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第十二変『犬と骨・前』
しおりを挟む頭にガラス片の刺さったみよちんは『今日、気圧ヤバくない? まじ、朝から頭いたい……』みたいなノリで頭を抱えて言った。
「いったー……」
「ぎゃぁーーああぁーーっ! みよちーーーーーんっ!」
皐月はガラス玉のような涙をぼろぼろ流しながら浮かび寄った。
「みよちん、ガ——」
いや待て。
皐月の脳裏にストッピがかかる。
自覚を促さないほうがいいんじゃないか?
見るも無惨なひどい怪我を負った人が当初あっけらかんとしていたのが、周りがそれを指摘した瞬間から、痛みに苦しみ出すというのは、事故などの体験談等でよく聞く、実しやかに囁かれるお話である。
この場合は、どうだろう?
みよちんの頭には通常、即死を免れないような刃渡り十五センチ以上は確定している大きなガラス片が突き立っている。
「頭重いー……」
頭重いーとみよちんが言ったことから、重さ自体は本人にも感じられているようだった。
中はどうなっているのか。想像したくもないが、仮に外側に見えているのと同じだけの長さが、中にも食い込んでいると仮定すると……人の全頭高の平均は女で21.8センチ程度と言われていることから……これはもう、みよちんの顔の内部は前歯の裏辺りまで寸断されてしまっている。
皐月は厳かに瞳を閉じた。
私が言って、みよちんが自覚する、その瞬間に逝ってしまうのでは……?
皐月は一瞬、悩みに悩んだ末にこう言った。
「……し、深夜にかけて、記録的な高気圧だって言ってた」
「だよねー。どうりで頭重いと思ったわー」
「うん。カラカラしすぎて大気が爆発する見込みだって」
「私の頭が爆発しそうー」
「…………そ、そんなことより、みよちん?! どうやって?! どうして?!」
「いや、それよりも……そこで寝てる人……」
みよちんは皐月の半透明な身体越しに、壁に寄りかかる天を見つける。
「天——」
「あ……」
皐月もそれで一挙に正気を取り戻した。
足元に散らばる瓦礫を超えて駆け寄ると、みよちんは言葉もなく、黒紅の髪の少女を見据える。
目を閉じている。
ぴくりとも動かない。
赤い染みになった絨毯の上、腰の脇に手のひらを落として少女は眠っていた。
後ろで狼の遠吠えがする。アオーンッ。
際限なく増え続け、伸び続ける薔薇の蔓に、建物が振動する。
遠くで人の騒ぐ声がする。
停電し、部屋の灯りは崩壊した壁の向こうからさす月光だけ。
改めて思うに非現実的で、極めて混沌な、光景の只中だった。
みよちんはふと思いついて皮肉に笑う。
産まれて初めてラブホテルに訪れた。それが、まさか、こんな状況下になろうとは。
「皐月。昼間さ、リツさんはどうして戻れたの?」
「え……」
みよちんは傍らの皐月を見ていた。
その目に、光は失われていない。
「私が噛んでゾンビにさせたはずでしょ? その時のことを、私は覚えてないんだ」
「えっと……タマさんがソウルなんとかーって言って、リツさんから何かを吸い出したの。そうしたら……」
そのタマは今、どこで何をやっているのか? とか不明瞭なことはいくらでもあったが、今はどうでもいい。
みよちんは続けて言う。
「じゃあ、二度と戻れなくなるわけじゃないってことだ。——例え感染しても……」
それで皐月はようやく思い至った。
「みよちん……!」
みよちんは、天の落とした腕を拾い上げて、言った。
「私が噛んで、天をゾンビにする」
◇
みよちんは迷いなく続けた。
「それに、薔薇の蔓はまだ狼と戦ってる。押さえてくれてる。つまり、天の魂はまだここにいる」
「みよちん!」皐月の目にも光が戻る。
「諦めるにはまだ早い。そうでしょ? 皐月」
目から鱗が落ちた。
皐月は驚愕する。みよちんの感染の力は、世界を滅ぼせる恐ろしい力だと、そればかり思っていた。
しかし、違った。こんな使い方もできる……。
死にかけている人を蘇生させられる。
みよちんの不死力は、今も頭にガラス片は刺さったまま、見ての通りだ。そして、噛むことで、その力を他人にも感染させることができる。
世界を滅ぼせる力。それは、うまく使えば、世界を救うことだってできるのではないか?
みよちんは、勇者にだってなれる……その可能性を秘めている……!
