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第十四変『とある機動隊員の災難と事後処理・後』
しおりを挟む「はい、タマちゃんの負けー! 罰ゲーム決・定ーっ!」
金太の少年のような声が、座敷部屋に響いた。
タマはすでに深海をただようような意識の中で、イルカの超音波のように、それを聞いていた。
「ありゃりゃ? 私、まぁた負けら? あっははは……」
「はいはい。っつーことで……」
金太は、さっそく用意しておいたジョッキをタマの前に持ち出した。
「ほい、イッキイッキ!」
本当は一枚ずつ脱がしたいところだったが、このご時世ではいつ、どこから、角が立つともしれないし、荻野 陽毬の助言でもある。
タマは、中央に鉄板の埋め込まれたテーブルにつき、目の前に並々と注がれた琥珀色の液体を眺めて、懸命に考えた。
あれ? 私、何してたんだっけか?
照宮 天とカラオケに行き、そこで二、三、歌を歌わせてもらったところまでは覚えているが、その後が覚束ない。今は、香ばしい匂い立つお座敷部屋の一画にいるようだったが、なぜそうなったのか? がまるで茫漠としていて、思い出せない。
事後が……事前か? とにかく、そうだった。人間界の打ち上げとか飲み会で定番だというゲームをやることになり、そこで負けた私は、銀髪の黒ギャルにこう言われた。
「負けた人は罰ゲームを受けなければならない。ここではそういうルールなんだ……なーんて。堅苦しい言い方はしないし、自由にしていいと思うよ。やりたくなけりゃ無理してやんなくていいし。けどさぁ……」
ばちばちのまつ毛を、蝶々の羽根みたいにバタつかせて、黒ギャルは言った。
「ノーリスクなんか、やっててまじ、つまんなくない? コイツ、何しにきてんだろー? って思っちゃう。何事も失う恐れがあるから、マジになんじゃん。だから、勝てたときが熱いし、脳汁が出る。そうでしょ?」
「はぁ……」
詐欺師か、もしくはパチンコ店のオーナーのような物言いだ。けれど、その趣と屈託のない目つき……言い換えれば貪欲な目つきは、どこかミカを彷彿とさせるものだった。
タマは、少し考えてから、返した。
「……確かに。そうですね。わかりました! これも人間観察の一つ! 罰ゲーム、やりましょう!」
「そうこなくっちゃ!」
陽毬が嬉しそうに顔を綻ばせて言った。この時は、タマもまだ正常だった。
しばらくして、歌い飽きたころ、時間的にも自然と食事の話になり、配信者の子たちが薦める行きつけの高級焼肉店に赴くことになった。
「予約とか、入れなくて平気なんですか?」と真凜。
「もちろん。友達ん家みたいなもんだし、あ、ストさん、一応電話だけしといて」金太が言った。
「うぃー」
ストロング・ゴールドは、全身盛りに盛った筋肉を見せびらかすようなタンクトップ姿のパツキン短髪男だ。夏場に黒光りするデコが輝かしい。
彼は、ぷりぷりの腕に対して、あまりに小さく見える手のひらで、さらにミニチュアに見える端末を操作すると、電話をかけた。
「むきむき? はい。うん……あ、わかります? さすが——え? そんな挨拶、拙僧しか使わないって? えぇー、やだな。筋肉を嗜む人の間では普通の挨拶ですよ? これ。ギャハハ」
ストロング・ゴールドが、そうしてお店に連絡しているところ、倉田 麗奈や金井 真凜などは、配信者と高級焼肉を楽しめるというだけでもうノリノリで、タマも人間界の高級グルメが楽しめると説明されてノリノリ、唯一、天だけがなんだかノリノリじゃない雰囲気だった。
陽に当たる店外に出て、タマは、コーヒーを飲んだクモのごとく、ふらふらしながら、彼女に声をかけた。
「あへぇ、天さん。どうしたんですかぁ? 浮かない顔ひて……やきひくですよ? 寿司かやきにくかってとこで、やき……あっ、日差しがつよい……酩酊が加速する……」
