陽性変異 Vol.2

白雛

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第二変『代償と千変の一角・後』

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「……ケサランパサラン?」
「うん。そういえば忘れてたけど、みよちん、私ね、昨日、ここでケサランパサラン拾ったの!」
「ケサランパサラン」
「そう、ケサランパサラン。知らないの? 幸福の妖怪。たんぽぽの綿毛みたいで、それを掴むと、幸せになれるってやつ!」
「ケサランパサラン……私は昨日、綿毛みたいなの拾ったけど」
「あ! それだよ! ケサランパサラン!」
「なんかの埃かと思ってたけど」
「それ、ケサランパサランだったんだよ!」
 皐月の言いようはすでに私の見解の答えを孕むものだった。つまり、だ。昨日ここで私が掴んだあの白い綿毛のようなもの。気がつけばなくなっていたアレこそ、この私のゾンビ化や皐月のオバケ化の原因ではないか? と睨んだのだ。
 けれども、
「ケサランパサランかー……」
「ニュースでもやってるじゃん。なんかクマムシと量子もつれがどうこうのやつ! 私たちも、あれにかかっちゃったんだよ」
「それもね。思った。私も」
「やっべ、ワクチン打ってねえや、私」
「それは違うだろ」
 皐月はとたんにオランウータンみたいに背中をぽりぽりかきながら、悪びれて言った。
「いや、私、注射ってどうしても苦手で……」
「いやまぁ、わかるけど。そこは打とうよ。あれはかかったら、周りにも被害出るじゃん。注射の一本我慢してさ」
「どうしよう、みよちん。今更病院行ってもさ、これ、怒られるやつじゃん。お前! だから言ったろ! ワクチン打っとけって! もうお前みたいなのは知らん! 自宅で寝込んどけ! 死ぬ? 死ねば? ワクチン打ってないんだから自業自得だろ! 犬のクソ野郎! って全方位からぶっ叩かれるやつじゃん……私、怒られるのも苦手……」
「……そこまでは言われないでしょ。曲がりなりにもお医者さんに」
 ジリジリジリジリ……!
 その時だった。
 突然、目の前で、喉の奥でコーラの炭酸が鳴るような音がして、二人して反射的に前を見た。
 私はセミ程度なら全然平気だけど、それでもいきなり傍で鳴かれるとびっくりするし、皐月はもっと無理な人だった。
 皐月は私の腕をがっちりと掴んで言った。
「なに? なに? 今の!」
「さぁ……セミかな?(爪……刺さってない?)」
 しばらく二人じっと身構えていると、今度はばりばりっ! と羽音がして、皐月が飛びついてきた。
「ぎぃぃやぁぁぁーーーーっ! みよちん、なんかおるっ!」
「大丈夫大丈夫」
 私は皐月の背中をぽんぽん叩きながら周囲に目を凝らした。
 第一学校をフケたり、ビルから飛び降りるのには何の抵抗も見せないくせに、たかが羽虫の一匹が怖いとは……なんだか面白いものだ。
 と笑った矢先、私の視界と耳にも信じられないものが飛び込んできた。
 皐月はもう私の首に蛇みたいに巻きついて離れない。
 私はアスファルトの上に投げ出された、自分のなまっちろい、色気もなんもない棒っ切れのような足の先で起きていた、その一部始終を目の当たりにした。
 セミが二匹だ。
 一匹は一般に発音膜と呼ばれる腹部の器官をネクタイを締めるように丸めてじりじりと鳴いた。
「……なんだって?! てことは、あの、赤いのが? まさか!」
「そう、着色料よ……毎日サラダに入れてたあのかにかま。あのどこにでもあるスーパーのチェーン店で買った、あのかにかまね……」
 メスのセミは、人が涙を堪えるように、割れ目のついた腹と翅を震わせて、言った。
「なんとはなしに裏返して、原材料のとこを見てみたの……そしたら、きちんと書いてあったのよ……」
「…………」
「"ベニコウジ"って……」
 オスのセミは愕然として、うつ伏せになろうとしたものの、羽根の重みに耐え切れずに仰向けに転がって震えた。
 感情の読めないはずの黒い眼で青い空を見つめて言った。
「そんな……地上から出て昨日で六日……じゃあボクが食べてきたのはずっと……」
「あなた……」
 オスのセミは飛び立った。
「そんなぁぁーーーーーーーーっ!」
「あなたぁぁーーーーーーっ!」
「…………」
 私はよく深呼吸をし、額の汗を腕で拭いながら、目を逸らした。
 何でもいい。当たり前のものを見たかった。
 息をゆっくり吐いて、指で目頭を押し込む。
 なんだ? 今の。
 白昼夢ってやつか? だとしても、こんなん私の頭がもうベニコウジどころの騒ぎじゃないではないか。
「くっくっくっ……『七日目の雄ザ・セブンスヘヴン』セ・ミゼラブルが逝ったか……」
 ペントハウスの隅からまた別の声がして、振り向くと、そこに新たなセミが三、四匹集まって、なんかやってた。一匹だけカナブンが混ざっている。
(『七日目の雄ザ・セブンスヘヴン』、セ・ミゼラブル——!)
 私は真顔になった。
「奴は夏蟲十天神の中でも最弱……」
(夏蟲十天神——!)
「七日ごときで倒れるとは……十天神の面汚しよ、ミーンミンミンミー!」
「カナカナカナカナ! 実観測によれば一ヶ月余裕で保ってたケースもあると聞きますのに……」
「いいからオレは、とにかく早く網戸にぶつかりたいぜ。一人暮らしのアパートの網戸によ、くっくっくっ……」
