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第十七変『とある警視総監の災難と再会・1』
しおりを挟むその二時間後。
みよちんと皐月は、警視庁のおそらく最も厳かな部屋で、一匹のシマリスと相対していた。
「少々お待ちください」
そう言ってスーツ姿の女性が頭を下げて出ていく。
応接セットが入り口から程近いところにあり、二人はそこを抜けて、奥のデスクの前に並んで立っている。他に人間はいない。そのデスクの上に一匹のシマリスがいるのみであった。
くるみを大事そうに両手に挟んで、ときどきかじり、口を齧歯類独特のリズムで動かしながら、黒豆みたいに丸い両の目で、こちらを見上げている。本物だ。
改めて見ると、艶めく毛並みといい、模様といい、その姿はデカいナメクジに見えなくもない。これは……ひょっとしたら、皐月はダメなんじゃないか? と危惧して、みよちんは隣を見た。
パァーッと明るいオーラが、破顔した皐月の周囲に飛び散っていた。大丈夫そうだった。
ふいにシマリスが言った。
「ヤツはまだしばらく来ねーです。適当にかけてお待ちになってくだせぇ」
それから、またくるみをかじる。また口元を回すように素早く動かす。その間もじっとこちらから目を離さない。
「喋った?!」と皐月。
「……ビギナーかよ。三日目だって聞いてたけど?」
「……うん。まぁそうだけど、なんか、他に言い方さぁ」とみよちん。
「三日目は三日目じゃねーですか。人間ってなぁ細かくていけねーです」
「あの、触っていいですか?」
皐月は言いながら、すでに手を伸ばしていた。口と手が同時に出るタイプだった。
そこで初めてシマリスが機敏に動いた。
素早く前脚をつき、くるみを咥えて、半身になって皐月の指先をかわすと、言った。
「ここから先はメンバー会員特典です。触りてーなら会費を払ってくだせぇ」
「ええー……」
皐月はすごすごとカバンから財布を取り出した。
「……いくらですか?」
「出すんかい」とみよちん。
シマリスは、しきりに鼻を動かしつつ、再び後脚と尻尾でバランスをとって立ち上がり、手に挟んだくるみを見せて言った。
「くるみ一個」
「逆にむずいよー。紙幣でまかなえませんか?」
皐月は一万円札の束を財布から覗かせて懇願したが、シマリスはにべもなく唾を吐き捨てると、目線を皐月から絶妙にずらし、また地蔵のようにひたすら咀嚼を繰り返すポーズに戻った。
「くるみ一個も出せねーヤツに用はねーです。そんな紙切れ後生大事に崇めてんのなんざ、人間だけです。こっちじゃ強いてブランケットくらいにしか使えねーや」
「ドSか」
「あ、ああああ……! 待って待って! 下のコンビニで買ってくるから! いや! 待って! この一枚でくるみ数百は買えるよ?!」
「ウチは現物主義なんでねぇ……くちゃくちゃ」
口のごりごり動かすのが、もはやガムでも噛んでるような邪悪な素振りに見えてくる。わずかに目線を逸らしているのが憎らしい。シマリスに人間の賄賂は通用しないのだった。
そもそも二人には約束がある。そのため、ここに来たのだ。みよちんは初心を思い出すと、
「ダメだよ、皐月。ここで待ってるように言われたじゃん」
そう言って皐月の手を引き、手前の応接セットのほうに向かった。皐月はよほどショックだったのか、財布を広げたまま、とぼとぼとついてきた。
入り口に近い応接セットの下座に並んで、みよちんは改めて室内を眺めた。
目の前には黒光りする木製の背の低いテーブル。それらテーブルを囲んで、四方にソファが設置されており、二人は今、その入り口側の席に座っているのだが、このソファのマットが信じられないくらいにやわらかくて、信じられないくらいに深く沈んだのにみよちんは最初に驚き、隣で皐月が変哲なくシマリスに嘲笑われた財布を眺めているのを見て、二度驚いた。
そういえば……と、みよちんは思う。
自分もそうだが、皐月もまた……もしくはそれ以上に、秘密主義だ。いや、あくまで秘密にしているつもりはない。ただ、二人とも、不必要だと思われたことは喋らない性質なので、なんとなくで済ませていることが多くなるだけなのだったが、そのため、どんな家族構成なのかも、お互いにほとんど話したことがなかった。
もしかしたら、やんごとない出自だったりするのだろうか。今も、財布の中には渋沢栄一の肖像画の束が覗け、そのりっぱなおでこが見え隠れしている。それで、こんな浮世離れした性格になった、というのはありそうな話だ……。
