止めるんです? マギ先輩。ミカ先輩のこと」
「は? なんで? なんでって」
「友達じゃないんですか?」
初めて見るかのような、リツの真剣な表情——本気の鞘当てだった。
「……リッちゃん」
「別に良くない? 人間たちの数が減ろうが、世界の平和とか? 人間界の世情なんざ、所詮私らには些事だし……そもそもミカ先輩の言うことも一理あるでしょ。で、マギ先輩とミカ先輩って……私には計り知れないけど……見てる感じ、一番の友達同士じゃないですか」
「…………」
「それが、ミカ先輩を……倒してでも、って。——そうまでして、止める必要あります? そうまでして、この人間界に、守る価値あります?」
「……リツさん」
タマは自然とマギの腕を緩めていた。
マギもその腕を退け、
「わかってねーな、お前も」
頭をかきながら、リツに向き合って言った。
「私だって人間界とか? 普通とか? 知ったこっちゃないよ。滅びるなら身から出た錆だし。けど……うん、パイセンは友達だと思ってる、少なくとも、私は」
「——ならさ」
「——だから、友達に殺しなんてしてほしくない」
リツは目を見張った。
マギは続けた。
「してほしくなかった……間接的にそうして生きているのが私たちの常だとしても、直接手を汚すのは訳が違う、だろ? だから、一発殴って、全人類の前で頭下げさせんだよ。その義務が、私たちにはあんだろうが」
「…………」
「どんな大義名分があろうが排除にゃ何の意味もねー。改心させる、ってことが念頭にねぇ奴の正義なんざ、どんなに身綺麗で正論ぶっててもそんなのただのエゴなんだよ。自分が気に食わねーからボコしたろ、ってことだろ、それは。違うか」
リツは圧倒されていた。
マギの据わった目つき。
リツとて伊達に天使ではない。修羅場も乗り越えてきて、今がある。それでも、マギの目つきはそこで見てきた全ての者たちを凌駕するほどの気迫に満ちていた。
理屈ではない、確固とした決意を感じるのだった。
「……なるほど」
「ムカつくから、世間が認めた悪党だから早く死刑にしろだとかよ……大の大人が、勝手な正義感に酔ってる厨二のガキクソみたいなこと言ってんじゃねーよ。それ、パイセンが一番キレるやつ」
うんうん、と防御壁の内側からミカが腕を組んで頷いた。
リツは呟いた。
「……いや、私は単にマギ先輩がどのように考えて、ミカ先輩に心酔してんだか気になってただけですよ」
「はぁ?」
「おかげで、ちょっとだけやる気出てきました」
リツの羽根が、堕天使の黒いものから、なんと透き通った昆虫の翅模様に変化していく。
リツは堕天使。変身時の姿は、どちらかといえば悪魔か、はたまた花の妖精のような雰囲気だった。
インテリジェント・リツはそうして、青や紫の蝶々をまといながら、改めてミカと……それからその後ろにそびえる巨大な餓鬼と薔薇の貴公子を見据え、
「見せてやりますよ、バーバード大飛び卒の頭脳ってやつを——堕天使結界術『帰国天使の計算式』」
◇
リツは格好つけて言いながら、内心しまった——と、冷や汗がダラダラだった。
これはヤバい。やっちまった。
秘められた形態、本気モードへの変身によって一話分の引きを作ってしまった……こんなことで一話消費しようものなら、私は間違いなく次の回冒頭でマギ先輩にまた殴られる——!
私の命もここまでか——に思われたが、次の瞬間もこうしてまだ息が続いている事実、マギの鉄拳私刑が飛んできていない事実から、リツはある一つの仮説を立てた。
そうだ、CMの間だったのだ。
これはまだCMの間だった。
それならばまだ一話は終わっておらず、ブチ切れたマギ先輩の鉄拳私刑によって、私の息の根が止められていないことにも説明がつく。
一方で、自分の本気解放シーンが、一話分の引きにも足らないと、お上がノーを突きつけた。首を横に振った。判断された、という邪推。
ぽっと出の爽やか系賑やかしにして舞台装置に過ぎない小出のしょうもない一発ギャグ未満の価値であった、という勘ぐりは、ひとまず視野の外に置くことにした。
そうだ、CMだったのだ。CMという機転だった。
決して最初期から居る私というキャラの価値が、そんなものであるわけがないのだ。
そんな風に、リツはしみじみ思った。
そうだ、京都へ行こう。
この戦いが終わったら。
一回長い有給をとって、宇治を見てまわりたい。
黄前や麗奈の見た景色をゆっくり旅したい。
本当に宇治だからって、電車の座席シートはもちろん吊り革まで抹茶色なのだろうか? 瓦屋根の付いた公衆電話ボックスを写真に収めたい。天ぷらにも抹茶粉をかけて食べる、というのは本当だろうか。ラリっていると、ぶぶ漬けを出されてしまうのは本当だろうか。
なんであんなに『響け! ユーフォニアム!』は魅力に満ちているのか。
やはりキャラの造形、そこから奏でられる集団的人間関係の、時に重苦しく、時に晴れやかな、私たちの世界と地続きにあるような複雑な色模様、それでいて暗くなりすぎない見事なリアリティライン、その思慮や吟味の深さが他の作品とは格段に違うからではないか。
黄前や麗奈といった主要人物は、あくまでシメるとこをシメる味わいというだけであって、主要でありながら、時にモブにも回る。
あのアニメにおいては吹奏楽部に加わった一人一人に物語があり、時として一人一人が主役になる。
物語は新入生の加入……二年前(九年前)はそれが、悔しさを感じられずつい余計なことを口走ってしまってギクシャクしていた黄前と麗奈だった……から始まる。
一癖二癖もあるような新一年がそれぞれに問題を抱えながら入ってきて『こんなんでやっていけるのか?』と観る者に前途多難を想起させる。
しかし、全国大会出場、および金賞を取るという目標に向かうに連れ、時に衝突し、涙を流したり、退部してしまったり、さまざまな人間模様を見せつつ、次第に団結。春先には頼りなかったそうした子らが、最終的にはかけがえのない一員として機能しだし、凄まじい成長を遂げて、結束していく。