アルコールが回っているときの夏の日射と熱気は、さらにアルコールの回りを良くするのだ。陽が沈み始めた時間帯とは言え、その恩恵は健在だった。
タマはただでさえ青い顔をさらに青くした。
「うっ……ちょっと、あれかも……変なスイッチ入ったかも……」
「あわわわ! 店! 店についてから! お手洗い行こ?」
焼肉店で通された奥のお座敷部屋でも、カラオケボックスの時と似たような……いや、より浮世の憂さを晴らすようなノリが続いた。タマは先にお手洗いに行った。
もちろん、天にも警戒心はあったし、一見したところでは周りに流されにくそうに見えがちである。しかし、こんなタイプが一番堕としやすい。
根が真面目で良い子だからだ。
真面目だから、よく考える。よく考えて、物事の是非を定める。しかし、それが罠で、そうして頭の中でいったん組み上がってしまった理屈や整合性は、覆しがたくなるのである。他の誰でもない、自分自身が、よく考えて導いた答えなのだから、と。
よく考えた、という事実が鋳型のように凝り固まって、視野が狭くなるのだ。
手のひらで転がすように真太郎は、自身でもコップを煽りながら言った。
「俺も別に、アルコール、好きってわけじゃないんだよね。味はまずいしさ……でも、大切な話の前に一口飲んでくこともある」
「え、そんなことしてるの?」と、天。
「酒も使いようだよ。飲んだほうがしやすい話もあるでしょ」
嘘ではない、最もらしい話で説得力を持たせ、本人を納得させることができれば、もう、慣れた狼男には、お手のものであった。
神でさえ、アルコールには弱い。その伝統的な手段でタマの監視を破った金太たちは、そうして意気揚々と、いつものように酒盛りを続けたのだった。
気がつくと照宮 天と真太郎、二人の姿は、座敷から消えていた。けれども、タマは気づく気配すらなく、また金太にそそのかされるまま、美味しいお酒を次々に煽った。
やがて、他の女の子たちもセスナやストさんと共に一組、また一組と部屋を出ていき、座敷にはタマ、金太、陽毬の三人だけが残った。
座敷の上に酔い潰れたタマを触ろうとした金太を、諌めるように陽毬が言う。
「その子はやめといたほうがいいと思うー、金太くん」
仲間内で、彼女の言い分は絶対だった。
なぜかはさておき、彼女の言うことはよく当たる。危には近寄らないのも、また、彼らの学んだ生きのびるコツだった。
けれども、タマほどの美貌は、めったにお目にかかれないとあって、金太も口惜しそうに言った。
「えぇー……でも、こんなガチで全部揃ってる女、芸能人でも見たことないし……」
「そのとおり。この世の美しさじゃないかもしんないよー?」
金太は数秒、目を瞬かせてから、ぷっと噴き出した。
「かっはっはっ! なんすか、それ……おもしろ! でも、確かに羽根、生えてるしなー」
「……さて」
見ていたスマホをポケットにしまうと、陽毬は立ち上がって座敷の端から土間に降りた。
「ええー! しかも、ピーマリも行っちゃうとかマジ?! 俺、この後のために残ってたのに……」
金太は陽毬の足にすがりつくようにして言う。
「おねぇさーん、あそぼーよー……」
「ふ、ふ、ふふふ……めっちゃ良い子だね、金太くん。でも、ごんめー。今夜は先約があってさー、もしかしたら、魔物が出るかもしんない日なの」
「なにそれ。おもしろ……ときどき面白いこと言うよね、ピーマリ」
切り替えの速さが彼の持ち味だった。すぐに別の手段を考えて、首をもたげる。
「でも、俺はどうすっかな……したらー」
「看護なら、してあげてもいいんじゃない?」
陽毬は顎で寝ているタマを指して言った。
金太にとっては生殺しも同然であった。
「……マジすか?」
「あとで、どうなったか、教えてよ」
そう言って陽毬はすげなく座敷を後にし、それから小一時間ほどした頃である。
突如、金太の前に、バンギャ風のちぢれ髪の堕天使が、エキゾチック・ショートヘア種の顔面が潰れたようなぶすかわ猫を肩にぶら下げて現れた。
