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第十変『乙女のせめぎ合いとエンヴィー・ローズ・後』
しおりを挟む目が覚めると、紫色の灯りが視界にぼんやりと充満している。
前後不覚だった。
夢を見ているような心地。
自分が今、何をしているかもわからない。
起き上がろうとしてみて、起き上がれないことと、自分の身体が寝ていることに気がついた。
頭がひどく重かった。
どっと疲れていた。
熱でもあるみたいに。
疲れている。
眠い。
影が動いた。
視界の紫色の灯りを遮って、
黒い、影が横切る。
それは薄いカーテン越しに見るような不確かさで、
左右を行ったり来たりして、
それから、一回り大きな影が、すぐ近くでちらついた。
「おーい、起きてる?」
また、海の底にいるみたいに、
その声も、耳の中、ぼわぼわと広がって聞こえる。
「眠い?」
「…………」
天は答えようとして、言葉にならない。
呂律がまわらない。
影が離れる。
するすると影の皮が一枚、剥がれる。
「まぁいいや。けど、一応言っとくけどさ、これ、同意だからね」
だんだんと耳だけははっきりとしてくる。
「最近は、そこ、はっきりさせとかないと。後が怖いんだよね。こっちだってさ。聞いてる?」
指先を動かしてみる。
腕もまた重い。
意識は気持ち悪くて、気持ちが良い。
ぐるぐるとしながら、気分は、そう、悪くない感じ。
今、目を瞑れば、最高に気持ちよく眠りにつける。
そんな感じではある。
「君のほうからついてきたんだからね」
ずっしりと地面が沈んだ。
視界の端に影がいる。
「うん……」
「知りたかったんでしょ? 美汐の話」
「そう……」
「ありゃ悲劇だった」
「ひげき……」
「そう。神様なんてこの世にいないんだって、はっきり思ったね。いや——ある意味で聴衆が、つまり、神様になっちゃってるのかな、みたいな。神様気取りのオーディエンスの前に、オレたち有名人はピエロか傀儡が良いとこっていうか」
「かみさま……」
「けど、君だって、そうだったんだろ? 誰もがそんなハズないって思いながら……でも、心のどこかでは、美汐を疑ってた」
「みしおくん……」
その名前を聞くと、冷静でいられなくなる。
熱い。
冷たい。
涙が出てきた。
「しお……ちゃん……」
「本当は、そんな風に呼ぶくらい親しかったんだ? 妹さんとも仲が良かった? ……あー、わかった。……そういうこと?」
額に鋭い接触。
前髪が梳かされる。
けれど指先は、ひどく、優しかった。
「オレ、闇深いからさ、引き出しに闇しか入ってないから、こういう勘ってめっちゃ鋭いんだよね」
「やめて……」
「君、美汐のことが好きだったんだ」
天は声を漏らして泣いた。
影に背を向けて、丸くなる。
嗚咽が止まらない。
「そっか……そりゃつれえわ……。妹さんは、なんて言ってた?」
天は否定するように首を振る。
長い黒紅の髪が、今の心情を吐露するように散らばっている。
背中からまだ声がする。
「けど、妹さんのがもっと、ずっと辛かったと思うな」
拳を握っていた。
この壊れたスピーカーを叩き壊そうと思ったのだ。
けれど、そこまでで。
起き上がれない。
身体は疲弊し切っている。
しかし、意識は回復してきていた。
きっと、痛みが、覚醒を促した。
「誰にでも隔てなく優しくて、本当に太陽みたいな奴だったよ。これからって時だ。そんな人気者の兄が——未成年と不純異性交遊を繰り返してた変態だなんて世間に取り上げられたらさ」
天の声が大きくなった。
丸くなる。
ダンゴムシみたいに。
心臓がズタズタにされたように痛い。
「妹ともしてたとか、あることないこと言われてたもんな」
「やめて……」
「けど、事実無根だ。あいつはこの令和に生きてるとは信じられないくらいに誠実で無垢な男だったよ。オレたち、みんな知ってる。君らもそうだった。そうだったハズだった……けど……けど、誰も信じなかった」
けれど、みよちんはもっと痛かったはずだった。
余計に、二重に、心臓がきしんだ。
震える声で真太郎は言った。
「そりゃ悲劇だろ。あれは自殺じゃない。オレたち、みんなして、よってたかってあいつを殺したんだよ」
真太郎は続けた。
「それが真実の真実」
◇
そこから真太郎の気配に、陰がさすのを、天は明瞭に感じとった。
「他の連中は知らない。だけど、オレは思ったね。あー、嘘ついたって出し抜いたもんの勝ち。汚かろうが、ズル賢い奴が結局、良い思いも勝ち得て、全部持ってくんだってさ」
真太郎は丸まったダンゴムシを横から覆った。
天の視界の影が、大きくなる。
真太郎は裸だった。
「だから、オレは受け入れたんだ。この世の楽しみ方ってやつを。美汐のような死ぬほどのバカにはならない。いかに正しいことだって、あんな死に方はごめんだ。堕ちたっていい……! 汚れたっていい! オレは、死ぬまで、ズル賢く気持ちのいい想いをし続けてやるってな」
「やめて……」
「オレは真実を話した。次は君の番。さっきも言ったろ? 君は、この取引に、すでに応じたんだ」
天はその時になって初めて、自分のおかれた状況をはっきりと認識した。
そこはホテルの一室で、自分の寝ているところがベッドの上であることを。
「あー、心配はしなくていいよ。独りよがりには絶対しないから」
頭を触られる。ぞわぞわするほど手つきは優しかった——それが、天からすると、この上なく気味悪かった。
真太郎は、真剣な表情だった。
この男に嘘はない。だが、だからこそ、天は、絆されそうになっている自分が怖いのだ。
「むしろ……言っちゃなんだけど、めっちゃラッキーなことだと思うよ。普通は……って言い方も好きじゃないけど。普通は、ファンの子のほうから求められるくらいだし」
「…………」
天の、いやいやとしていた手が止まる。
「男としては、かなり上澄みだとも思う」
真太郎は、努めて、優しく囁いた。
相手ごと自分まで、そうして慰めるみたいに。
「……でしょ?」
恐れていた事態が起きた。
力が抜ける。
抵抗の力がなくなる。
確かに。
この男に嘘はない。
社会の規則正しさを超えたところで生き方を貫いているだけで、こちらの要求には誠実に応えてくれたし、その行動には信頼がおけるものがある。人気を博しているのも道理だ。それに、この人に散らしてもらうことを求める女性が、いったいどれほどいるだろう?
