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1巻
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ケダモノ屋
〈一〉
「『狼の 高笑いする 麹町』……」
突然、声が飛んできた。見れば榎の大樹の下に人が立っている。一瞬、ギョッとしたが、すぐに思い当たって浅右衛門は微苦笑した。
「久さんか?」
「聞いてくれ、ヒデェや、浅さん。俺ぁ今日、同輩たちに無粋者だと散々っぱら笑われちまった――」
木下闇から飛び出して来たのは黒紋付きの巻羽織り――そう、その姿からわかるように同心だ。名を黒沼久馬という。南町奉行配下の定廻りである。
「さっきの句を聞いて、俺が『そりゃ、山田浅右衛門が麹町に住んでいることを詠んだんだろう』と鼻高々で言ったらよ、与力の添島様まで、腹を抱えて笑いやがる」
「久さん、そりゃ笑われるわな」
浅右衛門も噴き出した。
「その句はな、麹町はケダモノ屋で有名だが、流石にそんな麹町でも狼の肉は売らない。だから狼は安心だろうと、茶化してるのさ。俳句の諧謔ってやつよ」
「へー、でも、ちょっち当たってるじゃねぇか。つまり、麹町には狼が住んでるってことだろ? で、麹町にいる狼なら、あんただろう?」
「――」
俳諧の手解きは脇に置いて、眼前の人間を『狼』だなどと平気で言ってのけるこの男……それを憎めない自分にまた微苦笑する浅右衛門である。この、狼と呼ばれた男――浅右衛門は、今は品の良い黒羽二重の着流しだが、先刻までは袴に股立ちして、上衣は襷掛けの凄愴な姿だった。名を七代目・山田浅右衛門という。代々、咎人の首打ちを生業としている〈首斬り浅右衛門〉だ。
時は天保六年(一八三五)、六月。二人は、お江戸は日本橋小伝馬町の牢屋敷の玄関前に立っている。
「それにしても、実は先刻まで土壇場を覗いてたんだが、首を打つ際の浅さん、相変わらず見事な技の冴えだな。いや、本当に感服せずにはいられない。人間ここまで極められるとは!」
(その人間をさっきは狼と言ったくせに――)
「なんでぇ、浅さん?」
首打ち人がクスッと笑ったのに気づいて、久馬が訊いた。
「いや、俺が狼なら、久さんは何かな、と思ってさ」
「へー、面白れぇ! 俺は何に見える? そんな似合いの句があるのか? 聞かせてくれよ。俺をケダモノに例えるなら、ウウム、流石に竜は自惚れ過ぎだが、あ、虎だな?」
「『鹿の子の 人を見ならう 木陰かな』。どうだ、ピッタシだろう? ちなみに一茶の句だよ」
同心は両手をブン回して怒った。
「俺の何処が鹿の子だ! 冗談にもほどがある! こんなに上背があって、眼光鋭いイイ男を捕まえてよ!」
「いい男か……ま、それは否定しないよ」
浅右衛門は眼前の同心を繁々と眺めた。黒羽織の裾を腰に巻き込んで着る巻羽織り姿は、これが粋だと江戸っ子に讃えられている。同心は町人が最も身近に接する武士――武士階級では最下層の御家人だったので、同心側も意識して町人受けする格好をしているのだろう。
その黒羽織の下の着物は女身幅だ。普通の男仕立てよりぐっと幅が狭い。だから体にピッタリする。裾を割れやすくして、いざという時すぐに走れる工夫なのだが、これも粋と持て囃された。
まだある。小銀杏と呼ばれるスッキリ細い洒落た髷は町人好みで、武士では同心だけがこの結い方をした。久馬はそれら全てが、このまま生まれて来たんじゃないかと思うくらい似合っている。江戸のモテ男、花の同心ここにあり。
だが、見ろ。木陰で自分を待っていた際の瞳は、生まれたての鹿の子そのものじゃなかったか。まっさらで濁りがなく妙に儚い。そのくせ何でも見てやろうという好奇心に溢れている。
あの目がイケナイ。最近、浅右衛門は黒沼久馬との付き合い方に関して、これでいいのかと真剣に悩んでいた。
この二人の出会いを語るには、首打ちについてから始めなければならない。
元来、斬首刑〈首打ち〉は同心の役目で、これには町奉行所勤務の、一番新任の者が当たった。だが、首を打つ行為は精神的にも技術的にも生半可な腕ではできかねる。いつの頃からか、同心は首打ちを山田家に依頼するようになった。久馬も例に漏れず新任の際、浅右衛門へ首打ちを依頼した。それ以来の付き合いである。と言うより――久馬が初日から、『俺たちは似ているので馬が合う』と言って付き纏っているのだ。実際、二人は同い年で当年取って二十二歳の独り者。背格好も似かよった長身痩躯。だが、似ているのはそこまでで、二人は色々な意味で対照的だった。
(一体、久馬はそこら辺に気づいているのかどうか……?)
