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第十五変『長い一日の終わりにして、始まりの一日』
しおりを挟む翌日。
長い一日が明けた次の正午前、駅前で約束したとおりに、皐月は待っていた。
皐月の周囲は行き交う人で混雑し、普段よりも一層やかましく感じられた。夏休み初日という条件が、これに、どのくらい寄与しているかはわからないが、少なからず、一昨日、彼女の身に起きた現象が、やかましさに拍車をかけたのは、事実のようだった。
頭上の駅ビルの庇の上に、さっと、一羽の鳩が降り立って、もともと庇の上に留まっていたもう一羽の鳩の傍に、とんとんと近寄っていく。
夏休み初日の駅前を行き交う人々のように変哲のない普遍的な光景だったが、それが、皐月からすると、こう聞こえてくる。
「あら、奥様、お聞きになりました? 例のあの話……」
「まぁ、いったいどうなさったの? そんな血相を変えて」
「それがね……私にもさっぱり! 何も覚えていませんの!」
「まぁ、そんな血相を変えて……の、血相って、なんだったかしら?」
「ときどき嫌になることが、あったような、なかったような、そんな気になるけれど、それすらも忘れちゃうわ」
「巣だって作ろうとした端から忘れていって、まいっか、これで、ってなるんだもの。血相を変えても仕方ありませものね。でも、お待ちになって? 血相を変える……の、血相って、なんだったかしら?」
「くるっくぽ!」
「くるっくぽ!」
行き交う人からすれば、どう考えても変哲があり、普遍的でもない状況だが、それが、今や皐月にとっての普遍であり、変哲のない光景になっていた。
(全てのフラグを無に帰す能力……ちょっとほしいかもしんないな……くるっくぽ!)
皐月はもう慣れた感覚で、彼女たちの会話を受けて、考える。
しかし、もしかしたら、この行き交う人たちだって、本当はすべて聞こえていて、その上で、知らんぷりを決め込んでいるだけかもしれない。
極から極へ行き来し、一つところに定められない人間たちがいるように、普通や常識、変哲のない状況というのもまた、その都度揺れ動き、線の位置をズラすものだ。
時代と呼ばれる、その時々の世間の風潮に合わせて。
(ズラす? ひょっとして、これを、ズラしたいのか? ミカは?)
皐月は、だんだんと、背筋が冷たくなってきた。
江戸時代の人からすれば、この時代における一般の人たちは、みんな、奇怪なはご板を手に、目に見えないものとやりとりを交わす、もののけ集団のように映るかもしれない。しかし、じきに、そんな光景にも慣れてしまうだろう。
それが、普通だからだ。
そのように、人の意思は、鈍感であれ敏感であれ、一つの見えにくい意思によって、気付かぬうちに統合……すなわちグループ分けされ、その集団を知らず知らずのうちに保つように、動かされている。
集合無意識なんていう風にも言うが、例えばネガキャン、逆に信者という言葉に置き換えれば馴染みがあるように、現実はより単純で容易く、日常的にそれは行われている。
自分では美味いと思っていた食べ物や特定の店の味が、ネットで悪評を聞いた途端に、どこか不満があるように感じられる、という経験は誰しも覚えがあるだろう。そのくらい、人の意思や感覚なんてものは、移ろいやすく、また煽りやすく、繊細で、か弱いものなのだ。
同じように、誰かがそうと言えば、それが普通になる。
そのように、私たちは、生きている。
誰かの意思に乗っ取られるようにして、自分ではない誰かを、生かされている。
意思持つように見える誰かの人形。
有史以来、人というのは、そんな他愛ないものであったかもしれない。いや、だから、それに抗おうとした一部の人が、特異に見られ、歴史に名を残したのかも。
人の歴史は、社会VS超個人の歴史と言い換えられるかもしれない。
ミカも、もしかして、これに抗いたいのか。
世間の『それが普通』『それが常識』という、実しやかに漂い、私たちの脳まで知らず知らずのうちに汚染している、いわば、空気。
現代の空気に、戦いを仕掛けている。
私たちを使って。
皐月の寒気はもはや全身に及んでいた。
『お姉さまは、無責任に他人の懲罰を唱える人々の声に従い、そうした者たちを滅ぼそうとしたわ。この歪なコスモスはこの者たちの陰湿な攻撃性こそが産み落としていると考えたのね』
彼女は初めからそうしたその他大勢でいて、自分を守ろうとする薄弱さ、それを扇動する意思を敵視している。
しかし、自分の力だけでは、それを倒すことができなかった。
『しかし、彼女は方針を転換した』
だから、その敗北から学び、社会のもたらす空気に抗うべく、異なる空気を持った人間たちを地上で増やすことを考えた——そして、自分が倒すことのできなかった普通の人間たちと、戦わせるために。
その果てに待つのは、なんだ?