全てが嘘じゃない。
明快な真実の前に御託は通じない。
——しかし、感情がそれを否定した。
「いやです……」
天は再度力を込めて、真太郎の腕を掴んでいた。
「嫌々は……しないんですよね」
「ここまできて?」
真太郎は舌打ちする。
深いため息をついて髪をかきあげながら、苛立つように言った。
「……なんで?」
「たぶん、しおちゃんが、しなかったのと同じ理由」
「…………」
しゃっくりを挟みながら、天は言った。
「あなたも……絶望するの、わかるよ。こんな世の中だもんね。ひどいものも見た……裏切られた……けど、そこで折れるか折れないかなんだよ、私たち……」
真太郎は顔を背けて、呆れたように鼻で息をついた。
「世界がどれだけ汚い論理で動いてようと……それじゃ、もっと自分を嫌いになっちゃうから!」
天は続けて、訴えかけた。
「だから、真太郎さんも、やめよう? 私たち、もう、こんなことに負けていてはいけないんだよ……」
「……天ちゃん、思ってたのと違うね。陰じゃないじゃん。それじゃ……オレの大嫌いな陽じゃん」
再度、真太郎の全身に力が入ったのがわかって、天は顔を背けた。
真太郎の顔が狙いを逸れて、天の首筋にあたる。
「やめて! ねぇ! あなただって!」
「残念だけどさー……オレはもう堕ちてんだよ」
真太郎の呟くような声がする。
「もう引き返せねえ……」
空虚で、寂しい声だった。
真太郎は顔をあげて慟哭するように言った。
「そうなれたらいいね! 人間、誰も傷付けず! 誰も哀しむことのない、笑えるだけの世界になったら! だが、現実は違う! 奪い合い、騙し合いなんだよ! この世界は!」
「違うよ!」
「違わねえよ! じゃなんで、誰も美汐を信じなかった? 女が腹いせにでっちあげただけの、与太話のほうをみんな信じた! 美汐は……あいつこそ、救いようのないバカだったんだ」
真太郎は続けた。
「女が今、何してっか知ってる? 精神病棟だよ。発言一つで人を追い込んで殺しておきながら、てめえは病院で、ゆうゆうじてきに妖精さんとお話し中だとさ! ふざけてるだろ?! だが、真実だ! 正直者がバカを見る! 誰も、もう心なんかないんだ……人間は所詮、自分がよけりゃそれでいい奴らの集まりになった! こんな世界じゃ、そりゃ誰も、陰にならざるを得ないだろっ!」
真太郎は吐き捨てるように言った。
「いつまでこの国に……この国の人間に、夢見てんだよ……。もう終わり。つまんねぇ話も終わり。いいからもうヤらせろ。気持ちよくなれりゃ、それでいいだろ……」
「私じゃなくても良くないですか。ファンの子にしてあげてください」
「オレに選ぶ権利は? 誰なら世間は許すわけ?」
「……でも、私、あなたの思ってるような子じゃないよ。危ない……と思う」
「いいよ。もう疲れたし、君、顔は良いし。気持ちのいい思いができりゃ何でもいいわ。言ったろ……もう堕ちてんだよ、オレ」
「そっか」
天は、残念だった。
真太郎が、今度こそ逃げられないように、天の腕を押さえつけた。
「じゃ、天ちゃんの初めて、いただきまーす」
真太郎がそう言って、再び天に迫った。
その瞬間。
彼の胴体よりも遥かに野太く、強烈な一物が、彼の身体を跳ね飛ばして、せりあがった。
巨大な蔓だった。
それが、天の背中から折れ曲がり、まるで斜塔のように突き出している。
天は起き上がり、ベッドの脇に降り立つと、男を見据えて言った。
「じゃ、成敗しなきゃ。あなたが一層堕ちる前に」
ベッドから吹き飛び、廊下へ向かう通路の上で起き上がった真太郎は顔を押さえながら、その時こそ目を見開いて、少女を見た。
「……え、まじ?」
「言ったよね。危ないって」
男が正体不明の衝撃から起き上がったとき、そこはもうホテルの一室ではなくなっていた。
少女の背中からだけに留まらず、一面の床や壁に天井、いたるところを無数の蔓が伝い、生き物ののようにうねりながら、鋭い触手を伸ばしている。
半ば笑うようにして、真太郎はつぶやいた。
「は? なに、それ……」
「もう、心配しなくていいよ。あなたは悪い人じゃない。絶対やりなおせる。だから……」
そして、いつか、みよちんも——。
天は、真太郎に手のひらを向けると言った。
「私の矜持にかけて、あなたの闇を晴らしてみせる」
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