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第十五変『長い一日の終わりにして、始まりの一日・中』
しおりを挟む大量の血液が付着した衣類が残っていることなど、甚だ奇妙なことではあったものの、照宮 天本人に大した怪我はなく、その日のうちに検査だけして、彼女は帰宅していた。
一方、真太郎(本名、川島 慎太郎)は胸や手足、それから後頭部に裂傷が見られて、近くの大学病院で入院することになっていた。翌朝、午前中に行われた事情聴取でも、だいたい未成年者との不純異性交遊などの余罪についてで終始した。その件に関して、警察は入念に調査を進めたうえで、後日、退院後に改めて逮捕される予定である。
有名な配信者の不祥事ということもあって、世間も話題にしたが、その内容も専らこの余罪に関して取り上げるのみで、薔薇の花や話に出てくる熊のような大男については別件どころか、そもそも皆忘れたようにして、話にもあがらないのであった。
さて、ここから時間を前後し、オムニバス的に結果だけを先んじたお話になる。
まず、照宮 天。彼女は夏休み中もたびたび、世間を騒がせたいくつかの事件に巻き込まれていくことになるのだが、この時の薔薇事件が目に見えて彼女に迫ってきたのは、夏休み明けてからのことであった。
八月の下旬、彼女が久しぶりに蝦蟇原中学に登校すると、いわゆる偏見の眼差しの洗礼を受けた。あるものは有名配信者とやりまくりなどの根も葉もない噂を信じて後ろ指を差したし、ぼそぼそと彼女を前にあからさまに囁きあったりし、それは仲間内でも同様。
特に金井 真凜はかねてより真太郎の信者でもあり、その嫉妬の炎は未だ尽きない様子であった。以前のようにすんなりと仲良くいられるわけではない。
それでも、彼女たちを友達と言えるのか。
自分はまだ、"みんな"の側にいるのか?
下駄箱で、みよちん、皐月らと目が合い、天は揺れた。
「私は……」
『どっちでもよくない? そんなの』
みよちんのなんの変哲もないジト目が、あたかも囁きかけてくるように、天には見えていた。
『私たちといるようになったから友達とか、逆にもうこっちは友達じゃないとか……そんなつまらん友情なら、すっぱり切ったほうがいいとは思うけど』
「みよちん……!」
みよちんは、表情を変えず、首を傾げた。
天は、目を輝かせてみよちんを見つめ返すと、一転、意を固めたように麗奈、真凜たちのほうに駆け寄っていく。
「麗奈、真凜ー、おはよー!」
「来たな、この不倫野郎が!」
と、修羅の角を生やす金井 真凜。倉田 麗奈は、普通に「うぃー。二学期くそだりぃな」という気だるげな挨拶を返した。
「そんなこと言わないでさー、事実無根だし、真凜ー……」
音が出そうなくらい、歯をがちがちと噛み締めながら、聞いたこともない野太い声で、真凜は言った。
「私たち、もうなかったことにしたいのだが……!」
「そんなこと言わないでさー……」
どっちの私も、私なんだ……みよちんは、そっちにしかいなくても、私にはそれが両方あるってだけなんだよね!
(待ってて、みよちん。私も大きくなって、みよちんの陰を今度こそ晴らしてみせるから……!)