最終・最後に残る選択は、プラスかマイナス、すなわち——陰か、陽か?
それを、人間たちの手で、選び取らせること?
それが、ミカの本当の狙い——?
「皐月ー、ごめーん。支度に時間がかかっちゃって……」
みよちんの声で我に返り、振りむくと、皐月の青ざめた顔が一転して、脱力する。
足元までのロングコートに、二重マスク、サングラスというコーディネート。満場一致の不審者極まりないヤツが、そこにいた。
衝撃の連続に、皐月は、あー……あー……としか言えなくなった。
不審者は、サングラスを指でずらすと、中からみよちんの顔を覗かせた。
「あれ? 私だよ? 吉野 美操」
「あっ、みよちん! あぁ……いろいろあった衝撃で、なにか——なにか、大切なことを思いつきかけたけど、その他の記憶も全部、一緒に忘れた」
「トータル、全てを失ってんじゃん」
一方、皐月は、Tシャツにスカートっぽく見えて、スカートじゃないあれを履いている。一見すると、小学生にも見えるような軽装だった。
それと、ロングコードの女が、しばらく並んで歩いた。
好奇の視線が、むしろ二人をへろりと避けて通り過ぎていく。中には皐月を心配した目線さえあった。
みよちんが、ぼそっと尋ねた。
「何かあった? 皐月」
「私が聞きたいよ。なにかあった? みよちん」
「え?」
皐月は、みよちんの格好を指差した。
「歩きながらサウナも楽しもうってコーデを模索する夏休みの自由研究っていうなら、わかるけど」
「そうじゃなくてさ……あー、やっぱ変かな、これ」
「うーん、私は受け入れられるけど、これが通報されないで、普通に歩いてただけの無辜の民が通報される理不尽くらいは感じるかな」
「あの……実はね……」
改めて事情を伺うと、みよちんは機動隊員の人のカチコミを受けた際、そこで吐かれた暴言が杭のように胸に突き刺さったままと言う。
「なんだ、噛み付いたり、骨もぎとっておいて、今更そんな乙女みたいな心配してたのか。みよちんも思春期ですなー」
「乙女だし、思春期なんだよ。心はまだ」
「んじゃあ、香水屋でも行ってみる? まだ早いと思ってたけど……」
「あ、いきたい」
「うん。じゃあ、まずはそれ着替えてからにしよ」
途中、初めての香水屋に寄って、三千円くらいのものを見繕うと、店員さんに使い方を伝授してもらい、ようやくみよちんは怪しいコートの女を卒業するのだった。
駅から徒歩十分ほど。家電量販店や雑貨屋、外食チェーン店などの並ぶ通りを過ぎて、すこし路地裏に入ったところに、その看板は見えた。
みよちんはあのホストの名刺みたいな芸術作品を、大層恥ずかしそうに手で隠しながら、周りの風景と見比べて言う。
「リッちゃんの……アホ事務所。あ、あったあった。これだよ」
看板はまるで三丁目の怪しいバーか何かの店先に掲げられているような、ピンクと黒の禍々しいデザインだった。
天使と悪魔の絵が所々にチョイスされて、メルヘンチックな装いを狙っているのはわかるが、油と泥でベタベタしていて地獄の様相しか呈していない。
自分で言っときながら、みよちんは深く呼吸を繰り返して、改めて二の足を踏んだ。
皐月と二人、入口の狭い階段の下に立ち尽くす。
皐月が、みよちんの心情をさらうように言った。
「……え、ここ入るの?」
「……まぁ、仕方ない……場所は間違ってないし……間違っててほしかったけど」
「なんかあれだね。入るところを絶対、同級生に見られたくない店構えだね」
「うわぁ」
「私たちだけの秘密だね」
「こんな『私たちだけの秘密』持ちとうなかったなぁ」
二人は、口々に言いながら、とぼとぼ目の前の階段を上がっていった。絞首台にあがる受刑者のような後ろ姿だった。
そこの二階が、例のオフィスになる。二人が階段をあがってすぐに、まさしく事務所なんかでよく見るような業者のドアが、踊り場の側面についている。
「あー……でもちょっと緊張するー。あんな看板でも、こんなドア、見ちゃうとさ」