浅右衛門の方が互いの差異を強く意識していた。
同心が一代限りというのは今や建前で、嫡子相続が慣例化して久しい。父が同心なら息子は十四、五で〈見習い〉という形で父に付いて回り、仕事を覚える。そして、父の引退と入れ替わりで役職を継ぐのだ。余程の失態がない限り一生安泰である。幕臣としての位は低くとも、実は町奉行職は身入りが良かった。藩士の不祥事に手心を加えてもらいたい各大名家や、優遇を期待する大店からの付け届けが絶えないのだ。
そのためか、一人息子の久馬も苦労知らずの鷹揚さが匂った。何より屈託がなく底抜けに明るい。一方、浅右衛門が七代目を継いだ山田家はすこぶる特異な家柄だった。
まず、山田家は正式には徳川家に仕官してはいない。あくまで〈浪人〉の身分なのだ。
これは首打ちという職種が不浄故、山田家の方から仕官を辞退したというのが真相らしい。とはいえ、その首打ちは副業として請け負っているもので、本業は将軍の差料の切れ味を鑑定する、御様御用。将軍自身の佩刀は元より、家臣へ下賜する刀や、藩主から将軍へ献上する刀の吟味も請け負っている。だから、浪人ながら藩主や家老たちとも関係が深い。
この複雑な立場から他の人間は浅右衛門に近づくのを避けるのだが、久馬は全く意に介さなかった。先刻のように平気で『狼』呼ばわりするくせに、姿を見つけると嬉しそうにトコトコ寄ってくる。逆に、このままでいいのか浅右衛門の方が拘ってしまう。実際、自分と久馬では、全く住む世界が違った。そろそろ付き合いはやめる頃合いかもしれぬ──
と、思いつつ、夏の木洩れ日を受けて立つ眼前の男を嫌いになれない自分に驚く浅右衛門だった。
まるで、何処かにうっかり置き忘れたもう一人の自分のように思える。だから、気になるのだろうか?
(いや、〝うっかり〟というのは正しくないか。俺は意識してそれまでの自分を切り捨てたのだ。初めて首打ちというお役目を果たした十二の歳の朝に)
浅右衛門は唇を引き結んだ。
罪人とはいえ人の命を絶つ以上、明朗であってはいけない。一生涯、厳粛に身を正していなければならない。そう決意した早春の朝の匂いが、未だ鼻腔に残っている。だが、その悲壮な覚悟が、この男といるといとも容易に揺らいでしまう。一緒に肩を並べて見る景色が面白くて、もっと見たいと思う。
それに今、この男をほっぽり出したらどうなる? 俺が去った後で何かあったら後味が悪いではないか。というのも……
そう、精悍な容貌に反して、久馬は剣がからっきしなのだ。
(待てよ。ということは、コイツ、俺を用心棒代わりに利用しているのかもしれんぞ)
そんな風にあれこれ思いを巡らす浅右衛門をよそに、久馬は真っ白い歯を煌めかせて言った。
「いやな、浅さん。今日、出向いて来たのは他でもない。ぜひ同道してもらいたいところがあるのさ」
「ほう? 天下の同心殿に護衛を頼まれるとは光栄至極……」
もちろん、皮肉である。だが、久馬はケロリとして言ってのけた。
「護衛だなんぞと考えたことはねぇよ。ただ、俺は生きるも死ぬも浅さんと一緒と決めてるんだ。三国志でよ、出会った日に男たちが誓うだろう? あれと一緒さ。『死に切って 嬉しそうなる 顔二つ』」
「待った! それは男女の心中の句だ。久さんが言いたいのは〈桃園の誓い〉の『同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せんことを願わん』だろう?」
「そうとも言う。ま、いいじゃねぇか、細けぇことは言いっこなし。似たようなもんさね」
「――」
今こそ、よぉくわかった! この男の〝似たようなもの〟の意味が。なにが、『俺たちは似ている』ものか! 愕然とする浅右衛門の肩をポンと叩いて、久馬が続ける。
「そんなことより、一緒に行ってもらいたい場所は麹町のケダモノ屋なんだよ。実はさっきの狼の句も、この件が話題になった際、出て来たんだ。この事件、浅さんも知っているだろう? 何せ近所で起きたんだから。ほら七日前の六月一日――」
その日、麹町は平川町のケダモノ屋に押し込みがあった。
ケダモノ屋とは獣肉を商う店の総称で、平川町三丁目から山元町、森木町界隈まで軒を連ねたその一帯が人呼んで〈ケダモノ横丁〉だ。山田浅右衛門邸は平川町一丁目である。久馬が近所と言ったのが理解できよう。
このケダモノ横丁の一軒、〈山奥屋〉に夜半、賊が押し入って番頭を斬殺した──
尤も、今をときめく大店の呉服商や両替商、米問屋などを襲って、蔵に積み上げてあった千両箱を残らず盗み取った、などという派手さはなかったので、さほど江戸っ子の噂にはならなかった。浅右衛門も、そういやぁそんな話があったな、という程度の認識である。
「ありゃあ、被害の方も大したことがなかったんだろう? 奥座敷に寝ていた主人夫婦は無事だったし、金品が略奪されたわけでもない。まあ、殺された番頭には気の毒なことだが、肉の塊が一つや二つ盗られたくらいか?」
「だから、却って妙に気になるのさ」
久馬は、渋好みの銀鼠縞の襟を頻りに引っ張って続ける。
「こりゃあ、ひょっとして……労咳を患った老母のために、孝行息子が泣く泣く犯した事件かも知れねぇ」
労咳は今で言う結核のこと。この時代は死病だった。一度かかってしまえば、精のつくものを食べさせるくらいしか手がない。ケダモノ――獣肉の売買が公式には幕府ご禁制ながら、横丁ができるほど繁盛している理由はここにある。獣肉は〈薬〉、肉食は〈薬食い〉と称されていて需要が絶えなかったのだ。
下手人をいきなり孝行息子と想定するところが、いかにもこの男、久馬らしいではないか!