(それに引き換え……私は……)
「皐月」
希望と絶望を垣間見た皐月を、みよちんの声が引き戻した。
「あ、うん」
「じゃあ、もし私がまた気を失ったら、後のことはお願いね」
「……うん」
そうは言ったものの、皐月は物憂げだった。
皐月は幽体離脱できるが、幽体だけにこの世のものには触れられない。
それで、つい先ほども無力感を噛み締めたばかりだ。
(私に何ができるかな。触ることもできないこの身体で……)
みよちんが天の腕に自分の口元を近づける。
「じゃあ、いくよ——」
口を開け、いざ噛みつこうとした。その時だ。
パァーーーーっと、突然、一面にやわらかな光が差した。
天の直上にスポットライトがセットされているかのようだった。それが点灯する。そうして彼女を中心とした一角を白く染めながら、気がつくと、天を含め三人の周囲にはこれまた白い羽根が舞っている。
「え……え? こ、これって……カミュ!」
「お姉さまの羽根ではないわ」すぐにカミュが顔の横に出てきて、首を振った。
「じゃあ……」
小雨を手のひらで受けるみたいにしながら、皐月と二人して見上げると、そこから、カミュの姉妹みたいな小さな天使がさらに三人ほど連れ立って降りてきた。
そして、寝ている天のすぐ近くまで来ると、三人の小天使は互いに目を見合わせ、おごそかな笑み一つ浮かべて、彼女に手をかざした。
すると、天の頭の上から、半透明になった天が出てくる。
「え……ちょちょちょ……」
生身から引き抜かれた半透明の天は、ドロワーズにネグリジェ、まるで近世のお姫様のような夜衾を着ていた。それでいて、とても安らかな顔で胸の前に手を組み、祈りを捧げている。
そして、二人の目の前で、小天使とともにゆるやかに上空に舞い上がっていくではないか。
みよちんは、その眠たい顔が、急に憎たらしくなってきた。
「うぉいっ!」
みよちんは慌てて捕まえようと腕を伸ばした。……が、その手は虚しく透明な彼女の身体をすり抜ける。
改めて彼女は事態に気づいた。
「わーーーーっ! うそ! 触れない! 待って待って! 天!」
「ぎゃーーーーーっ! 天ちゃんが! 召される! 召されてしまう!」
いや待て。
皐月は思いとどまって、自分の半透明の手のひらを見つめる。
昼間も、あのちゃんが呼び出した霊障の手になら触れた……魂ならば、触れるのか? すでに召された、もしくは今まさに召されそうになっている天なら——。
今度は、皐月が手を伸ばした。
あっけなく、その手は天の足首を捕まえた。
錨に食い止められた船のごとく、皐月の手に引っ張られて、天の浮上がぴたりと止まる。
小天使たちが引っかかりに、笑みを止めて、目を丸くした。
みよちんは拳を突き上げた。
「ナイスっ! 皐月!」
一瞬のことだったが、緊張していたのだろう。
皐月は気がつけば息を止めていて、思い出したように荒く呼吸しながら言った。
「さ、触れた……けど、みよちん! こっから、私、どうしたらいい?!」
「これ、もしかして、このまま引きずり下ろして、中に詰めたら、ゾンビにならなくても復活するんじゃないの?」
「え、そんな単純な仕組みで生きてるの? 私たち?」
「他は知らないけど、天だし」
一方、小天使の群れは昇天を食い止める存在として、皐月を認知したようだ。そろってムッとすると、天の身体を頭上へ引っ張った。脚を掴んだ皐月も引っ張られて、体勢を崩した。
「わわっ!」
「とにかく引っ張れ! 皐月」
「う、うん……いよいしょおっ! そぉらん、そーらんっ!」
皐月は小学校でやったソーラン節を思い出しながら、天の足を引っ張った。
しかし、なかなか小天使たちも譲らない。今日がこの子の命日なんだ。絶対に譲れないんだ。そう言うように天の腕や手、はたまた長い髪の毛をひっつかんで、なんとか天を天上に召そうとする。
「むむむむ……」
「ぐののの……ち、中学生の腕筋、なめんなぁ……!」
天使との綱引きが始まった。
他方、天が召されそうになると、薔薇の力は一気に衰え出していた。突然、端から色褪せ、枯れ落ちていく。
「ぐるるる……」
同時に、まるで稲光のような唸り声。
二人は背後に迫る狼男の気配を感じて——、
「みよちん! そっちはお願い!」
「任せろ」
と、みよちんが答え、振り返った矢先に一蹴。狼男は一足飛びで襲いかかってきた。
しなやかな鎌のような腕が大きく薙ぎられ、外の熱気と室内に残る冷房の空気を撹拌する。
みよちんはとっさに前方に飛び込んで、どうにかそれをかわしつつ、立ち位置を入れ替えた。
すぐに振り返る。
狼男にも皐月の姿が見えているようだ。彼は身体の内側に抱くように、大きく腕を広げて、皐月を全身で捕まえようとしていた。
しかし、鋭い爪は空を切る。やはり、霊体には霊体でしか触れられないようだった。
「あっぶね……てか、皐月! ごめん! やっぱ、これ、無理だわ!」
狼男の背後にまわっていたみよちんは、彼越しに皐月に呼びかけた。
「ゾンビとかオバケとか言ったって、私ら中学生だもん! こんなの相手にできるわけない! そもそも大人だって無理そうなヤツだし!」
「そこをなんとか!」皐月は深くお尻を落として、天の脚を引っ張りながら返した。
「なんとかって言われても無理だわ!」
「ビル飛び越えてきただろうが! その気でやればなんだってできるよ! あんた、ゾンビだろうが! 噛め! かみつき返せ!」
狼男は皐月に触れないのをもどかしそうに、何度もひっかくのを繰り返している。
「って言われてもなぁ……」
噛みつくにも一旦は懐に入る必要がある。近づこうとしたところで、ばっさり二つに裂かれておしまいになる未来しか見えない。
そして、みよちんの脳裏には、タマの懸念があった。
あのアホ悪魔は今どこでいったい何をしてるのか。そもそもあのアホがきちんとしていればこんなことにはなっていないのではないか。管理職とか役人の仕事ってのはこれだから……云々。
文句が考える端から湧いてくる。
昼間もそうだったけど、人間がちょっと変な力に目覚めたところで、所詮本職には敵わない。だから、解としては、餅は餅屋。奴、もしくは奴らに押し付けるのが最善なのだ。
奴を見つけ、その前に連れて行くのがいい。
それをどうやってやるか。
今、考えるのはそこだ。
爪や牙で襲われないようにしつつ、この場から、狼男を引き離す。
(どうやって……)
犬の声がした。
それは、目の前の狼男のものではない。
みよちんの過去から。脳内に響くかわいい声だった。
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