「なんかしゃちほこばっちゃうよね。……あ、みよちん、ドラクエやった?」
「やれるわけないじゃん。でも、一応調べて、5のことはわかったよ。私は、あの子がいい。黒い髪の……」
「あ……」皐月はその後に起こる惨劇を予感した。「とにかく、行ってみよう。全部、行ってから考えよう。ここでもだもだやっててもしょうがないし、余計緊張するだけだよ」
「うん……あー、でも、意識したら余計に……あぁー! 心臓バクバクしてきた! ダメだ、私、こういうの苦手……」
みよちんは皐月の腕にしがみついて、懇願する。
「ねぇ、皐月、一回さ……一回、辺り、ぶらついてこない?」
「ダメだ、いくぞ、みよちん」
皐月は有無をいわせず、事務所のインターフォンを押した。みよちんは小さく悲鳴をあげる。
「女は度胸! 男もそうだけど!」
「それ、甲斐性……あれ、どっちがどっちだっけ」
「どっちでもいい。すいまっせーん! 先日、お話を伺ったものですがー!」
「ああぁぁぁ……おなかいたい……」
みよちんが、お腹をさすって、地団駄を踏んだ。
しかし、返答はなかった。
「……あれ?」
皐月は、不審に思って再びインターフォンを鳴らす。……が、やはり応答はなかった。みよちんは、皐月の陰に隠れながら言った。
「やめてやめてー。もうー。いやだー、こういうの。余計に緊張するからー」
「やっぱあれかな。留守にしてるのかな?」
皐月はそう言って、ドアノブに手をかけると……開いている。
「入れてしまうので、このまま入ってしまおうか……」
皐月は振り返り、構文めいたことを口にしながら、そのままドアを引き開け、中を覗き込んだ。
「お邪魔しまーす? うぇーいですかー?」
「だ、大丈夫かな? 急に警察が来て、逮捕されたりしない?」
「機動隊員や堕天使や悪魔や狼男とやりあった人とは思えない発言だねー」
皐月は言いながら、改めて中を覗いた。
そこは当たり前のように玄関となっていて、奥に続く通路が見えた。ダンボールや得体の知れない荷物たちが散乱している。
部屋の匂いも同時に漂ってくる。脇にはトイレ、その反対側には横に引くタイプの戸が見えた。もしかしたら、シャワールーム完備かもしれない。これは幸先がいい! 何かで見たギョロ目がすごい人みたいに、皐月も、目を押し広げて、頭の中ではしゃいだ。
と、その前に漂う、ひょろひょろとした糸状のものが、視界を邪魔している。
「なんだ、これは……電気?」
皐月は掴もうとして、掴めない。
白く、薄い透明のもので、言ってしまえば雲かエクトプラズマ、もしくは逆さにしたソフトクリームのようなもの……その糸を上に辿ると、目の前に、顔があった。
透けた、女の子の顔だった。
皐月は、ギョロ目の人よりも、さらに目を押し広げて仰天した。
「ぎゃ! お、おば——」
「ひっ、人だあああぁぁーーーーっ!」
「え」
「ウワアアアアーーーーーーーっ!」
皐月が悲鳴をあげるよりも、早く、遥かにやかましい大音声で、先に女の子が悲鳴をあげた。そして、すぐに糸状の下半身を空中に泳がせて、通路の奥に引っ込んでいってしまう。
「……え?」
皐月は、ドアを開けたままの体勢で、しばし呆然とし、それから、振り返ってみよちんに言った。
「ど、どうしよう、みよちん。こんなにどうしていいかわかんないのは初めてだ……」
「おばけ同士で何やってんねん」
みよちんは一転して冷静だった。据わった目つきで言って、皐月もそれで気がついたようだ。
「——あ、そうか。じゃあ、あれがビッチに愛されし、パールトーンでシマシマ模様の、あの、ふわもこパーカーに取り憑いてるっていうビッチの……」
「うん、行こう、皐月」
「急に落ち着いてきたね、みよちん……」
「うん。あんなんが出てきたらさ、あ、慣れ親しんだアホたちの空気だなって慣れた」
みよちんは、人が変わったみたいに強気になって、ずかずかと事務所に乗り込んでいった。
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