浅右衛門はまた、ひっそりと青葉風の中で苦笑する。
〈二〉
件のケダモノ屋は平川町三丁目。山田浅右衛門の自邸は同じ麹町は平川町一丁目で、確かに近い。どうせ帰り道だから寄ってみようということになった。もちろん、久馬のごり押しである。いつもこんな調子なのだ。
(まあ、いいか。また一つ新しい景色を見てみよう)
二人が連れ立って牢屋敷の表門から出た途端、声が掛かった。
「もし、黒沼様であらせられますか?」
「そうだが?」
見れば、歳の頃十六、七。前髪も麗しく、白梅の凝ったような若侍である。
涼しげな紗綾型の白の小袖に、縹色の袴。腰には細身の大小を落し差しにしている。帯に輝く根付が、また風情があった。玻璃だろうか? 玉を煌めかせて駆け寄って来ると、若侍は言った。
「こちらにいらっしゃると聞いて、ご無礼を承知で待っておりました。私の名は三島鹿内と申します。江戸の薩摩藩邸で小姓組に勤めておりまして……他でもない、過日の辻斬りの件でお願いがあるのです」
怪訝そうに眉を寄せる久馬に、若侍は続けて説明する。
「去る六月二日、京橋川は比丘尼橋であった辻斬りの件です。その際、斬り殺された者は私の知己でした」
そこまで聞いて久馬は思い出した。
「あ、あの一件か──」
「友は示現流を使う剛の者。辻斬り風情に討たれるような男ではありません」
示現流は薩摩藩御流儀の剣術で一撃必勝の凄まじい撃剣である。余談だが、もっと時代が下った幕末の頃、新選組の局長・近藤勇がこの示現流を最も恐れ「薩摩の初太刀は外せ」と隊士に命じたほどだ。
「私のかけがえのない友、新九郎殿を殺めた輩は一体、どのような人物だったのでしょう? また襲った理由は何だったのか? 私も藩邸に戻された亡骸を確認しましたが、所持品で奪われたものは何一つありませんでした。そして、体中に残されたあまりに無残な傷跡――」
若侍の端整な顔は無念さに歪んだ。
「この辻斬りの事件は黒沼様が検視をされたと伺いました。犯人は未だ捕縛されていないとのこと」
三島鹿内は流れるような美しい所作で深々と頭を下げた。
「どんな些細な事柄でも構いません。この件に関して何か新しい情報を入手なさった折には、ぜひ、この私にもお知らせください。無理なお願いと承知の上で……お縋りするのです」
身内でない以上、仇討ちは許されない。ならば、せめて犯人に関する詳細を教えてもらって、日夜周囲に目を配り、友を殺めた輩を捕らえるお手伝いがしたい。切々と訴える鹿内。その初々しい悲憤に、久馬は心を動かされた。
「承知仕った。今はまだこちらにも辻斬りの人相など、詳しい話は伝わって来ていないのだが、仔細がわかったら──その際は必ずや貴殿にもお知らせいたしましょう」
「ありがとうございます!」
同心の返答に安堵の表情を浮かべた三島鹿内は、再び丁寧に頭を下げると去って行った。
その後ろ姿を見送りつつ、浅右衛門は少々からかい気味に訊いてみる。
「おい、久さん。あんたの鼻にはあっち、辻斬りの件はケダモノ屋ほどには匂わなかったようだな?」
「まあな」
久馬は正直に認めた。
「ありゃ、よくある辻斬りだ。奪われたものはないと言うがよ、今日日、自分の力を試したくて、わざわざ腕の立つ者を選んで襲う輩もいるのさ。今回の事件はまさにそれだ」
久馬はいったん言葉を切った。
「とはいえ、斬られた者が友人とあっては、じっとしていられない若侍の気持ちはよくわかる。俺だって」
心底哀し気な口調で続ける。
「浅さんが斬殺されたら同じように思うさ」
「おいおい、縁起でもない。そんな喩えを言うか?」
「ヘヘッ、大丈夫だよ。浅さんが辻斬りに襲われるなんて有り得ねえからな! それに、万が一そうなっても、俺がついているから安心しな!」
ケロリとして言う。とんでもない奴である。
「ん? どうした、浅さん? 顔色が冴えないぞ。そんなに辻斬りが恐ろしいのか?」
「うむ、恐ろしい。久さんに守ってもらうと考えただけで――震えが来る」
「あはははは、面白い冗談を言いやがる!」
「――」
先のやり取りでもわかるように、定廻り同心の黒沼久馬は常に一つや二つではない事件を抱えていた。
江戸時代、南町、北町両奉行所合わせて与力の数二十五人、配下の同心凡そ百人。その内、現代で言う警察担当の久馬たち廻り同心は三十人だった。これでは手が足りるはずがないではないか。
そうこうしている間に当初の目的地であるケダモノ屋、〈山奥屋〉に着いた。
商いの方は休業状態ではあったが、店内は既に取り片付けられている。
「番頭の徳蔵には本当に可哀想なことをしました。誠実を絵に描いたような……それこそ仕事一筋の真面目な男で、三十になった今年は所帯を持たせてやろうと、家内とも話していた矢先だったんです」
ささやかな葬式を済ませたと言ってから、店の主人利兵衛は、やや怯えた顔で久馬に尋ねた。
「しかし、改めてお調べとは──何かご不審な点でも?」
事件から七日経っている。しかも事件の翌日、一通りの検視は終えているのだ。
「いや、大した理由があるわけじゃない」
慌てて久馬は手を振った。
「事件後の検視の際、俺はその場にいなくてな」