辿々しく物々しかった部や人間たち、先生の雰囲気が、次第に紐解けて、気がつけば今が黄金期と言わしめるような頼もしい存在になっている。
その様子はまさしく学生たちの、青春というタイトルを冠した"合奏"だ。
それこそが『響け! ユーフォニアム!』があれほどの人気を博し、また我々の心を占めてやまない魅力ではないだろうか。
ちなみにリズがこの上なく好きだ。
たまらなく好きだ。
日本アニメ映画史上究極屈指の出来だと思っている。
『聲の形』も然ることながら、あれほどの透明度を誇る青春ムービーは世に二つとしてない。
黄前たちの目線から見た二年期『誓いのフィナーレ』において、シーンの端々に顔を見せ、存在感を示しながらも一切のセリフがないままに関西大会の本番で例の箇所、オーボエとフルートのパートに差し掛かるところでは涙を禁じえなかった。
あの映画がそうあったように、
何も言わずに音色が語るのだ。
一人と一羽の青い鳥の儚さを。
こんな経験を人生で何度味わえるものだろうか。
個人的には『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』よりも断然オススメの作品であり、これを金ローでまとめて放出すればいいのにと思って止まないところである。
興味がある方はぜひ一期から。
ドラマが面白いから男でも必ずハマる。
いかんいかん! 歳をとると涙もろくなってしょうがない! と眉間をつまみ、家族の前で恥ずかしい想いをすること請け合いの現代に生まれた逸品である。
マギはリツをぶん殴った。
「どんだけ関係ない隙好語(隙あらば好きなものについて長文早口語り)してんだ、てめぇぇぇーーーーーっ!」
「うげああぁぁぁーーーーーっ!」
リツは悟った。
CMだったことはさておき、それならそれで私はマギ先輩にぶん殴られるパターンなのだ。リツは悟った。
防御壁越しにミカ先輩がニカのように腹を抱えていた。
マギは吐き捨てるように言った。
「なんか奥の手があんならさっさとやれ。一話終わっちまうだろうが」
「……ち、ちくしょう。お前ら、この戦いが終わったら絶対殺す……」
「…………」
しかし、タマはどこか安心したようにそれらを見ていた。
それはこの三人ならではの連携なのだ。
失恋によって戦意を喪失しかけ、身も心も牛乳を拭いたボロ雑巾同様に成り下がっていた臭くてめんどくさいマギさんに活力を与えた。
自分でも気が付かない間に、きちんと連携しているのだ。
タマは良い子だから、一字一句違わずそう思った。
改めてリツは天津飯の波動砲の手の形をすると、澄まして目を瞑り、バーバード大飛び卒で培った思考回路を急速に巡らし始めた。
『だってさ、あくまで執事ですっつったら、普通の、あくまで執事ですだと思うじゃんね、そんなの』
『うん』
『そしたらほんとに悪魔なんだもん! 悪魔で執事ってことなの! ね、すごくない? これヤバくない?! 黒執事マジすごくない?!』
『おいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいーーーーーーーっ!』
『長すぎだから。さしもの銀さんでもそこまでおいいいいってないし、さしもの銀オタでもそこまでおいいいいーーっ! らないよ』
『誰がヅラだ』
『誰がヅラって言った? 誰も言ってないよ。本当に誰も言ってないのに自分が桂好きだからって突然言った素振りで桂の真似して話に入ってくんのやめて。声真似も大して上手くないからね。低くしてるだけで、石田レジェンドのっぽさが出てないから』
あの頃、私は学内の友人たちが次の朝から突如として『おいいいいいいいいいい!』を口癖にしだす怪奇現象に悩まされていた。
ほんの昨日まではみんな優秀なバーバード大の飛び級エリートだったじゃない。
それが一夜にして『おいいいいいいいいいい!』が挨拶になって、話の合間に『おいいいいいいいい!』ってもたれかかってくんの、本当に恐怖でしかなかった。
ある日、一番仲の良かったミオが倒れた。
彼女は昼休みに中庭で発見された。ちょっとした騒動になり、私は何の気もなしにその人だかりをかき分けていったところ、その中心にミオが倒れていたというわけだ。
ミオは全身の筋肉が痙攣している様子だった。
瞳孔は開かれ、口角から泡を吹いている有様。
私は彼女の身体を支えながら呼びかけた。
『ミオっ! 誰か! 誰か、救急車は呼んだの?! 呼んで! 今すぐ!』
『おいいいっ……おいいいっ……』
ミオは意識を混濁とさせながらも、うわ言のようにそう呟き続けていた。
『ミオ……これは……』
タマギンウィルスが、ミオにも感染していたのだった。
日本のコミック……ひょっとしたら、なにか、混ぜちゃいけない化合物でも含まれてんじゃないか? かの有名なコカ・コーラのように。
私は研究室で本誌を解体してはプレパラートに挟んで顕微鏡のレンズを覗き込み、独自に調査を開始した。
バレたらきっとシューエィーシャーに潰されると思ったからだ。
図書館にこもって資料となるジャンプ・コミックを古典に至るまで読み漁り、週一の本誌は当然、月の始まりには街のジャパニーズ・コミック・ショップを訪れては、タマギンウィルス避けのマスクとサングラスを着用しつつ、あらゆる最新刊を買い求めるようになった。
『リツ……大丈夫? 最近ずっと研究室か図書館にこもりきりなんだってね……顔色が悪いよ?』
『このくらい平気平気! それより最近始まった黒子のバスケってやつさ……』
『あっ……』
この時すでに私は悪しきシューエィーシャーの罠にまんまとかかっていたのだった。
まさにミイラ取りがミイラになるのごとく。