金太は受付から連絡があって出迎えた矢先、今度こそ目を丸くして、襖の向こうにそうして現れたお客さんをまじまじと眺めて、言った。
「……マジすか? どうなっちゃったの、東京」
バンギャ風の堕天使は、座敷で横になっているタマを見ると、据わった目つきで金太を睨みつける。
「お前、こいつに何した?」
「……い、いいえ?! まだ、誓って何も?!」
実はこの一時間くらい、何度も手をつけそうになりながら、陽毬の言ったことを思い出し、処世術を思い出し……それでどうにか下心を堪え、けれどもこの縁を諦めることもできずに、正規ルートを探っていたところである。
「ふーん」
(ふぃーーっセーーーーフ! っぶねー、マジじゃん……ガチのマジだろ、今の目は……! ピーマリの言うこと聞いといてよかったー……沈められてたわ、たぶん)
金太は命拾いしたと思って胸を撫で下ろしながら、頭の中で即座に鼻の下を伸ばした。
バンギャ風の堕天使は、バンギャ風というだけあって、全体的に病んでる臭いがぷんぷんと伝わってくるような外見にファッションだったが、出るところはきちんと出ていて、それもまた人間離れした魅力があった。
「(けど、このお姉さんもまた、超絶……。やっぱ羽根は生えてるけど……)お姉さん、タマさんの知り合い? 彼女、酔い潰れちゃってさー、このままにしておけないし『看護』! してたとこなんすよー! へへへー」
陽毬さまさまだとばかり、手揉みするような愛想の良さで機転を利かせて金太は言ったが、元々こういう性格なのであった。裏表ではない。全部本心で、実直なだけなのである。
一方、堕天使は金太を無視して座敷にあがると、一直線にタマの傍までいき、肩をゆすっていた。
「おい。タマ、起きろ」
「ふぁー? ありぇ、リツさん?」
ふにゃあ。
堕天使の肩先で猫が呆れたように鳴いた。
「あれ、メリナさんも……めずらしー。今日はぁ、カボさんは一緒じゃないんですかー」
ふにゃにゃごにゃご。
また、猫が鳴いた。まるで会話しているようにタマが答える。
「へぇー。もうそんな時間なんですねー……」
「ダメだ、こりゃ」
とリツが答えると、ふにゃふにゃ。と猫が続けた。
金太からはどう見ても会話しているように見える。
「……にしても、こうもまんまとのせられるもんかねー。仮にも悪魔が……」
そう言うと、堕天使はタマをおんぶして、その身を翻し、金太を見た。
「世話かけた」
「あっ! 待って待って!」
「……あんだよ」
出入り口を前に立ちはだかるような人間の少年を、リツは鬱陶しげに見下ろした。……が、赤毛の少年は、それを毛ほども気にしていない様子で言った。
「一目見て、感動しました、お姉さま」
「……は?」
「マジなんです! こんな綺麗な人がいたんだ……オレもまだまだ甘かったなって、世界の広さを知った気分です。お姉さまぁ! 連絡先、教えてくだーさいっ」
金太は、両手を合わせて、胸の前に差し出して言うのだった。
まるで犬みたいな少年だと思われた。リツと猫の目には、耳と尻尾が見えるようだ。
そうして肩先の猫と目を見合わせると、しかしリツは即座に考えなおした。
確かに、この際下僕になるなら男でもいいのではないか……と。
「……うち、厳しいよ? ついてこれる?」
「なんなりと!」
金太は屈託のないキラキラ笑顔で言い、今度こそ、ぐうの音も出ないような呆れ返った猫の鳴き声が聞こえた。
◇
その頃、ホテルの入り口では、担架に乗せられた女学生の一人が目を覚ましていた。
救急車に運び込まれる途中だった。目を白黒させて、おぼろげに周囲を見回す。
パトランプの点滅が目にも騒々しい中、視界の隅には、もう一台の救急車が停まっている。自分と同様に男が運び込まれていくのが見えた。
「わかりますか?」
懐に立つオレンジと青い制服が見えた。通報に応じてやってきた救助隊と病院の看護師だろう。
特に女性の顔があるのが、女学生の天にはありがたく、安心した。
覗き込む顔に天は応対する。
「……はい。あっ、クマは?!」