ちょうど同じ頃に起きた、別の事件に出張っていたせいだ。
「それが今朝、検視に立ち会った同僚からこっち、山奥屋さんの話を聞いて、ちょっと引っかかるところがあったので、どうしても自分の目で確かめたくなった、ただそれだけのことさ」
気さくに笑う若い同心に主人は安心したようだ。首を巡らして暖簾の向こうへ呼びかけた。
「おーい、清吉! ……そういうことなら私より、この清吉の方がお役に立ちましょう。何せこの子は当日の夜、あの場にいたんですから」
「え?」
目撃した者がいるとは意外だった。調書には、そのことは記されていなかったというのに。
(これだから……)
〝自分の目〟で見る大切さを、改めて痛感する久馬だった。
「清吉と言ったな? おまえは賊を見たのか? 何故、そのことを先のお調べで話さなかったんだい?」
暖簾を割って奥から出て来たのは、歳の頃十一、二。小柄で色の浅黒い、目の大きな小僧だった。ただでさえ丸々としたその目をクリクリ動かしながら、清吉は淀みなく答える。
「お調べの際、私は近所の玄庵先生のところで手当てを受けていて店にはいなかったからです。そうして帰って来た後は、もう誰からも何も訊かれなかったもので」
「手当って──怪我をしたのか?」
なるほど。清吉は肩から巾で右腕を吊っている。
「押し込みの賊にやられたのかい?」
それまで久馬の傍らで黙って佇んでいた浅右衛門が、ここで初めて口を開いた。
「いいえ、違います」
きっぱりと首を横に振って、清吉が答える。
「あの夜、賊が押し入って来たのは亥の刻でした。番頭の徳蔵さんが真っ先に起きて応対いたしました」
ここで小僧は頬を染めた。
「私は、そのぅ、半分寝入っていて……番頭さんにかなり遅れて夜具から飛び出して駆けつけました」
店の中の灯りは徳蔵が掲げる手燭だけで、非常に暗かったのだとか。
「それが幸いしてか、賊どもは後から来た私のことにまるで気づかなかったようです」
「賊は何人いた?」
これは店内に残っていた足跡から割り出して、既に調書に記されていたが、改めて久馬は〈真の目撃者〉に確認した。
「五人ばかり」
調書と数は合っている。
「私も番頭さんに続いて店に出るには出たのですが、もうすっかり震え上がって……とっさに近くにあった俵へ潜り込みました」
俵とは米俵のことだ。平生、肉を入れて、配達の際に使用している。久馬と浅右衛門は店内に畳んで積まれているそれを振り返って眺めた。
「なるほど、この大きさなら、おまえはすっぽりと隠れることができただろうな」
「はい、でも」
よっぽど動転していたのだろう、妙な角度で腕を捻ってしまった、と小僧は低い声で明かす。
「肘の骨にヒビが入っていると玄庵先生に言われました。でも、その時は痛みなど感じる暇はありませんでした。時を移さず、すぐ横で番頭さんが喉を掻き斬られたんです」
久馬は膝を折ると、少年の肩にそっと手を置いた。
「おっかない思いをしたなあ、清吉。それで、おまえは賊と徳蔵のやりとりなんぞは聞かなかったか?」
こっくりと頷いて清吉――
「猪肉の行方について話していました」
「猪肉?」
「はい。『朝方、甲州街道から運び込まれた猪肉は何処だ?』と訊かれて、番頭さんは『もうありません。お得意の薩摩様の上屋敷へとうに配達しましたよ』と答えました。言い終わるや、ば、番頭さんは叫び声を上げて──」
そこまで口にして、ケダモノ屋の小僧は身震いして歯を食いしばった。だが、すぐに最後まで言い切る。
「どうっと倒れました。そ、そ、それこそ両国橋の花火みたく、幾千もの血潮がババッと私の隠れている俵の上に降って来たんです……」
〈三〉
「清吉と言ったな? 中々見所がある小僧だ!」
〈山奥屋〉の店を出てから、久馬は感心して小僧を褒めた。
「利発でしっかりしている。ありゃ、きっと一角の商人になるぞ」
「全くだ。それに──趣味の方ではもう一端の通人だよ」
浅右衛門の意外な言葉に、久馬は思わず足を止める。
「そりゃどういう意味だい、浅さん?」
「フフフ、あの小僧の包帯がさ、洒落てた。あの色……憲法染めかねぇ?」
「──」
いつものことだが、浅右衛門の目の付け所に驚かされる久馬だった。
この男は久馬の知らない世界を知っているのだ。
実際、山田家にとって〈首打ち〉はあくまで〝副業〟〝内職〟に過ぎない。〝本業〟は御様御用――将軍家の佩刀から、諸大名へ賜る刀、諸大名から献上される刀に至るまで、遍く差料の切れ味を試すことだ。当然、刀剣そのものの鑑定眼も鍛えられる。その家名を継いだ七代目・浅右衛門の研ぎ澄まされた目は差料のみに留まらず、万の美しい品々に敏感に反応した。日頃は無口な浅右衛門が時折、ボソッと漏らす、独白にも似た〝品定め〟を聞くのが、久馬の密かな楽しみなのだ。
同心の役目を真面目一筋に勤め上げ、役を自分に譲るとすぐ病を得て死んでしまった久馬の父が、唯一の趣味として愛したのは桜草の栽培だった。ふいに久馬は、父が丹精込めて咲かせた花を浅右衛門に見せたかった、と思った。そうしたら、この男は何と評しただろう? 誉めてくれたかな?