私は研究と称してジャンプ・コミックを読み続けるうち、その友情・努力・勝利をテーマに据えた熱き少年たちのドラマの数々に酔っていった。
そして、ふと気がついた頃、
『おいいいいいいっ!』
『あ、リツ、おはよー!』
『おいいいいいいいいいいっ!』
『今日も元気だねー! おいいいいいいっ! しか喋れなくなっちゃったけど!』
『おいいいいいいいいっ!』
マギがリツをぶん殴った。
「真面目にやれやぁぁぁぁーーーーーっ! あとそういうドラッグみたいな言い方はやめろおおぉぉぉーーーーっ! ジャンプは何も悪くねぇぇぇーーーーっ! お前の頭が悪いっ!」
「うぼああぁぁぁーーーーっ!」
リツは悲鳴をあげながら吹っ飛んでいき、マギは拳を払いながら言った。
「君さ、ね、真面目にやる気ないの? ね? ほんと、こんな感じじゃさ、いつまで経っても一話終わらないよ? いつまで経ってもミカパイセンはこの調子、逆にいえば世界の時は止まったまま。わかるよね?」
「何言ってんすか、マギ先輩……」
リツは口についた血を腕で拭いながら、いよいよ激昂して返した。
「真面目にやったら面白くないでしょうがっ!」
「…………」
その一言がマギの心を打った。
「確かに」
「それでいいんですか、マギさん……」
「私たちの世界ではアリ。あのさ、ぶっちゃけミカパイセンみたいなこと言うんだけど、最近のエンタメって暗いのよ。とにかく暗いし、堅苦しい。発想が。根っこの発想が暗いの。明るく見せて、いやいや本質は真っ暗じゃんっての。なんかさー、これ、チャングムじゃない? って私は表現してるの」
「チャングム? あの一時期めっちゃ流行って、再放送しまくってた、うーならーうーならーの奴ですか?」
「そう。韓流のドラマってさ、みんなそうじゃん。悪役が主人公を引き立てるための舞台装置にしかすぎなくて、すんげぇ嫌な奴なんだよ。本当に話聞くだに眉間に皺寄るような嫌な奴」
「ふんふん」
「で、観てる人たちも、早くコイツやっつけてーっ! って十分に高まったところで、チャングムがめっちゃ聖人的なことをして、理路整然と答えるわけ。で、それがミカドとか偉い人に見初められていく……と」
「はいはい。テンプレですよね」
「代わりに悪役は滅ぶ。追放されたり、余罪とかバレて、徹底的に貶められていく」
「……でも、悪党なら仕方なくないですか?」
「それ。私も、今はその考えが良くないと思ってる……し。ミカパイセンは初めから好きじゃない」
マギは指差して言った。
「もうさ、そんなのが出てくる時点で、気持ちよく観れなくない? それで作者は何言いたいの? 現実はこんなもんだよって? つまんねーヤツだなって醒めてこない?」
タマはきょとんとして返した。
「それが最後に、主人公に正論でぶっ倒されるから、スカッとして気持ちいいんじゃないですか?」
「それが根暗の発想なんだっつの。言っちゃ悪いけど、中韓製のエンタメってそういうとこない? テンプレ組んで焼畑農業みたいな。そりゃ界隈がダメになるよね。植えて育てようとは思ってない、搾り取る気しかないから」
マギは続けた。
「大体正論とか主人公とか言うけどさ、脚本があるわけじゃん。で、悪役も所詮それに従ってるだけ、つまり、裏を返せば、みんなで悪役を貶めるように仕組んでるとも言えるわけじゃん。わかる? 言ってること」
「大丈夫です……てか、大分ミカさんに感化されてますね」
「はっきり言うけどさ、いじめられっ子が、いじめられた腹いせにいじめっ子をいじめ返してるようにしか見えないんだよね。そういうのは私、まったく面白いとは思わん。絶対陰キャなんだよ、描いてんの。ただ自分の人生の憂さを晴らしたいだけのやつは、評価に値しない。たぶん、本物たちの土俵にすら上がれてないよ」
「じゃあ、マギさんの言う本物っていうのは……?」
「んなの決まってるでしょ。悪役にすら愛嬌があって人気がある作品。それがそんまま神の器のデカさだよ。本物たちはそこで勝負してんだ。だから、すげェんだ」
「…………」
「その通りっすよ、マギ先輩!」
リツが復活して、シコを踏むように気合を入れた。
「ふざけてナンボの娯楽に候! 私たちの世界にあって、そんな陰気な話は……結構した気がするけど、言い出しっぺのミカパイセンが主に……しないっ!」
マギは体育会系のノリで応えた。
「そうだよ、リッちゃん! 私たちはあのミカパイセンの後輩なんだからね! それじゃダメなんだ! 奴がダメになった今こそ、私たちまでそうなっちゃダメなんだ!」
ミカは防御壁の向こうで『え……』って顔をした。
『え。私、もうダメなことになってる……?』
みたいな顔して、透明な壁に両手をついて、こちらを見ていた。
「…………」
「パイセンの屍を踏み越えて、私たちは続けていかなきゃっ!」
『えっ……』
ミカをさしおいて、マギは突然目の辺りが覚醒した。
「私たちの世界では蝶はめっちゃいいもの。ぜんぜん不吉とかじゃない。むしろメアリー女王(クイーン・オブ・スコッツのほう)がマルチーズの代わりに愛好して飼っていたことにする! クレオパトラの周りとか蝶ブンブン飛んでたかんね! ヴンヴンッ飛んでた、ヴンヴンッ! あと卑弥呼とか、蝶好きすぎて毎朝蝶と一緒に花の蜜啜ってたから!」
「あ! だから卑弥呼って肌白いんだ~! ヤバいよね、卑弥呼の肌の白さ! さすが邪馬台国の女王! 出自が今日に至るまでカオスなだけあるわー!」
「うん。そんな感じ! 圧倒的な陽を見せつけなきゃミカパイセンもこの後死んでも死にきれないじゃん」
ミカは『えっ……』って顔して見ていた。
『え。私、この後死ぬ死なないはともかく、マギはもう完全に殺る気になってるの……?』
ミカはガラスの向こうで顔をべったり付けながら、項垂れた。
『殴るって言ったのに……マギは完全に殺る気になってるの?』
——絶対!