「クマ?」
天は起き上がって告げた。
「クマみたいな男が現れて!」
「……一緒にいた男の人? 今、隣の救急車に……」
「違います! 真太郎じゃない! 彼も被害者です! 信じられないかもしれませんが、突然クマみたいな大男が現れて……それで……!」
「…………」
隊員たちは目を見合わせた。
マスクで表情はわからないが、目の動きに動揺は見られない。あくまで仕事中って感じの険しい目つきだった。
天はじっとその様子を観察していた。
嘘は一つだけ。しかし、かえって言いすぎたか、と思った。
「……とにかく、今は安静にして。ゆっくり休んでください。さぁ」
女性の看護師に言われて、天はまた担架に横になった。
私たちはこれから連絡を取り合う術がない。
だから、大声を出せる、今、ここだけが、メッセージを伝えられる唯一の瞬間だった。
◇
隣の救急車に運び込まれて、担架の男が身じろぎする。
なんとなく、さみしいような、くるしいような、胸の奥がいたい気持ちになって、顔を見られるのが嫌だった。
「聞こえますか? 聞こえたら返事を」
看護師と思われる女性の声が絶えず上から呼びかけている。しかし、その声よりも、もっと遠くに響いた声に答えるつもりで、
「はい……はい……」
真太郎は繰り返し、答えた。
なぜ生きているのだろうか。
荻野 陽毬からもらった薬を飲んでからの記憶は、ないわけではなかった。不鮮明だが、まるで古ぼけたビデオテープの映像のように残っている。
その中で自分は化け物になっていた。
また、ハメられた。裏切られた。そんなふうに誰かを嫌い、信じられず、憎む気持ちだけが暴走して、自分では止められない、暗いるつぼの中に放り出されたみたいだった。
光はない。
けれど今、再び人として目覚めて、なんでもない、夏の夜のぬるい風が、ほてった身体に心地よく、その向こうから聞こえてくる声が、なぜだろう、心にそうして溜まった泥を掃いてくれたみたいに、澄んで、よく響くのだ。
おぼろげに記憶の映像の中に残る少女たち。少なくとも、その中の一人、天のまっすぐな視線を忘れることはできない。彼女の行動には、いつも自分への気遣い、献身が込められていた。
今、思い出しても信じられない光景だったが、あの死線の中にいてなお、彼女たちに、憎しみとか相手への蔑みだとかは一切なかった。命のやりとりを繰り広げながら、なぜ、相手のことを気遣えるのか。
——そこで折れるか折れないかなんだよ。
——それじゃ、もっと自分を嫌いになっちゃうから!
瀬戸際で、常に、あの言葉が気にかかっていた。
だから、真太郎もまた、あの催涙ガスがまかれた時に、天を傷付けて逃げることだけはしなかった。それをしたら、自分もまた美汐を追いつめた連中と同じだと思った。
結果という肉欲だけを求める野獣に、心まで喰わせたつもりはない。そんな彼の土壇場で見せた意地だったが……今のすがすがしい気持ちは、それで良かったのだ、と、そう彼に思わせてくれた。
負けて良かったなんて、まるで美汐が言いそうなことだと思った。もしかしたら、天のあの言葉。それも彼女そのものではなく、美汐に感応して、あの瞬間に生み出されたものだったかもしれない。
実態として生きているか、死んでいるか、そんなのは、意思の前にさしたる問題にならない。遠い昔に描かれた物語が、今の心に強くメッセージを届けることもある。
(まだ、俺の中にも、残っていたのか。あいつの陽気が……それが、俺を守ってくれた……踏みとどまらせた——そして、俺が陰、あいつが陽となって、天からあの言葉を引き出した。彼女を成長させた)
くさい。
我ながら臭いことを思った。
亡き親友への謝辞が浮かぶ。
それが、実態として生きているか、死んでいるか、は問題じゃない。
俺にはまだ、いるじゃないか。
自分を想ってくれる、こんな人も。そして、天にも出逢えた。
過去の親友がそうなら……同様に、まだ、出逢っていないだけの未来の友人でも、それはいるのかもしれない。