天は一人でそう納得して、二学期の学校生活をスタートさせるのだった。
「……ねむ。なんで事の始まりは朝って決まってんだろうね。朝が向かない人の気持ちも考えてほしい……」
「朝はいつも目が死んでるもんね、みよちん」
他方、入院からしばらくして、怪我も、周囲の動向も落ち着き出した頃、真太郎は一人の面会人と相対していた。
別の事件に追われるようにして、警察の監視もなくなった時期だった。事件から数日後、すでに彼は一連の事件において重要参考人ではなく、余罪だけの男でしかなかったのだ。
その隙を見計らったようにして、彼女、荻野 陽毬が、彼の個室に姿を見せた。
未成年者がらみの不祥事を起こしたとはいえ、健在のカリスマ性を発揮させて、女性看護師の相手をしていた昼下がりである。
お客様を案内するという口実を得た別の看護師が、内心の浮つき具合を隠した澄まし顔して、入ってくる。
「真太郎さん、面会人ですよ。それも、女の人です」
「あ、そう……誰だろ? もしかしたら、案件かも。とりあえず、一回、席外してもらえますか?」
「えー! 誰、誰? 愛人? まだそんなのがいるのー?」
「いいから。誰だろうが、関係ないだろ」
そう言って追い立てられた看護師たちの代わりに入ってきたのが、高そうなスーツに身を包んだいかにも出来る女秘書という風な身なりの陽毬だったのだ。
看護師にせよ、陽毬にせよ、着飾らなければ人の前に出てこられないのかと、真太郎は軽く呆れたが、それは以前の彼も同様だった。
彼女は、姿勢良く革靴の音を立ててベッドの傍らに来ると、強気な女性がかけそうなルビー色のオーバルを持ち上げて、いかにも、という風に真太郎を見下ろした。
当然、髪もウィッグで偽装していて、銀髪、インナーブルーといった派手な色ではない。
「……誰かと思ったら」
「ごきげんよう、真太郎くん」
「何しに来たんすか」
傍らにパイプ椅子を引いてきて、座りながら陽毬は言った。
「連れないなぁ。私がお見舞いに来ちゃいけない? 私と君との仲じゃない」
「……たぶん、外にまだいますよ、彼女たち」
「そんなことを気にする奴がのこのこ現れると思うー?」
真太郎はうっとうしげに彼女を睨むと、再度、丁重な断りを入れた。
「……何しに来たんすか。悪いけど、あんたのことはもう信用しないと決めたんで」
「でも、何も喋らなかったからさ」
陽毬は即座に切り返した。
「なぜかな。私はね、それを確かめにきた。君の心変わりのほどをね」
「……あんた、何者?」
真太郎の問いかけは無視して、陽毬は反対に、こう問いかけた。
「世の中には楽しいことよりも、哀しいことのほうが多いと思いますか?」
「なに、それ」
「答えてよ。私からの最後のお願い」
陽毬の目は、真太郎をまっすぐに見つめている。
いつもと変わらない無表情に見える、その中に、かつてないほどの真剣さが隠れている。
「そうだ。哀しいことのほうが多い」
真太郎は答えた。
「って、以前までの俺なら、そう答えてたかもね」
「へぇ……」
「けど、今は違うな。なんていうか、あんな奴らがいるなら、そうじゃない。逆に、バカみたいに思い込んでもいいって、今は思う」
「……また、騙されても?」
「それでも……」
真太郎も、陽毬の目を見つめ返して、言った。
「これ以上、俺自身が、俺を嫌いたくないから。自分が騙される分にはいい」
「もし、自分じゃなく、自分の大切にしている誰かが同じ目にあったとしても?」
「……それはもう、別の話だろ。尚のこと、一緒に暗くなってやって、それでどうするよ。そんな時こそ、ダチの俺が引っ張ってやらないで、どうするよ」
しばらく沈黙。
時間にして、十秒くらいの間があってから、陽毬は深く呼吸。それから、すこし上を向いて、「そっか」、そう呟いた。
陽毬は続けてすぐに立ち上がる。
「邪魔したね」
「待て。こっちの番抜かしてる」真太郎は、陽毬の腕を捕まえるように言った。
「ん?」
「俺が飲んだあの薬。あれは……いったいなんだ? まだ治っていない。俺は、いつでもまた、狼男になれるぞ……?」
ふ、ふ、ふふふ。
陽毬は、痙攣するような奇妙な笑い方をして、改めて彼を見下ろした。
「君は敵だよ? 教えるわけないじゃん」
「敵って……」
言葉にしてみると馴染みのないその言葉に、真太郎は戸惑った。
「んー、そうだね」
しかし、陽毬はふと閃いたように、口元に指を当てて言った。
「だけど、もし君が、これからも黙って私の味方でいてくれるなら、教えてあげてもいいよ。私のことも、その薬のことも、全部」
「な……どういう……」
「どうする?」
また、長い沈黙が流れる。
もし……もしも、この女が言うように、今の関係が『敵』と見做されているのだとしたら——……。
これはもう質問じゃない。尋問だ。
試している。そして、それを手のひらで弄ぶように、楽しんでいる。
真太郎は、慎重に、選ぶ必要がある。
(天……!)