——絶対に怒らないから、本当のこと言いなさい!
懐かしき母ちゃんの声がした気がした。
『絶対に怒らんから! ほら、本当のこと言ってみい』
で、本当に本当のことを喋ったら怒り出して、
『ほら、嘘やん! やっぱ怒るやん!』
『そりゃアンタが悪いことしたっちゃからやろ!』
『違うけん! まず母ちゃんは今、ワシのこと騙したっちゃやろ! そのことを言ってるんじゃ!』
『もうアンタはあーいえばこーいって! 悪いとは思わんの!』
『悪いとは思うが、それをこんな風にされれば謝れるもんも謝れんくなるわ! なんでじゃ?! 正当な言い返しじゃけん! 子供にも言い分はあるったい!』
『ぜかましか! しまかぜか!』
『大人は嘘ばっかたい! あとワシはずっと叢雲やったけん! とにかくツンデレに弱い! 夕張ほしくて、ウィキのレシピ通り回してたけど、結局出んかったわ! 大人は嘘ばっかたい!』
ミカは、そんな、誰のものともしれないチャイルドフーズエンド(幼年期の終わり)を思い出して、防御壁の向こうでその寂しさにしょぼんした。
発端はマギだったが、枝葉末節においてはだいたい関係なくなっていた。モノローグとはそういうものである。
蝶々が飛んでいた。薄膜は青か紫、翅脈は黒く。そんな色鮮やかな蝶々がぱたぱたと飛んで、気がつけば餓鬼の背中に集まっている。
「見つけた!」
リツが言った。
蝶々は一頭一頭、胴体から伸びた筋骨隆々の腕で『ここだよ!』の横断幕を掲げて、天使たちを案内するように導いている。
「……え! えっ?」
タマが困惑して言った。
「え、どういうことなんです?」
「タマ、私だって何もせずに駄弁っていたわけではない……あの蝶々が私の能力! 『帰国天使の計算式』! 私の計算により導かれた蝶々が敵の弱点をサーチする!」
「えっ、それってリツさんの計算なんですか?」
「そうだ! 餓鬼の弱点は背中だ! そっから中に入れる!」
「えっ、それってリツさんの計算なんですか?」
「そうだ!」
餓鬼の背中にも昆虫の翅がついている。リツが繰り出した蝶々からすれば、比較にならないほど巨大なものだったが……。
蝶々は胴体から伸びた筋骨隆々の腕で、その翅の付け根を指差していた。傍からみればその光景は、もはや蝶の群れというより、妖怪"飛頭蛮(中国の妖怪。おっさんの頭だけが飛んでるやつ)"のそれだった。
リツはその気味の悪い蝶たちと意思疎通し、同じように付け根をマギとタマの二人に指差しながら言った。
「……ふん、ふん。彼女たちの計算によれば、ここに穴があるって!」
「穴……? 穴なんてどこにも……」
タマが返すと、蝶々たちは一斉に昆虫の翅を掴み、力ずくでもぎとった。
そこに穴があった。
ぎええええぇぇぇーーーーーっ! と餓鬼の頭の先っぽであられもない悲鳴をあげるミカだったが、防御壁のおかげで、外界には届かなかった。
計算によってそれら一切合切を見越してか、リツは何ら気にすることなく餓鬼の背中にできた穴を指差して言った。
「ほら、あったよ! 穴!」
「……今、なんか悲鳴みたいなの聞こえんかった? よく聞き慣れたやつ……」とマギ。
「えっ、穴があったってか……これ……出来たっていうか今つくっ」
タマが純粋に呟くと、被せるようにリツが言った。
「穴があったでしょ! 私の計算に間違いはない!」
「えっ、これもリツさんの計算なんですか?!」
「そうだ! で、私の計算によれば、生き物の体内には必ず心臓がある。内側に潜りこんでそれを潰せば、ミカ先輩でも死ぬ!」
「えっ、それもリツさんの計算なんですか?!」
その時だった。
トライアングルの音色を極大に拡大させたような耳障りな音波が、一面に鳴り響いた。
リツたちはコントもやめて即座に耳を塞ぎ、振り返った。
餓鬼の背後にいたバラの貴公子の影。
それが突如としてそのような反響音を奏で出し、そして——次の瞬間、超密度の弾幕を、ミニガンか何かのようにこちらへ向けて集中して撃ち放った。
貴公子の放つ弾幕は、一つ一つがバラの花びらのように可憐でありながら、鋭く研ぎ澄まされていた。
芳しい花の匂いと共に、誰が、何かを、発する暇もなく、リツはその暴風の中に囚われていた。
「リツさん!」
リツのくすんだ癖っ毛が、バラの竜巻で切り刻まれて、なんとバラの香り芳しいストレートヘアーになっていた!