逆に、自分自身や、自分の成したことが、その未来の友人の助けとなることもあるかもしれない。その時たとえ、自分自身が実態として残っていないとしても。
だから、人は、生きているのだ。
今がすべてではない。過去、現在、未来、それらすべてを統括した来るべきその時のために、誰もが、ある。
他人同士のつながりに、こんなあたたかな気持ちを抱く日が来るとは思いもしていなかった。
こんなに、ありがたいことはない。
事件を通して成長できたのは、天だけではなかった。
「お名前、わかりますか? 自分の名前……」
看護師の声に、真太郎は答える。
「川島……慎太郎です……」
その声は、恥と安堵で、震えながら……答えた。
◇
「飯島さん!」
警視庁から鑑識が到着し、彼らに部屋を明け渡して廊下に出た矢先だった。エレベーターのほうから隊員が走ってきた。
おそらく部屋に残っていた遺体のような臭気を放つ女子のことだろう。
目的はわからない。が、彼女は自身を遺体に偽装し、被害者の中に紛れることで、巧妙に隊員たちをあざむいていた。その後、飯島が捕まえようとしたところ、部屋から転落し、彼はストレッチャーを回す手配をしていた。
ここまでが鑑識を待つ間、飯島が頭の中で整理した流れである。
「おう。……どうだ?」
落ちた少女のことについて、である。
飯島は、万が一のときを考えて、あくまで肯定的に返した。
隊員は怪訝な顔を浮かべて言った。
「……いえ。それなんですけど……」
しかし、隊員は次の瞬間、さらに驚くべきことを口走って、飯島を階下に走らせた。
エレベーターを使わずに階段を高速で駆け降りて、ホテルを出ると、そこで構えていた救助隊員と鉢合わせ、その案内を受けながら、彼は、路地裏に急いだ。
飯島は、問題のホテル裏に着いて、その現場を目の当たりにしたとき、すぐにコンクリートビルに挟まれた上空を見た。
破れたガラスと、枯れ果て、茶色くなった薔薇の蔓がここからでも見える。まるで元々、根を張っていたシダ科の植物のように、それは今やビルの壁に同化している。
あの部屋の直下は、ここで間違いない……それなのに。
救助隊員は、現場に着いて早々、道路に腕を広げると、困ったように飯島を振り返って、言った。
「ほら、何もありませんって」
救助隊員の言う通りに、目の前の通りには、なにもなかった。飛び散った細かいガラスが、ちらちらと目に反射するだけだった。
飯島は、もはや自失を加えたいくらいに呆然として、返答できない。
呼吸器官が、酸素を止めるように、急にタバコが吸いたくなった。
「ガイシャはどこです? その……部屋から落ちたって言う。そもそも、なんですけど……」
飯島は、救助隊員の質問に答えず、部屋の位置を確認しながら、その真下の地面に触れた。
冷たいアスファルトだった。
血痕一つ、ついていない。
救助隊員も、隣で、そんな飯島の動向によらずに続けた。
「部屋の利用者は二人って聞いてましたけど……運び出されたのも二人。こんなこと言いたかないんですが……数は、合ってんじゃないですか?」
「待て。他の奴らにも確認しろ。すぐに!」
飯島は訴えかけるように声を張り上げたが、間もなくそんな自信さえなくなっていく。
「……いたはずだ。いたんだ、もう一人、女の子が……だから、俺は……」
救助隊員が呆気に取られるのがわかって、飯島はますます息が苦しくなる。
キチガイだとでも思われているのだろうか。こんな時の人の視線はぞっとするほど冷たい。アスファルトの地面よりも心に強烈に沁みこみ、突き刺さるものがある。
頭が、どうにかなりそうだった。
しかし、遺体だと思っていた少女が蘇り、体臭を気にして発狂したあげく、自分の手を振り払い、飛び降りた……? そんなドラマだってやらないような話を、いったい、誰が、信じる?
あれは、本当に、確かなことだったのか?
俺こそ、どうにかしていたから、そんな幻想を見たのではないか?