〈一〉
「『狼の 高笑いする 麹町』……」
突然、声が飛んできた。見れば榎の大樹の下に人が立っている。一瞬、ギョッとしたが、すぐに思い当たって浅右衛門は微苦笑した。
「久さんか?」
「聞いてくれ、ヒデェや、浅さん。俺ぁ今日、同輩たちに無粋者だと散々っぱら笑われちまった――」
木下闇から飛び出して来たのは黒紋付きの巻羽織り――そう、その姿からわかるように同心だ。名を黒沼久馬という。南町奉行配下の定廻りである。
「さっきの句を聞いて、俺が『そりゃ、山田浅右衛門が麹町に住んでいることを詠んだんだろう』と鼻高々で言ったらよ、与力の添島様まで、腹を抱えて笑いやがる」
「久さん、そりゃ笑われるわな」
浅右衛門も噴き出した。
「その句はな、麹町はケダモノ屋で有名だが、流石にそんな麹町でも狼の肉は売らない。だから狼は安心だろうと、茶化してるのさ。俳句の諧謔ってやつよ」
「へー、でも、ちょっち当たってるじゃねぇか。つまり、麹町には狼が住んでるってことだろ? で、麹町にいる狼なら、あんただろう?」
「――」
俳諧の手解きは脇に置いて、眼前の人間を『狼』だなどと平気で言ってのけるこの男……それを憎めない自分にまた微苦笑する浅右衛門である。この、狼と呼ばれた男――浅右衛門は、今は品の良い黒羽二重の着流しだが、先刻までは袴に股立ちして、上衣は襷掛けの凄愴な姿だった。名を七代目・山田浅右衛門という。代々、咎人の首打ちを生業としている〈首斬り浅右衛門〉だ。
時は天保六年(一八三五)、六月。二人は、お江戸は日本橋小伝馬町の牢屋敷の玄関前に立っている。
「それにしても、実は先刻まで土壇場を覗いてたんだが、首を打つ際の浅さん、相変わらず見事な技の冴えだな。いや、本当に感服せずにはいられない。人間ここまで極められるとは!」
(その人間をさっきは狼と言ったくせに――)
「なんでぇ、浅さん?」
首打ち人がクスッと笑ったのに気づいて、久馬が訊いた。
「いや、俺が狼なら、久さんは何かな、と思ってさ」
「へー、面白れぇ! 俺は何に見える? そんな似合いの句があるのか? 聞かせてくれよ。俺をケダモノに例えるなら、ウウム、流石に竜は自惚れ過ぎだが、あ、虎だな?」
「『鹿の子の 人を見ならう 木陰かな』。どうだ、ピッタシだろう? ちなみに一茶の句だよ」
同心は両手をブン回して怒った。
「俺の何処が鹿の子だ! 冗談にもほどがある! こんなに上背があって、眼光鋭いイイ男を捕まえてよ!」
「いい男か……ま、それは否定しないよ」
浅右衛門は眼前の同心を繁々と眺めた。黒羽織の裾を腰に巻き込んで着る巻羽織り姿は、これが粋だと江戸っ子に讃えられている。同心は町人が最も身近に接する武士――武士階級では最下層の御家人だったので、同心側も意識して町人受けする格好をしているのだろう。
その黒羽織の下の着物は女身幅だ。普通の男仕立てよりぐっと幅が狭い。だから体にピッタリする。裾を割れやすくして、いざという時すぐに走れる工夫なのだが、これも粋と持て囃された。
まだある。小銀杏と呼ばれるスッキリ細い洒落た髷は町人好みで、武士では同心だけがこの結い方をした。久馬はそれら全てが、このまま生まれて来たんじゃないかと思うくらい似合っている。江戸のモテ男、花の同心ここにあり。
だが、見ろ。木陰で自分を待っていた際の瞳は、生まれたての鹿の子そのものじゃなかったか。まっさらで濁りがなく妙に儚い。そのくせ何でも見てやろうという好奇心に溢れている。
あの目がイケナイ。最近、浅右衛門は黒沼久馬との付き合い方に関して、これでいいのかと真剣に悩んでいた。
この二人の出会いを語るには、首打ちについてから始めなければならない。
元来、斬首刑〈首打ち〉は同心の役目で、これには町奉行所勤務の、一番新任の者が当たった。だが、首を打つ行為は精神的にも技術的にも生半可な腕ではできかねる。いつの頃からか、同心は首打ちを山田家に依頼するようになった。久馬も例に漏れず新任の際、浅右衛門へ首打ちを依頼した。それ以来の付き合いである。と言うより――久馬が初日から、『俺たちは似ているので馬が合う』と言って付き纏っているのだ。実際、二人は同い年で当年取って二十二歳の独り者。背格好も似かよった長身痩躯。だが、似ているのはそこまでで、二人は色々な意味で対照的だった。
(一体、久馬はそこら辺に気づいているのかどうか……?)
