新聞記者の恋

早坂 悠

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18話 勝ちの条件〈サイド回〉

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 寒い、思ったよりずっと寒い。

 真冬とまではいかない季節であっても、11月の下旬にパジャマ一枚で夜中に外に出るのは、やはり寒かった。

 それでも私は一心不乱に寒空の下、走っていた。きっと大人になってから初めての全力疾走だった。

 私こと、藤田志穂は殺人鬼の魔の手から逃げ出すために、それこそ本当に命がけで走っていた。

 目的地はただひとつ。
 近所にあるコンビニだった。

 そこまで走ればきっともう大丈夫だという確信があった。

 あと少し、あと少しだ……とそう思いながら、私は全力で走った。後ろは振り向かなかった。振り向く余裕はあったが、振り向かない方が

 


と思った。


「あは、あはは……」

 私は突然、侵入してきた刃物を持った男に目の前で旦那を殺されて、その殺人犯から逃げている途中なのだ。

 後ろを振り返っている余裕など見せるべきではないだろう。その男の足では、もう私に追いつくことなど出来ないと分かっていても、私は走る足の速度を緩めなかった。

 命がけで逃げなくてはいけない。
そういう雰囲気が必要だった。

 それなのに

「アハハ……」

 と油断すると笑ってしまいそうになる顔をどうにかしないとなと思った。いや、すでにうっすらと笑っていた。笑いをこらえるのが難しかった。

 ダメだ。きちんと顔面蒼白な顔にならなくては、今、この瞬間にも誰が見ているか分からないのだから。


 それでも私は……

うまくいったわ!!!!!
こんなにうまくいくなんて!!!

 と心の中でガッツポーズをした。


 藤田京平との安定した生活をしばらく送ろうと思っていた矢先、その流れを変えたのは、一通の不穏な手紙だった。

 ある日、ポストに直接、入れられた『逃げろ』と書かれただけの警告文のようなものが送られてきた。

 単純に不気味だったその手紙のことをとりあえず、今、付き合っている男に話した。

 交際中の男は夫の藤田京平と違って、若くて外見がカッコよくて、お金がない男だった。それでもずっと交際を続けていた。

 藤田京平と結婚する前から、その男とは付き合っていた。私の愛する彼氏であり、金のない男だったが、私は彼が好きだった。

 藤田京平のことは愛着はあっても、愛はない。私は藤田京平の資産と結婚しただけに過ぎない。

 コンサルティング会社の社員である藤田京平は、一般男性の平均年収よりもらっているお金が多く、そればかりか亡くなった親から相続した遺産も、たんまりと通帳に残っていた。

 その残高を見せつけられ、私は藤田京平との結婚を決意した訳だが、交際中の男とともに

 いつか藤田京平を殺そうと目論んでいた。

 安定した生活を楽しみつつ、裏では他の男と付き合い、いつの日か二人で藤田京平のその資産を自分のものにしようと画策していたところ、

 降って湧いたのがあの『逃げろ』の警告文だった。

 交際している男に話すとしばらく周囲に気を配ることと、夫の藤田京平には黙っていようという話になった。

 私は不気味さを感じつつ、その手紙の主が誰なのか周辺に気を配って生活するようになった。

 そして程なくして、手紙を送ったのはあの男ではないか?とわりとすぐに判明した。朝のゴミ出しの時に家の前にあるアパートから一眼カメラが出ているのを見たのだ。

 気のせいだと思うには警告文の手紙のせいもあったため、精神を研ぎ澄ましていたと思う。私のことを誰かが監視するとしたら、朝のこの時間ぐらいしかないのではないか?と推測して、辺りをキョロキョロしていたのも、今回の成果に繋がった。

 あのアパートのベランダから一眼カメラの先っちょがニョキッと出ていたのを見つけられたのは、当の本人が警告文を出したから、というには少し皮肉だが、

 この時はまだあのベランダから除くカメラの先に私がいることと、カメラを覗く人物があの男だと知っていた訳ではない。

 すぐに怪しいアパートを見つけたことを彼氏に伝えると彼氏は「俺が調べるから、志穂は近づくなよ」とカッコイイことを言い出してくれた。

 彼氏はそこからしばらくの間、うちの家の前のアパートの住人を調べた。男の名前は岡本進。週に一度、駅前のメンタルクリニックに通院する精神障害者だということが分かった。

 私は彼氏に『岡本に手紙を出してみない?』と提案した。彼氏は反対したが、私はそこその乗り気だった。

 岡本進は私の母のように、妄想の中の住人なのではないか?と踏んだのだ。

 その私の勘は的中した。岡本は母と同じように妄想の中で暮らしている男だった。

 私の母は岡本ほど酷くはなかったが、男がらみの妄想はかなりあった。母の願望と言ってもいい。

 好きな男ができれば、すぐに子どもを作り結婚してくれると思い込む母の願望もとい、妄想はいつだってまぐわった男たちから打ち砕かれ、その先に私たち子どもの不幸がどんどん蓄積されていった。

 母は自分を裏切った男たちがいつか帰ってくると、信じて疑わなかった。その信じて疑わない妄想じみた願いは残酷なまでに叶うことは一度もなく、

 その度に自分で生んだ子どもたちを母は呪った。罵声を浴びせ、時には叩き、食事は与えてくれず、着る洋服もサイズが合わなかったり、臭かったりで、最悪な幼少期だった。

 岡本は母と同じ臭いがした。妄想の住人。自分の妄想の中でしか生きられない可哀想な住人。

『逃げろと手紙を書いたのはあなたですか?詳しく教えてください』と手紙を直接、岡本のポストに入れた。彼氏に頼むにはリスクがあった。もし岡本に見つかれば警戒されてしまうため、私みずから岡本のドアのポストまで足を運んだ。

 そしてすぐに返事が来た。

 岡本の中で私の夫は市議会議員で汚職事件を繰り返し賄賂をもらって私腹を肥やして、前妻は京平の暴力で精神を病んで自殺を図っているというものだった。

 私は有頂天になって喜んだ。
 これは使えるかもしれない、と思った。

 すぐさま彼氏に連絡を取って

『岡本に藤田京平を殺してもらうのはどうだろうか?』と二度目の提案をする。

 私は岡本に2通目の手紙を書いた。

『よく私のことを見つけてくれました。あなたが私の救世主様です。実は今、私も夫から毎晩、暴力をふるわれています。辛いです。助けてくれませんか?こんなこと、あなたにしか頼めません。どうか夫を殺して、私を助けてくれませんか?