自分自身ですら、真実味が薄れていくような光景に、飯島は、サジを投げるように、つぶやいた。
「カオスだ……俺にも、わけがわからない」
◇
そして、その日の深夜——。
新木場にあるヘリポートから、有明、台場、港区をつなげるあの有名な橋を直進するワゴン車があった。
カメラマンの自前であったため、車体の後部に張り出しこそないものの、テレビ局の車である。
すでに日を跨いで昨夜のことになる。
某駅周辺のラブホテルで起こった事件を空から撮り終えた彼らは、人気のまばらになった大通りを飛ばして、局ビルへと急いでいたのだった。
すれ違うものも車も滅多にないとあって、タイヤがときどき浮き上がるくらいのスピードを出していた。
こんな事件は昨今めったになかった。このまま完徹で局に泊まりこみだが、凄まじい映像が撮れたことによるアドレナリンが、彼らにその労苦を忘れさせていた。
これは、すごい視聴率になる……。
車窓の向こうの風景が、東京湾から、地続きで見慣れたコンクリートジャングルのものになってくると、いよいよ港区である。
そこから局ビルへの近道だと言い、カメラマンがハンドルを切り、路地に入って、少ししたときだった。
カメラマンが、急ブレーキをかけた。
慣性に押し出された他のクルーもつんのめって、編集者はノートPCを座席の隙間に落とした。すかさず怒鳴り声。「おい!」「い、いや!」運転席のカメラマンが、不服そうに返して、すぐにフロントガラスの向こう側を指差した。
火の玉だ。
路上に突然ぼうぼうと火の玉が浮かび上がって、明るくなっている。
いや、あれは——。編集者とカメラマンはそろって絶句すると、鞄から飲料水を取り出し、ドアを開けて、飛び出した。
後部座席で女性クルーの短い悲鳴が響いた。
人だった。少なくとも人型の何かだ。それが、路上の真ん中に、それとわかるほどに突っ立ったまま、ごうごうと燃え盛っているのだ。
「う、うわあああ……だ、大丈夫ですか?!」
「ぺ、ペットボトル! ペットボトル持って! なんでもいい! は、はやく水!」
そうして車を降りた矢先、二人が人魂に向かって駆け出すより早く、人魂が走り出した。
こちらへ向かってくる……。
「ひっ!」
そう思って、カメラマンと編集者は驚き、身をすくめたが、人魂は全速力で二人の横を抜け、ワゴン車の後部座席に接近した。
そして、車内を覗き込むようにすると、窓をこつこつと叩き、カメラマンと編集者のほうも見ながら、言った。
「ひょっとしてこれ、中で通報したりしてませんよね? あの、二人からも言って、止めてもらえませんか?」
人魂の顔は炎で何もわからない。しかし、それは男の声だった。清廉な青年の声だった。
「は……?」
「失礼じゃないですか? 歩いてただけで通報って……不審者じゃあるまいし……」
「え……?」
「わたし、何かしました? ただ、燃えてるだけじゃないですか」
カメラマンと編集者は顔を見合わせた。数秒の間があって、とにかくなにか奇妙だが、非日常的なことが起きている事実を受け止めた。
「い、いや……? え? な、何言ってるんですか? あなた、燃えて……」
「炎上したら不審者ですか?」
「普通はそうです……」
「なにそれ、ひどい……普通って何様なんですか?」
編集者はもはや笑い出しそうになりながら返した。
「ひどいって……え? いや……あの、身体は、それ……平気なんですか?」
「平気じゃなかったら、こんな悠長に話してられないですよね?」
「そりゃそうだけど……」
理解に苦しむ光景だったが……とにかく、この人魂は平気なようだった。実際こうして話せているのだから、受け止めざるを得ない。いや、事によっては、さらなるスクープ映像になるかもしれない……。
エンタメ屋としての矜持が、編集者の好奇心が、うずいた。
人魂は、なおも燃え盛りながら言った。
「とにかく、彼女らにやめさせて。撮らないで。わたし、決して怪しいものとかじゃないですから」
「はい……えぇ?」
肯定しようにも、信じられない気持ちのほうがまだ圧倒的に強く、編集者はたびたび首を傾げて、どうにか会話をつないだ。
「……あ、とにかく、本当に、あなたは平気なんですね?」
「だから、そう言ってるでしょ。何回、同じこと聞くんだ、あんたは」
話しぶりは、まぁまぁ横柄で、事情が事情ゆえに仕方ないところがあるにしろ、悪く言い方をすればクレーマーや迷惑客のようなふてぶてしさすら感じさせられる。苛立っているのが手に取るようにわかった。