浅右衛門の方が互いの差異を強く意識していた。
同心が一代限りというのは今や建前で、嫡子相続が慣例化して久しい。父が同心なら息子は十四、五で〈見習い〉という形で父に付いて回り、仕事を覚える。そして、父の引退と入れ替わりで役職を継ぐのだ。余程の失態がない限り一生安泰である。幕臣としての位は低くとも、実は町奉行職は身入りが良かった。藩士の不祥事に手心を加えてもらいたい各大名家や、優遇を期待する大店からの付け届けが絶えないのだ。
そのためか、一人息子の久馬も苦労知らずの鷹揚さが匂った。何より屈託がなく底抜けに明るい。一方、浅右衛門が七代目を継いだ山田家はすこぶる特異な家柄だった。
まず、山田家は正式には徳川家に仕官してはいない。あくまで〈浪人〉の身分なのだ。
これは首打ちという職種が不浄故、山田家の方から仕官を辞退したというのが真相らしい。とはいえ、その首打ちは副業として請け負っているもので、本業は将軍の差料の切れ味を鑑定する、御様御用。将軍自身の佩刀は元より、家臣へ下賜する刀や、藩主から将軍へ献上する刀の吟味も請け負っている。だから、浪人ながら藩主や家老たちとも関係が深い。
この複雑な立場から他の人間は浅右衛門に近づくのを避けるのだが、久馬は全く意に介さなかった。先刻のように平気で『狼』呼ばわりするくせに、姿を見つけると嬉しそうにトコトコ寄ってくる。逆に、このままでいいのか浅右衛門の方が拘ってしまう。実際、自分と久馬では、全く住む世界が違った。そろそろ付き合いはやめる頃合いかもしれぬ──
と、思いつつ、夏の木洩れ日を受けて立つ眼前の男を嫌いになれない自分に驚く浅右衛門だった。
まるで、何処かにうっかり置き忘れたもう一人の自分のように思える。だから、気になるのだろうか?
(いや、〝うっかり〟というのは正しくないか。俺は意識してそれまでの自分を切り捨てたのだ。初めて首打ちというお役目を果たした十二の歳の朝に)
浅右衛門は唇を引き結んだ。
罪人とはいえ人の命を絶つ以上、明朗であってはいけない。一生涯、厳粛に身を正していなければならない。そう決意した早春の朝の匂いが、未だ鼻腔に残っている。だが、その悲壮な覚悟が、この男といるといとも容易に揺らいでしまう。一緒に肩を並べて見る景色が面白くて、もっと見たいと思う。
それに今、この男をほっぽり出したらどうなる? 俺が去った後で何かあったら後味が悪いではないか。というのも……
そう、精悍な容貌に反して、久馬は剣がからっきしなのだ。
(待てよ。ということは、コイツ、俺を用心棒代わりに利用しているのかもしれんぞ)
そんな風にあれこれ思いを巡らす浅右衛門をよそに、久馬は真っ白い歯を煌めかせて言った。
「いやな、浅さん。今日、出向いて来たのは他でもない。ぜひ同道してもらいたいところがあるのさ」
「ほう? 天下の同心殿に護衛を頼まれるとは光栄至極……」
もちろん、皮肉である。だが、久馬はケロリとして言ってのけた。
「護衛だなんぞと考えたことはねぇよ。ただ、俺は生きるも死ぬも浅さんと一緒と決めてるんだ。三国志でよ、出会った日に男たちが誓うだろう? あれと一緒さ。『死に切って 嬉しそうなる 顔二つ』」
「待った! それは男女の心中の句だ。久さんが言いたいのは〈桃園の誓い〉の『同年、同月、同日に生まれることを得ずとも、同年、同月、同日に死せんことを願わん』だろう?」
「そうとも言う。ま、いいじゃねぇか、細けぇことは言いっこなし。似たようなもんさね」
「――」
今こそ、よぉくわかった! この男の〝似たようなもの〟の意味が。なにが、『俺たちは似ている』ものか! 愕然とする浅右衛門の肩をポンと叩いて、久馬が続ける。
「そんなことより、一緒に行ってもらいたい場所は麹町のケダモノ屋なんだよ。実はさっきの狼の句も、この件が話題になった際、出て来たんだ。この事件、浅さんも知っているだろう? 何せ近所で起きたんだから。ほら七日前の六月一日――」
その日、麹町は平川町のケダモノ屋に押し込みがあった。
ケダモノ屋とは獣肉を商う店の総称で、平川町三丁目から山元町、森木町界隈まで軒を連ねたその一帯が人呼んで〈ケダモノ横丁〉だ。山田浅右衛門邸は平川町一丁目である。久馬が近所と言ったのが理解できよう。
このケダモノ横丁の一軒、〈山奥屋〉に夜半、賊が押し入って番頭を斬殺した──
尤も、今をときめく大店の呉服商や両替商、米問屋などを襲って、蔵に積み上げてあった千両箱を残らず盗み取った、などという派手さはなかったので、さほど江戸っ子の噂にはならなかった。浅右衛門も、そういやぁそんな話があったな、という程度の認識である。
「ありゃあ、被害の方も大したことがなかったんだろう? 奥座敷に寝ていた主人夫婦は無事だったし、金品が略奪されたわけでもない。まあ、殺された番頭には気の毒なことだが、肉の塊が一つや二つ盗られたくらいか?」
「だから、却って妙に気になるのさ」
久馬は、渋好みの銀鼠縞の襟を頻りに引っ張って続ける。
「こりゃあ、ひょっとして……労咳を患った老母のために、孝行息子が泣く泣く犯した事件かも知れねぇ」
労咳は今で言う結核のこと。この時代は死病だった。一度かかってしまえば、精のつくものを食べさせるくらいしか手がない。ケダモノ――獣肉の売買が公式には幕府ご禁制ながら、横丁ができるほど繁盛している理由はここにある。獣肉は〈薬〉、肉食は〈薬食い〉と称されていて需要が絶えなかったのだ。
下手人をいきなり孝行息子と想定するところが、いかにもこの男、久馬らしいではないか!