その時、真太郎の頭に浮かんできたのは、あの少女の忘れられない眼差しであり……その瞬間に、なぜだろう、覚悟が決まったような気がした。
俺に、勇気を与えてくれる……。
「……違うな」
「ん?」
「陽毬。言ったろ? 成功体験が俺を勇者にしたって。だから、好き勝手にしていいんだって。……ぜんぜん違う。そんなものは俺をむしろ臆病な狼野郎にしただけだった」
陽毬は、黙って、聞いている。
「本当の勇者とか、つまり自信ってのは、そんなんじゃない。今は、力なんてないような弱い奴が、口先だけでも意地はって、今あるどん底の体験に抗おうってその時、その心に正しく宿るんだよ!」
陽毬は、何も言わない。
じっと、彼の言葉を受けるように、その目を離さず、見つめていた。泣いているようにすら見える、その眼差しを。
それはやはり、天から伝染した陽なのだろう。それはまた、別の誰かから伝染して……ミカは、おそらく、これを狙っている。
陽毬は、そう、受け止めている。
真太郎は瞬きもせずに、陽毬を見続けて言った。
「いくら試そうと、もう俺は、あんたの思い通りにはならないぜ。答えはノーだ、サイコパス」
「そう」
「例え俺が知れなくても……あいつらが、きっとあんたを追い詰めて暴くだろ」
「そりゃ、」
陽毬は、口角をあげ、ピエロのような笑みの形を作ると、
「残念だ」
そう言って、大きく目を見開いた。
真太郎は、瞬間、鼻から息を吸い込んで、再度目を閉じた。
そして、天のことを想う。
本能だろう。
迫り来る死の恐怖に身体がすこし震える。
けれど、真太郎に今、後悔はなかった。
満ち足りてさえいる。
全部が全部、上手くいったわけじゃなかったが、最後の最後には、自分を嫌わない選択ができた。そんな気がして、やっと、まっさらな素顔で、彼女と向き合える——そう、思って、無垢な少年の寝顔のような、安らかな笑顔を見せたのだった。
奇しくも、目の前に相対している陽毬と同じように。
真太郎は、目を閉じたまま、その時を待った。
しかし、その時は来なかった。
目を閉じた暗闇の中、かつ、かつ、とまた靴音が響いて、遠ざかっていく。
驚いた真太郎が目を開けると、陽毬はもうドアに手をかけていた。
「……なんで?」
思わず、口をついて、言葉が出ていた。これほど自然な発声ができたのは、皮肉にもこれが初めてだったかもしれない。
「ん?」
陽毬は、あまりにも、いつもと変わらない態度で振り返る。
真太郎は、打って変わって、今度は口にするにもしがたい、その意見を呑んだ。
殺されるとばかり思っていた。半ば脱力、ある意味で覚悟を笑われた屈辱、さまざまな疑念をじりじりと沈黙の中に彷徨わせていると、陽毬は事もなげに言った。
「別に、嫌われたくてやってんじゃないからさー、私も」
陽毬は言うと同時に、メガネを外した。
その顔を見た真太郎は、次の瞬間には、言葉を失っていた。
陽毬は、まるでマリアのような慈愛と母性に満ちた笑みを日差しの光の中に浮かべ、
「ばいばい。真太郎。楽しかったよ、陰の君を見てるのは」
それだけ言い残すと、姿を消した。
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