「な、なんだぁってぇぇーーーーっ! 私の天パが! 夢にまで見た直毛にっ!」
「リツさん!」
「行こう、タマ! 奴はもうダメだ!」
マギは言うと、タマの手を引っ張り、先んじて背中の穴から餓鬼の体内に入っていった。
リツはバラの暴風を自慢のストレートヘアーと蝶々たちで受け止め、押し返しつつも、二人に言った。
「二人とも! ここは大丈夫! 私に任せて先に……」
二人はもういなかった。
「ちくしょおおおぉぉぉーーーーーっ! あの……あいつら……あいつらああぁぁーーーーっ!」
リツの叫び声が東京上空に響くのだった。
◇
マギ…………。
マギ……。
声が聞こえた。
マギは光を背負っている。うんたらかんたら、とにかく光を背負っている。
「マギ!」
マギは目覚めた。
前に机がある。
窓際の席。
そこは変哲ない教室だった。
窓から差し込んだ陽射しが、机をぽかぽかと温めていた。ほんの数秒前までは、マギが背負っていたものだ。
「マギ……ガチ寝じゃん」
「あれ……? ここ?」
「どうした? 寝てないの?」
「うーん」
マギは言い返しながら、その子を見た。
名前が出てこない。
いや、出てきているのに、はっきりとしない。
毎日顔を合わせて知っているはずなのに。
名前が出てこない。
「ごめん。今、」
「もうお昼休み終わっちゃうよ」
「そう……次、なんだっけ?」
「現国」
マギはのろのろとした思考回路そのままに机の横の鞄を漁ると、教科書とノートを取り出した。
嬌声があがった。
「あーいつもの大名行列だ」
「え……」
一年の教室前の廊下を、黄色い声を引き連れて通って行ったのは一人の女生徒……、
「ほんと、天使みたいだよね。ミカ先輩」
ミカだった。
◇
この学校でその人を知らない人はいなかった。
ハーフだかクォーターだか、なんだか知らないが。
肌は色白。川の水面のように澄んだ瞳に、髪も透き通るようなブロンド。それは舐めたら甘い味がしそうなほどになめらかで、彼女が過ぎ去るたび廊下には芳しい香りが残る。
いつも薄く微笑みを浮かべているその背には天使の羽根が見えるかのようだった。
天使……?
なんだっけ?
何か、引っかかる。
けれど、私はすぐに世界史の宿題のことで頭がいっぱいになった。
放課後に図書室に寄り、手頃な史料を見繕って、レポートにまとめていく。気がつけば斜陽が差し込む頃合いに、また囁くような女子の声がして、私は顔を上げた。
私のついている席の反対側、一番端の席に、ミカが座っていた。
その赤いライトに溶け込むような、西陽を受けつつ、時折顔の端に流れる長い飴細工をかきあげながら、読書に耽る様はまさに深窓の令嬢のごとき儚さを覚えさせた。
周りの女子たちも本棚の影に隠れて、その様を鑑賞することを娯楽にしているのだ。
しかし、待て。
私は気付いてしまった。周りの女の子たちが気付いているかは定かではなかったが、彼女が手にしている本は二重になっている。
分厚い哲学書のような本に重ねて、彼女が嗜んでいるのはボボボーボ・ボーボボだった。
それで時折、くっくっと肩を震わせている。
少年漫画を読んで子供のように笑っている。
それも実に様になっているから、周りの子たちも決して気付かない。
あのミカが……いや、あれ?
なんかおかしいな……と思いながらも、今は世界史の宿題だった。私は一回その違和感を忘れて目の前のレポートに集中した。
陽が本格的に沈み出す頃に、私は図書室を後にした。
進捗はなかなかだった。明日には終わるだろう。そうして達成感に満足しながら、暗い廊下を進んでいると、
「そこのあなた」
と、声が掛けられた。
私は振り返る。
ミカが立っていた。
真近で見ると、本当に人形のようだった。
瞳に髪に、肌の色、存在感……何もかもが透き通っていて、私など地味子が関わったら彼女の存在を穢してしまうのではないか? とすら思った。
しかし、ミカは何ら気にするそぶりもなく、一歩、二歩と私に近寄ると、ふいに私の胸元に手を伸ばした。
顔が近くなる。
「タイが曲がっていてよ」
「え……」
「うちの女学生たるもの、身嗜みはきちんとね」
「……これって」
マギの脳裏に鮮やかに過ぎるワンシーンがあった。
あったが、いや、待て。違う違う。
私の気のせいかもしれない。
いや、断じてそうなのだ。
しかし——先ほどの図書室で見た光景が鮮やかに甦る。
ボーボボを読んでいたなら、これもまた知っているのでは——……いや、ないない。
なんかおかしいけれど、まさか、ミカ先輩がそのようなアホをやらかすわけがなかろうが!