 夫を殺してくれたなら、私のすべてを差し上げます。まずは殺してくれたらキスをご褒美にするというのはどうでしょうか?

 それとこの手紙は読んだら、燃やしてくれると助かります。前の手紙も出来れば燃やしてください。あなたと私だけの秘密にしたいのです。

 しばらくの間、夜11時以降は玄関の鍵を開けておきます。藤田京平は夜12時までは晩酌をしながら一階玄関の突き当たりにあるリビングでテレビを見てます。どうかあなたのタイミングで私を救いに来てください。』

 実をいうと岡本が藤田京平を殺しに来るかどうかなんていうのは、どっちでも良かった。

 殺しに来てくれればラッキー的な
 そんな感覚だった。

 私にとったら大きな賭けでもなんでもない。ただの悪ふざけの手紙だ。近所に住んでいた妄想癖がある男の妄想にだ。

 実際にそうであったし、あとから警察に何か言われてもそう言えばいいと思った。それに岡本が私の手紙を2通ともしっかりと燃やしているなら、

 残るのはもはや岡本の妄想だけだ。

 誰が信じるものか。
 アイツの言うことを。

 母親の妄想だって誰も信じやしなかった。岡本がどれだけ私に頼まれた!と供述しても証拠を燃やしていたら、岡本と私の接点はない。

 私が岡本のアパートに行ったのを誰も目撃してなければ、ということになるが例え誰かに見られていたとしても、なんとでも言い訳できると思った。

『アパートの中から子どもの泣き声が聞こえた気がした』とか『人の叫び声がしたから見に行ってしまった』とか『高校の友人に似ている人がいた』とか適当なことを言えばなんとかなるだろうと思った。

 彼氏は本当に岡本が家に来て藤田京平を殺した場合の『そのあとのこと』を心配していた。「どうやって逃げるつもりなんだ?」と、私がついた嘘だと知った岡本が、逆上して襲ってきたらどうするんだと、

 私は笑いながら言った。

「ご褒美のキスを待っている間に
     コンビニまで走って逃げるわ」と。


 岡本が藤田京平を殺した場合は、私はコンビニまで走って逃げる予定だった。岡本にキスをするから目を瞑ってと言って、その間に走って逃げる。

 岡本の足の遅さは岡本と初めて会った時に知っていた。運動不足の、しかも食べたいものだけを何も考えずに食べたあの体つきでは、そんなに早く走れないだろうと思った。

 キスのために目を瞑ってもらおうと思っていたが、岡本は気持ち悪い顔で泣いていた。泣いて、その醜い顔から溢れる涙を藤田京平の返り血とともに両手で拭っていた。

 チャンスだと思った。岡本が涙を拭いているうちに玄関まで走り、玄関の扉を開けて吐き捨てるように

「この人殺し!!」

 と言ってやった。

 母と同じように岡本にも妄想の魔法が解けた瞬間だったかもしれない。絶望しろと思った。母と同じようにおまえにも幸せになる未来など、きやしないのだと。

 彼氏には色々なことを言われた。

 スマホで俺を呼べ→なんで?普通、初めに電話するのは警察でしょ?警察に電話しないであなたに電話するのは不自然じゃない?はい却下。

 じゃあ俺じゃなくて警察に通報しろ→どのタイミングで?通報してる間に岡本に殺されちゃうかも、はい却下。

 じゃあとりあえず外に出て助けを求めろ!→近所の人が気づいてくれきゃ、それ詰むわ。はい却下。

「本当に大丈夫なのかよ?」

 私は自信に満ちた顔で彼氏に宣言した。

 たぶん岡本は私のことは殺せないと思うのと、それと自分の運命を他人の行動に賭けるのは好きじゃないの。

 岡本が藤田京平を殺したら、その日、私は隙を作ってパジャマ姿でコンビニに走って助けを呼ぶわ。あなたは逆にずっと自分の家にいてね。タクシーで来れば足がつくし、特に用もないのに深夜、住宅街にいるのも変でしょ?事件が落ち着くまでスマホに電話もしないで。いい?

 私はスマホは持たない。何も持たない。岡本という当然の災害に見舞われて、私は着の身きたまま家から脱出するだけよ。







 それで私たちの勝ちよ



 彼氏と話した私たちの妄想話は
 きちんと現実のものとなろうとしていた。

 岡本や母の妄想とは違って、私の妄想は私が自分の手で現実のものとしてやるんだ。


 ハァハァ………!!!

 息遣いが荒いまま、私はコンビニにたどり着いた。あれだけ寒いと思っていた体は全速力のおかげで、すっかり温まっていた。それでも私は体をガクガクと震わせながら、緊迫した張り詰めた顔でコンビニに入店した。

「助けてください!!夫が刺されました!!救急車を呼んでください!お願いします!!夫を助けて!誰か!お願いします!家に男が!!警察も呼んでください!誰かぁ!!!ああぁ!!お願いします」
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