「ところで」
 セミの一匹がこっちを見た。
「さっきから貴様ら……聞いて——」
「——翅の模様がいやっ!」
 具体的かつノールックだった。
 ばしんっと。次の瞬間、皐月の足が有無も言わせぬ間にセミを叩き潰していた。
 ミーン、に濁点をつけたように一鳴きすると、他のセミとカナブンもたちまち飛んでいく。残されたのは唖然と口を空ける私と、その首にしがみつく皐月だけだった。
 私は深く呼吸を繰り返して、今見てしまったことを(ならばこれも現実だ……)頭の中で咀嚼しながら、皐月に優しく話しかけた。
「皐月。今のセミ……なんか話してる途中だったよ」
「夏はなー、これだからなー」
 皐月がそう愚痴りながら、やっと私の首を解放して離れてくれたときだった。
「ひぃっ」
 そんな声がして、私は「またか……」と呆れて地面を見た。
 こんどはアリだった。前脚を器用に顔の前に持ってきて震えている。
 そのアリが言った。
「ひ——ぼ、ぼぼぼ、ボクはアリなんです……セ、セミじゃないんです……」
「見ればわかるよ」
「ひぇぇーーー! お命ばかりはーーっ!」
「とらねえよ」
 そう言って一目散に駆けていく一方で、脚にちくっと痛みが走った。
 脚元を見ると、槍ならぬ小さな鎌を構えたアリの群れが毅然とこちらに向かってくるところだった。
「者ども、見たか! 『セミの中のセミザ・セミンスセミン』ミゼ・アーブラ卿が一撃でやられた!」
「また変な名前つけて……」
「恐ろしい人間どもめっ! かかれっ!」
「いったいなー、なにそれ」
 私は脚をさすりながら、その鎌ごと一番前にいたアリを持ち上げる。
「キャプテン・クロ提督!」「クロ提督!」「ロ提!」
「なにこれ。……もしかしてカマキリの?」
 キャプテン・クロと呼ばれるクロアリは私に捕まってなお、微塵も恐れる風なく、むしろ誇り高げに緑色の鎌を掲げた。
「左様。畏れ多くも、マンティス・ザ・エッケザックス男爵からお借りしたのだ。人間伐採のために」
「カマキリの鎌じゃ難しいでしょー? あと、また変に格好いい名前つけて」
 群れからは怒号が飛んだ。「やめろー」「提督になにをする!」「提督!」「ちくしょう! このアバズレメスダンゴめ!」
 一匹、やたらと口の悪いのがいて、それに私は腹を立てた。
「うっさい」
「うわぁーっ!」
 私が上履きで薙ぎ払うとそれだけでアリの一団は壊滅した。
 捕虜にしたキャプテン・クロ提督をつまみあげながら、私は小さな頃を思い出していた。隣から皐月も覗き込んでくる。
「な、なにをじろじろ見ている……(まさか、この人間の娘ら……我輩に……こ、困ったな)」
「…………」
 幼い頃にはよくアリで遊んだものだ。
 アリからすれば残酷な虐殺にすぎない、実にはた迷惑なものだったと思うけれど。
「ま、まて、人間の娘……(し、しかし、我輩はアリだぞ……? こんな不純異種交友が許されて……)」
「…………」
 こうしてアリを観察するのは久しぶりだった。人間が細く、小さく、バカになったと言われるように、アリもまた大きなのを見なくなった気がする。
 けど、私だって喋るアリを見たのは初めてだ。
「そこまで言うなら、し、仕方がない……陛下には内緒だぞ?」 
「さっきっからうっさいな、このアリ! ちゃうわ!」
 皐月が苦しげに横から言って、叩いた。
「あぁーーーっ!」
 私たちにとったら他愛のない、腕先からお尻程度の距離でもアリからすれば先日私たちが飛んだ距離よりも長い自由落下を経て、キャプテン・クロ提督はどこかへ飛んでいった。
 私は、線香花火の種火を落ちてなお見続けるように、つまんだ指はそのまま、顔向きだけあげて言った。
「あ、皐月、アリは平気なんだ」
「アリは平気。でも行列見るのは微妙」
「あー、その辺に虫ダメな人と平気な人との境界線ってある気がする。私は巣穴とか見るの好きかも、あ、コロニー作ってんだなあって」
 私は手の埃を落とすようにパンパンして、二人、なんとはなしにペントハウスの入り口に向かいながら言った。
「でさ、皐月」
「うん?」
「ってことは、皐月も聴こえてたんだよね」
「え」
「え……って、アリとかセミとかカナブンの声」
「あ、うん」
「その割に、あんまし驚いてなくない?」
「みよちんも、そうじゃない?」
「私はわりと。こう見えて。驚きはしている。でもアリとかセミとかカナブンに喋られてもな……反応に困るな……ってのが正直な感想だった」
「私はー……」
 皐月が言う間に、私は屋上に続く踊り場の重い鉄扉を閉める。窓が小さく、辺りには昼間なのに濃い影が満ち、次の皐月の声はくぐもって聞こえた。
「あー、アリもやっぱ喋るよねーって思っちゃった」
「あー、だよね。皐月はそんな感じだわ」
 目が慣れなくて、やたらと陰影の誇張された階段を先に降りながら、皐月は思いついたように言った。
「ケサランパサランかもね」
「あー、そっか。懐広いな、ケサランパサラン」
「——なんか楽しそうじゃん、二人とも」
 次の瞬間、私は階段の下にいた人に驚いて、目を瞬かせることになる。
 その子は口を斜めにして、私たちを見上げていた。
「昨日まで今にも死にそうな面してたくせにさ」





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