私は自分自身を嗜めるようにそう思って、
「ご、ごめんなさい!」
「しょうがない子ね……」
ミカは私のタイを直すと、満足げに言って、
「では、ごきげんよう」
お嬢様の挨拶を決めて、その場を後にするのだった。
◇
昨日のあれは何だったのか。
ミカパイ……先輩にタイを直されたこともそうだが、そうじゃない。まるでこれは……。
と、マギは考えに没頭するあまり、気がつけば旧校舎の方に来ていた。
学校の敷地のはずれにある、今は生徒会の拠点となっている場所である。
「(だいたい昨日から……全体的になんかおかしいんだ……なんか……違和感が……)」
「横暴ですわ! お姉様の意地悪!」
突然、中から、そんな誰かの怒号が聞こえてきた。
いや、"実に聞き慣れたようにも思える"その声……。
「わかりました! すぐに連れて来ればよろしいのでしょう?!」
違和感が——。
それら思念に物音に、釣られてマギが顔を上げた時にはすでに——旧校舎から飛び出してきていたその人が迫っていた。
出会い頭にごっちんこ。
マギとその人はがっちんこ。
「……いちちーオシリが……三つ目の割れ目ができそう」
マギは勢いのままその場に押し倒されていた。
見上げれば目の前に、今しがた旧校舎から飛び出してきたその人……ミカ先輩の顔があった。
「み、ミカ先輩?!」
その他にも、ミカの背後には生徒会のメンバー……お館様に鬼殺隊柱の先輩方がずらずらと顔を覗かせている。岩柱が泣きながらお経を唱えていた。
「あるぇー?」
「……しめた! ちょうど良いところに! ——あなた鬼の子よね。お姉様はいて?」
「いえ、一人っ子だし、鬼じゃねえですけど。天使ですけど」
「結構」
ミカは小枝のように細い指先でマギを即座に立ち上がらせると、生徒会の面々に向かって突き出した。
「お姉様方! わたくしは今ここに宣言いたしますわ! 彼女、滝沢・マギステルこそ、わたくしの妹とすることを——!」
「は?」
マギはだらしなく口を開けて答えた。
ミカは言うや否やロザリオならぬ竹筒と箱を取り出して、
「え、え……」
「さ、これを咥えて。箱に入って」
「ちょっと待って。嫌な予感がする」
ミカ先輩はお上品な口振りながら、強引にマギを押さえつけて竹筒を当てがった。ミカ先輩の背後では風柱の兄さんが「ふんっ! ふんっ!」とか言いながら箱に刺すときと目の寸前で指を止めるときのイメージトレーニングをしている。
「いいから、一回、一回咥えてみればわかるから」
「ちがうちがうちがう。これ違うよ、思ってたやつと違うやつ混ざってきた。混ぜちゃいけないやつ混ざってきた。怖いよ。ミカ先輩」
「可哀想に……なんと弱く哀れな子供……南無阿弥陀」
「早いよ。岩柱早いなー、お経唱えんの早い」
「竹筒は縦ではなく、横にね……そうそう。縦だとなんだか……いけないわ、マギ。いけないやつになってしまうわ、マギ」
「やめほボケ……あ、わかったぞ! コンビニ袋に詰めて魍魎の匣やったの根に持ってんだろ! 意趣返ししてんだな……!」
その時なにか、マギの中で解った気がした。
違和感といえば、これがマリ見てであるとかマリ見てではない鬼滅の何かだとか、突然何が始まったんだ? とか、カツ丼何かけてんですか? とかではなく、このことだった。
つまり、きっと、これも……。
ミカはふと、マギを押さえつける手を緩めると、勝手に震える声で言いだした。
「すごく……幸せですね」
てろりろ、てろりろ、てろりろ、てろりん……。
どこからともなく物哀しげな前奏が流れだしたが、マギは空気も読まずに突っ込んだ。
「どこがだよ。お前だけだよ。こんな混沌極まる妄想見せやがって」
おっさんのヤジが飛んできた。
「んー! 何を言ってんだー?! ミカ村ー!」
ミカ村ゆりっぺはヤジを無視して一人だけなんか達観した風に続けた。
「みんな、こんな時間に生きてるんだ……いいですね、羨ましいです……」
「大抵はこんな女子校、存在すら知らないと思う」
隣の生徒の冷静なツッコミが入った。
マギは思った。
そうなのだ。ここはそう、ミカの都合のいい妄想の世界……ミカのカオスな頭の中の世界なのだ。
ミカは周りの一切を気にすることなく独白を続けた。
「ゆりっぺが何年も前に言ってたことだったんです……ゆりっぺも異世界転生否定派だった……それはひいてはダーマエもそうだということ……そりゃそうですよね、本人、実際に心臓取り替えるような大手術経験してんだもの。心臓を取り替えるって何? それはもう自分の命を取り替えるに相応しい壮絶な体験なんじゃないですか」
「ミカ村……」
「記憶も性格も何もかも変わって、なら変われる、今の自分には眩しすぎる人生でも受け入れられるだろう、けど、それなら私って何? それはもう別の誰かの人生よ。私の人生じゃない……こんな風にゆりっぺは言ったわ。私もその通りだと思う。一度しかないんですよ。私が今の私のまま私でいられる瞬間は、この先何度生まれ変わったって、今の人生の、このたった一回こっきりなんです。二重スリット実験の量子みたい」
「村ミカ……」おっさんは哀愁を込めて言った。
「…………」マギは一人、頭を抱えた。
「もうとうに処女膜がなくたって、処女じゃない私を受け入れて生きていくしかない。誰しも汚れっちまった哀しみを抱えながら、ダメな自分をひきずって生きていくことは変わらない。だけれど、それと、不幸か幸福かはまた別の話。ペシミズム(不幸愛好家)もあれば、次の瞬間にはその事実をなかったかのように、生きることができるのも、人間なの。一秒前までの自分が嫌なら今から変えればいいし、好きならそのままを貫けばいい。開き直りだろうがなんだろうが、スリットを通って波になったからと、その後また球に戻ってはいけないというわけではない。自分次第で、私たちは常に、両極を持ち合わせることができるのよ」
「ミカ街……」