浅右衛門はまた、ひっそりと青葉風の中で苦笑する。
〈二〉
件のケダモノ屋は平川町三丁目。山田浅右衛門の自邸は同じ麹町は平川町一丁目で、確かに近い。どうせ帰り道だから寄ってみようということになった。もちろん、久馬のごり押しである。いつもこんな調子なのだ。
(まあ、いいか。また一つ新しい景色を見てみよう)
二人が連れ立って牢屋敷の表門から出た途端、声が掛かった。
「もし、黒沼様であらせられますか?」
「そうだが?」
見れば、歳の頃十六、七。前髪も麗しく、白梅の凝ったような若侍である。
涼しげな紗綾型の白の小袖に、縹色の袴。腰には細身の大小を落し差しにしている。帯に輝く根付が、また風情があった。玻璃だろうか? 玉を煌めかせて駆け寄って来ると、若侍は言った。
「こちらにいらっしゃると聞いて、ご無礼を承知で待っておりました。私の名は三島鹿内と申します。江戸の薩摩藩邸で小姓組に勤めておりまして……他でもない、過日の辻斬りの件でお願いがあるのです」
怪訝そうに眉を寄せる久馬に、若侍は続けて説明する。
「去る六月二日、京橋川は比丘尼橋であった辻斬りの件です。その際、斬り殺された者は私の知己でした」
そこまで聞いて久馬は思い出した。
「あ、あの一件か──」
「友は示現流を使う剛の者。辻斬り風情に討たれるような男ではありません」
示現流は薩摩藩御流儀の剣術で一撃必勝の凄まじい撃剣である。余談だが、もっと時代が下った幕末の頃、新選組の局長・近藤勇がこの示現流を最も恐れ「薩摩の初太刀は外せ」と隊士に命じたほどだ。
「私のかけがえのない友、新九郎殿を殺めた輩は一体、どのような人物だったのでしょう? また襲った理由は何だったのか? 私も藩邸に戻された亡骸を確認しましたが、所持品で奪われたものは何一つありませんでした。そして、体中に残されたあまりに無残な傷跡――」
若侍の端整な顔は無念さに歪んだ。
「この辻斬りの事件は黒沼様が検視をされたと伺いました。犯人は未だ捕縛されていないとのこと」
三島鹿内は流れるような美しい所作で深々と頭を下げた。
「どんな些細な事柄でも構いません。この件に関して何か新しい情報を入手なさった折には、ぜひ、この私にもお知らせください。無理なお願いと承知の上で……お縋りするのです」
身内でない以上、仇討ちは許されない。ならば、せめて犯人に関する詳細を教えてもらって、日夜周囲に目を配り、友を殺めた輩を捕らえるお手伝いがしたい。切々と訴える鹿内。その初々しい悲憤に、久馬は心を動かされた。
「承知仕った。今はまだこちらにも辻斬りの人相など、詳しい話は伝わって来ていないのだが、仔細がわかったら──その際は必ずや貴殿にもお知らせいたしましょう」
「ありがとうございます!」
同心の返答に安堵の表情を浮かべた三島鹿内は、再び丁寧に頭を下げると去って行った。
その後ろ姿を見送りつつ、浅右衛門は少々からかい気味に訊いてみる。
「おい、久さん。あんたの鼻にはあっち、辻斬りの件はケダモノ屋ほどには匂わなかったようだな?」
「まあな」
久馬は正直に認めた。
「ありゃ、よくある辻斬りだ。奪われたものはないと言うがよ、今日日、自分の力を試したくて、わざわざ腕の立つ者を選んで襲う輩もいるのさ。今回の事件はまさにそれだ」
久馬はいったん言葉を切った。
「とはいえ、斬られた者が友人とあっては、じっとしていられない若侍の気持ちはよくわかる。俺だって」
心底哀し気な口調で続ける。
「浅さんが斬殺されたら同じように思うさ」
「おいおい、縁起でもない。そんな喩えを言うか?」
「ヘヘッ、大丈夫だよ。浅さんが辻斬りに襲われるなんて有り得ねえからな! それに、万が一そうなっても、俺がついているから安心しな!」
ケロリとして言う。とんでもない奴である。
「ん? どうした、浅さん? 顔色が冴えないぞ。そんなに辻斬りが恐ろしいのか?」
「うむ、恐ろしい。久さんに守ってもらうと考えただけで――震えが来る」
「あはははは、面白い冗談を言いやがる!」
「――」
先のやり取りでもわかるように、定廻り同心の黒沼久馬は常に一つや二つではない事件を抱えていた。
江戸時代、南町、北町両奉行所合わせて与力の数二十五人、配下の同心凡そ百人。その内、現代で言う警察担当の久馬たち廻り同心は三十人だった。これでは手が足りるはずがないではないか。
そうこうしている間に当初の目的地であるケダモノ屋、〈山奥屋〉に着いた。
商いの方は休業状態ではあったが、店内は既に取り片付けられている。
「番頭の徳蔵には本当に可哀想なことをしました。誠実を絵に描いたような……それこそ仕事一筋の真面目な男で、三十になった今年は所帯を持たせてやろうと、家内とも話していた矢先だったんです」
ささやかな葬式を済ませたと言ってから、店の主人利兵衛は、やや怯えた顔で久馬に尋ねた。
「しかし、改めてお調べとは──何かご不審な点でも?」
事件から七日経っている。しかも事件の翌日、一通りの検視は終えているのだ。
「いや、大した理由があるわけじゃない」
慌てて久馬は手を振った。
「事件後の検視の際、俺はその場にいなくてな」
ちょうど同じ頃に起きた、別の事件に出張っていたせいだ。