それから、室内に視線を戻すと、全体的にその部屋は茶色かった。
天井近くには判別できないくらいの達筆で書かれた言葉が額縁に入れられて二面に飾られており、一つは入って右手の天井。もう一つは奥の天井、つまり、デスクに正面から向かった際、視界の真上に位置するようにあった。
背の高い棚はなく、大人の腰くらいの高さのチェストが右手の壁に立てかけられ、黒いファイルが並んでいる一方、反対の窓辺に花瓶を乗せた丸いテーブルがあるだけである。窓は広く、丸テーブルはその中央の敷居を隠すように、丸めたカーテンに挟まれて、置いてあった。そこから桜田門の大通りと、高い建物の周囲の空き地や歩道を適度に覆った樹々が見えた。
待ち時間を潰すのに室内観察を始めたものの、これで終いになってしまった。こんなことがよくある。手持ち無沙汰になって、空き時間を埋めるのに何かしようにも、それもすぐに片付いてしまって、結局のところ、少なくない時間を黙って待つことになる。
皐月とも、今は特に話すことがなく、べらべら喋る雰囲気でもなかった。
そうしてしばらくすると、ノックの音がして、二人は硬くなり始めた腰を持ち上げた。
渋沢栄一のおでこに劣らないりっぱな青い制服の男性が二人と、リツ、その後ろから見慣れた顔が二人、入ってくる。リツも、出る時に着替えていたのだが、その二人もまた背広姿だったので、一瞬知らない大人のように見えた。皐月に続いて、みよちんも思わず目を瞬かせて、息を呑んだ。
「……お待たせして申し訳ない。前の仕事が長引いてしまってね」
先頭の男性が、まず奥のデスクに向かいながら言った。
いうまでもなく大人の男性で、しかし、二人が考えるおそらくの彼の地位からすると、ひどく若々しい。染めているのかは定かではないが、まだ白髪の一本も見えないし、肌にもシワひとつない。青年といって、まるで差し支えない相貌に、二人は違和感を覚えて内心、何かの冗談かと、首を傾げた。
「シマさんは相手してくれたかい?」
「え、あ……」
デスクでくるみをかじるシマリスのことだろうが、知らず知らずのうちに緊張していたらしい。みよちんはとっさに舌が回らなかった。
男性は、デスクと応接セットのちょうど中間、というところで振り返り、デスクの上のシマリスを見た。
「あれ? くるみ一個で取引は済んでいたはずだが」
「ありゃお留守番の分です。お客さんの話し相手分は受け取ってねーです」
シマリスは先ほど二人と対したときのようににべもなく答えた。
男性は、再度振り向いて、みよちんと皐月の二人に肩をすくめてみせた。
「……失敬。こちらで手違いがあったようだ」
男性は、傍らに想像通りのおじさん秘書を従えて、ソファを回り込み、みよちんと皐月の向かいにゆっくりと腰掛けると、二人の顔を眺め、微笑んで言った。
「改めて。はじめまして。警視庁警視総監の小出 蘭堂です。大小のしょうに、出でるので、と書いて小出。胡蝶蘭のらんに、堂に入るのどうで、蘭堂です。よろしくお願いします」
そう言って頭を下げる。
子供に対しても、そのあまりの礼儀正しさに、みよちんはかえって恐縮した。
「よ、よろしく……」
途中で、喉がからからなのに気がついて、そこから声が出なくなる。「あ……」
すると、おじさん秘書がテーブルの上にさっとカップを差し出した。部屋の隅のキャビネット棚にお盆が乗っている。そこで注いだお茶だった。
「どうぞ」
「うあっ……はいっ! す、すみませ……」
慌てて中を飲み切り、カップを置いたころに、香水のような華やかな香りが鼻いっぱいに満ちたことで、みよちんは愕然としてカップを二度見した。
この粗茶……明らかにお~いお茶のクオリティを逸している。
私が、今までに呑んできた粗茶ってのは本当に粗茶だったということに気付かされてしまった瞬間だった。
警視総監の旦那がテーブルの向こうでくすくすと笑う。みよちんはぽっと頬を赤らめつつも、睨み返した。
仕方なかろう。こちらは庶民そのものなのだから。お~いお茶だって悪くない。悪くないのは、飲むのがもったいなく感じず、こうしてがぶがぶ飲んでも笑われないところだ。
頭が回転しはじめたところで、みよちんは事の起こりを思い出した。
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