ヤジを飛ばしていたおっさんは気がつけば訳知り顔で、何やら理解があるように言い始めた。
「…………」マギはますます頭を抱えた。
「……それが『量子もつれ』。すなわち、量子は二つの状態を同時に持ち得る……量子は球状であり、波状でも在り続けられるということ。しかし、アリストテレスはこう言った。悪とは過剰、不足によって生じるもの。すなわち極にこそ宿るので、物事の中間地点である中庸こそが善であると……ゆえに中を求めよ、と」
「けど、ソクラテスの『無知の知』によって論破されて、あまりにムカついた当時の世間は彼を死刑台に送った。ソクラテスは死刑台で死ぬ寸前までも疑問を投げかけたそうよ。それも、自分を信奉していた弟子たちに対してもね」
「それこそ極に傾きすぎた……ということではないのかね、ミカ城……」
「いいえ。それは聞こえさえ良ければ欺瞞であろうと鵜呑みにし、真実であろうと難解ならば保身に走るという衆愚の体質を単に示すだけのことで、真実は量子実験のように逆だった。そして何より当時はまだ当然のことながら、量子力学なんて分野は拓かれておらず、この量子、すなわち私たちを構成する最も微細な単位のことなどわかっていない時代だったからよ。しかし今ならわかる。いい、大切なことはね、私たちは常に、正でもあり悪でもあり、そうして"両極を持ち合わせるもの"なのだと理解すること。正しくもあり、間違ってもいるのが、私たち。アリストテレスの言う中庸なんてものの存在こそがまやかしだったんだ! わかりますか、ねぇ、先生……」
「ミカ國……」
「…………」
マギはあまりの煩雑さに頭を痛めた。
仕方ない。いや、仕方ないという惰性に逃げていいのかはさておき、パイセンを前にして私はナルトも同然だったのだから。
マギはおでこを指で押さえながら言った。
「……つまり、どういうことだってばよ」
「"自分たちは悪くない。誰もが皆そう思ってる。だから、争いはなくならない"。私が敬愛する最高峰の作品のセリフよ。なのに、こういう人は賢い、こういう人は頭が悪い。そう言って、分断を図り、あまつさえ勝手な物差しで悪党には容赦しないとか正義ヅラをかます幼稚な奴ら……あのね、教えてあげる。私には、そんな奴らの詭弁の方が! よっぽど我慢がならないっ——! ってことっ!」
「パイセン……」
マギは同情を禁じ得ない。
禁じ得ないが、その前に一言どうしても言っておきたいことがあった。
ミカにとってカオスであり、その実コスモスであることがアイデンティティであるように。
マギにとってはこれがアイデンティティみたいなものだ。
「それはいいんですけど……」
マギはミカをぶん殴った。
「逆だろうがああぁぁぁーーーーーーっ!」
「ぐぼあああぁぁぁーーーーっ!」
お嬢様ミカ先輩を吹き飛ばした上で、マギは馬乗りになって、それまでの長話でさんざん溜まったフラストレーションを発散させるかのように、思う存分叩きのめしながら続けた。
「あーラスボス戦前によくあるアレね! なんかラスボスの魔術で平和な世界に飛ばされて、違う人生もあったんではー? って振り返り、あわよくば平和ならま、いっかーつって戦う気を削がれる、的な! でもなんか違うって主人公が違和感に気付いて、苦しかろうが、オレ(私)の生き方はやっぱりこうなんだああぁぁぁーーーっ! ってテーマを踏襲しつつ、現世に還ってくる熱いアレね! はいはい! わかる、わかるよ。けどさあ! なら、私に都合の良い妄想見せろやああぁぁぁーーーーっ!」
「ぐあががが……」
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「マギさん……マギさんっ!」
横から声がした。
マギの体内時間にして昨日、教室で会った誰とも知れない友人などとは違う、完全に聞き慣れた声——。
タマの声だった。
「タマ……!」
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薄紫色の肌に、結膜(白目の部分)が真っ赤に染まり、瞳孔は縦に切れ長になっているが、見れば、紛れもないタマの落ち着いた表情が顔のすぐ横にあった。
「え……?」
マギは得体の知れない肉の塊に覆い被さって、それをひたすら殴っていたのだった。弾力があって、ふにふにしている肉の抱き枕か、マギの知らない金玉袋か、はたまた耳たぶみたいな触り心地だった。
「うわっ!」
マギは驚いて、跳ね起きた。
そうして周囲を見てみると、そこは肉でできた空洞のようだった。メリナが変身したネコ電車のようでもあり、ぶっちゃけて言うとブウの体内みたいな感じだった。
「こ、これ……いったい。それにタマ! その姿!」
「ええと、一つずつ答えると、ここはあの餓鬼の身体の中です。幻惑作用があるみたいで、私は覚醒して事なきを得たんですが……マギさんは天使ですから、苦手ですよね。こういうの。で、囚われてしまったみたいですね」
「なるほど……ありがちなやつだ」
「でもそれだけ、このルートは正解ってことでもありますよ」
タマが肉に覆われた通路の向こう側を指し示すと、今しがたマギが殴っていたような肉塊が、壁、地面、天井、そこら中から湧き出て、たちまちミカの姿を映し取ってくる。
「だから、邪魔してくる」
出来上がったミカ人形の群れにそう言うと、タマはにやりとほくそ笑んだ。
すっかり忘れていた気がするのだが、マギたちが似て非なる境遇であるように、タマもこう見えて魔界からやってきた純粋な悪魔であり、隣人に甲斐甲斐しい普段の姿からは想像もつかない本性が隠されているはずなのだった。
ミカがそうであったように、マギが知らない一面を持っているはずなのだ。
きっと、誰しもそんな自分を抱えている。
世間の提示する一般論とは、裏腹な自分を。
ともかく覚醒したプリミティヴ・タマは八重歯を剥き出しにして、周囲に敵意を向けて言った。