編集者は、カメラマンに指示して、フロントドアから中の女性クルー二人に通報をやめさせた。
それから、改めて炎上する男と向かい合う。
「……で? えーと、それ、何なんですか? 手品? どういうトリックなんです?」
炎上男は、辟易するように返した。
「はぁ、わたしの体質なんかどうだっていいでしょ……そんなの。なんですか、偉そうですね、急に。取引先や取材現場でも、いつも、こうなんですか」
「まぁまぁ、こちらも……戸惑ってて……対応が悪かったのは認めますよ。けど、そりゃ誰でもびっくりするじゃないですか。燃え盛る人間なんか見たら」
「心に余裕がない。寛容さが足りない」
「まぁまぁ、わっ……かるけど……」
編集者は、この状況もさることながら、あまつさえ炎上男のキャラが可笑しくて、もはや笑いを堪えるので必死だった。
編集者は、車内にいる女性クルーを庇って言い返した。
「彼女らだってそりゃ通報しますよ。いえ、完全に善意ですよ。普通、死にますから」
「そういう善意という名を借りた悪意が、今、社会全体に陰を落としているとは思いませんかね」
とりつく島もない様子の炎上男に、編集者は、話題を切り替えるように言った。
「あ、ちなみに、聞くの忘れてた。これ、取材させてもらってもいいですか? 君、面白いな。私たち、テレビ局の……」
「知ってますよ。だから、こうして近場で張ってたんだから」
編集者は違和感に眉をひそめる。
「それは、どういう……」
炎上男は、平然と続けた。
「あなたたち、すでに昨夜ですが、駅前の事件、撮ってたでしょ? ヘリから。あれ、困るんですよ」
編集者は、興味本位から、半ば警戒心に気持ちを入れ替えつつ話した。
「……困る、と言われても、生だったし、もう全世界に拡散されてると思いますよ」
「そうですね。けれど、元々のデータが存在しなければ、それは文字通り、事実無根だ。結局デマで押し通せる。今はAIもあるし、誰もが暇つぶしを求めてますからね。隠れ蓑はいくらだってあるし、根拠のない映像は、悪魔の証明になる。君たちが黙ってさえくれればいい」
炎上男は、手のひらを返して、腕を出した。
「渡してもらえませんか?」
編集者は、忌憚なく返した。
「と言って、はいそうですかって渡せると思いますか」
「思います。だって、死にたくないでしょ?」
二人の会話は、すでに取引に変わっていた。
車のエンジンルームを指して、炎上男は続けた。
「わたしが、その気になればもっと事は簡単だ、ってことに気が付きませんか?」
炎で、男の顔は、わからない。しかし、編集者にはその火柱の奥で、男がにやりとするのがはっきりとわかるようだった。
しかしそれは、まだ話し合いの余地が残されているという証左でもある。つまり、仕事相手にもなりうる、ということだ。
「……わかりました。命あってのモノダネ、なんてよく言ったもんですしね」
編集者は、機敏に頭を働かせると、再度カメラマンに指示しつつ、切り出した。カメラマンは、フロントドアから車内を覗き込んで、バケツリレーみたいに中のクルーに指示した。
「いいでしょう……今、HDDを渡します。複製もしない。ただ、一つ、条件を受けてもらえませんか?」
「条件?」
「おや。それも、時間が要りますか?」
それは編集者の鎌掛けだった。
炎上男の目が鋭くなった気がする。
編集者は、いとまを与えず、続ける。
「とにかく、あなた"方"を、僕らに取材させてもらえませんか? 僕らも、そりゃ世間の嫌われ者、マスメディアの人間ですけど、ジャーナリストの矜持は忘れてないつもりです」
「…………」
「今は手を引く。けれど、『その時』がきたとき、あなた"方"の取材は僕らに独占させてください」
「……あなた、名前は?」
「あぁ、はい」
編集者は、珍しい質問に面食らったが、相手はもう仕事相手だ。慇懃無礼にならないよう、丁重に切り返した。
「わたし、本テレの増田と言います。知りませんか? 夕方の、あれ、僕が作ってる番組ですよ」
(闇討ちに、なんで目立つわたしが、と思ったが……まさか、これもプロモーションだったのか?)
そのとき、炎上男の脳裏には、デァッハッハッと笑う、陽毬の声が聞こえてくるようだった。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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