「それが今朝、検視に立ち会った同僚からこっち、山奥屋さんの話を聞いて、ちょっと引っかかるところがあったので、どうしても自分の目で確かめたくなった、ただそれだけのことさ」
気さくに笑う若い同心に主人は安心したようだ。首を巡らして暖簾の向こうへ呼びかけた。
「おーい、清吉! ……そういうことなら私より、この清吉の方がお役に立ちましょう。何せこの子は当日の夜、あの場にいたんですから」
「え?」
目撃した者がいるとは意外だった。調書には、そのことは記されていなかったというのに。
(これだから……)
〝自分の目〟で見る大切さを、改めて痛感する久馬だった。
「清吉と言ったな? おまえは賊を見たのか? 何故、そのことを先のお調べで話さなかったんだい?」
暖簾を割って奥から出て来たのは、歳の頃十一、二。小柄で色の浅黒い、目の大きな小僧だった。ただでさえ丸々としたその目をクリクリ動かしながら、清吉は淀みなく答える。
「お調べの際、私は近所の玄庵先生のところで手当てを受けていて店にはいなかったからです。そうして帰って来た後は、もう誰からも何も訊かれなかったもので」
「手当って──怪我をしたのか?」
なるほど。清吉は肩から巾で右腕を吊っている。
「押し込みの賊にやられたのかい?」
それまで久馬の傍らで黙って佇んでいた浅右衛門が、ここで初めて口を開いた。
「いいえ、違います」
きっぱりと首を横に振って、清吉が答える。
「あの夜、賊が押し入って来たのは亥の刻でした。番頭の徳蔵さんが真っ先に起きて応対いたしました」
ここで小僧は頬を染めた。
「私は、そのぅ、半分寝入っていて……番頭さんにかなり遅れて夜具から飛び出して駆けつけました」
店の中の灯りは徳蔵が掲げる手燭だけで、非常に暗かったのだとか。
「それが幸いしてか、賊どもは後から来た私のことにまるで気づかなかったようです」
「賊は何人いた?」
これは店内に残っていた足跡から割り出して、既に調書に記されていたが、改めて久馬は〈真の目撃者〉に確認した。
「五人ばかり」
調書と数は合っている。
「私も番頭さんに続いて店に出るには出たのですが、もうすっかり震え上がって……とっさに近くにあった俵へ潜り込みました」
俵とは米俵のことだ。平生、肉を入れて、配達の際に使用している。久馬と浅右衛門は店内に畳んで積まれているそれを振り返って眺めた。
「なるほど、この大きさなら、おまえはすっぽりと隠れることができただろうな」
「はい、でも」
よっぽど動転していたのだろう、妙な角度で腕を捻ってしまった、と小僧は低い声で明かす。
「肘の骨にヒビが入っていると玄庵先生に言われました。でも、その時は痛みなど感じる暇はありませんでした。時を移さず、すぐ横で番頭さんが喉を掻き斬られたんです」
久馬は膝を折ると、少年の肩にそっと手を置いた。
「おっかない思いをしたなあ、清吉。それで、おまえは賊と徳蔵のやりとりなんぞは聞かなかったか?」
こっくりと頷いて清吉――
「猪肉の行方について話していました」
「猪肉?」
「はい。『朝方、甲州街道から運び込まれた猪肉は何処だ?』と訊かれて、番頭さんは『もうありません。お得意の薩摩様の上屋敷へとうに配達しましたよ』と答えました。言い終わるや、ば、番頭さんは叫び声を上げて──」
そこまで口にして、ケダモノ屋の小僧は身震いして歯を食いしばった。だが、すぐに最後まで言い切る。
「どうっと倒れました。そ、そ、それこそ両国橋の花火みたく、幾千もの血潮がババッと私の隠れている俵の上に降って来たんです……」
〈三〉
「清吉と言ったな? 中々見所がある小僧だ!」
〈山奥屋〉の店を出てから、久馬は感心して小僧を褒めた。
「利発でしっかりしている。ありゃ、きっと一角の商人になるぞ」
「全くだ。それに──趣味の方ではもう一端の通人だよ」
浅右衛門の意外な言葉に、久馬は思わず足を止める。
「そりゃどういう意味だい、浅さん?」
「フフフ、あの小僧の包帯がさ、洒落てた。あの色……憲法染めかねぇ?」
「──」
いつものことだが、浅右衛門の目の付け所に驚かされる久馬だった。
この男は久馬の知らない世界を知っているのだ。
実際、山田家にとって〈首打ち〉はあくまで〝副業〟〝内職〟に過ぎない。〝本業〟は御様御用――将軍家の佩刀から、諸大名へ賜る刀、諸大名から献上される刀に至るまで、遍く差料の切れ味を試すことだ。当然、刀剣そのものの鑑定眼も鍛えられる。その家名を継いだ七代目・浅右衛門の研ぎ澄まされた目は差料のみに留まらず、万の美しい品々に敏感に反応した。日頃は無口な浅右衛門が時折、ボソッと漏らす、独白にも似た〝品定め〟を聞くのが、久馬の密かな楽しみなのだ。
同心の役目を真面目一筋に勤め上げ、役を自分に譲るとすぐ病を得て死んでしまった久馬の父が、唯一の趣味として愛したのは桜草の栽培だった。ふいに久馬は、父が丹精込めて咲かせた花を浅右衛門に見せたかった、と思った。そうしたら、この男は何と評しただろう? 誉めてくれたかな?
応援ありがとうございます!
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