「行ってください、マギさん……ここは私が引き寄せて、止めるから」
「タマ……」
「きっとこの先にミカさんはいます。そして、たぶん……」
タマは一旦区切ると、そこで息をついて、改めて健やかに言った。
「ちょっと悔しい気もしますけど、ミカさんが待ってるのは……本音をぶちまけられるのは、ずっと一緒にいたマギさん——あなたなんです」
「…………」
マギは知らず頷いていた。
同時に、呆れもした。
「そんな……私に期待されても困るんだけどね……」
「知ってますか? マギさん」
「ん?」
「かのΖがリメイク映画化したときのこと。御大はカミーユ役の飛田さんにすらオーディションを敢行して、本人を目の前にはっきり言ったんです。『下手こいたら容赦なく落とすからな』って。それに対する飛田さんはなんて返したと思います?」
「……マニアックすぎん?」
「『オレが何年カミーユやってると思ってんだよ』って。その言いようこそまさしくカミーユそのもの。見事、飛田さんは再びカミーユ役を勝ち取り、演じました。……そういう活力に分からされたい人って、いるんです。特に普段カブいている人ほど、本当は修正されたがっているのかもしれませんね……自分の言いようこそエゴだって言われて」
「…………」
「行ってください、マギさん」
タマはそう言うと厳かに腕を構えて、呪文を唱えだした。タマの周囲に怪しい光を帯びた魔法陣が広がって、拡大する。
「閻獄殺陣術『幼年期の終わり』」
すると、ミカの肉人形と同じように、周囲に無数のタマが現れた。その姿は一層蠱惑的で、わかりやすく言えば布の面積が少なく、サキュバス的。
レオタードだからCEROも突破できてなお、お尻丸出しの風貌だった。
肉塊から生まれた人形とはいえミカはミカ。
ツンデレ同様、エロいお姉さんにも弱いミカは立ち所に骨抜きになってしまうのだった。
タマは言った。
「行ってください! マギさん!」
「…………」
なんだかなぁ……とは思いつつも、やる気になっているタマの意を削ぐようなことは言いたかない。
ぐでぐでになっているミカ人形たちのキャバクラに訪れた童貞同様の姿を、真っ黒な目で侮蔑して見下しながら、その場を後にするのだった。
◇
時を止める。空間を把握して、操作する術に長ける小出だけが、背中に羽虫の這うが如きその異変に気付きつつあった。
前回の説明にあったように正確には、時を止めている、のではなく、世界の意思、すなわち形而上からの観測から逃れているわけだが、この空間に侵入者がある。
少しずつ、少しずつ……これはまさに空間を食むに等しい感触で、穴がぐにゃりぐにゃりと広がるのを、小出だけが感じ取っていた。
その額に汗が伝う。
得体の知れない者の侵入、そしておそらくは……天使や悪魔といった彼女たちをも凌駕するような気味の悪いその気配に。
小出は前方、自分のいるヘリコプターの地点から見ても遥か上空に位置するミカの三体と、そこで弾幕ごっこを繰り広げる天使たちを見上げて、これは自分の術のためなのか、はたまたこれすらミカの仕業なのかを考えた。
自分の術の仕業ならば入ってきているのは世界の意思というもので確定する。しかし、どうもそうではない。
「カオスだ……いったい、ミカちゃんは何を始めてしまったのだ……」
もっと別の何かの存在を認めて小出は唸った。
「……この世界をどうする気なのだ」
◇
…………。
……。
外では餓鬼の外殻とレイによる攻防、それから背後にそびえる薔薇の貴公子の影とリツとの争い。
二人を見守り、得体の知れない気配に気づきつつある小出。
他方、餓鬼の内部では内臓から無数に産み出され続けるミカ軍団と、タマの分身による接客合戦が繰り広げられていた。
それら一切の物音が、遠くなる……。
時折振動が伝わるものの、それくらいの乏しい反応しかないような深層にマギは下りていた。
どくどくと蠢く肉でできた生ける洞穴。
生き物の体内に入った経験はなかったが、そのようなことがあればきっとこんな感じだろう。
すでに時間の感覚は失せていた。
マギはランタンのように指先に集めた光を頼りにあてどなく進み——そして、辿り着いた。
まるで玉座の間だった。
太陽のように大きく、明るい心臓が背後にあり、その麓、段上の盛り上がったやはり肉の上に、一人の天使がちょこんと座って、目を閉じていた。
マギが近づくと、うっすらと、それが目を開けた。
川の水面のように透き通った目。
舐めれば甘い味がしそうなストレートのトウヘッド。
飲料水などのCMモデルに抜擢されても何ら不思議ではない透明感のある爽やかな見た目。
その裏腹に、中はこの洞穴みたいにエゲツない。
カオスを招く者にして、その実コスモスの求道者。
誰よりもコスモスゆえに、渦巻くカオスは極まりなく。
コスモスを願うこのカオスの中心人物——。
「待ってたよ、マギ」
彼女は変哲のない日常にあるかのようにそう言った。
少し横に顔を傾けて。
友人との再会を懐かしむように。
彼女は白い羽毛に包まれた亜人の形をしていた。
およそ布らしきものは身につけておらず、下半身の大凡と、局部は白く輝く羽毛で覆われている。
「遅かったね」
ケモナー大歓喜の変身を遂げたミカ本人だった。
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いつからか疎遠になっていた女友達が、ある日突然僕の家にやってきた。
背中のマッサージをするように言われ、大人しく従うものの、しばらく見ないうちにすっかり成長していたからだに触れて、興奮が止まらなくなってしまう。
僕たちはただの友達……。そう思いながらも、彼女の身体の感触が、冷静になることを許さない。
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